16話
ジェットは目を覚ました。
体調は良くはない。いつものように、軽い頭痛と目眩がある。だが、それほど酷くもなかった。
ただ、記憶がぶつりと途切れていて、自分が何故宿で寝ているのかもよく分からない。どうやら、時計塔に登った後の事を覚えていないらしい。仕方なく記憶を手繰ってみる。
ランプの光に揺れる影。続く階段。蜘蛛の糸。上階。蜘蛛の糸に覆われた床と壁。部屋の中央。女。蜘蛛の糸。蜘蛛の糸。蜘蛛の糸。そして。
……その先を思い出しかけた時、脳髄に衝撃を受けたような感覚を覚えた。
心臓が早鐘を打ち、胸の奥が酷くざわついて、叫びだしたくなるような衝動に駆られる。耳元で誰かの声が何重にも重なって流れ、視界にはそこにあるはずのない風景がチラつき。
ジェットは咄嗟に、記憶と感情に蓋をして耐えた。
冷静になってみても心臓は狂った調子で動き、呼吸も乱れて荒い。いつの間にか、冷たい汗が体を濡らしている。絶叫こそ抑えたものの、それでも漏れた呻きは低く掠れて、獣の鳴き声じみていた。
……どうやら、身体ではない部分に、深い傷を負ったらしい。
自分の状況をそのように理解したジェットは自嘲気味に薄く笑みを浮かべつつ、体を起こす。
おそらくは、これでいいのだろう。下手に思い出さないほうが良いような気がしていた。
そして実際、ジェット自身の本能とリリアナの守りの結界が、ジェットが自身の精神の傷に触れないよう、記憶の一部を守っていたのだ。痛みを反芻して、余計に傷つくことがないように。
忘却とはある種、人間に許された最良の救いなのかもしれない。
体を起こしてみれば、部屋は静かだった。窓の外は暗かった。覗いてみると、隣の寝台にオーガスは居ない。
オーガスの性格からして、この時刻にリリアナの部屋に入り浸っている、ということはなさそうだ。貴族としての矜持なのか、騎士としての矜持なのか、オーガスは最低限、女への気遣いは持ち合わせているようなので。
ジェットはややふらつく体で寝台から抜け出して、寝台の傍にある小さな机の上を見る。
そこには案の定、走り書きの割に整った文字で、食事に出る旨が書かれた書き置きがあった。
書き置きには、店の名前らしい単語と、店の大まかな位置が書いてある。更に注釈として、『ここへリリアナは向かったらしい』とも書いてある。伝聞形であるところを見ると、宿の者にリリアナの行方でも尋ねたか、さもなくば、この近辺の酒場でも聞いたか。
……ということは、リリアナだけでなく、オーガスも書き置きの店に居るのだろう。わざわざこうして書き置きを残しているのだから。
ジェットはぼんやりする頭で、さて、どうするか、と考える。ただ、どうにも、動く気が起きない。
だが、そうは言っても食事を一切摂らなければ、後々苦しむのはジェット自身である。
ジェットの記憶は朧げであったが、大方、今回の戦闘でもそれなりに、肉体を欠損しては再生し、を繰り返したのだろう。働かせた分の餌はくれてやらねば、魔虫が次に食うのは己の肉体だ。
……それでも。
それでも、ジェットは結局、外出しないことに決めた。
荷物袋から干し肉を取り出して碌に咀嚼もしないまま水で流し込むと、再び寝台へと戻る。
そしてそのまま、気怠さを持て余しながら、眠るでもなく、横たわったままぼんやりとする。
活動的になる気分には到底なれないが、眠ってしまうとそれはそれで、悪夢を見そうな気がする。
睡眠薬を飲んで無理矢理深い眠りに就いてしまってもいいのだろうが、それすら何となく億劫で、只々、ぼんやりするのみに留まる。
ぼんやりしながら、ジェットは自分の腹の中、もぞり、と動くものの気配を感じる。
「……干し肉は入れただろう」
言葉など届く訳はない、と知りつつも、ジェットは独り言のようにそう呟く。
