おまけ 第5話
二日後。
俺は予定通りにトレヲワイス家当主をこの屋敷で出迎えていた。
「ようこそおいでくださいました。お会いできて光栄です、トレヲワイス侯爵」
「此方こそ、会える日を待ち望んでおりました。カコリス殿は美食家と聞いております、今宵の食事会をとても楽しみにしていたのですよ」
話に聞いていた通り、柔和な顔立ちの紳士と言えるような人物である。物腰も物言いも此方を威圧するようなものは何一つない。
もし貴族らしい衣服に身を包んでいなかったのなら、古民家的カフェのマスターだと言われてもおかしくないような雰囲気の方だ。
佇まいの全てが、対面する者の緊張を解すような紳士である。
の、だが。
現在、俺は屋敷に停められている『自動車』を前に、確かな緊張に襲われていた。
赤と黒を基調にしたデザインは、恐らくはトレヲワイス侯爵領内に群生地があると有名な花をモチーフにした色合いなのだろう。
改めてゆっくりと眺めてみるものの、疑いようもなく自動車である。間違いない。
元々、『私物の馬車』で来るので停められる場所はないだろうか、と聞かれてはいた。此方も相応の準備は整えていたのだが、如何せん予想外の品である。
案内する筈の使用人は慌てた様子で俺を呼びに来たし、呼ばれた俺だって若干どころでなく驚いた。
顔が引きつらずに済んでいるのは、公爵家の専属執事として長年鍛えられた表情筋によるものである。
言っておくと、この世界では未だに馬車が主流だ。
個人の力量にはよるが魔法によって速度を上げられるし、いざとなれば車体の入らない場所へ馬だけを走らせることも出来る。現状、発展系を考える必要があまりないのだ。
俺はてっきり、魔法が発展した世界ではこういうものは生まれないのだと思っていたのだが、どうやらそういう訳でもないらしい。
「領地で開発した新たな乗り物なのです。披露すると皆様一様に驚いてくださるのですが、どうやらロレリッタ殿にはさして珍しいものでもなかったようですな」
帽子を傾けて笑うトレヲワイス侯爵は、少しばかり茶目っ気の滲む声音で呟いた。つられて笑みを浮かべつつ、軽く首を振る。
「いや、まさか。驚きすぎるあまり言葉を失ってしまっただけです。素晴らしい品ですね」
これを見て驚かない人間がいるとは思えない。まあ、喜ぶ人間には幾人か心当たりがある。某研究所とか。あと多分、お嬢様もこういうの好きだろうな。
彼は『繰り返される歴史』より前の地点から存在する人物なので、間違いなくウルベルトシュの人間である。『魔法』があろうとなかろうと、発展を望む人類の思いが行き着く先というのはそう変わらないものなのかもしれない。
洗練された造りを見る限り、トレヲワイス侯爵は最低でも数年前にはこの『自動車』を完成させ、そこから更に改良を重ねている筈である。けれども、これまで俺の周りで『自動車』の存在が話題に上ることはなかった。
最も技術の発展した王都でも見かけなかったから、存在しないものだと思ってたのだが、どうやら『存在が隠されていた』というのが正しいようだ。
ルナ・ウィステンバック所長率いる新設の研究所が新たな技術を次々と発表する中で、今ならば表に出しても話題に紛れて目立つこともない、と判断したのだろう。
新たな技術の開発者として名を馳せることより、余計な軋轢を避けることを望む。なんともトレヲワイス家当主らしい判断であった。
「どうです? カコリス殿も使用を考えてみては。馬車とは違った面白さがありますよ」
「……ええ、そうですね。いずれはそれも良いかと。妻はこう言ったものが好きそうです」
「聖女殿にはよくお似合いでしょうな。ああ、そうです、親愛なる聖女殿にもご挨拶を申し上げねば。いやはや、自慢の品を見せびらかすのは私の悪癖でして……いけませんな」
はっは、と笑う侯爵からは、よくある貴族の自己顕示欲らしきものは一切感じ取れなかった。
なるほど。こういうところが陛下からも好まれているのだろう。
納得を抱きつつ、俺はいくらか緊張の解けた態度で彼を屋敷へと案内した。
