39話
リリアナには確かに、神と決別した日がある。
その日は雨が降っていた。しとしとと降り注ぐ雨は、幼い日のリリアナにとって天の恵みであり、神の慈愛でもあった。
リリアナは母と共に雨降る天へ、神へ、祈りを捧げた。その日も幼いながらに懸命に、自らの役目を全うしようと励んでいた。
即ち、祈る事。
聖女として、神へ祈る。平和を、安寧を、齎し給え、と。
リリアナとロザリエの母は、敬虔な神の信徒であった。
元々、修道女として優秀であった母を聖王たる父が見初めて、結ばれるに至ったらしい。リリアナは母からそう聞いた記憶がある。
母は優しく、穏やかで、しかし、敬虔な信徒らしく、神への態度については厳しくもあった。
祈りを忘れるな、神は常に我々を見守っていて下さる。人に平穏があるのは神の御加護のお蔭。そんなように言い聞かされたリリアナは、母の姿を見習い、教えに従って、幼いながらに神の敬虔な信徒となった。
天才少女として魔術の才を表し始めていたリリアナは、そんな敬虔さと能力とを評価され、聖女……そして、次期聖王として相応しい人物として、人々に噂されるようになる。母はそれを褒め、我が事のように喜び、リリアナと共に日々、神へ感謝の祈りを捧げていたものだ。
……そんな日、リリアナは母と共に、近隣の村へと赴くことになる。
その村は、アマーレンからほど近い位置にあった。小さく何も無い村であったが、穏やかで気の良い人々が慎ましやかに暮らす、良い村であった。
来訪の理由はごく単純で、生まれたばかりの赤子に災い除けを、という依頼の為。本来であれば、とりたてて、リリアナや母が赴く理由もない。だが、母は民衆に慕われていた。母も民衆を愛していた。見知った者に子供が生まれたともあれば、祝いの為に駆けつけたかったのだろう。
リリアナは嬉しそうな母に付いて、久々の外出を楽しんでいた。
その村に、魔物の襲撃があったのだ。
リリアナ達が到着して、赤子に祝福を授けていた時、突如、家屋が崩壊した。
咄嗟に逃げ遅れた者達は屋根や柱の下敷きになり、逃げ延びた者達にも、魔物が襲い掛かる。
リリアナの母は、屋根の下敷きになった赤子とその母親を救おうとして、必死に屋根を持ち上げていた。
神に祈りながら。
……だが、祈りなど、無意味であった。
無防備な母の背に、魔物が襲い掛かっていくのを、リリアナは見ていた。
咄嗟に、リリアナは己の能力を思い出した。幼い少女には重すぎる、その能力を。
おもちゃじみた杖を掲げて、リリアナは魔物を攻撃した。幼いながらにして天才少女と呼ばれたリリアナの魔術は伊達ではなく、魔物1匹殺す程度、訳もない。
……だが、如何に能力があったとしても、リリアナは幼く、未熟であった。本来ならば柔らかく暖かく、誰かに愛されて守られているべき存在だった。
幼さ故に遅れた判断は、母の命を繋ぎ留めるには至らなかったのである。
リリアナは今も鮮明に覚えている。
うつ伏せに倒れ、背からどくどくと血を流し、死にゆく母の姿を。
その母の瞳はリリアナを映すこともなく、その唇から漏れる言葉はリリアナを案じるものではなく。
……ただ、母は祈っていた。
神へと祈っていたのだ。
か細く消えゆく母の祈りを聞きながら、リリアナは、足元から何かが崩れていくような感覚を覚えた。
母は祈っていた。だが、死んだ。
村の善良な民も、皆、祈っていた。だが、死んだ。
神の祝福を授けられたはずの赤子は、屋根の下敷きになって潰れて死んでいた。
ならば、祈りとは何だ。祝福とは何だ。
神、とは。
人を救うはずでは、ないのか。
それでもリリアナは、どこかでまだ、信じていた。
偉大なる力によって、全てが救われることを。
村人も母も自分も、神によって救われる、と。
祈りは届く、と。
リリアナは1人、生き残った。
怒りと恐怖に魔力を暴走させて、魔物を殺し尽くして、幼いながらに1人、生き残ったのだ。
自らの手で、生き残った。
神の助けなど、どこにもなかった。
……リリアナが帰還した時、父である聖王は、母の死を悼み、そして、リリアナの生存を……神の慈悲だと、喜んだ。
