10話
武器を構える兵士達は皆、判で押したように同種の笑みを浮かべていた。
正気の人間であればまず浮かべないであろう笑みは、見る者に強い嫌悪感と強い違和感を与える。
その笑みだけではない。どこをとってみても、兵士達の様子はおかしかった。
血の海から這い出してきて、血に塗れたまま血を拭うこともせず、笑みを浮かべて動き、武器を構える。
幻覚でも見ているかのように焦点は定まらず、何所を見ているか危うい目が、また強く狂気を感じさせた。
「……これは、一体、何があった」
数日前までは己と共に戦い、十数時間前には己を裏切った、己の部下達のなれの果てを見て、オーガスは茫然と呟いた。
最早彼らは、人ならざる何かへと変貌を遂げていた。いっそ、惨いまでに。
オーガスは咄嗟に、動けなかった。
別に、自分の部下が襲ってきたことに衝撃を受けていたわけではない。その衝撃は既に、扉に閂を降ろされた時に受けている。
それに、裏切りたければ裏切ればいい。オーガス自身も今までの人生において、他者を裏切り、裏切られてきた。そこに悲しみはない。
……だが、自分が少なからず知る相手が、人間であることを捨ててしまったような、そんな狂気に塗れているのを見るのは、耐え難かった。
「おい、動け!」
ジェットの声に、オーガスはハッとした。
そして、既のところで兵士の剣を躱す。
再び振りかざされた兵士の剣ごと、その先の鎧ごと、更に鎧の内の肉、骨までも、魔法剣で一気に斬り下ろす。
迫っていた兵士は大きく胸を斬られて、ぐらり、と傾き、血の海に沈んだ。沈みゆくその最期の一瞬でさえも、狂気に塗れた笑みを消すことなく。
「……つくづく、悪趣味な……!」
オーガスは悪態をつく。血に沈んだ兵士には、覚えがあった。
確か、近々結婚するのだと、言っていた。エメルド家の女中の一人と恋仲であるらしく、他の兵士達相手に惚気る姿を時々見かけた。
それなのにこんなところで、へらへらと笑って、血の海に沈んだ。
……気に食わない。心底、気に食わない。
苛立ちと、もっとどうしようもない思いの奔流に任せるように、オーガスは剣を握る手に力を込めた。
感情のはけ口にできる敵は目の前にいくらでも居るのだから。
一方、ジェットは血の海に沈んでいた。
文字通り自ら沈みもしたが、兵士によって沈められもした。
不意打ちも何も使わないのであれば、ジェットの戦闘の技量はそこらの兵士とさして変わらない。であるからして、兵士2人以上に囲まれればまず間違いなく一撃はくらう。その一撃が常人にとっての致命傷であることも珍しくはない。
沈み、沈め、沈められながら、だがそれでも着実に兵士達を殺していった。
さして強さの変わらない相手ならば、不死身の本領発揮である。それこそ、同士討ちを無限に繰り返せばもうそれだけで、最後に立っているのはジェットのみとなるのだから。
……そしてジェットは兵士達を殺しながら、着実に、一歩ずつ、血の海の中央……女へと近づいていく。
この奇妙な場について、心当たりがあったので。
「おい、ジェット・ガーランド!親玉は私がやる!貴様は引っ込んでいろ!」
「断る!」
声を荒げたオーガスは、しかし自分以上に声を荒らげるジェットの剣幕に、黙った。
ジェットの剣を握る姿からは、ただならぬものを感じた。そして実際、ジェットはただならぬ思いで、笑う女と相対していたのだ。
「これから絶対に、血の海に、入るな」
ジェットはそれだけ言うと、女に斬りかかっていった。
女はあっさりと、その掲げた腕を斬り落とされる。
だが、切断面から血は滴り落ちない。
代わりに現れたのは、魔虫だった。
女の傷口から現れる魔虫が、次々にジェットへ襲いかかる。
ジェットはそれらを斬り、潰していくが、相手は小指二関節分程度の虫である。攻撃しようにも限界はある。
剣の間合いの内側に入り込んだ魔虫を、体に届く前になんとか結界で防ぐ。
それでも間に合わないものは、距離を大きく取って避けた。
……だが、回避の代償は大きい。
魔虫が数匹、血の海へと落ちる。
完全に、見失った。
唐突に、足に痛み混じりの疼きを感じて、ジェットは足を血の海から引き上げた。
すると足に魔虫が噛みつき、噛み付いた傷口からジェットの体内へと入ろうとしている。
