124話 獄炎、太陽を灼く 前編
―― 六条安未果 ――
自宅の呼び鈴が鳴り響く。その音が聞こえて目を覚ました。飛び跳ねるようにして起き上がると、カーテンの隙間からは既に朝日が滲み出ていた。スマホで時刻を確認する。朝の8時半。どうやら眠気に負けて気絶していたみたいだ。
続けて−D− Cord やRIMEを立ち上げてメッセージの履歴を急いで確認。眠っている間に仕事関連のやり取りがいくつかあったけど、のり子ちゃんに送ったメッセージには読まれた痕跡が無かった。普段ののり子ちゃんなら一夜も経たずに必ず既読マークを付けていたのに、今朝に限っては動きが無い。スマホの画面の中に広がっている現実味のない光景がホラー映画みたいでゾッとする。きっと荒れに荒れた結果、スマホをまったく見ていないか、もう壊してしまったのだろう。
配信事故による紅焔アグニスの顔バレ。その悪夢が起こってしまったのだと思い知るには十分な現実だ。
もう一度呼び鈴が鳴って意識が現実に引き戻される。かろうじて外に出られる格好であることを確認してから、私は入口のドアを開けた。ドアの向こうの相手は私の友人だから問題は無い。
「おはよう、姫。迎えに来たよ」
「……おはようございます」
私を迎えに来てくれたのは外行き用に変装したルルちゃんだった。力なく微笑みながら挨拶をするルルちゃんは相変わらずの美人さんだけど、たぶん徹夜明けのせいなのだろうか、その美貌は少しくすんで見える。
「起きたばかりのようだね。早朝からすまない」
「ううん、大丈夫。すぐに準備をするよ」
「外で進の車を待たせてある。事務所に行く準備と――お嬢に会う心の準備が整ったら車まで来てくれ」
待たせていた車の後部座席に乗り込み、変装を解いたルルちゃんの隣に座ると、私は運転手である朝倉進さんに軽く会釈をした。進さんは口元を引き締めたまま軽く頷き返してから車を発車させた。2期生のみんなを進さんの家へ送り届けた際に先生とは面識が出来たのだけど、その時は表情豊かでひょうきんな印象を受けた。でも今は氷で作られた彫刻のように冷たい印象を受ける。
まるで葬式会場へ向かう時の車内の空気だ。これから友人へ会いに行く空気ではない。
「ちゃんと言いつけどおりに出来たかい、姫」
「うん。大丈夫」
配信事故の直後、何をしたらいいのか分からず自宅でパニックになっていた中、ルルちゃんは冷静に各所へ伝達をしていた。その指示はシンプルだった。
YaーTaプロ関連のエゴサーチは一切しないこと。そして私に関しては、ルルちゃんが迎えに行くまで外部との不要な連絡を断つこと。
「すまないな。本当はお嬢の様子が気になって仕方ないだろうに。でも混乱の最中に慌てて行動をしても、更に混乱が加速するだけだからね。
では現在の情報を共有するぞ。進にはもう社長の許可を取って共有済みだから、今は身内扱いで構わない」
「……お願いします」
想像しうる最悪の展開を頭の中でひとしきり思い描いてから、私はルルちゃんに告げた。
「まずはお嬢たちの様子から話そうか。あの配信事故の後、彼女は自ら命を絶ちかねないほどに不安定な状況だった。だが灯や舞人の決死のメンタルケアによってどうにか落ち着きを取り戻したようだ。もう俺の部屋で大人しくしている。今は駆けつけてくれた母君へお嬢の世話をバトンパスして、事務所で休んでいるところだよ」
「良かった……その話しぶりだと、ルルちゃんはのり子ちゃんに会ってないの?」
「ああ。お嬢の自宅から事務所に直行して、お嬢を慰める隙もなく皆で外部とのスケジュール調整と謝罪に追われていたよ」
そう呟くルルちゃんの顔には僅かに疲労の色が窺えた。皆が頑張っている中で、自分だけ蚊帳の外でしかいられなかったことに歯がゆさを感じる。
「今回の事故の原因は何だったの?」
「断定は出来ないが、おそらく配信に使っていた配信ソフト側の不具合だろうという話だ。YaーTaプロで使用している会議ソフトだね」
「それなら納得できる。だってのり子ちゃんは私たち三人の中で一番顔バレを恐れていた子だもん。のり子ちゃんは操作ミスなんてしない」
「会議ソフトを開発している提携会社に事情を伝えたが、調査中としか返答が無かった。現在、リンとキィも原因特定に動いている最中だ。しかし未だ結果は出ていない。つまり、真相は未だ闇の中になるな」
「よりにもよってのり子ちゃんの配信で事故が起きるなんて……あんまりだよ」
