ブライアン様の訪問1
朝食室から出て、私はしばらく庭を散歩した。
たっぷり食べたので、腹ごなしが必要だったのだ。
庭の花や、瑞々しい緑の葉を見ながらゆっくりと庭を歩く。
疲れてテラスで立ち止り、大きく息を吸う。そうしたら、さっきの家族の様子を思い出して笑いが込み上げて来た。
私は空を見上げて微笑んだ。
兄が、あの兄が私に向かって口をパクパクさせていた。お魚みたい。
そして、庭の池で飼っている魚に、餌をあげに行こうと思いついた。
我が家の庭には小さな池があり、そこで鯉を飼っている。地味な魚だけど、口がパクパクするのがおもしろい。
鯉に餌をあげたいとベルに言うと、パン屑を小さいバスケットに入れて持って来てくれた。
日傘をくるくる回しながら、池に向かう。
こんなにのびのびと過ごしたことは、今までなかった。なんていうか、解き放たれたような気分だ。
これまでずっと、数か月後の死を見詰めて生活して来たからだろうか。でも、ジェイソン様と婚約する前も、今ほど自由ではなかったように思う。
「ねえ、ベル。私、今のこの状態は凄く気に入っているの。とても自由になったわ」
「お嬢様が幸せそうで、私も嬉しいです」
ベルはにこにこしている。
「この先どうなるかは、全くわからないのにね。それでも、今の自分の方が、今までよりずっと気持ちいいの。おかしな話ね」
池のほとりでパン屑を少し落とすと、すぐに鯉が集まり始める。
口が丸く浮き上がっていて、おもしろい。
しばらくそうやっていると、鯉が集まりすぎて塊になり、鯉の上に鯉が乗り上げ、ぴちぴちしている。
「まあ、お兄様。お行儀が悪いわ。人の上に乗っかっておねだりするなんて」
笑いながらパン屑を投げたら、少し離れた所から低い笑い声が聞こえた。
振り向くと、ブライアン様がロイドと一緒に立っていた。
「こんにちは。お散歩に出たと伺い、こちらへ案内してもらいました。この鯉はエリックですか?」
「こんにちは、ブライアン様。お越しになるのは夕方かと思っておりました。もうディール侯爵家には行って来られたのですか?」
ブライアン様は、ゆっくりと近付いて来た。
そして私の前で立ち止まり、少し不思議そうに私を見てから、愛想よく微笑んだ。
「マリア嬢、今日は昨日より更にお美しいです。素敵な髪形とドレスのせいだけでなく、とても生き生きとした印象で、先程お見掛けした時は、一瞬目を疑ってしまいました」
まあ、社交辞令がするっと出るあたり、さすが公爵家令息。
今日は貴族令息としての訪問なのかしら。昨夜と様子が違い過ぎて面食らってしまう。
でも昨日の正装と違い、今日は近衛の制服姿なので、職務上の訪問だと思ったほうがいいだろう。
お洒落なことで有名な近衛の制服が、とてもよく似合っていて素敵だ。兄や、ジェイソン様の制服姿を何回も見ているのに、全然違って見えるのはなぜろう。
この方もてるだろうな、と何となく考える。
「ありがとうございます。お褒めいただき嬉しいですわ」
当たり障りなく返した後、こんなやり取りをするのは初めてだと、少し興奮した。
十八歳の今まで、男性から社交辞令的な声を掛けられても、「はい」、とか「いえ」くらしか返せなかった。しかも、かなり力が入って挙動不審だったり、声が小さすぎて無視されたと相手に思われたり。
現にベルとロイドが驚いている。
ロイドは私と目が合うと、スッと表情を隠した。この人、こういう性格だったのね、と意外に思う。考えていたより楽しい人物なのかもしれない。
ブライアン様は、普段の私を知らないので、ごく普通に話を進めていく。
「今朝早くにディール侯爵家に連絡を入れ、早目に訪問してきました。ジェイソンには、式の後、近衛隊の同僚を付けておいたので、まだ何も手を打っていないようでした」
ロイドがスッと寄って来た。
「こちらにお茶の用意をいたしましょうか。それとも、室内でお話しになりますか?」
私がブライアン様を見ると、ここで、というようなゼスチャーをされたので、ロイドにそう指示した。
「では、少しお待ちください。支度が整いましたら、お呼びいたします」
私は手にしていたバスケットをベルに渡し、ブライアン様と並んで歩き始めた。
なんとなく一緒に歩いて、花の名前を教えたり、さっきの鯉の話などをした。エリック兄さまの今朝の顔に似ていたと言ったら、声を出して笑ってくれた。
ジェイソン様と一緒にいる時のような、居心地の悪さが全くない。不思議なくらいに。
それにブライアン様の雰囲気が昨夜と全く違う。
「昨夜、お会いした時は、疑い深い視線を向けておられたのに、今はそれが無いように感じます。なぜでしょうか」
気安い雰囲気に、ついするっと出てしまった質問だった。職務での訪問だった事をすっかり忘れてしまっていたのだ。
慌ててすぐに打ち消す言葉を続けた。
「すみません。馴れ馴れしい質問を。職務でのご訪問ですのに」
「いえ、こちらこそ昨夜は勝手に押しかけて、失礼いたしました。ただ事ではない気がして、公務でもないのに公務での態度を出してしまい、申し訳なかったです」
私は黙って首を振った。
「おかげで、気持ちが落ち着きました。私の言葉を、兄のエリックは茶番と言いました。ブライアン様が真面目に取り合ってくださったことが、どれほどありがたいか。お礼を申し上げるのは私のほうです」
ブライアン様はしばらく考えてから、ぽつぽつと話してくれた。
「昨夜は、まだあなた側に何らかの問題があるのかもと疑っていたのです。例えば気鬱の病とか、ジェイソンに何らかの恨みを持っているとか。ですが直接話してみて、そんな様子はないし、話の内容は一貫していてブレが無い。ジェイソンに恨みがあると言うより、おっしゃっている通り、必死で結婚から逃げようとしているだけなのがわかりました」
ちょっと立ち止まって、こちらを向いた。
「お怒りになりませんか?」
「いいえ、ちっとも」
そう言ったら、ほっとしたようにブライアン様が微笑んだ。それを見たら、フワッと胸の辺りがくすぐったくなり、温かくなった。
「あら、ジェイソン様といる時と全く違うわ。いつも、とても疲れてしまって、大変だったのに」
ブライアン様が驚いたように私を見つめた。ちょっと戸惑ったような、探るような目で私を見ている。
「あー、その、そのことをご両親には言わなかったのですか? 彼といると居心地が悪いと」
「言いましたが、取り合ってはもらえませんでした。それに私、今はこうやって普通にお話ししておりますけど、これまではずっと口下手で、うまく話せなかったのです。今回のことで色々と吹っ切れたと言うか、なんだか気持ちが軽くなって、言葉が口から出て来るようになりました」
「ああ、そういう事ですか。お言葉がとても率直で、ドキッとします」
ブライアン様が柔らかく微笑む。
ん? 何か間違えたかしら?
そう思ってベルを見たら、薄ら頬を赤らめてこちらを見ている。そして私に向かって、大きく首を縦に振って見せる。何を伝えたいのかわからないので、後で聞いてみることにした。
従僕が呼びに来たので、池のほとりに戻り、二人でゆっくりとお茶を飲んだ。
ディール侯爵家での事は、家族全員で一緒に聞いてもらったほうがいいだろうと言って、その場では話に上らなかった。




