おまけ 第1話
「そういえば貴様、どうやら上位貴族の中では大分評判が悪いらしいな」
「それはまあ、良い印象を抱かれるような要素が皆無ですからね」
とある夜。王都の酒場にて。俺とアザンはあまり人目につかない奥の席に向かい合って座っていた。
店主の勧めだという新作の果実酒を味わいつつ、定番の人気メニューを幾つかテーブルに並べてある。アザンは案外辛いものが好きなのだと知ったのは二度目の飲みの時だったろうか。
あの目出度くも惨憺たる結婚式から、早いもので三ヶ月が経っていた。
魔王は倒され、世界には平和が訪れたが、同時に人類は『共通の敵を失った』とも言える。となると、これまでは家族や自分、領民の命を考えて素直に従っていた者たちにも、この先を見据えた欲が出てくるわけで。
今まで比較的静かだった貴族社会の重鎮たちがあれやこれやと口を出すようになるのも、まあ当然の話だと言えた。
何せ俺が持ち合わせているものと言えば、陛下から頂いた勲章と旦那様から次期当主として指名されているという事実、そして魔王討伐後に与えられた公爵家に入るに相応しい家格の貴族籍。最後に、爵位を得た際に立ち上げた新たな食品事業くらいのものである。
貧民出身の個人が持つにはかなりの功績だと言えるが、歴史ある貴族から認められるにはまだまだ足りない。そんな微妙な立ち位置にいるのが現状だ。
『公爵家の婿』でも『聖女パーティのおまけ要員』でも『聖女リーザローズの専属執事』でもなく、『次期当主としてのカコリス・ロレリッタ』が認められるにはまだまだ時間がかかるだろう。
別に、それは当初から分かっていたことなので問題はない。むしろ思惑が渦巻きまくっていたおかげで婚姻には何ら支障はなかったことが有り難かったくらいだ。
聖女として功績を上げたお嬢様の夫が俺になることによって、ロレリッタ家に過剰に権力が集中せずに済むことを望む家の方が多かったのである。
元来実力主義者の騎士である旦那様は納得の上で俺を公爵家に迎え入れると決めたようだし、奥様は孫──つまりは俺とお嬢様の子供が王族と繋がりを持てれば良い、という方向に目標を切り替えたようだった。
「付き合いが増えれば増えるほど反りの合わない人間というのは増えていくものですし。皆様、己の利になることさえ分かれば寛容な方々ばかりですから、実力と得を示して上手く付き合っていくしかないでしょうね。幸いにも、任せていただいた事業も大きな問題は起こっておりませんし」
「ふん、頭の凝り固まった貴族にその柔軟性があるかは怪しいものだがな」
「大丈夫でしょう、凝り固まった貴族代表のアザン様も今はこうして私と酒を酌み交わしてくれるようにもなりましたし」
「誰が代表だ! 僕なんかよりよっぽど厄介な人間は多く居るぞ!」
ツッコミどころはそこなのだろうか。
厄介人間代表の扱いをされるのは断固拒否したいらしいアザンは不満をそのままに勢いよく吐き捨てると、やや大袈裟に鼻を鳴らした。
「それに、僕が貴様のような男と酒を飲んでやってるのは……その、友人を持たない貴様があまりにも哀れだったからだ! 同情であって親愛ではない! 誤解するなよ!」
「おや、どうやら少しは親しくなれていたと思っていたのは私だけだったようですね。残念です」
「どっ……ざ……、ベっ、別に親しくしてやらないとは言ってないだろう!!」
最近分かったのだが、アザンは直球で押してやった方が扱いやすい。
ついでに言うと、こいつもまた同年代の友人が少ないタイプなので、たとえ俺が相手だろうと関わりが持てること自体は嬉しいようだった。
寂しいやつだな。まあ、俺も人のことは言えないが。
ここ二ヶ月ほど忙しくて連絡を取れていないカコリスのことを思い浮かべながら、グラスに口をつける。
音桃の実から作られたらしいこの果実酒は、炭酸で割って飲むのが特に美味い。これならお嬢様も好きそうな味なので、土産に一本買っていくのも良いかもしれない。
「貧民街出身の貴様には公爵家由来ではない人脈が必要だろうからな。必要なら僕が口利きしてやってもいい。僕は貴様と違って心優しく寛大だからな」
