6 篝
「結局、今日はこなかったか」
あれから昼食を終えた後、いつ妖刀篝が現れてもいいようにお茶をすすりながら縁側に座っていたら、あっという間に夕方になっていた。
こうして夕日が沈むまでを眺めているのは、さして珍しいことではない。明久はまだ十八ではあるが笹雪家の当主であり、笹雪家当主の仕事はいわくつきの刀の収集や、犯罪を犯す半妖との戦いくらいのものだった。
その仕事も、基本倉本家から依頼という形で割りふられる。退魔の中核に位置する倉本家は、政府に連なる組織でもあるため、ある意味明久も公務員といっていいのかもしれない。
仕事内容は、命をかけた斬り合いとなることも珍しくない。そのため報酬も高く、年に数回も依頼をこなせば十分に生活できる金を得ることができた。命を賭けているのでそれだけの報酬は当然のことだ。
なので、依頼が無い日はこうしてゆっくりと時間を過ごすのは珍しくない。こうでもしなければ、いずれ来るであろう死闘の圧力に潰されてしまうのだ。
しかし今回は、普段とは違って傍らに初音という妖刀であり見た目は愛らしい少女も伴っていた。
彼女は元々が刀であるはずなのに、はつらつと感情をあらわし、表情をころころと変える。
初音にまとわりつかれながらも、うっとうしいと感じるより会話をして気がまぎれるという考えの方が強かった。邪気のないこの少女に、すっかり毒気を抜かれてしまっているのだろうか。
どうでもいいと、明久は首をふる。こうして会話をしながらゆっくり時間を過ごすのは、決して悪くない。それだけが彼にとっての真実だった。
それが、妖刀という妖であっても。
「なに笑ってるの?」
傍らにいた初音に不思議そうに眺められて、明久は今自分が自覚もしないで笑っていたことに気づいた。
「いや、別になにも」
明久は思わず口元を抑える。なんだか恥ずかしい所を見咎められた気分だった。
「今日はどうも調子が良くてな。自然と気分が良くなる」
はぐらかしたように言った明久だったが、なぜか初音は得心したというように頷いていた。
「あぁー、それはきっとお兄ちゃんが妖になりかけてるからだよー」
「……は?」
何か聞き捨てならない言葉を聞いて、明久は呆気にとられた。
「そういえば伝書にもそういう記述があったな……」
記憶をたどり、妖刀を扱う者は一時的にその体が妖のようになるとのことを明久は思い出した。
「妖のようになるなど困るのだが……」
笹雪家の者の中には、妖刀の力に溺れ、人斬りの妖に堕した者も少なくない。まさか自分がそうなるとは思っていなかったが、生まれ持ったこの体がなにか別の物に変わっていくと考えると、うすら寒い思いを抱く。
「妖のようにって言っても、本当に妖になるわけじゃないから大丈夫だよ。なんていうのかなー、妖刀と繋がるって言うか、一心同体になった感じで、一時的に生命力とか共有する感じだよ」
「……さっぱり分からん」
「まあ妖ほどじゃないけど死ににくくなったってくらいの影響だよ。だから本当の妖みたいな特殊な力も高い身体能力もないから、調子に乗っちゃダメだよ」
めっ、とするように人差し指を立てる初音だったが、初音の言いたいことは分かった。
「ともかく、お前の主である間だけ一時的に妖のようになるということか。それならいい」
ならば強く心を律して、妖刀の力に溺れなければいいだけの話だった。
そしてそれは簡単なことだった。明久は今まで一度も自分の実力を誇ったことはなく、また血生臭い斬り合いに心を惹かれている訳でもない。
「……しかし使い手を妖にするなど、どこが神刀だ。正真正銘の妖刀ではないか」
「うぅー、しょうがないじゃん、もう信仰なんてされてないんだもん……」
拗ねるような初音の仕草は、どこか可愛らしかった。
「まあいい。もう夜だ。とりあえず夕食を取って寝るとしよう」
「夕飯はどうするの?」
「……作るのは面倒だし、出前でも頼む」
「あっ、出前ってしってる! お寿司届けてくれるんでしょ?」
「……一応言っておくが、寿司以外も届けてくれるからな。寿司は高いから寿司以外を頼むからな?」
