1話
空が青かった。
男は1人、ぼんやり霞む頭に抗うことなく、指の一本も動かすことなく、ただ、視界に入ってくる空を漫然と眺め続けた。
どこか遠くから、鳥の声が聞こえる。それ以外には何の音も聞こえない。
地上は瓦礫に呑まれて静まり返り、命の気配は遠かった。
ただ一陣、焼け焦げた臭いを乗せた風が吹き抜け、男の髪を揺らしていく。
……冷たい。
ああ、まだ、死んでいない。
自らが築き上げた魔物の死体と瓦礫の山に半ば埋もれるように、男は漆黒の目を閉じた。
第一章:怪物と騎士~A fate worse than DEATH~
腕は切り落とされ、足は瓦礫に潰れ、腹は裂かれ、最早痛みを痛みとすら感じられない。
視界は血に染まり、霞み、最早何も映さない。
だが。
……ジェット。お願い。どうか、生きて。
声だけは不思議なほど明瞭に、聞こえた。
脳内でリフレインする愛しい声を感じながら、遠のく意識の端で只、悔恨だけを抱き、死の淵へと沈み行き……突如。
引き戻される。
今際の綴じ目にあったはずの命を引き戻し、沈みかけていた意識を引き戻し、狂った感覚を呼び戻しながら、『それ』が、腸の中へと侵入してくる。
体を内から侵されていくおぞましい感触。
自分が作り替えられていく恐怖。
続いて痛みが蘇り、熱が蘇り、視界が蘇った時。
そこにあったのは。そこに居たはずの。守らねばならなかったはずの。
ジェット・ガーランドは悪夢を見て跳ね起きた。
故郷が消えた日の。
信じてきたものが崩れ落ちた日の。
努力の無意味さを思い知らされた日の。
魔物の『軍』というあり得ない敵。共に鍛錬を積んできた仲間達の悲鳴。自分が守るべき城塞の陥落。そして何より、自分が一番守りたかった人が自分のせいで死んだ事実。
それら全てがジェットを縛り付け、蝕んでいる。幾度となく見た悪夢だ。だが決して慣れることはなかった。
心臓は狂ったように激しく脈打ち、体の芯が冷え切り、いつの間にか強張っていた体が軋む。
緊張状態の体に反応してか、『それ』が体内で暴れ始めた。
その痛みと共にようやく悪夢を悪夢と認識して、ジェットは再び、体を横たえた。安静にしていれば、『それ』はそう、痛みを与えはしない。
そして何より、今は眠っていたかった。ぐるり、と世界が回るような目眩と、緩い吐き気がジェットを満たしていたからだ。
……悪夢の緊張のせいだけではない。薬の副作用だ。
戦闘を始める前に飲んだ、強すぎる程の痛み止めと、興奮剤。それから、戦闘が終わった後に飲み干した、やはり強すぎる睡眠薬。思い当たる節は十分すぎるほどにあった。
だが、副作用に苦しみはしても、痛みは感じずにいられることは幸運だった。
ジェットは手を握り、自由に動くことを確認する。
既に『再生』は終わっているらしい。痛み止めが切れる前に片が付いたことに、ジェットは安堵する。
後は、副作用が治まるまで眠っていればいい。
ジェットは自分の腹の内で『それ』が蠢きつつ、大人しくなってゆくのを感じて、再び目を閉じ、眠りの淵に身を投じた。
この世には『魔虫』と呼ばれるものが存在する。
それは生物でもあり、同時に魔術でもあり、実体があるようでいて、どこにも存在しない。
何にせよ、禁じられた魔術を使って生み出される代物であることは間違いない。
魔虫は人間に寄生し、魔力を食らい、それが足りなくなれば宿主の肉体を食らう。その代わりに、宿主に計り知れない恩恵を与える。
悪魔じみた破壊の力であったり、人知を超えた頭脳であったり……或いは、おぞましいまでの回復力。
ジェット・ガーランドに取り憑いた魔虫は、宿主に強すぎる回復能力を与えるものだ。
手足を切り落とされても十秒後には動かせるまでに再生し、腹を裂かれて臓物が傷ついても痛みにさえ目を瞑れば何ら支障はない。
故に、ジェット・ガーランドは不死身である。
そう。
