139話 わたしのほのお 前編
―― 佐藤のり子 ――
「いまから3年前。私はバーチャルではなく、現実の世界でアイドルを目指していました」
「私にとってアイドルという存在は、とても尊いものでした。積み重なった努力がステージの上で実を結ぶその瞬間。アイドルが放つキラキラとした情熱の輝き。その輝きを私も体験したい。そんな思いでいっぱいの毎日でした」
「毎日のように歌を練習しました。ダンスもいっぱい練習しました。みんなから嫌われないよう努めてきました。全ては私がアイドルとなるために。今では紅焔アグニスという成果がありますから、そのうち私自身がアイドルとしてステージデビューをする未来があったかもしれません」
「ただ、そんな幸せな日々も3年前に途絶えました。この醜い顔の傷が生まれてしまったのです」
自分から傷の話題を口に出して、視界がぐらりと傾くのを感じた。ヨーミの心を深く傷つけてしまったこと。お母さんにいっぱい心配をかけさせたこと。周りの皆に恐怖を与えてしまったこと。過剰な暴力を振るってしまったこと。情緒不安定だった自分がやらかしてしまった、思い出したくもない後悔の数々が頭の中を駆け巡り、息苦しい気分になる。昔の私は、なんでこんな事をやってしまったんだろう――そんな気持ちでいっぱいだ。
でも立ち止まれない。前に進まなきゃ。
「傷ができた詳細は話せません。ただ、誰の責任でもない、自業自得の結果で生まれた傷であることはお伝えします。そして、傷ができた後の毎日は――」
「地獄でした」
「アイドルという、かけがえのない夢を目指せなくなった――そんな絶望ばかりの毎日が始まりました。もう何もかもの存在が嫌で嫌でたまらなくて、誰かと関わるのも苦痛になりました。今まで仲良くしてくれたクラスメイトは、鬱になった私と、私の傷を怖がって話しかけてこなくなりました。そのうちひとりぼっちになって。孤独で。寂しくて。惨めで。辛くて。生きているのも本当に辛くて。もう死にたいという気持ちでいっぱいで――」
込み上げてくる涙で続きを言うのも精一杯――そんな状況の中で突然、私の手を温かく小さな手が包みこんだ。安未果さんだ。彼女はすでに化粧が軽く崩れかけるほど、ボロボロに泣いていた。首を小さく横に振り、イヤイヤと私にサインを送る。
ごめん。言い過ぎたね。昔のネガティブな感情に引っ張られすぎた。
「そんな地獄から私を救ってくれた人たちがいました。私を一生懸命はげましてくれたお母さんや、私の傷顔を見ても仲良くしてくれた親友たちです。その人たちのおかげで、私はどうにか自分の心に折り合いをつけて……アイドルという道を諦めて、この顔の傷と一緒に生きていくことを決心しました」
「私の心から絶望は消えましたが、希望も無い空っぽな毎日が始まる――そんな覚悟を決めた私でした。ですが杞憂でした。その空っぽはすぐに終わったのですから」
「私は出会ったんです」
「藍川アカルたち、Vtuberの皆さんの動画に」
「私はようやくここで、アイドルVtuberという存在を知ったのです」
「『暗闇を照らす希望の光』――彼女の何気ない挨拶が、絶望だらけだった私の心へ深く深く突き刺さりました。彼女が繰り広げるパフォーマンスの数々が、空っぽだった私の心に火を灯してくれました」
「私も藍川アカルのようになりたい。彼女のように誰かの希望となるような、光り輝くアイドルになりたい。そう強く願いました」
「そして気づきました。この醜い傷顔を出さなくても、アイドルができると。アイドルVtuberの存在は、私にとっての光だったのです」
「そこからは一直線にアイドルVtuberを目指して、YaーTaプロダクションのオーディションに合格し――私は紅焔アグニスというアイドルとしてデビューさせていただきました」
「幸せでした」
「憧れだった藍川アカルの下でアイドルになることができました。情熱いっぱいのスタッフさん達に恵まれました。デザイナーのシグニッド先生は紅焔アグニスを熱心にデザインしてくれました。ルルとナティ姉という、最高の同僚と巡り会えました。そして、私を応援してくれる紅民の皆さんと出会うことができました。こんな醜い傷を負った私でも、念願のアイドルとしての道を最高の形で踏み出すことができたのです」
「本当に幸せな毎日でした」
「私の素顔が晒されてしまった、あの時までは」
再びめまい。口を開こうとしても上手く動かない。ここで立ち止まったら何もかもが終わりなのに。ここからが本当に話したいことなのに、それでも一歩踏み出せない。
リスナーへの裏切りは現在進行系で十分やっている。今の私たちを攻撃するコメントは今でも流れている。リアルのアイドルの道は絶たれた。バーチャルアイドルの道も崩壊寸前。だからもう踏みとどまる理由なんて無い、やれるところまでやると決意した――そのはずなのに。
もういちど拒絶されたら、私は完全に終わってしまう。その不安がただただ怖い。
「痛っ」
「っ!? ごめんっ」
握っていた安未果さんの手をすぐさま振り払う。苦しさに耐えかねて握り込んでしまったのだ。握っていた右手から、みしりと骨の軋む感触が伝わり、背筋がぞっとする。これ以上は頼れない。気持ちは嬉しいけど、安未果さんを壊してしまう。
でも安未果さんは躊躇わず、今度は両手で私の右手を包み込むように握り直した。私の力にも負けないくらい力強く。そして私の手を額に当てて、祈るように顔を俯けた。
「……」
いや違う。祈るように、じゃない。祈っているんだ。何もできないから祈っているんだ。自分の涙声を出したら、私の語りを邪魔してしまうから。
なんて必死なんだろう。自分の事じゃないのに、どうして。
「お嬢」
ルルに呼ばれて思わず振り返った。ぽん、と軽いタッチで肩に手が置かれる。いつの間にかめまいが治まっていた。
「あと一歩。君なら大丈夫だ。団長のお墨付きだよ」
そうだ。私は辛い思いをさせるために配信したんじゃない。悲しい涙を流させるためなんかじゃない。
安未果さんを安心させなきゃ。ルルの期待に応えなきゃ。
「……サンキュ、ルル。ありがとうね、ナティ姉」
「もう大丈夫、あとは任せて」。安未果さんの耳元で小さく囁いてから、手をほどいて安未果さんをルルに託す。ルルはぐずる安未果さんを抱き寄せつつ、優しく微笑みながら力強く頷いた。
安未果さんのおかげで気持ちが和らいだ。ルルのおかげで気持ちに火がついた。
分かる。さっきまでがてっぺんだった。
最高の同期に支えられながら、最強の団長が背中を叩いてくれているんだ。
これなら一歩、踏み出せる。