「えー……お寿司~……」
瞳を潤ませる初音の目を見ないようにして明久は家屋に戻った。
手早く夕食を済ませた後、妖刀篝が夜にでも襲ってくるのではないかと警戒していたが、すっかり深夜になっていた。
もう一日が終わる。普段は一人で過ごす明久が数年味わったことがない、他者と過ごす一日だった。
初音はもううつらうつらと眠そうにしていた。これ以上妖刀篝を待っていても意味はないと判断し、明久は就寝することにした。
普段とは違う夜は、静かに流れていく。
横になって、どれほどしただろうか。明久は突然、まどろんでいた意識が覚醒した。
布団から起き上がると、ほのかに冷えた空気が肌を撫でる。どうやら今は、夜が明け始めたもっとも眠りが深い時間帯のようだ。
そんな時間に飛び起きた明久の意識は、はっきりと冴えている。
「……?」
なにか、直感めいたものに突き動かされて、明久はすぐに身支度を整え刀を手に庭へ出てみた。
すると、庭の中には一人の少女が佇んでいる。初音ではない。彼女とは違い、きつく睨みつけるような目をした少女だった。
長い髪を左右に分けて結い、初音と同じく巫女装束をまとった少女。その顔は愛嬌を秘めながらも、勝気な気配に満ちている。
「あら、意外と勘がいいのね」
彼女から発せられるのは、明確な敵意だった。おそらくこれを感じて、明久は飛び起きてしまったのだろう。
明久は彼女の正体をすぐに察した。
「お前が妖刀篝か?」
「……なんであたしの名前を知ってるの?」
眉をひそめて篝が聞き返してくる。
「お前の姉か妹かは知らないが、初音という妖刀から聞いた。姉妹剣なのだろう? お前たちは」
「……あ、あんた! 初音になにかしてないでしょうね!」
怒気に顔を染めながら声を荒げる篝に対して、明久は慎重に間合いをはかっていた。
「あまり大声を出すな、お前の大事な初音が起きてくるぞ」
「……っ! 生意気ね、あんた」
「……俺が眠ったままだったら、不意討ちでもしていたか?」
明久が聞くと、妖刀篝は勝気な笑みを浮かべた。
「その程度の危機感がない奴だったら、死ぬのは当然のことかもしれないわね」
不敵な台詞だった。言外に、不意をうって殺していたと匂わせている。
「さっさと初音を返してくれたら、あんたに余計な怪我をさせずにすむけど?」
「すまないが、はいそうですかと頷ける立場にないんでな」
「あっそ、ならいいわ。初音は力ずくで返してもらうから」
素手だった篝という少女の手に、突然刀が現れる。それは驚くことではなかった。彼女は妖刀が意思を持った妖。本体である妖刀を自由に消したり出現させられるのはお手のものだと、初音から聞いていた。
そのまま篝は一刀を構えた。明久も静かに刀を抜きはらう。
構えは両者ともに同じ。右肩に担ぐような剣形だった。
右肩担ぎに構える篝の姿に隙はない。初音が言う通り、彼女はそれなりに剣術を心得ているようだ。
「……ふーん」
対面の篝からあざけるような気配が消えている。明久の構えを見て、気を引き締めたようだ。
「生ぬるい現代生まれにしては、それなりに胴に入った構えじゃない」
それでもなお生意気な口を慎まないのは、彼女の生来の性格ゆえか。
――いや、これは挑発だな。
互いに一刀を構えて一触即発のさなか、無駄口を叩く理由などない。ならばこれは明久を挑発しうかつな進退を誘っているとみるのが当然だった。
「さすが五百歳は言うことが違う。そこいらの老人よりも、耳に痛い言葉だ」
明久はわざとらしく口の端を釣り上げた。挑発には挑発をもって相手するのが相応しいと判断したのだ。
はたして、その舌戦は明久に分があったようだ。篝は顔を真っ赤にしていた。
「だ、誰が五百歳の老人よ!」
篝がつっかけた。深々と一歩踏み込み、一刀を打ち込んでくる。動作も早ければ剣速も早い。攻める瞬間を察知できながらも、明久はその先を制する事ができなかった。
明久は危うげに跳び下がって一刀を避け、固く正眼に構える。しかし剣先を正面に向けた頃には、明久の視界にあの小柄な少女はいなかった。
――側面か!?