さて。
会食に際して、今夜のメニューについて幾つか話しておこう。
この国では一般的には正式な会食の場では八品出されることが多い。
王族だと十一品だが、基本的には高位貴族に対しては献立は八品が過不足なく美しい、とされている。
今回はその全てを、基本的にはあっさりとした味付けで揃えた。年齢もあるのかもしれないが、基本的にトレヲワイス侯爵は味の濃いものは好まないそうだ。
量も然程取らないというので、一般的に好まれるような献立よりは少量を多様に楽しめるもののほうが良いだろう、と判断した。
「ほう、これは素晴らしい。こんなに瑞々しい緋紅魚は初めて食べます、産地の差ですかな?」
「いえ、調理法の工夫によるものです。表面を上級魔法によって調節した炎で軽く炙ってから蒸すことでそのように身に旨味を閉じ込めることが可能になります」
「成る程。公爵家の料理長は卓越した技術を持つという話ですが、噂に偽りなしのようですな」
侯爵は出された品の一つ一つに丁寧な賞賛を送りつつ、終始穏やかな態度で話を進めた。
魔王討伐に対する改めての賞賛と礼に始まり、例の結婚式の話題(閣下は当時不調で欠席だったので、式には祝いの品だけが届いていた)へ続き、新たに設置される孤児の育成機関への補助金の話やら、王都の情勢やらを当たり障りない世間話に絡めつつ言葉を交わし合う。
途中、先ほど見せていただいた車の話になった時には、お嬢様も興味を示している様子だった。
ところで。献立を練るにあたり、本来は菓子を用意するところに、代わりに簡易な栄養食を据えた。これは元はルナ嬢の為に開発したものである。
持ち運びがしやすく日持ちし、手が汚れにくいことに加え一口サイズでも十分に脳が働く程度の栄養が補給出来る代物である。
研究者というのはどういう訳か寝食を忘れるのである。睡眠も食事も取った方が頭は働く、という理屈は理解しているようだが、どうにも探究心の方が勝ってしまうらしい。
王都以外を拠点にする研究職の方々に広まれば良いな、と思ったので、とりあえずメニューに組み込んでみた。
会話の流れでそれとなくその効能を伝えると、侯爵はひどく感心した様子で栄養食を見つめ、何度か軽く頷いた。
「陛下が貴殿に貴族籍を与えようとした意味が今になってよく分かります。お若いというのに、なんとも優秀な方だ。私など、貴殿の歳の頃には、お遊びのような研究しか頭にありませんでしたよ」
「ご謙遜を。以前、王立図書館の資料室にある閣下の研究を拝見しましたが、どれも私には思いもつかないような素晴らしいものでした」
事実である。トレヲワイス侯爵の研究のおかげで、我が国の農耕に関する魔法技術は他国よりも一歩も二歩を先を行くものであるし、魔術的海路の更なる安全補強も彼の開発した魔法によるものだし、魔法によって破壊された建築物の効率的な修復に関する魔法も、彼の発明だった。
まあ確かに、資料によるとたまによくわからない研究していることもあったのだが。
『パージリディア国内における鳥像の配置』とか。どうやら二年ほどかけて鳥像の位置を丁寧に把握して法則性を見定めたらしい。
『虹毛鳥の種族的魅力の照査』とか。虹毛鳥があまりにも奇跡のように可愛いので、可愛さを抱かせる特性があるのでは?と思ったそうだ。実際のところ、とても可愛いが特異な能力による物ではない、そうである。
詰まるところ、鳥がお好きなようだ。非常に。
よって、今宵も鳥料理は出していない。
いや、食用と愛玩用は違うかもしれないが。一応な。
「カコリス殿は私とは異なる分野の、戦闘における実践的な魔法研究に興味がおありなのでしょう。カコリス殿が立案したという学園内で行われていた模擬戦闘は、生徒の身体能力向上に役立ったと聞いております」
「……勿体無いお言葉です」
此処でシャンデュエの話題が出てくるとは思っていなかったので、若干顔が引き攣ってしまった。
