第四話
「思ったのだけれど、わたくしだけが逃げるのは不公平ではなくて?」
「なんと?」
魔法学園への入学を控えたある日の昼下がり、小脇に抱えられたお嬢様は屋敷に戻るや否や、棘のある声で言い放った。
『思ったのだけれど、わたくしだけが逃げるのは不公平ではなくて?』
今しがた聞いた台詞を脳内でもう一度再生してみる。よくよく噛み砕いて理解しようとしてみたものの、五秒後に俺の口から出たのは先程と全く同じ「なんと?」であった。
自室に戻り、渋々ながらも今度は大人しく歴史書と課題を開いたお嬢様は、メイドに紅茶の用意を命じてから、憤慨した様子で羽ペンを手に取った。
「わたくしが逃げる側を強いられ続けるのはおかしいと言っているのよ!」
「私はお嬢様が逃げるから追っているだけですので、強いるも何も、逃げなければ追いかけることも致しませんが。何がご不満なのですか」
「お前も逃げる側をやるべきだとは思わなくて?」
「は? 正気か?」と出かけた口を閉じ、そのまま首を傾げて誤魔化しておく。
「思いませんね」
「思いなさいよ! よく考えればわかるはずだわ、お前も逃げるべきでしょう!?」
「……何故?」
「わたくしだけが逃げるのは不公平だからよ!」
駄目だ、全然話が分からん。同じ言語を使っているはずなのに違う星に住んでいる気分だ。確かに違う世界の出身ではあるのだが、きっと元異世界人の俺でなくともお嬢様が何を言っているのかは分からないだろう。
正確に言うなら、たぶん察しが付きはするが、『まさかそんなアホなこと言ってないよな』と選択肢から除外する筈だ。
「わたくしにばかり逃げさせるなんて無礼な真似は許し難いわ! 明日からはお前が逃げなさい!」
「……それをお嬢様が追うのですか?」
「ええ、そうよ! 無様に逃げ惑うお前を華麗に捕まえて、表彰台代わりに踏んで差し上げますわ!」
高笑いと共に宣言されてしまった。100回聞き直しても理解できなさそうな宣言だった。
俺がお嬢様を追いかけているのは、お嬢様が俺が課したトレーニングか、本来果たすべき責務から逃げ出しているからである。
前者はともかく、後者に関しては完全に逃げ出す方が悪いから追っているのだ。俺は決して、逃げ惑うお嬢様を追いかけるのが趣味の変態ではない。
しかしお嬢様はどうやら、逃げ惑う俺を追いかけるのが趣味の変態だったようである。聞いた宣言を噛み砕こうとすると、そのような結果になる。俺には逃げる理由も意味も必要も無いからだ。
「申し訳ありません、お嬢様。不勉強なもので理解が及ばないのですが、一つ質問をしても?」
「よろしくてよ」
「私は一体どのような理由で、どんな意味を持って、何の必要があって逃げなければならないのか、教えて頂けますか?」
「あら、そんなことも分からないの?」
ふん、と鼻を鳴らしたお嬢様は片眉を挑発的に上げると、なんとも高らかに、それが世界の正義であると疑いもしない声で告げた。
「この世で最も尊い聖女であるわたくしが望んでいるからよ!」
『聖女』の定義について話し合う必要があるな、と一瞬思ったが、話が通じる気がしないので素直に諦めることにした。
ついでにいえば、この世界では聖女とは『強大な光魔法を操り、国から聖なる存在として認定された女性』を指すので、まあ、お嬢様の主張も間違ってはいなかった。こんなのでも、後々国から認定を受ける予定である。
それでも一応、記録によれば歴代の聖女は皆誠実で献身的な正義感に溢れた女性であった、とされているのだが──歴史というのは都合良く作られるものでもあるので、そこの信憑性は一旦置いておこう。
そもそも、俺のような人間が人様の心根についてとやかく言っても説得力がない。お嬢様だって、性根の曲がった人間に誠実を説かれても聞く耳は持てないだろう。元から持ち合わせていない、というのは別にしても。
何にせよ面倒なので、そういう道徳は相応しい教育係に任せておこう。それが正解だ。
「全くもって理解が出来ませんが、お嬢様のお望みとあらば、専属執事たる私が叶えない訳にはいきませんね」
「ふん、珍しく聞き分けがいいじゃない。お前もようやく私の下僕としての自覚が出て来たようね?」
「ところでひとつ確認しておきたいのですが」
「何よ」
「私はお嬢様から完璧に逃げおおせてしまってよろしいのですね?」