ぞっと冷や汗をかく暇を待たず、明久はしゃにむに前方に体を投げ出した。回避行動と言うよりも、前へ転がるように逃げるといった、はたから見れば情けない有様である。
しかし、それが幸をそうしたのだろう。鋭い風切り音を耳にしながらも、明久の体には怪我一つなかった。
すぐさま立ち上がって先ほど自分がいた場所を見ると、憎々しげな篝がこちらを睨んでいた。
「口のわりには逃げるだけなの? 呆れたわね」
「……返す言葉はないな」
「ふん、余裕っぽいこと言っちゃって」
無論余裕などなかった。身体能力の差というものを明久はひしひしと感じ、背は冷や汗で濡れている。
「……まあ、今のであんたの実力は分かったわ。なかなかやるじゃない。これは本気で褒めてるの」
くすりと篝は唇を歪めた。
初音の無邪気な笑みと比べると嬲る気配を秘めているものの、どことなく笑い方が似ていると明久は思った。
「もう降参しない? 今刀を納めて初音を返すと誓うなら、あたしもこの辺で許してあげるわ。命は大切にするものでしょ、人間」
「……残念だが、それはできない」
「あっそう……じゃあ……」
篝の戦意が一気に高まった。
「次で決めてあ、げ、るっ!」
言いながら、一歩二歩三歩と距離を詰めて一刀を放ってくる。
ほんのわずかな時間に、篝の一刀は二つの輝線を描いた。目にも止まらない二段切り。
だが明久はそれをことごとく凌いでいた。一太刀目は足を運んでかわし、続く二ノ太刀は一刀で弾いた。
篝の一刀を弾いた瞬間に、明久は反射的にまずいと思った。篝の二ノ太刀は鋭くもそれほど力が乗っていないのが手応えでわかる。
篝は弾かれた一刀を頭上でくるりと回し、斬り下ろしを放つ。それは燕が空を旋回する動きに似ていた。
その見事な一刀を前にして、明久の体は動いていた。それに見惚れて呆然としなかったのは、明久自身何度となく死線を潜り抜けた経験があったからだろう。
「ちいっ……!」
しかし、篝の強烈な一刀を避けることはかなわず、明久はしかたなくその手にある刀で受けるしかなかった。
彼女の一刀を受けとめたとたん、ひどく鈍い音が辺りに響き渡る。
獣の断末魔に似たその音は、明久の刀からあげられたものだった。
思わず明久は大きく飛び下がり、慌てて刀身を確認してみる。
彼の持つ刀は、先ほど篝の一刀と触れ合った部位からひびがはしっていた。これではもう、次に何らかの衝撃を浴びれば折れてしまうだろう。
――舐めすぎていたか。
明久は苦々しく唇を歪める。敵の得物は妖刀、しかもそれを扱うのが刀が意思を持った妖であるなら、普通の刀で相対するのはやはり無謀だったのだ。
身体能力もあちらが上ならば、刀の頑強さも妖刀の方が上。力任せの一撃を受けさせられたらこうなるのが自明である。
「勝負有り、と言ったところね」
勝気な笑みを浮かべて、妖刀篝は明久を嘲笑う。
「さしもの退魔の剣客も、剣がなければ赤子同前。もうあんたに勝ち目はないわ。諦めて初音を解放しなさい」
「くっ……!」
明久は大きく後ろに下がって間合いを取った。
――このままではまずい、どうにかして刀を調達しないと……。