命名に携わったお嬢様が一瞬目を輝かせるが、それとなく視線を送っておく。やや不満げながらも淑やかな笑みを浮かべ直したお嬢様は、何を言うでもなく相槌として軽く頷くに留めた。
「生徒の代表として御二方がよく実践されていたそうですね。勝敗はどのようにして設定しておられたのですか? やはり魔導的な判定を?」
「…………いえ、何方かの身体を押さえ込めた方が勝者と定めておりました」
「ほほう、成る程。拘束を目的とした戦いは単に相手を打ち倒すよりも難しい場合がありますからね、より高度な戦闘を主軸として鍛えられていた訳ですな。安全性にも配慮された素晴らしい判断です」
心底感心したように頷いている侯爵閣下を前に、俺はなんとも居た堪れない気持ちで、それでいて確固たる意思で、しれっと頷くことで肯定しておいた。
その通りです。我々は安全性と高度な戦闘訓練を両立した案としてシャンデリア・エクストリーム・デュエルを行なっておりました。おっしゃる通りでございます。
胃が痛くなってきたので、俺はどうにか話題を変えることにした。
「それにしても、あの発明は画期的ですね。馬がいなくても走る馬車と言うのはこれまで見たことがありません」
「構想自体は随分と前からあったのですよ。動力を完全に魔法に頼るにはあまりにも燃費が悪い上に安全性に欠けるもので、どうにかこうにか構造を考えてあのような形になりました。苦労しましたから、ようやくお披露目出来るような時勢になって、私としても嬉しい限りです」
侯爵閣下はあくまでも朗らかな笑みを浮かべていった。
俺の胃は、違う方向で重くなり始めた。
此方の内心を正しく読み取ったらしい侯爵が、緩く唇の端を持ち上げる。
「カコリス殿、貴殿が何を懸念していらっしゃるのかは充分に存じておりますよ。私としては、今宵の食事は久方ぶりに純粋に楽しいと思えるものですから、この素晴らしい思い出を持ち帰るだけでも過分な幸せだと言えます」
少年のような笑みを浮かべる侯爵の言葉は、間違いなく本心からの言葉のようだった。
この賞賛は、あとで料理長へと届けるべきだろう。今宵の献立は、彼の技量があったからこそ立てたものである。俺がしたのは材料の調達くらいのものだ。
ひとまず素直に賞賛を受け取った俺に、侯爵は少し迷ってから、ゆっくりと言葉を足した。
「ただ、貴殿のように、野心もないままに権力を得てしまう人間は、他者からすると酷く厄介なものです。何分、何を益として受け取るか分かったものではない。何も企んでいないが故に、何もかもを企んでいるように見えてしまう。
単に安寧を欲しているなどとは微塵も思わないでしょうな。十年、二十年先を見越して今のうちから力を蓄え、いずれはロレリッタ家を一強とするべく動いているように思われてしまうことでしょう」
思わず、自嘲を含んだ苦笑が溢れてしまった。
アザンの高位貴族への内情調査で言われたのと同じようなことを言われている。
なんでだよ。何をどう見たらそう思えるんだよ。こっちは真面目に働いてるだけだぞ。
「……そんなに、そのように見えますか?」
「ええ、まあ」
「見えますわね」
なんでお嬢様まで答えてるんだ、と突っ込む気力も湧かなかった。小さく溜息を落とした俺に、侯爵は穏やかな声で続ける。
「トレヲワイス家は最も古い歴史を持ち、代々王族からの信頼を勝ち得た上で、柵からも遠い家柄です。当家との付き合いは貴殿にとって必ず良い結果を齎すと思うのですが、如何でしょうかな」
トレヲワイス家と交流を持つことは、確かにカコリス・ロレリッタには野心などない、との証明になる。最古の侯爵家の信頼は厚い。
まあ、口さがないものは『トレヲワイス家すら誑かしたのだ』などと言うだろうが、歴史ある貴族への侮りはそのまま自身に跳ね返る。言えば言うだけ損になるのだから、余程の阿保以外は口を噤むだろう。
「……此方としては閣下の御提案は喜ばしい限りですが、残念ながらそれに見合う返礼を此方ではご用意出来そうにありません。貴族の付き合いというのは、双方に利がなければならないものでは?」