勿論、腹の中で蠢く魔虫はジェットの言葉など気にもせず……そもそも『気』など在るのかすら分からないが……ジェットに不快感と異物感を与えながら蠢き続けている。
ジェットはただ、腹の中の魔虫を感じながら、ぼんやりとするだけの時間を過ごした。
どれほどの時間が経ったか。ジェットは相変わらず、腹の内で蠢く魔虫と共に、只々ぼんやりしていた。
……すると、やや遠慮がちに戸がノックされ、ジェットは我に返る。
オーガスならばノックなどしないだろうからリリアナか、と見当をつけつつ、ジェットは戸を開けた。
「ああ、起きてたんだね。体調はどう?」
案の定、戸口に立っていたのはリリアナだった。だが、オーガスも一緒に居る。
……更には、ジェットにとって全くの予想外なことに、2人の後ろには見慣れない老人が居るのだ。
「ついさっき起きた。体調は良くはないが、最悪じゃない。……それで、その爺さんは」
「あ、はじめまして」
ジェットが不審がると、老人は前に進み出て、ぺこり、と会釈した。
「儂、一晩匿ってもらいに来ました。お茶目ジジイです。よろしくね」
「……はあ」
ジェットは、思った。
状況がまるで掴めないのは、寝起きの自分の頭が回っていないせいじゃないよな、と。
「……つまり、ほとんど行きすがりか」
「ま、そんなこった」
結局、リリアナが大方の説明を行った。リリアナの説明に不足があればオーガスが口を挟み、老人はのんびりと頷きながらその説明を聞いていた。
……そして説明を受けたジェットはといえば、とりあえず、目の前の老人が魔術の研究を行っている魔術師であり、魔虫についてそれなりに見識があり、かつ、『勇者』から逃げている、という程度に理解した。ついでに言えば、ジェットは目の前の老人を、『行きすがり』と判断した。事実、その通りである。
「ま、ね。ここで会ったのも何かの縁ってことだと思うのよね、儂」
「そうだよなあ。案外、こういう出会いも馬鹿にできないよなあ」
「貴様が言っても酔っ払いの戯言にしか聞こえんな」
「……俺には何が何だか……」
そうしてジェットが1人取り残される中、老人は1つ咳ばらいをして話し始めた。
「さて。助けてもらった恩返しはしなきゃあね。……じゃあ、何からお話、しましょか」
この老人に聞きたいことは山のようにある。だが、リリアナが真っ先に聞くことはただ1つだった。
「とりあえずさあ、爺さんの素性、そろそろ教えてくれないかい?勇者から手紙が来る、しかもそれから逃げる。一体あんた、何者なんだよ」
「儂?魔術研究が趣味のお茶目ジジイ。それ以外だと……ま、勇者に勧誘されてるんだけども、正直お断りしたい。……そんなとこかねえ」
老人はリリアナの問いに、のんびりとした調子で答えたのだった。
「何故断る必要がある。ましてや、逃げる必要など尚更無いだろう。断るにしろ、穏便な手段などいくらでもあるだろうが」
「うん、まあ、そりゃそうなんだけど」
オーガスの不審も尤もである。単に断るだけならば、何の問題もあるまい。わざわざ逃げる必要は無いように思われた。
だが。
「世界は若い人達のもんだからねえ。儂みたいなジジイは出しゃばりたくないのよ。もういい年だし。無理しちゃいけない年だし。あと、正直めんどくちゃい」
老人の随分な物言いに、リリアナは笑い、オーガスは顔を顰める。
そして直後。
「……あとね。勇者ってのは、神様に愛されてる子でしょ。だから、あんまし会いたくないのよねえ」
ジェットも含めた3人は、表情を引き締めた。
「儂、若い頃におイタばっかしてたからねえ。ちょいと神様とは折り合い悪いっていうか。うん。……分かるでしょ。禁呪の研究好きなジジイなのよ?儂」
「あー……」
リリアナは思い出した。