明久は家族を失った経験から、いつ誰がこちらの命を狙ってこの家にやってきてもいいように、家のあちこちに刀を隠していた。
それらは銘もない量産品ではあるが、実用性は十分にある。まずはこの場を離れ、隠していた刀を取りに行くのが一番といえた。
しかし目の前の相手がやすやすと明久を逃がす訳もなく、蛇に睨まれた蛙のように明久は動けずにいた。
「さあ、どうするの? 負けを認める? それともあたしの錆になる? 最上級の妖刀に斬られるなら名誉の死だとでも、考えているのかしら?」
初音と違って、彼女の性格はどうも嗜虐的な色を秘めているらしい。絶対的優位な立場を楽しんでいる気配があった。
ゆっくりと一歩下がる明久は、その頬に汗を浮かべていた。篝の目は鋭くこちらを注視している。ここから家の中に逃げ込む隙が全くなかった。
どうしたものかと動きあぐねている時、突然明久の後方にあるふすまが開いた。そこから初音があらわれ、のそのそと縁側に歩いてくる。
「もー、さっきからうるさいよー……」
「は、初音!」
初音の姿を見て、篝が叫んだ。
「せっかくゆっくり寝てたのにー……篝ちゃんの声大きいー……」
「あ、あんたね! いきなりやってきて何言ってんのよ! この状況が分からないの!?」
「うー……だから篝ちゃん声大きい……朝からうるさいよー……」
低血圧気味なのか、低い声で初音が抗議する。
「んなっ! 助けに来てあげたのに何よその態度!」
思わず明久もうなずいていた。先ほどまでの緊迫した状況は、初音の登場で妙なことになり始めている。
初音はのんきにあくびを一つかいて、目を数度瞬きさせた。ようやく頭が回ってきたのか、数度対峙する明久と篝を見て小首を傾げた。
「もしかして戦ってたの?」
「そうよ! 見れば分かるでしょ!」
篝は鼻息荒く言葉を重ねた。
「まあ、勝ったのはあたしだけどね。見なさいよ、そいつの刀はもう使い物にならないじゃない」
ふふんと勝ち誇る篝に対して、初音は呆れたような表情をした。
「篝ちゃん相手に普通の刀で戦ったらダメだよ、お兄ちゃん」
「……そう言われてもな。あいにく普通の刀剣しか俺は持っていない」
妖刀は多くの人間の信仰や恐怖により霊的な加護を手に入れた物であり、通常の刀剣とは強度が違いすぎるのは明久も心得ていたことだった。
「じゃあお兄ちゃん、よかったら私を使ってよ」
「……いいのか?」
「うん、いいよ」
「なっ!? ちょっと初音っ! なんでその男に協力してるのよ!」
得物を失った明久にとって初音の申し出はありがたかったが、篝がちょっと待ったとばかりに喚いた。
「だって、お兄ちゃんは初音の主だもん」
「はぁ!? あ、あんたその男を認めたっていうの!?」
驚いて泡を食っている篝を無視して初音はつづけた。
「お兄ちゃん、私の名前を呼んで。それで、私たちは真に繋がるから」
「……?」
初音の言動は明久には不可解だったものの、彼女の言葉に従う他ないと思った。憎々しげにこちらを睨む篝が、今にも斬りかかろうとしているからだ。
「……初音」
意を込めて、明久は妖刀の名前を呼んだ。