ジェットは咄嗟に剣を振るうと、自らの足を斬り落とす。
バランスを失って倒れる前に、落ちた足に食らいついたままの魔虫を叩き潰した。
続いて、血の海から飛び出してジェットの目を狙った魔虫を、自分の目ごとナイフで刺し貫いて殺す。
だが、文字通り身を削るような戦い方をしても、魔虫相手に防戦一方であった。
魔虫は斬り落とされた女の腕から幾匹も現れ、血の海に隠れてジェットを狙う。
無論、ジェットを狙う理由は寄生だろう。現れる魔虫は皆、ジェットに寄生しようと攻撃してきているのだ。だからこそジェットは、魔虫に攻撃されるわけにはいかない。
……ジェットは既に、この魔虫がどのようなものか、想像がついていた。
小さく、複数匹存在する魔虫。狂ったように笑う女。女を守るように動く魔物。兵士達。
それらから考えるに、この魔虫は。
……女を宿主にして、宿主の中で子を成し、その子を他の生物に寄生させることで操る。
そういったものなのだろう。
しばらく魔虫相手に防戦を強いられていたジェットだったが、このままでは埒が明かないと判断した。
ならばいっそ、危険を冒してでも攻撃した方がいい。
魔虫を斬り払い、飛びかかってくるものは打ち払い、血の海の底を蹴って進み、再び、女に肉薄する。
だが。
ずるり、と足が滑った。
「なっ」
否、足が滑ったのではない。足が何者かに掴まれていた。
そのまま脚を引きずられるようにして、ジェットは血の海に引き倒される。
まだ残っていた兵士が、狂気の笑みを浮かべながら血の海から姿を現した。
1人ではない。2人、3人、と、出てくる兵士達がジェットを押さえつける。
動けなくなったジェットに、魔虫が襲い掛かった。
痛みは一瞬だった。
続いて、凄まじい異物感と、嫌悪感。そして何より……信じがたいことに、多幸感が広がっていく。おぞましいものに侵されていくことに、悦びを感じる。
侵食は意識にまで及んだ。視界に靄が掛かり、思考は麻痺し、ただ、与えられるものを享受するだけ。
与えられるものは幸福感であった。脳を蕩かされるような、幸福な幻覚を与えられて、抵抗する気力すら奪われる。
駄目だ、と、ジェットの意思が言う。
だが、魔虫の侵食はあまりにも強く、そして、幸福だ。
剣を握る手から力が抜けていく。
そしてついに、剣が血の海の底に沈んだ時。
ジェットの腹の中で、魔虫が不機嫌そうに蠢いた。
ジェットは幸福な幻覚の中に居た。
魔物の『軍』など幻覚の中には存在しておらず、共に鍛錬を積んできた仲間達と共に笑い合う。城塞は今日も堅牢にして明媚。そして何より、自分が守るべき人が、自分の隣に居た。
「ジェット」
彼女は、はにかむようにジェットの名を呼ぶ。
穏やかな日差しの下、甘やかな風に髪を揺らして、そっと、ジェットの手に手を重ねて、彼女は至極、幸福そうに微笑んだ。
折角の非番の日だ、少し遠出してもいいかもしれない。彼女はいつもの花畑でも喜ぶのだろうが、ジェットはより一層、彼女には幸福そうに微笑んでいてほしかった。
そういえば彼女が研究している魔術について、図書館に新しく本が入っているかもしれない。覗いてみようか。それとも、こんな天気の良い日には勿体ないだろうか。
「ねえ、ジェット」
取り留めも無いジェットの思考は、彼女の声によって途切れた。
「ジェット。お願い。どうか、生きて」
腹に鋭い痛みを感じて、ジェットは思い出した。
もう彼女は死んでいるのだ。
「……助かった」
痛みが、ジェットを幻覚と血の海から立ち上がらせた。
狂ったように笑う女が放った魔虫は既に、ジェットの魔虫によって食われたらしい。
幸福な幻覚の残滓が、魔虫に食い荒らされて消えていく。
おかげで目が覚めた。覚めない方が幸せだったかもしれない幻覚から。
そして、一閃。
笑い止んだ女の首を刎ね、続いて女の体を一刀両断した。
女の首は驚愕のような表情を浮かべたまま血に沈み、続いて、体もばらけて沈んでいった。
同時に、女を宿主にしていた魔虫もまた、死んだ。
親である魔虫が死んだことで、子の魔虫によって操られていた兵士達も動かなくなる。
血の海に、静寂が訪れた。
「……ありがとう、セフィア」
ジェットは剣を収めると、彼女の名を呼んだ。
満足げに、魔虫が蠢いた。