トレヲワイス家は権力抗争に一切の興味がない。一貫して、興味があるのは魔法研究のみだ。そもそも、信頼と歴史によってある種の聖域のような立場にいる。
故に『次期公爵当主』としての俺には特に価値がない。かといってカコリス・ロレリッタとしての俺個人にはあるのかと言うと、それも怪しい。
俺は確かにルナ嬢とそれなりの付き合いがあるし、リィラルにも好意的に見られていると言える。お嬢様はルナ嬢の親友でもある。
でも、それとトレヲワイス家が独立機関の研究所に立ち入れるように口利き出来るかは別の話だ。
恐らくだが、二人ともそれとなく断るだろう。カコリス・ロレリッタと繋がりを持てば口利きしてもらえるかもしれない、という状況を作らない為にだ。
カカライアン家は今はまだ見栄や矜持が勝って取り繕っているようだが、この先血迷った場合に無茶な接触を図ってきたら、俺に迷惑がかかると思っているのだろう。
そういう訳で、仮に侯爵閣下のそれが完全な善意であったとしても、俺にはもたらされる益に返せるだけのものが何もないのだ。
力無い俺の言葉に、侯爵は軽く眉を上げて幾度か瞬くと、明るく快活な響きの笑い声を上げた。
「何を仰るかと思えば! 貴殿は能力に見合うだけの自信をお持ちではないようですな。例えばこの携帯栄養食、素晴らしい品だと言えます。これがあれば煩わしい食事に邪魔されることなく研究没頭できる、改良を重ねれば更に良いものになるでしょう。
更に言えば、基本的には食事を厭わしいと思う私にとって、此度の会食は心踊る素晴らしいものでした。カコリス殿の手がける飲食事業に期待が集まるのも納得の手腕です」
真っ直ぐな賞賛を口にした侯爵は、そのまま澄ました顔で付け足した。
「そもそも、あらゆる魔法研究者は結果で己を示すべきです。興味がない、と言われたのなら素直に受け入れればよろしい。納得がいかないのなら、求められるに相応しい結果を出せば良いのです。
まあ、一つ私から言える我儘があるとするなら、そうですね、あの『車』を貴殿に差し上げても構いませんか?」
「はい? あれを、ですか?」
「使い古しで申し訳ありませんが、量産には興味がないので他所に任せているもので。私の手持ちは現在はあれしかないのです」
重要なのはあれが中古かどうかではないのだが。
見つめる俺に、侯爵は笑いながら続ける。
「いや何。あれを見た女史がどのような評価をして下さるのか、少しばかり興味がありましてね。勿論、嫌でしたら断って頂いて結構ですとも」
「……では、正当な代金をお支払い致します。研究の成果なのですから、見合った対価が必要でしょう」
「ふむ。それでは、先程の栄養食のレシピをいただきましょうか。あれは素晴らしい、あの量で一食と然程変わらない栄養が取れるとは」
「…………レシピをお伝えするついでに言っておきますが、あくまでも補助食品ですので、きちんとした食事は別途摂取されてくださいね」
思わず忠告してしまった俺に、侯爵はやや照れ臭そうに笑った。どうやら、奥方様に同じようなことを毎度のように言われているらしい。どうやらトレヲワイス卿の奥方は、リィラルと同じような苦労をしているようだ。
とりあえず、俺は『車』を受け取ることにした。確かに、成し得た結果に対して興味を持つことは、なんら不思議なことではないと思ったからだ。
仮にあれを見たルナ嬢がトレヲワイス侯爵に興味を持ったとしても、それは侯爵の成果に対する興味によって始まった関係であって、俺の口利きによるものではない。仮に取り次いでくれという人間がやってきたとしても、じゃあ成果品を置いていってください、と言えば良いだけの話だ。
話がまとまったところで、俺は閣下を西側の客室へと案内した。
翌朝には王都の別邸へと向かうそうだ。しばらくはそこで過ごして、領地までは馬車で戻るのだという。
カコリスを通した客室は東側にあるので、鉢合わせる心配はない。念の為、俺も明日の朝までは部屋には近づかないようにしていた。