初音はにこりと笑った後、まるでその体が光の粒子となって解き放たれたようにかき消えた。
代わりに、明久の目の前に刀が浮かび上がる。妖刀、初音だった。
それを左手で掴みとる。その瞬間、明久は不思議な感覚を抱いた。
――これが妖刀か……。
妖刀初音を手にした時、その体に力が満ちるような気配を感じたのだ。
それはどこか恐ろしくもある。もし心が弱い人間がこれを手にしたら、この力に溺れるのが容易に想像できた。
「くぅっ……なによ、初音の奴……! なにが主よ! あたしは認めないんだから!」
篝は、犬歯をむき出しにして今にも明久に食って掛かりそうだった。
――勝機は今だな。
明久の手には妖刀初音があり、篝との戦力差は大幅に縮まった。扱う得物が同等の物であれば、後は技術と戦術で勝利を得るだけだ。
「これで形勢逆転だな。先ほどのお前の言葉を返そう。負けを認めろ、篝」
「はぁ……? ふざけないでよ、なにも逆転なんかしてないわ! あんたの勝利なんてありえないのよ!」
明久の言葉は篝の怒りの炎に薪をくべたようだった。彼女はほんの半歩後ろに下がって、刀を構える。
明久は、篝の表情を見て先ほどの分かりやすい挑発が効いたことを確信した。これまでのやり取りで篝の性格は把握できている。挑発し彼女の頭を熱くさせれば、ある程度出方を想定することができるのだ。
剣と剣の勝負を決めるのは大まかに分けて三要素。身体能力、剣の操法、そして心のあり方である。
怒りで心を縛られれば、柔軟な剣技を発揮することはできない。おそらく篝は真っ向から明久を斬り伏せようと考えているだろう。身体能力は彼女が勝っている。悪くない選択だ。
だが、そう攻めてくることがすでに分かっているのならば、必勝の策を持って打ち勝てばいいだけの話。
明久は静かに刀を構えた。両者の構えは同じだった。やや刀身を右肩に担ぐようにし、左足を前に出している。
篝は素早く距離を詰めて来た。その足運びは繊細ではあったが、やはり怒りを隠せず勢いのままに斬りかかろうとしているらしい。
明久は篝に詰め寄られるがままにしていた。身動き一つ取らず、彼女と自分の間合いを把握することに全神経を集中させている。
狙うのは精密な運剣による反撃。一刀のただ一振りにて相手の剣撃を払い、かつ相手を斬りに行く技法。
気息を整え、明久はその時に備えた。この技は、相手に先手を取らせた上でその剣筋を見極めなければ成功しない。
当然敵にあえて先手を取らせるのだから、しくじれば敗北は避けられない。しかし、この剣を十分に発揮できれば……敗北は決してありえない。
刀の構造、そして運剣の軌道によりそうなるように仕組まれている技なのだ。この剣を極めた者に引き分けがあっても、敗北はありえない。そう言う者も珍しくはない。
その一刀をここで成し遂げる。身体能力に劣る明久は、過去に完成された剣技に望みを託した。
後は、ただ刀を振るうのみ。篝は更に間合いを詰めていて、もう間もなく彼女の斬り間だった。
――来る!
一歩、固く踏みしめたその足を、明久は見逃さなかった。
篝が動く。右肩担ぎから放たれる一刀は、弧を描いて明久に迫りくる。
――見切った!