「今後、あの会議ソフトは使用しないと社内で決定された。頑張ってソフトを開発してくれた提携会社には悪いがね。さて、ネット上での俺達についてでも話そうか。勿論、散々のひと言に尽きるな」
その前置き通りの状況を、ルルちゃんは心苦しそうに語ってくれた。
一夜明けた現在、ネット上ではのり子ちゃんの顔を馬鹿にする書き込みが至るところに現れている。紅焔アグニスやYaーTaプロ公式のチャンネルどころか、私やルルちゃん、果ては紅民さんの切り抜きチャンネルも大いに荒らされていた。加えて、のり子ちゃんがやってきた数々の暴力沙汰が暴露されてしまい、アイドルとしての立場も暴落していた。当然、のり子ちゃんの本名や住所も暴露されている。のり子ちゃんの友人が機転を利かせて警備の人を雇ってくれたおかげでどうにか家は無事のようだけど、事態が好転している訳では無い。
もうボロボロだ。何の希望にすがればいいのか分からない。
「せめてもう少し、擁護派の声が大きくなれば逆転の道すじも立てられるのだけどね」
悲報ばかりでルルちゃんの声すらトラウマとなりそうな状況に耐えていると、やがて車が停車した。窓の外には社員寮――のり子ちゃんが休んでいる建物が見える。
「先に断言しておくよ、姫」
お互いに車を降りながら、ルルちゃんは顔を引き締めつつ私に言った。
「今のお嬢はすこぶる荒れている。それこそ、君の心を深く傷つけてしまう発言を厭わないほどだ。理不尽な暴言も多く吐くだろう」
「大丈夫……だと思う。のり子ちゃんはもっと理不尽な目に遭ってるんだから。怒りをぶつけられることは覚悟してる。でも、ルルちゃんはのり子ちゃんを元気にする方法を知ってるんだよね? 任せても大丈夫なんだよね?」
あまりにも不安になって情けない声が出てしまう。でもルルちゃんはこれまで、どんな絶望的な状況でも奇跡のような手腕で何度もひっくり返してきた人だ。情けないと分かっていても頼ってしまう。
『任せておけ。我に秘策ありだ』そんな軽口を予想していた私だったけど、ルルちゃんからの返答は正反対だった。
「では、姫が考えている10倍は理不尽な出来事がこれから起こると、改めて覚悟し直してほしい」
「え?」
「行こうか。お嬢の所に」
ルルちゃんは表情を緩めること無く歩き出した。私も後から着いていく。
ルルちゃんは他人の気持ちに敏感な人だ。例え直接顔を合わせなくとも、言葉を交えなくとものり子ちゃんがどんな気持ちとなっているのか理解しているのだろう。そんなルルちゃんの警告は、決して大袈裟ではないはずだ。
道中も一切の軽口を開くこと無く、ルルちゃんと住まいの前まで移動した。ルルちゃんがドアを控えめにノックをすると、のり子ちゃんのお母さんが開けてくれた。酷くやつれている。
「ルルちゃん……」
「すまないな母君。一番つらい役割を押し付けてしまって」
「押し付けじゃないわ。普通のことをしているだけ。それよりも、のり子が暴れちゃったせいで、ルルちゃんの私物が――」
「少し怪我をしているね。我が家は救急道具をあまり置いていないから碌な手当てもできなかっただろうに。悪かった」
「……これくらい怪我にも入らないわよ。のり子も大した怪我はしなかったから安心して頂戴」
のり子ちゃんのお母さんは、痣ができた腕を庇いながらルルちゃんへ優しく微笑んだ。
「これからはちゃんと用意しておくよ……俺達はすぐに出ていかなくちゃいけない。もう少しだけお嬢を頼む」
「言われなくたって。母親なんですよ、私」
ルルちゃんの言葉に、お母さんは小さく頷いた。私もルルちゃんに続いて入室して――そして絶句した。
様々な家具が破損して散乱し、部屋のところどころには血の跡が飛び散っていた。もう人間が生活できる場所じゃない。起こってしまった現実に耐えられなくて、自殺しようと暴れて、その度に社長やお母さんに止められる――そんな応酬を繰り返したのだろう。ルルちゃんが言っていた「一番つらい役割」の意味が理解できた。あののり子ちゃんが暴れるのを止めるのは、それこそ命懸けだろう。
そしてのり子ちゃんは、私たちに背を向けたまま部屋の隅にうずくまっていた。ぴくりとも動かない。まるで置物のようにすら見える。
「来たよ、お嬢。姫も一緒だ」
「ごめん。壊した。いろいろ」
「足りないぶんは君のポケットマネーからしっかり請求するさ」
一触即発とはまさに今の状況だろう。ルルちゃんの軽口に私がハラハラしていると、ルルちゃんはのり子ちゃんから近すぎもせず、遠過ぎもしない位置へ腰を下ろした。