笑みを含んだ確認に、紙面に目をやっていたお嬢様が口を開きかけ、言葉を発する前に、挑発に応えるように鋭い視線を寄越した。
『このウスノロ、わたくしに喧嘩を売っているのかしら?』の視線に、鉄壁の笑顔で答えておく。
「お嬢様が私を捕まえられるように、手を抜かずともよろしいのですね?」
「っ……、────ええ!! けっこうよ!! 必ずやはっ倒して差し上げますわ!!」
あからさまな挑発に呼応しペン先を此方に向けて邪悪な熱意に燃えるお嬢様を、ひとまず今は課題を進めるように誘導する。お嬢様は怒っている時の方が進みが良いのだ。
しかしまあ、この分なら、例の頼みは問題なく遂行できそうだな。
どうかこのまま憎たらしく、それでいて真っ直ぐに育ってくださいませ、と課題にかじりつくお嬢様の旋毛を見ながらそっと祈った。
* * *
お嬢様が奇怪な提案をしてくる一週間前。
魔法学園から合格通知が来た日に、俺は旦那様から書斎へと呼び出されていた。
当初の大見得切ってみせた勢いとは裏腹にあまり順調とは言えないダイエット計画についてお叱りを受けるのかと思っていたが、どうにもそういった空気でもない。
訝しむ俺に、旦那様は何故か外出の身支度を調えた格好で端的に告げた。
「カコリス。これより城に参る、ついてこい」
「は。私が、ですか?」
「ああ、そうだ。お前だ。お前に用があって呼び出したのだからな」
旦那様のお供は基本的には専属の侍女か、家令が務めていたように思う。しかも登城の際に俺のような立場の人間が連れられるなど、異例も良いところだった。
他の使用人に見られればまた面倒になるだろう。旦那様もそれは分かっているようで、なるべく人目に付かぬように家を出る、と言う旦那様に続いて、使用人には通らせない方の廊下を進んで外へと出る。裏庭には二頭の馬が並んでいた。
「用件は後で話す。一先ず乗れ」
お嬢様の教育の傍ら、俺にも専属執事としての指導は施されている。
騎士団長である旦那様と同じ速度で走れ、と言われるとやや困るが、ペースは合わせてくれているようだったので、一先ず無事に王城の門前まで辿り着くことが出来た。
馬を置き、旦那様に導かれるままに王城へと入る。公爵家の三階から覗けば遠くに見える、そんな程度の認識の城だったが、近くで見ると相応に立派な代物だった。やはりガチの城は違うな。
顔を見せ、身分を確かめてから通された旦那様は、案内を断ると迷いの無い足取りで城内を進み始めた。
しかし、此処まで来ても『用件』とやらに触れられないのが妙に居心地が悪い。
まさかとは思うが、俺(カコリス)の中身が異世界人であるとバレたのだろうか? 幾度か魔法検査は受けているが、そこで何か異変でも見つかったとか?
突拍子もない予想ではあったが、なくはない話だった。バレたところで俺は俺として生きるほかないし、なんなら別に死んだって(前世ではもう死んでいるのだし)構わないのだが、投獄や幽閉となるとちょっと困るな、とは思った。
最近、お気に入りの串焼き屋を見つけたのだ。旦那さんが凄腕の冒険者だとかで、普通は仕留められないような美味い魔物の肉が香ばしい串焼きとして出されている。
焼き加減がまた絶妙で、肉の端を貰って自分で焼いた時とは明らかに味が違った。あの串焼きが食べられなくなるのは非常に辛い。
流石に引っ捕らえられるなら事前に少しはなんかあるだろ、とは思うが、不安というのは自分でも思いも寄らない方向に思考を引っ張るものである。
どうか厄介な用件ではありませんように、と祈りつつ足を進める俺の視線の先で、旦那様は王城の廊下を明かりの少ない方へと進み、『第三資料室』と書かれた部屋の前で立ち止まると、やや声量を落とした声で扉の向こうへと告げた。
「ルーヴァン・ロレリッタ。命により参上致しました。入室の許可を」
答えが返ってくる代わりに、扉が細く開く。その間から身体を滑り込ませるように入室した旦那様は、俺が後に続いて部屋に入るのと同時に、音を立てないように扉を閉めた。
こんな風にして会う必要がある人物とは? 疑問の答えは、すぐに眼に映った。
王様である。肩まで伸ばした金髪と豊かな髭。年の頃は旦那様より少し上と言ったところか。
とにかく、ウルベルトシュで最も大きな国とされる我がパージリディアの国王陛下が、埃っぽい資料の山が積まれた部屋の中で、なんともラフな格好で椅子に腰掛けていた。