生死の境で明久は篝の動きを把握していた。彼女の振るう一刀の軌道、その未来位置まで予測できる。
ならば、後は運を天にたくして一刀を振るうのみ。
明久の刀がはしった。二人の一刀が、真っ向から重なり合う。
「……あっ、ぅ……!」
真っ向から重なった刀と刀。互いの鎬が一瞬火花を散らした後、篝の一刀は跳ねのけられていた。
この技法は、某流派で言う切落し。江戸時代、幕府の裏方として活動していた一色流は、当時主流であった新陰流と一刀流の流れを取り入れた素肌剣術の技法も残していた。
明久の一刀は篝の一刀を切り落とした後、間をおかずに跳ね上がり彼女の喉元へ切っ先をつけていた。
蛇に睨まれた蛙のように篝は身動き一つできず、やがて悔しそうに歯噛みした。
「ま、参ったわよ……」
嘘偽りのないその言葉を聞いて、明久はほっと息を吐いて刀を納めた。
「……どういうつもりよ」
敗北の悔しさに涙目になりながらも、きつく睨みつけてくる篝。明久はその目を真っ直ぐ見つめた。
「どういうつもり、とは?」
「な、なんでとどめを刺さないのかって言ってるの!」
「……必要か?」
「必要不要って問題じゃないわよ! あんた、明らかに寸止めするつもりだったじゃない! あたし相手に手加減してたってわけ!?」
「……手加減はしていない。俺は本気だった」
「本気でやってたんなら、むしろもっとたちが悪いわよ!」
篝がこうも怒る理由は、明久には痛いほど分かった。剣を握る者として、打ち破られて斬られるのは覚悟の上だ。寸止めなど、その覚悟を侮辱するのにも等しい。
彼女たちは妖刀の意思が顕現した姿でしかなく、斬られたところで妖刀本体が死ぬわけではない。しかし、篝は剣を握る者としての自負をしっかりと持っていたのだ。
「ふん、どうせなにかやましいことを隠してるんでしょ。あたしに恩を売ろうとでも思ってたんじゃない?」
篝の憤慨はもっともだと明久は思った。ある意味で彼女の指摘は正しいと言える。
「俺は、ただ……」
誰に言うでもなく、明久の口が勝手に開いた。自分でも何を言おうとしているのか分からなかった。
そのせいで、一度開いた口は言葉を探す様に二度三度閉じる。
「俺は……お前たちのような少女を斬る趣味はないだけだ」
ようやく明久がそう言った時、篝は目を丸くして、その後少し怒ったように目を鋭くし……最後には呆れたように笑みを零した。
「……あんた、甘い男ね」
そういう奴嫌いじゃないけど。篝は小さい声でそう呟いた。
「でも、夜月相手にその甘さを見せたら、命取りになるわよ」
「夜月……?」
どこかで聞いたその言葉を、明久は思い出そうとした。彼が思い出すよりも早く、篝が嘲笑するように声をはずませた。
「なに? あたしたちを集めようとしているくせに、あたしたちの名前すら知らなかったの? 夜月はあんたが求める最後の妖刀よ」
「妖刀夜月、か……」
記憶を呼び起こされる。夜月という名は、確か初音が言っていたはずだ。
こうも簡単に忘れてしまったのは、真剣勝負を経て精神が摩耗しているからだろうか。
「一応言っておくけど、夜月は強いわ。あんたの実力だと、まず負けるわよ」
「……それほどのものか?」
「疑うっていうの?」
「別に、そういう訳ではない。お前たち妖が俺のような常人と比べてはるかに優れた身体能力を持っていることは理解している」
だが、と明久が続ける。
「剣術とは、身体能力に劣る者が勝る者に打ち勝つ法を多く伝えている。戦ってみてわかった。お前たちはあくまで刀であって刀を扱う者ではない。俺に勝ち目は十分ある」
自信というよりも、戦いを経た経験によって明久は断言する。しかし、篝はそれを鼻で笑った。
「だから、勝てないっていうのよ。夜月はあんたくらい剣を使えるわ」
「……なに?」
「ふふん、驚いた? あの子ったらめちゃくちゃ人間嫌いだから、人間に使われるくらいなら自分で扱うとか言って、自分で剣術を学びだしたのよ。もう百年以上前のことだけど」
「……それは本当か?」
明久の驚いた顔を見て、篝は不敵に微笑む。
「あらあら、焦っちゃって」