不死身なだけの、凡庸な人間である。
呼吸を、鼓動を整えて、ジェットは立ち上がる。魔物の死体と瓦礫の山の上に立てば、冷えた風が髪を撫でていった。
空を眺め、傾いてきた太陽の眩しさに目を細めると、やがて、ふらつく足取りで町へと歩き始めた。
ひとまず、今宵の寝床と……何より、食事を得るため。
+
一昨日の深夜から昨日の未明にかけて、ここフォレッタは魔物の襲撃を受けた。
フォレッタはエリオドール王国の中心から外れた、どちらかと言えば端の方に位置する、それほど大きくない都市である。
目立った産業は無い。人口がそれほど多い訳でもない。強いて言えば、周囲の土地は平坦で開墾しやすい。ただそれだけの町であったが、特筆すべきは王都イスメリアから聖都アマーレンへの道中に在ることだ。
それ故にフォレッタは宿場町として、一定の利益を得、現在も残っているのだった。
だが、所詮は只の町の1つである。多くの兵力を有する訳でもなく、高度な魔術結界がある訳でもない。
そんな町を、最近ではそれほど珍しくなくなったとはいえ、それでも昔から考えればあり得ない……魔物の『軍』が襲ったのだ。
魔物に向かったのは、フォレッタに駐屯していたエリオドールの兵士。そしてそれ以上に、偶然町に居合わせた傭兵達であった。
魔物との戦闘が絶えない時勢である故に、傭兵として身を立てる者は少なくない。ジェット自身も流れの傭兵のようなものである。
かくして、寄せ集めの兵はフォレッタ防衛戦に挑んだ。
魔物の『軍』に対して戦力の不足は否めない。負け戦であることは目に見えていた。
だが、他の町から応援が来るまで粘る事が出来れば、と、一縷の望みに縋り……人間達は戦ったのである。
そしてその結果として、フォレッタは守られた。
……決して、応援が駆け付けた訳ではない。天からの助けがあった訳でもない。
ただ。
その場に、不死身の男が1人、居たために。
「兄ちゃん、よく食うな」
宿の食堂で食事を摂っていたところに声を掛けられ、ジェットはちら、と視線だけ声の方へ向けた。
傭兵だろうか。エリオドール王国の兵士の物ではない粗野な鎧を身に纏い、無骨な片手斧をベルトに吊るした男が、人の良い笑みを浮かべて立っていた。
男の片手には食事の盆がある。相席の申し出だろう、と見当をつけて卓の上の食器類を寄せると、案の定男は礼を言いつつ、盆を卓の上に置き、ジェットの向かいの席に着いた。
「ああ、ありがとな。……それにしても兄ちゃん、随分とよく食うなあ。俺も大食いな方だが、そんなにゃ食えねえぞ」
男も食事を開始する傍ら、ジェットの前に並べられた皿の数を見て目を円くした。
ジェットの前に並べられているのは、野草のソテー、鹿の腿肉を丸ごと焼いたもの、茹でただけの芋、豆のスープ、川魚の煮つけ、根菜の煮込み……以下延々と続く料理の数々である。さして豪華でもなく、どちらかと言えば素朴なものばかりであったが、量が尋常ではない。男が驚くのも無理はないだろう。
「ああ、いつもこのくらいは食う」
だが、ジェットにとって、尋常ではない量の食事は必要不可欠なものである。
……腹の中で魔虫が蠢く。
そう。ジェットに寄生している魔虫は、ジェットが食べたものを奪って食らっては、魔力を蓄えている。
そして魔虫が蓄えた魔力は、ジェットの肉体を再生するために使われる。
ジェットにとって食事とは、魔虫に与える餌である。
与えた餌以上に再生能力を使ってしまうと、魔虫は暴れ、ジェットの肉体を内から食らい始めるのだ。
普通に魔物に嬲られるよりも余程耐え難い苦痛を伴うそれを回避するために、ジェットは大量に食事を摂るしかないのであった。
「そんなに食って平気なのかよ?」
平気である。
男が心配そうに声を掛けてくるこの時も、ジェットの腹の中では魔虫が蠢き、ジェットが飲み込んだものを奪って食っては魔力へと変換しているのだから。