「よい。楽にせよ」
認識した瞬間、片膝をつこうとした俺を、王が片手で制す。リュナン・パウル・パージリディア国王陛下は、俺が旦那様の顔を横目に確認したのを見て取ると、髭を撫でながら小さく笑った。
「ルヴァ、御主、この者に何も言わず連れて来おったのか?」
「ええ。何も言わずに連れて参りました」
「それで此れか。噂通り、中々肝の据わった男のようだな」
「私としては、もう少し狼狽えると思ったのですがね」
どうやら何ひとつ説明がなかったのはわざとだったらしい。なんでだ。そんな嫌がらせをされるような謂れは……あったわ。あったあった。ものすごくあった。
先日も喚きながら廊下を走って逃げるお嬢様を旦那様の目の前で、土魔法の蔦で作った縄で捕獲したばかりである。
「貴様まさか、いつもアレで捕まえているのか?」と完全に仕事モードの真剣な顔で聞かれてしまった。いつもはもっとすごいので捕まえています、というと怒られるだろうな、と思ったので「たまにです。勿論当家の女神、至高の宝玉たるお嬢様には怪我一つ負わせておりません」とだけ言っておいた。
返ってきたのは溜息だったと記憶している。
あの有様を溜息で許されているのだから、少しの嫌がらせくらいされても当然である。王様との親しげな様子を見るに、旦那様の従者であれば多少動揺して無礼を働いてもよい、と思われていたのだろう。
二人の関係を推し量るには、俺の扱いは丁度良い指標のようなものだった。それはそれとして、めちゃくちゃ冷や汗はかいたし、今はものすごくほっとしていた。
何せ、謁見である。前世も今も一介の平民に過ぎない俺が、生きている内に王様と顔を合わせる日が来るなんて思いもしなかったのだ。あるとしても聖女パーティとして挨拶する時かな、くらいに思っていた。完全に不意打ちである。
「さて、カコリス。御主には話しておかねばならんことが三つある。まあ、まずは座り給え」
「失礼致します」
資料室には、内装と同じく古ぼけた丸テーブルがひとつ置いてある。そこには三つの椅子が、丁度三角の頂点を結ぶような配置でおいてあった。
旦那様が先に腰を下ろし、続いて俺も席に着く。
「時間も無いから早々に本題に入ろう。茶も出さずにすまぬな」
「いえ、とんでも御座いません」
王様にそんなことを謝られても恐れ多いだけだ。笑い混じりだったので冗談だったのかもしれない。
だが、神妙な顔つきに変わった王が続けて説明したのは、明らかに冗談とは言えない内容だった。
まずひとつ。聖女の魔力には周囲と本人への『依存性』と『快楽/多幸感を呼び起こす作用がある』ということだ。
聞いた瞬間に不味いと思ったが、流石に国王陛下の話を遮る勇気は俺にもなかった。いや、それでも、待って欲しいとは思った。
だってこれ、明らかに俺みたいな下っ端執事が聞いていい話じゃないだろ。
聖なる乙女として認定され、顕現する魔王を倒す存在。そんな人間の魔力が、他者に麻薬のような効果を生み出す、って……いやいや。明らかに機密事項だ。
これを最初に持ってくる時点で、どう足掻いても戻れない位置まで足を突っ込まされてしまった。マジか。
そしてふたつ。俺──というよりカコリスの魔力には『光魔法の効果を増幅する』性質があるらしい。
これは、旦那様が貧民街にいた俺を拾おうと決めた理由でもあるようだ。魔力形質を感知できる者に頼んで、お嬢様の立場を更に強固にするために選ばれたのだという。
光魔法の使い手は確かに希少であるとはいえ、お嬢様ただ一人ではないし、この先お嬢様よりも優れた使い手が現れる可能性だってあった。その時に、増幅装置としてカコリスを側に置いておけば、他の者より有利な立場になれる、と考えたのだろう。
勿論、魔王に対抗する力を強める意図もある筈だ。というか、本来はそれがメインの筈だ。
恐らく、前回の世界でカコリスが屋敷に連れ去られた理由がこれだ。相変わらずカコリスを物扱いしていて腹が立つな。帰りに嫌味くらいは言っても許されるだろうか。
最後にみっつ。俺の魔力にはその『光魔法』の依存性と多幸感を打ち消す精神作用が含まれている、らしい。
二番目と矛盾していないか?と思った。魔力を増幅する存在として選ばれたのに、『打ち消す』とは?