くすくすと篝は笑った。その笑みはやはり初音に似ていて、明久は思わず見つめてしまう。
「な、なに見てんのよ」
「いや、別に。少し見惚れただけだ」
「は、はぁ? なに言ってんの、バカみたい」
顔を逸らす篝の頬は若干赤い。それを見て明久は篝の扱い方がなんとなく分かった。
突然差し込んできた明かりに目がくらみ、明久は手で目を覆い隠した。どうやら、夜明けがきたらしい。
篝も眩しそうに空を仰いだ後、日差しから逃げる様に縁側にあがった。そしてくるりとこちらに振り返る。
「負けちゃったからしかたないし、しばらくはあんたのこと主として扱ってあげるわ」
「……そうか、助かる」
薄い胸を自信満々に張ってまで上から物を言う意味が全く分からなかったが、明久はとりあえず礼を言っておいた。
「で? 朝ごはんは?」
「……まさか、食べるつもりか?」
「当たり前でしょ! 主だったらご飯くらい出しなさいよ!」
それはあまりにも横暴すぎると明久は思った。
「私もお腹空いたー」
妖刀から人の姿になった初音まで、篝を援護するようにねだってくる。
「……お前たち、食事をしなくてもなんの問題もないのだろう……? 我慢したらどうだ」
「嫌」
「いーやー」
篝と初音に左右から抗議され、明久は溜息をついた。
真剣勝負を終えて疲労を感じてはいたが、簡単な軽食を作り二人に食べさせる。篝はあまりにも雑な朝食に軽く文句を言っていたが、残さずたいらげていた。
朝食を食べ終わったあと、篝はさっき戦って汗をかいたからと風呂に向かい、初音もなぜかその後をついていった。
――刀の癖に風呂に入るのか?
そう思った明久だが、束の間訪れた一人の時間はありがたかった。
初音を手に入れてからずっと、彼女に振り回されていたというのに、そこにあの勝気な篝まで加わってくると、明久の手には負えなくなってきている。
先ほどの食事の時もそうだ。文句を言われうるさく思ったものの、そこにあった明るさに嫌な気分を抱きはしなかった。
むしろ、感じたのはもっと別の……。
「……っ」
我知らず笑っていたことに気づいて、明久は口元を手で覆ってしかめつらをした。
どうも、昨日から自分はおかしい。今までの生活をかえりみて、明久はそう思った。
――この二年、笑ったことなどあっただろうか?
自分の心の中に、なにか波紋が沸き起こっているようだ。それをわき起こしているのは、あの妖刀たちで間違いない。
これ以上彼女らと共にいると、段々と自分の内面が変化していくのではないか……そう思うと、明久はどこか恐れを抱いた。その恐れの意味は自分自身で理解できずにいた。
だが、こんな生活もそう長くはない。すでに妖刀三振りのうち二振りを手に入れたのだから、彼女たちを倉本に引き渡す日はすぐ訪れるだろう。
そうすれば、このやかましい生活も終わりだ。また平穏が訪れる。
――……本当にそうか?
明久は不意に思った。この二年で笑ったことが無かったように、心に平穏を感じたこともまた無かったはずだ。
彼女たちとすごす時間には、わずかながらその平穏とやらがあったような……そんな気がする。
そこまで考えて明久は勢いよく頭をふった。何かがおかしい。毒に侵されているような気分だった。
気持ちを斬りかえるために、明久はまだ見ぬ妖刀夜月のことに考えを向ける。
篝の発言をそのまま受け入れると、どうも妖刀夜月は明久を凌駕する剣の腕らしい。
しかし明久は半信半疑だった。人の姿をとるとはいえ、本体は刀。刀剣の操法を心得る人間に勝るものか。
それはまだ若年とはいえ、二年の歳月を剣に費やした彼の驕りのあらわれだった。明久はすぐに己の驕りに気づいて、自分を戒める様に強く唇を噛んだ。
――油断するな。事実篝との戦いは危ない所だった。
篝との対決を思い出すと、指がわずかに震える。思い返してもギリギリの勝負だった、と明久は溜息をついた。
初音をこの手にしていなければ、まず敗色濃厚だったのは否定できない。油断や驕りを抱えるのは、勝負の場において致命的なことだった。
夜月がやってくるのは、そう遠くはない。いずれ来る死闘の気配は、どこか死臭を纏っている様に感じられた。