料理長を含めた使用人へと賞賛を伝えた俺は、細々としたことを片付けてから自室へと戻った。
翌朝。侯爵閣下はなんとも機嫌の良い笑みを浮かべて屋敷を後にした。
屋敷の裏手にある『車』は……多分だが、近い内にルナ嬢の目に留まることだろう。リィラルは最近、『聖女殿と茶会をしよう、そうしよう』と言ってルナ嬢をデスクから引き剥がすことにしているから。
従者を伴ってにこやかに去る侯爵を見送った俺は、二階に上がると同時に深い溜息を吐いた。
隣に立ったお嬢様が、小首を傾げながら俺を見上げる。
「あら、随分と疲れた様子ね。今日はこのまま休んだらどうかしら?」
「……いえ、頂いた車を安全に保管出来るように手配せねばなりませんので」
「そう。では、このままわたくしが癒して差し上げればよろしくて?」
この場合の癒しとは光魔法ではなく、単なるお嬢様によるスキンシップである。人間はハグによってストレスが軽減されるのである。これは異世界でも変わらない事実であった。
敵対的な人間を相手にするよりも好意的な人間を相手にする方が疲れてしまうのは、多分、好意に見合った態度を示そうと気を張ってしまうからだろう。自分を嫌いな人間にはどう思われてもかまいやしないのだが、自分を好いてくる人間には失望させまいとしてしまう。
そこを考えると、お嬢様と幼少期に散々言い合ったのはむしろ良かった、と言えなくもないのかもしれない。
こういう時に遠慮なく情けない姿を見せられる相手がいる、というのは有難いものである。
疲労回復を求めて力なく寄りかかる俺を抱き止めたお嬢様は、そのまま此方の頭を撫でると、軽く頬へと口づけて、ちょっと照れ臭そうに笑ってから私室へと引っ込んだ。
今日は討伐の依頼を入っているから、装備を整えるのだろう。光魔法の力を借りたい、という依頼はどうしてもある。
俺もさっさと仕事しないとな、と思いつつ書斎に目を向けかけた俺は、そこで最奥の扉がちょっとだけ開いていることに気づいた。
「………………」
「………………」
無言で目線を交わし合うこと、数秒。
カコリスは何も言うことなく、そっ……と扉を閉めた。それが気遣いの類であることは分かった。
つまり、少なくとも『気遣いが必要な場だな』という判断の材料があった訳である。
俺は迷った。ここから最奥まで歩いて行って言い訳しに行くのも何か違うと思ったし、かといって何も言わずに見なかったことにされるのもどうにも居た堪れないと思ったから、しばらく迷った。
迷ったまま、しばらくの間突っ立っていた──ら、すっかり準備を整えたお嬢様が私室から出てきてしまった。
一瞬、不審なものを見るようにして俺の前を通ったお嬢様が、慌てた様子で振り返る。
「ちょっとヒデヒサ、熱でもあるのではなくて!?」
「いえ、ありません」
「体調が悪い時には申告するように言ったと思うのだけれど!? わたくしに隠し立ては許さなくてよ!」
「健康です」
「首まで真っ赤ではないの!!」
「健康です」
その後、俺は騒ぎ立てるお嬢様を出来る限り早急に屋敷から解き放つべく、速やかな手つきでその身体を抱え上げ、「いたって健康なので心配ありません」と断固として表明して送り出した。
なんだか喚いていたけれども、送り出しの挨拶代わりに唇を塞いだらなんとか黙った。良かった。いや、良くないかもしれない。
緩慢な動作で階段を上がると、再度扉が開いていた。
目が合ったカコリスが、少し迷ってから部屋の外へと出る。
「すまない、タイミングが悪かった」
「いや、俺の落ち度だ。廊下でするべきじゃなかった」
言ってから、『部屋の中でいちゃつきます』と宣言したようなものだな、と思って、両目が勝手に遠くの景色へとピントを合わせ始めた。
もうダメだった。何を言っても終わりなので、いっそ何も話さない方がマシだった。
再びの沈黙が落ちる。
何を返すか迷っていたらしいカコリスは、その後しばらくして、そっと天気の話題を出した。俺もそれに乗った。今日は晴れてるな。そうだな、討伐日和だと思うぜ。以上だ。
以上だった。