怪訝な表情を隠しきれずにいる俺に、王様は少しだけ困ったような笑みを浮かべながら続けた。
「これは魔力性質とは少し違うやもしれんが、確かに、御主にはある特定条件下において、光魔法の依存性を打ち消す効果があると判明しておる。ルヴァが何よりの証人と言えるな」
「旦那様が?」
思わず隣を見やった俺に、旦那様は眉を寄せたまま唇の端だけを持ち上げてみせた。
「今し方陛下が仰った通り、光魔法には周囲へ多幸感や快楽を与える性質がある。光魔法は使い手の気分に大きく左右される故、使えば使うほど心地よくなり、気分を高揚させて威力を高める機構になっているのだろう。
魔王を倒す唯一の存在である光魔法の使い手を保護させるための構造でもあるのでは、とも推測されていたな。
そして、これらの性質の効果は光魔法の威力と同じく、使い手の気分に大きく左右される。幼年期の使い手は自分が心地よくいる為に、無意識にも周囲に働きかけ、依存性と多幸感で他者を操ろうとする節があるのだ」
「………………」
「察しているのだろう? その通り、我が娘も、意識していないままにそれを行っていた。私も妻も、あの子の望むものは全て叶えてやりたいと願っていた。
勿論、今も願っているが、それは以前のような隷属に似た感情ではない。お前が我が家で怒りを露わにした日から、そうではなくなった」
「………………」
どことなく、この話の行く先が見えてきたが、俺は黙って聞くことにした。
もしかしたらそうではないかもしれない、という一縷の望みにかけたとも言う。どうか、『俺がお嬢様を罵倒している時だけは依存性が薄れる』とかいう話ではありませんように、と祈っ、
「カコリス。お前には光の魔法使いを窘める際に周囲と本人への依存性を打ち消す力がある」
とかいう話であった。
とかいう話以外の何物でもなかった。
一先ず埃まみれの天井に視線を向け、どうか聞かなかったことにならないだろうか?と神に祈り始めた。
こんな世界を司る女神ではなく、俺の故郷の神様に祈り始めた。八百万もいるんだからなんとかしてくれ、と思った。多分届かなかった。
「この先を察しているようだが、明言しておこう」
「いえ、結構です」
「当主の言葉を拒否するな」
「恐れながら申し上げます旦那様。私はお嬢様に至らない点があるからこそ日々苦言を申し上げている訳でして、決してお嬢様を罵倒することに愉悦や快楽を見出す変質者でないのです。
この先素晴らしい聖女となるであろうお嬢様が日々生活を改善していく様まで罵倒を浴びせろと言われてしまえば、流石に私もご期待に添うことは出来ません」
「……カコリス、お前は私がこの話をリーザローズには一切していない理由が分からないのか?」
「お嬢様がこれを知れば『この世はわたくしの意のままですわ!』と増長に増長を重ね国家転覆レベルで周囲を依存させ支配者として君臨し魔王よりも魔王らしい聖女になろうとするため黙っていらっしゃることは理解しております、お嬢様の性根がそのレベルで曲がりきっていらっしゃる為に恐らくこの先もろくでもないままである確信もございます、が」
「そこまで理解しているのならこの先も理解して受け入れろ」
「嫌です。この先一生高飛車ボンレスハムの世話をしろ、などと」
「人の娘をボンレスハム呼ばわりするな」
「褒め言葉でございます」
「何処がだ」
「ご存じないのですか、とても美味しいのですよ、ボンレスハムは」
「味が評価されているものを体型の比喩に使うな」
全くもって仰るとおりだったのでしれっとした顔で目を逸らした俺に、旦那様は呆れの滲む溜息を零し、額に手を当て、更には頭を抱えてから、「こんなのに頼らざるを得ない俺の身にもなれ……」と零した。
鬼の騎士団長様にしては情けない弱気な声音である。奥方様と喧嘩をした時には割とよく聞く。般若と化した奥方様は、それはそれは、恐ろしいのである。
「はっは、ルヴァ、御主も苦労しておるようだな」
「……御前で大変失礼を致しました。必ずや協力させます、我が国の、いえ、世界の平和の為に」