これから何を伝えるのだろう。もしかしたら起死回生のひと言が飛び出るかもしれない――そんな淡い期待を描きながら、私は事の様子を見守るしかできない。
「今後の事務所の方針を伝えに来た。そのままでいいから聞いてほしい」
そしてルルちゃんは、穏やかでありながらも淡々とした口調でのり子ちゃんに伝えていく。事故の原因は調査中であること。SNS上での公式謝罪が発信されたことで、運営はひとまずの安定ラインまで戻ったこと。他企業タレントとのコラボや案件企画はすべて中止か延期となったこと。ルルーナ・フォーチュンと帝星ナティカは指示があるまで活動中止であること。社長たちは無事に休んでいること。
そして、紅焔アグニスの今後の活動を白紙にしていること。
その一部始終を、のり子ちゃんは無反応のまま聞いていた。
「以上だ」
「なんで紅焔アグニスは活動停止じゃないの?」
「今後の活動方針を決めかねているんだ。今回の件は事務所の落ち度であって、紅焔アグニスに責任は無いという判断だからね。それに、活動に対する君自身からの表明を聞いていない。事務所側も迂闊な決断はできないさ」
「………………」
ルルちゃんの回答に対し、のり子ちゃんはやはり無反応だった。
「じっくり考えてくれ。例えどんな決断をしたとしても、俺は君を否定しないから」
そう言って仄かに微笑んでから腰を上げ、のり子ちゃんに背を向けて部屋の出口に歩いていく。
「ルルちゃん!?」
「努めは果たした。今の俺にできることはここまでだ」
のり子ちゃんがルルちゃんの言葉を聞いて立ち直る――淡い希望を打ち砕かれて素っ頓狂な声を上げてしまった私に対し、ルルちゃんは残酷な返事をするだけだった。
あまりにも無責任。あまりにも事務的。そんなルルちゃんの態度に一度頭がカッとなった。でも、ルルちゃんが浮かべた無念の表情を見て、ルルちゃんの行動に間違いなど無いと自分に言い聞かせて口をつぐむ。だって事務所の方針を伝えることは必ず誰かが伝えなくちゃならない。でもそんな残酷な仕打ち、今の関係者の誰ひとりとしてやりたがらないだろう。のり子ちゃんを悲しませることになるだろうから。
ルルちゃんの対応に間違いなんて、きっと無い。
でも。
だからって。
「のり子ちゃん!」
今の状況に我慢ができそうにない。慰めのひとつもかけずに引き返すなんてできない。のり子ちゃんは大事な仲間で、友達なんだもん。
「私、のり子ちゃんに紅焔アグニスを辞めてほしくない。だって今まで一緒に仲良くやってきたんだもん。これでさよならなんて嫌だよ」
「………………」
「大丈夫だよ、視聴者の人たちは温かい人ばかりだもん。のり子ちゃんを受け入れてくれる人は、きっといっぱいいるよ!」
「………………」
「私はまだのり子ちゃんと一緒にアイドルがやりたい……だから待ってるから。私、待ってるからね、のり子ちゃん!」
拒絶されないかという緊張と、重苦しい空気で吐き気を覚えながら、どうにか言葉を捻り出して沈黙したままののり子ちゃんに声をかける。
これは私の本心。これは掛け値なしのきもちだ。伝えなくちゃ。声に出さなきゃ、伝わらない。
これでのり子ちゃんが少しでも元気を出して――。
「ルルや安未果さんはいいよね。気楽でさ」
心臓が痛むほどにどきりとした。聞こえてきた言葉が幻聴にしか聞こえなかったから。
のり子ちゃんはゆらりと立ち上がり、私を睨みつけてきた。その血走った瞳には、確かに憎しみが宿っていると、はっきり分かった。私を抱き寄せ、庇うように立ってくれたルルちゃんがいなければ、私は自分の迂闊な発言に耐えきれず、発狂していたかもしれない。
「私のせいで大炎上したって、鎮火してからまた配信すればいいんだからさ。火種を作った私はそうもいかない。このグロ顔を晒した私はそんなお気楽できないよ。この顔が視聴者には一生付き纏ってくるんだよ。コメントで一生からかわれ続けるんだよ。そんな仕打ちを受けながら、私に配信しろって?」
「わ、私……そんなつもりで言ったわけじゃ……」
「それに……仮にさ。ふたりは顔バレしたって、何のダメージも無いじゃん。ルルは美人で、安未果さんは童顔で可愛いからさ。私とは大違いだ。むしろ顔バレしたらプラスになるんじゃない? ずるいよ。ふたりとも」
「あ……ああ……」
「ふたりには分かりっこない。私の気持ちなんて。この顔を全世界に晒された私の気持ちなんて、分かりっこないよ」
「帰って。ふたりの顔は、もう見たくない」
ああ、なんてことを。
私はなんて酷いことを、言ってしまったんだろう。