「すみません、よく聞こえなかったのでもう一度言って頂けますか? 心やさ……? かん……? なんですって?」
「心優しく寛大で器の大きいこの僕が、貴様のような無礼な人間をわざわざ助けてやろうと言っているんだ! 感謝するがいい!」
堂々と言い放つアザンの顔には、微塵も迷いのない自信が満ちていた。
「その言葉、パーティメンバーの前でも言ってみては? 苦笑いされるかと思いますが」
「…………………そん、そんなことは」
「あるでしょうに」
アーサーと飲みに行った際、それとなく最初の頃の愚痴を聞かされたことがある。
『この先どんな部下ができたとしても、会った頃のアザンよりはマシ』だそうだ。いやはや、苦労人だな、我がパーティのリーダー様は。
記憶を辿りつつ断言すると、心当たりがあったらしいアザンはやや気まずそうに目を逸らした。あの時の僕は……その、今より視野が狭くて……などと呟いているのを聞きながら小さく笑い返す。まあ、自覚ができている時点で出会った当初よりは大分マシである。
確固たる自信とある種の傲慢さは、もはや直らない性根だろう。別に無理に謙虚な人間になれなどとは言わない。
自信があるのはいいことだ。あとはその自信の向かう先と態度がどう出るか、という話だけである。そんなことを考えているとふと、頭の片隅に蝉の如く木にへばりついていた少女の姿が浮かんだ。
似ている、と思った印象が強いからだろうか。
アザンと話すと、幼少期のお嬢様を思い出すことが多い。もしこの二人が小さい頃に出会っていたら、さぞ厄介なクソガキになってしまったことだろう。
「おい、何を笑ってるんだ」
「いえ別に。ただの思い出し笑いですよ」
なんだかんだ、こういう人間に付き合うのは嫌いじゃないんだよなあ、なんて思いながら炭酸割りのおかわりを頼む。飲みやすくて非常に美味しい。流石はおすすめなだけある。
前世で楽しんだ記憶の中で一番好きなのは日本酒だったのだが、こちらでは製造法も材料も確立されていないので似たようなものすら存在しないのだ。ちょっと寂しい。俺は日本酒の作り方なんて知らないので、そもそも生み出しようもないしな。
女神に頼んだらなんとかなんのかね。『美味しい日本食を作れる人間』を生み出してもらったりさ。それとも、もうループしない世界では今までのように力を振るうこともできなくなってしまうのだろうか。
異世界から人を呼ぶ、というのはラピスではなく眠っていたミアスの力のようだったし。ミアスが消えてしまった以上、転生者という存在は生まれないのかもしれない。
今度神殿に行くときにお嬢様に聞いてもらうか。
酒が回り出したのかぼんやりとし始めた思考で取り留めもないことを考える内、緩んだ口元から呟きが落ちた。
「本当に、此処に来て良かったですよ。苦労は色々あるけど、やりがいもありますからね」
「……ふん、貴様は貧民街でも憎たらしい程に活躍していたと聞いているが? わざわざ貴族社会に混ざらなくたって上手くやれたんじゃないか」
俺としては『ウルベルトシュ』に、というつもりで口にしていたのだが、事情を知らないアザンからは出自のことだと受け止められたようだった。
訂正するようなことでもないので、そのままのんびりと会話を繋げる。
「彼処も別に悪くはないですがね。ボスも疫病対策として環境改善には乗り気でしたし、案外美味いもんも食わせてもらいましたし、実力主義が行き過ぎていて共助関係が薄かったのが問題といえば問題でしたが……というかそもそもあの場自体がある意味では『貴族社会』の端でもあるというか……」
パージリディアは肥沃な土地を持ち、民にも環境にも恵まれ、交易にも便利な不凍港すらある大国だ。魔王顕現の脅威はあれど、十分すぎるほどに満ち足りているこの国で、目につくところに貧民街があることそのものがおかしいと言えばおかしい。
歴代の王が放置し続けた結果手のつけようがないほどに悪化してしまったのだ、とも言われていたが、ボスは少し違った観点で貧民街を見ていた。
此処は貴族と平民、両方の為に放置されているのだ、と。