「それはそうだな。協力して貰わねば困る。どうだ、カコリス? 私の為とは言わん、世界の為に協力してくれぬか?」
「陛下が仰るのであれば」
「ふふ、構わんぞ。忌憚なく意見を申せ」
「……陛下のお言葉に逆らうなど、滅相も御座いません」
澄ました顔で答えれば、陛下からは喉を鳴らすような笑い声が返ってきた。なんだか面白がられている気がする。
国王陛下といっても普通の人間なんだな。それもそうか。みんな、女神の意図で生まれてきたにしても、この世界では必死に生きるただの人間だもんな。
「御主のその性質が、どのような理由で生じたものかは見当も付かない。何せ、我が国の魔法史でも見たことのない性質だ。いずれはその能力を応用し、光魔法の使い手が健全に生きられるような技術を生み出せれば……とも考えているが、今はまだその時ではないな。ルヴァ、各地での魔王顕現の前兆はどうだ?」
「小規模ながら継続して被害が出ております。魔導師団の予測によれば、五年以内には本体が此方に顕現するかと」
「うむ。先ずは何よりも、顕現の兆候を見せる魔王を倒し、世界に安寧を齎さなければなるまい。その為には聖女が必要であるが、その聖女が原因で国内の秩序が崩壊してはならん」
頷いた陛下は、その優しくも威厳のある瞳で真っ直ぐに俺を見つめる。
「故に、カコリス。御主には私の権限でもって、リーザローズ嬢に対する暴言を許可する」
なんてこったい、と叫びたかった。が、なんとか堪えた。
お嬢様への罵倒に、王様直々の許可を得てしまった。
嘘だろ、と思ったが顔が真剣そのものだったので嘘ではなかった。
「魔法学園理事長にも話は通しておく。光魔法の依存性については未だ魔法学園最高責任者と王族、そして例外的にルヴァしか知らぬ。くれぐれも口外せぬように」
「承知致しました」
「後ほど、許可の証として王家の印が入った勲章を渡す。これは御主のみがリーザローズ嬢への過度な進言が許されている、という証になる」
勲章まで貰ってしまうのか。お嬢様へ暴言を吐くためだけに。
一瞬気が遠くなり欠けたが、確かに必要だとも言えた。貴族社会は階級によって秩序を保っている。貧民街出身の俺がお嬢様に暴言を吐くことにより、公爵家そのものを侮るような風潮になるのはよくない。
リーザローズ・ロレリッタ公爵令嬢に暴言を吐けるのは、あくまでも国王陛下から直々に許可を賜った人間だからこそ、という理由が必要になってくるのだ。なんだその理由は、と突っ込みたくなるが、まあ、とにかく必要になるのだ。……なるのか? いや、なる。うん。なる。筈だ。
「加えて、トレヲワイス侯爵家の養子となることで身分も保障する。国内でも最古の歴史を持つ家系として代々王家の信頼も厚いトレヲワイス家だ、ロレリッタ家の令嬢に進言する執事としては申し分ない身元だろう」
「僭越ながら発言の許可を頂けますでしょうか、国王陛下」
「申せ」
「私個人にあまりにも分不相応な肩書きや立場を持たせることで別の軋轢が生じるのでは、と愚考致します」
「ふむ、これらの配慮では足りぬ、と?」
細められた碧眼には、『与えられた身分と権力を使って自分で上手く立ち回れ』という無言の命が滲んでいた。背を正しつつ、そっと息を吐く。確かにそれは当然だ。国王陛下に此処までしてもらって、更なる要求を通そうとするなど正気ではない。
だが、俺はこの先正気では耐え難いだろう状況に放り込まれるのだ。正気なんぞ犬にでも喰わせろ、である。
「いえ。寧ろ、身分の方は必要ありません。私の言動により問題が起こった際に、トレヲワイス家まで巻き込めば上位貴族間の混乱は更に深まるでしょう」
「要らぬと? 勲章のみとなれば、私がそれを取り上げれば御主の身を保証するものは何一つなくなるのだぞ」
「それで構いません。陛下がいざという時に私を容易く切り捨てられる立場にあった方が面倒事は少なくなるでしょう」
「我々の間には信頼は未だ無い。身分の保障を持ってその足掛かりと成したいのだがな」
「陛下の憂慮は当然でございます。貧民街の出である私には勿体ないほどの待遇であることも理解しております」