禁呪というものは、神に背く術だ。当然ながら、神の使いであるという勇者とは致命的に相性が悪いだろう。
むしろ、そんなことをすっかり忘れていたリリアナの方が異常なのである。リリアナは仮にも神官であるのに、神を信奉してはいない。だからこそ、禁呪の類にも嫌悪感など無いのだが。
「大好きなものを悪く言われるの、儂、どうにも好きじゃなくってね」
老人はそう言って、ごく穏やかに笑う。
老人の笑みは長い年月によって丸みを帯びて至極穏やかなものではあったが、その裏に、長い年月の中で老人を傷つけ研磨していったものの気配をもまた、感じさせた。
禁呪を愛するのであれば、迫害は致し方ない。だがリリアナなどは禁呪への忌避感が無い分、どうにも、やるせなさを感じる。
「……そっか」
「うん。そうなの」
リリアナが何でもないような相槌を打てば、老人はどこか、嬉しそうに頷いた。
……だが、続いた老人の言葉は3人の予想を遥かに超えていた。
「しかも、そのせいでね。なんか国王陛下から直々に脅迫状頂いててね。……勇者に協力しなきゃ投獄するぞ、って言われてるからねえ……逃げるよねえ、そりゃ」
「……え?マジで?」
「見る?儂の脅迫状コレクション」
「蒐集できる程に脅迫状を送られているのか……」
老人が取り出した書状に刻まれているのは、紛うことなきエリオドールの紋章である。その紋章によく見覚えのあるオーガスは、顔を引き攣らせた。
文面は概ね、老人の言っていた内容と同等である。また、偽造文書であるとも思えない。
「つまり、貴様を国王陛下の御前に引きずり出せば、それなりの功績になる、と」
「やーん。そんなことされたら儂、ブタ箱にぶちこまれちゃう。いいもんね。そんな事されるんだったら、儂、国王陛下巻き込んで爆発しちゃうもんね!そいだら君、国王謀殺の主犯だかんね!」
「……冗談だ」
無論、オーガスとしては冗談でも何でも無く、この老人を然るべき箇所へ売り渡すことも考えたのだが……この老人は、大人しく取引材料にされはしないだろう。危ない橋は渡らないに限る、と思い直して、オーガスはそれ以上、藪蛇にならぬように口を噤んだ。
「……つまりあんたは、勇者からもその他からも逃げ回っている、ということか」
「そーいうこと」
「却って罪が重くならないか、それは」
「だいじょーぶ。儂、ボケてお散歩してたら迷子になっちゃっただけ。お手紙なんて受け取ってません、見てませーん。それに、勇者様の目的が達されれば、儂が協力したしないなんてどーでも良くなるでしょ」
からから笑う老人を見て、ジェットは納得した。
成程、この面の皮の厚さを持つ老人であるならば、突然、『一晩匿ってもらいに来ました』ともなろう、と。
「ならば次の質問だな。……そちらは随分と不用心なように見えるが」
「そ?」
オーガスの質問に、老人は首を傾げて見せる。だが、そんな飄々とした態度の裏には、確かに魔術師としての老獪さが感じられる。
「よくもまあ、偶々行き会っただけの旅人に、国王からの脅迫状を見せるだの、禁呪の研究をしているだの、話す気にもなるものだ」
オーガスは視線を鋭くして、老人を真っ向から見据えた。
「答えろ。何の理由があって、我々に近づいた」
「そういや、そうだな。私ならまず、その日会ったばっかりの他人に杖は預けねえよ」
リリアナも同調すると、老人は少々、ばつが悪そうに髭を撫でた。
「あー……要は、儂が君達を信用するのが早すぎ、ってことね?」
「そういうことだ。何か狙いがあったとしか思えんが?」
オーガスが迫れば、老人はため息を吐きつつ、降参、とでもいうかのように両手を挙げた。
「狙いは、あったよ。魔虫の事知ってそうだったし、話してみたかったのは本当。そんでもって、勇者様から逃げるの、手伝ってくれそうだな、って思ったからねえ」