「そんな訳はない。私は自力で生き残った。私は祈りなんてしなかった。祈った人は皆死んだ。死んだ。死んだ。誰よりもカミサマを大切にしていた母さんも死んだ!」
幼いリリアナの叫びを、聖王はどう思ったのか。恐らくは、母を失った悲しみ故だと、感じたのだろう。
だがリリアナは、悲しみもしたが、それ以上に……怒り、絶望したのだ。
神に。
かくして、天才少女は不良少女へと変わっていった。
祈りの時間を欠席するようになった。
神への供物を盗み食いした。
祭典では祈りの句をわざと飛ばした。
聖衣の袖や裾を端折り、実用一辺倒で無骨なブーツやグローブを着用するようになった。
酒を飲んで大騒ぎした。
教典を薪代わりに火にくべた。
だがその一方で、リリアナは定期的に村を回って結界を補強したり、魔物討伐へ自ら赴いたりと、精力的に活動しもした。
妹への接し方も変わった。共に神へ祈りを捧げる同志でしかなかった存在を、慈しみ、愛するようになった。
神より、人を愛するようになった。
神に代わって、人を愛するようになった、のかもしれない。
「見つけたっ……ぜ、この、クソ虫、が!」
一度、ナイフを入れ始めてからのリリアナは凄まじかった。
長く共に生きてきた妹の中に、妹ではない異質な魔力を見出し、容赦なくナイフを突き立て、腹を裂く。
その傷口に指を突き入れ、血に染まった『それ』を引き剥がした。
……それは、片方の羽を失った蝶のような姿をしていた。
リリアナの指に掴まれ、もがき、しかし、飛び立つこともできずに弱弱しく片羽を震わせるだけだった。
「貸せ」
ジェットはリリアナの指からそっと、哀れな魔虫を奪い取った。
魔虫は元々、弱い生き物だ。人間に寄生しなければ生きていけない。このまま放っておいても十分に死ぬだろう。
だが、ジェットはそれを待たなかった。
無感動に地面へ魔虫を投げ捨て、足裏で潰す。
ギュ、と、小さく虫の悲鳴が聞こえたが、それも一瞬で消えた。
「リリアナ、さっさとロザリエ嬢を」
そしてリリアナはオーガスに促されるまでもなく、ロザリエの腹に手を当てて、じっと集中していた。
……リリアナは、癒しの魔術が不得意である。
克服しようとすれば天才少女の事だ、簡単に克服できたのだろうが、そうしなかった。
そうしなかったのはロザリエの為だった。人前で癒しの魔術を使う時も、ロザリエに全てやらせた。妹のたった1つの居場所を、そうすることで保ちたかった。
……今、リリアナが行うのは、その妹を癒す魔術である。
皮肉なものだ、と思いながら、リリアナはそれでも、純粋に、祈る。
神になどではなく、自分自身と、ロザリエへ。
ロザリエの傷は塞がった。傷痕は残ったが、リリアナの技量ではこれが精いっぱいである。
リリアナは汗を滲ませ、荒い呼吸をついていたが、魔術が終わってすぐ、休む間もなくロザリエの安否を確認する。
……す、と、ロザリエの胸が、動いた。
ゆるゆると、胸が呼吸に動き、そして、ロザリエの開きっぱなしだった瞳が、閉じられる。
こてり、とロザリエの首が傾き、リリアナに体重を預けた。
「……生きてる、よ、な……?」
緩やかな呼吸と、確かな重みと温もり、そして鼓動を確かめながら、リリアナはそれでも不安げに、誰にともなく問う。
「どうやらそうらしいぞ」
「よかったな」
決して丁寧ではない返事が2つ返ってきて、ようやく、リリアナは、肩の力を抜いた。
……そして。
「あー、くそ、ねみ」
ロザリエに折り重なるようにして、倒れたのである。
「……後始末は我々の仕事か?」
「そうらしいな」
リリアナも寝息を立て始めたのを見て、オーガスは呆れた声を発した。
どうしてこうも自分は、他者の世話をしてやる羽目になるのだろうか。
リリアナをぞんざいに担ぎ、ロザリエを丁重に抱き上げて、オーガスはため息を吐いた。
「……ついでに言えば、貧乏くじも俺達の取り分らしい」
ふと、ジェットが視線を鋭くする。
視線の先が、騒がしい。どうやら、援軍の聖騎士達が来たらしいが。
「『達』?笑わせるな、それは貴様の仕事だ、ジェット」
「分かってる。オーガスは2人を頼む」
オーガスとジェットは短く言葉を交わすと、それぞれの役に戻っていった。
即ち、救世の騎士と、聖都を襲った化け物の役へ、と。