貴族社会に組み込むことで御しやすくしたい、という思惑も分かっているし、陛下は俺が『分かっている』ことも当然察しているだろう。
だが俺がそれを口にするのは不敬もいいところだし、信頼を築きたいという陛下にとっても深く触れたい部分ではない筈だ。
「ですが陛下。私はこれまで、私の責任と覚悟でもってお嬢様に暴言を吐いて参りました。聖女として敬われる立場になったお嬢様に首を刎ねられても構わぬ、とあのボンレスハムをデブの豚呼ばわりし、中庭を走らせ、心ない言葉を浴びせ、泣いて喚いても追い回し、捕獲して机へと運ぶ日々を送っております」
「…………ルヴァ」
「……どうか仰らないで下さいませ、陛下」
『お前の娘はどういう淑女教育を受けておるのだ』の視線に『普通の教育を施しても何故か窓から脱走するのです』の視線が答えるのを横目に見つつ、俺は陛下への提案を口にした。
「そして、それはこれからも変わらないままでいたいのです。私の身分を保障する立場は要りません。私は何も失うものが無いからこそ、心のままにお嬢様に暴言を吐けるのです。ですから陛下、一つ提案を。どうか、私に脅されては頂けませんか?」
「ふむ、脅しとな」
「心優しい国王陛下は極悪非道の執事に弱みを握られ、脅されているのです。故に勲章による特権階級を与えております。勿論、陛下の威厳に関わることですから、魔王を倒した暁には見事極悪執事の魔の手を振り払い、勲章を取り上げ聖女の小間使いとしてやりましょう。
学園内でどのような問題が起きて私への嫉妬や反発が起ころうとも、最終的には極悪執事は無様に聖女様の靴を舐めて暮らすこととなるのです。その惨めな姿を見れば上位貴族も少しは溜飲が下がるかと。勿論、適度に暴言は吐きましょう。国家支配に失敗した極悪執事が負け惜しみで暴言を吐く訳です」
「………………それでは御主の名誉が地に落ちるぞ」
「元より地から上がったことはない名誉です、何一つ痛手ではございません。申し訳ありませんが、この条件以外ではこの話を受けることは出来ません」
「先程は私に逆らうなど滅相もない、と言っておったように思うが?」
「時と場合によるのです。大変恐縮で御座いますが、陛下、私に脅されて頂けませんか?」
陛下からはなんとも言えない笑みが返ってきた。目を閉じ、軽く眉を寄せた陛下は、口元に手を当てて笑いを零すと、堪えきれないというようにしばらく笑い続けた。
このまま笑い終えると同時に『首を刎ねよ』とか言われたらどうしようか、と思いつつ、頭を抱える旦那様の隣で陛下の答えを待つ。
はあ、と未だ笑いの残る吐息を零した陛下は、軽く肩を竦めると許容の滲む声で呟いた。
「よかろう。今の所は御主の望み通りに振る舞うと約束しよう」
「リュナン、いいのか」
「懐かしいな、お前に名前を呼ばれるとは」
「こいつ、本気だぞ?」
「本気だからだとも。面白い拾い物をしたな、ルヴァ?」
溜息を吐きながら髪を掻き回す旦那様を見やった陛下は、唇の片端を持ち上げ、悪戯めいた顔で笑った。威厳に満ちた顔立ちに、微かに快活な少年のような面影が見える。
幼少期の逸話によれば、陛下は『世界樹』と呼ばれる国内で最も高い巨木に上って臣下を騒がせたこともあるお人だ。こうした、悪ふざけ染みた提案もお嫌いではないのだろう。案と呼ぶにはあまりにも支離滅裂でとんでもない理屈だが、まあ、そこは俺がごり押しで頑張ろう。
「来週には公爵家に勲章を届けさせる。何せ脅されているからな、使者でも寄越そうか?」
「いえ、それでは正規の方法で手に入れたようにも思えますので。入学時にそれとなく噂になるくらいが信憑性が増すでしょう」
公的に発表されることもなく勲章を付けた男がいる方が、手出しをしたら不味い感が出るような気がする。ついでに言えばお嬢様はどうせ大騒ぎするだろうから、大騒ぎのタイミングは入学後の方がまだ面倒でなくて済む。
全く、厄介な学園生活になりそうである。
先を思って軽く吐き出した俺の溜息と、それはそれは深く重い旦那様の溜息が、第三資料室内に同時に響いた。