老人の回答に、オーガスもリリアナも、訝しげな顔をする。
『勇者から逃げるのを手伝ってくれそう』などと評価されるようなことをした覚えは無い。それなのにそう言う、ということは、まるで……前々から、自分達を知っていたかのようであるが。
「騙してたみたいで悪いけど。儂、もう、そっちのおねーちゃんのこと、知ってたのよ」
老人はそう言って、リリアナを見た。
「リリアナちゃんだよね。アマーレンの、聖女様」
「その服見れば、素性はそこそこ分かるよ。それ、聖女の服でしょ」
リリアナが纏っているものは確かに、聖女の為の聖衣である。見る者が見れば、それだけで身分が分かってもおかしくはない。
「アマーレンの聖女様の噂は聞いてたからねえ。お酒飲んでるし、声でかいし、おっぱいでかいから、ま、お姉ちゃんの方の聖女様だな、って見当付けたわけ。当たってるでしょ?」
ほう、と、リリアナは感心したようにため息を吐いて、頷いた。
「ああ。確かに。私はリリアナ・ヘリオ・アマーレン。邪道聖女リリアナってのは私の事さ」
リリアナはそう名乗りつつ、しかし、首を傾げる。
「……けどよ。噂聞いてたってんなら、余計に分かんねえなあ。どうせ私の噂なんて、碌なもんじゃねえだろ?」
邪道聖女、と自ら名乗る程である。リリアナは自分自身、決して外聞がいい人間だとは思っていない。自らに自信を持ってはいるものの、それが万人に『正しさ』として受け入れられるものではない、とも思っている。
「言ったでしょ。あなたの噂は聞いてた、って。だからリリアナちゃんが、禁呪のことそんなに嫌いじゃないだろうなっていうのは分かってたし、何より、頼ってくるジジイを無下にはしないだろうな、ってことも分かってたの」
「だからって、結構な賭けだったとは思うけどねえ」
珍しく、自嘲気味に笑いながらリリアナがそう言えば、老人は穏やかに笑って、言った。
「あなたの噂はね。良い噂ばっかりだったよ。人を助けることを厭わない、素敵な子だって、あちこちで聞いたよ。あなたに助けられた人が沢山、あなたの噂をしてたんだ。……もうちっと、胸張んなさい。折角おっぱいでっかいんだから」
にこにこと微笑まれ、リリアナはぽかん、と口を開いていた。
「……え?酒癖悪いとか言葉遣いが汚いとか慎みが無いとかは?」
「あ。それも聞いた。でもまあ、そこが魅力的なんじゃないの、リリアナちゃんは」
「……まー、そうかもしれないけどよー……」
リリアナは老人の言葉に、拗ねたような顔をした。リリアナなりの照れ隠しなのだろう。そんなリリアナを見る老人は、変わらず穏やかに微笑んでいた。
「だから、儂は最初っから、あなた達の事はそこそこ信頼してたの。したらば後は、杖預けてのこのこ付いていって、そっちがこっちを信頼してくれるように頑張ればいい話さね」
「それでも十分に賭けだったとは思うがな」
「まあねえ。ドラゴンの巣に潜らなきゃ、ドラゴンの卵は拾えない、って言うじゃない。多少の危険は承知の上さね」
からから笑う老人を前に、オーガスは何か、してやられたような気分になって顔を顰めた。
「……して、御老人よ。そちらはこれからどうするつもりだ?」
続けて話題を変えつつ、またしても質問を重ねれば、老人はふむ、と考える素振りを見せた。
「そうねー。とりあえず、今日一晩は悪いけど、部屋の隅っこでいいから置いといてくれると嬉しいねえ」
オーガスはあからさまに、『嫌だ』というような顔をしたが、ここまで連れてきてしまった以上、文句を言える立場ではない。
「それから……もし良ければ、だけど」
だがそんなオーガスの様子に気付いていない訳でもなかろうに、更に、老人は言葉を重ねる。
「あなた達、魔虫増やしてる人、追っかけてるでしょ?なら、儂、もうちょい、付いていってもいい?」