事実、ジェットはそれほど満腹感を覚えていない。食べたものは食べた端から食われて消えていくのだ。むしろ、食べても食べても満たされない飢餓感に苦しむことの方が多い。
「平気じゃないのは……財布だけだな」
「はは、それだけ食ってりゃ、違いねえな」
あながち冗談でもない冗談を飛ばしつつ、目の前で笑う男を見て、ジェットも僅かに口角を上げる。
……が、ジェットは気づいてしまった。
「その腕は……昨日の、か」
食事をする男の左腕には包帯が巻かれていたが……包帯越しにも、分かる。
肘のやや下より先が、無かった。
「ああ。当たった魔物の中にとんだ馬鹿力が居てね。バックラーごと叩き切られっちまった」
男はそう言って明るく笑うが、努めてそうしているであろうことは嫌でも感じられた。
「そうか、まだ昨日の内なのか。いや、俺が叩き切られたのはまだ一昨日だったかもしれねえけど……」
「……災難だったな」
どのような言葉を掛けるべきか迷って、結局は月並みな言葉を発するに留めた。ジェットはこういう時に気の利いた言葉を掛けるのが得意な性質ではない。
「このご時世、傭兵なんざやってりゃ誰でもいつかはこうなるってもんだ。兄ちゃんも気を付けな。……ま、今回は負け戦で生き延びたってだけでも十分だがな」
消えた手を振って、男は笑う。ジェットは男の言葉に黙って頷いた。
『負け戦』を共に戦った者として。
しかし、圧倒的に、立場を異とする者として。
互いに食事を再開して、暫し、沈黙が場を満たした後。
男は、ふと、呟いた。
「……ほんと、こんな事言うもんじゃねえんだろうが……どうして、勝てたんだかなあ」
男の言葉に、ジェットは何と答えるべきか迷い、結局何も言わないのが一番であろう、と結論付け、黙って食事を進めた。
その時。
突如、けたたましく鐘の音が響いた。
魔物の襲撃を知らせる、鐘の音である。
「くそ、第二陣か!?あれだけ倒して、まだ来るってのか!こちとら、戦える奴なんてもう碌に残っちゃいねえぞ!?」
男が目の前で慌てふためく中、ジェットは凄まじい勢いで皿を空けていった。
そして咀嚼もそこそこに食事を飲み込むと、立ち上がる。
「おい、アンタ何処行くんだ」
ふらり、と卓から離れていくジェットの背に、男は声を掛ける。逃げることを咎めるような、或いは、自らもそうしたいと思うように。
「戦ってくる」
ごく自然な様子で食堂を出ていくジェットの足取りは、死地へ赴く覚悟も悲壮も無く、しかし確かなものであった。
「やめとけ!死ぬぞ!せめて騎士団の応援が来てから出てけ、じゃないと無駄死にするだけだぞ!?」
今度はごく純粋に案じるが故に男が声を張れば、ジェットは食堂のカウンターに貨幣を置きつつ、振り返って言った。
「心配は要らない。惜しい命は持ち合わせちゃいないんだ」
表情にはぎこちないながらも薄く笑みを浮かべ。
「それだけが取り柄なものでね」
笑みの中、漆黒の瞳だけが、自棄と諦めを帯びて暗い。
夕闇の彼方より、魔物の気配が迫っていた。
数はそれほど多くない。尤も、『正常に機能する都市が迎え撃つのなら』だが。
一昨日の急襲によって大きく防衛力を削られたフォレッタにとって、夕闇より来る魔物の群れは十分すぎるほどの脅威であった。
フォレッタを守ろうと立つのは、比較的傷の浅かった兵士達。決して数は多くない。傭兵達は兵士達より現実的と見えて、動ける者は皆、逃げるか隠れるかしてしまっている。
今度こそ死を覚悟する兵士達を眺めながら、ジェットは懐を探ると、錠剤を数粒、無造作に取り出して口に放り込んだ。
酒の瓶を呷って錠剤を流し込み、手の甲で乱雑に口元を拭う。
そして剣を抜き、ジェットは歩を進めた。
周囲の者達がジェットの正気を疑う中、確かな足取りで。
愚かしいほど突出した位置……魔物の群れの真正面へ。
恐れなど無い。
何故なら彼は、不死身なので。