例えば貴族の庶子の処分に使えるように。あるいは平民の立場への不満を解消させるために。あれよりはマシだ、と思えるように。『隔離された無法地帯』は、あらゆる存在にとってあまりにも都合がいい。
王様ってのは綺麗事だけじゃ務まらねえからな、とボスは笑っていた。
『俺ァ陛下にだけは逆らわねえと決めてんのよ。顔を合わせたことはなくても、いつだって顔色伺ってやってるわけ。だから違法な薬草も扱わねえしデケェ人身売買もしねえ、国を乱すような真似したらすーぐに目ぇつけられっからな。お綺麗な小悪党やって寿命を全うするのが俺様の目標よ。
此処がなんのためにあるかなんてちょっと考えりゃすぐに分かる。ま、親父はそこんとこ分かんねえである日知らんうちに首と胴体がオサラバしちまったけどな。全く、アホだよなあ。
リシィ、お前さんも若ぇ奴らが厄介なこと考え出したらすぐに俺様に教えな。そいつら全部鎧豚の餌にして、今日もゴキゲンな街を維持してやんねえとなんねえからな』
粉々に砕いた頭蓋骨を強酸性の土に混ぜながら、ボスはあくまでも呑気な声で言っていた。
いついかなる時も極めて呑気に聞こえるように台詞を吐くところが、あの人の怖いところで、そして少しだけ良いところでもあった。俺は恫喝で人を使おうとする人間があまり好きではない。
この通り、ボスは全くもって『良い人』なんかではなかったのだが、それでも悪党の中ではマシな方だと言えた。
俺が特に食事にありつけないことの多い子供達の飢餓問題をどうにかしようとした時も、『確かになあ、子供ってのは立派な労働力だもんなあ』とニコニコしながら乗り気で受け入れていた。恐らく、環境改善なんて議題は頭の自分が言い出すと下手すれば舐められるので、とっ捕まえてきた『優秀な右腕』が言い出すのを待っていたのだろう。
……まあ、そういう人である。
王都の外れに位置する貧民街は、外からは寂れ切っている廃屋が立ち並ぶようにしか見えないが、実態はひとつの小国に近い。
ボスが組織立った動きが目立ちそうになるたびに上手いこと調整しているからまだ良いが、なんかの拍子に頭がすげ変わった時には大なり小なり問題が起こるだろう。それこそ現在内部対立している組が結託して反乱でも起これば、間違いなく厄介なことになる。
陛下が福祉関係に力を入れようとしているのは、貧民街の行先を懸念して、というのもあるかもしれない。少なくとも、俺を貴族社会に入れることの是非については、貧民街対応策の一つ、としていたのは知っている。
「…………ま、何処に行っても面倒ごとがあるのは変わらないよな」
考えれば考えるほど俺には荷が重いことばかりなのだが、これを乗り越えない限りは愛する人と添い遂げられないというのだから、出来る限りは頑張って捌いていく次第だ。
なんたって、相手は国内でも有数の公爵家の御令嬢にして、救世の聖女様である。そんで暴れ猪である。並大抵の覚悟では伴侶など務まらないのだ。
半笑いのままそんなようなことを呟いた俺に、アザンは更に盛り付けられたフリッターを摘みながら少し呆れたように鼻を鳴らした。
「努力は当然必要だろう、貴様には勿体無いほどのお方だぞ。あんなにも美しく活力に満ちていて、尚且つ真っ直ぐで心根の清らかな方はおるまい!」
「……勿体無いのは確かだが、別に心根は清らかではないぞ」
「貴様、己の妻を侮辱するつもりか!? 紳士の風上にも置けないやつめ!」
「清らかじゃないけど優しいからいいんだよ。名誉欲や自己顕示欲を満たすにしても正当な方法を使ってるなら俺は文句はない。でもたまに正当じゃないからダメだ」
「なんだと、リーザローズ様の何処が正当ではないと言うつもりだ」
「最近、公爵家の権力を使ってギルドの依頼を独り占めしかけてたからやめさせた」
「………………………それは、その…………まあ、ダメ、だな」
「ダメだろ」
「………………しかし、そ、そうだな、意欲がある、とも言える」
「でもダメだろ」
「………………ダメだな」
擁護の方法が見つからなかったらしいアザンは、逃げるように麦酒のグラスに口をつけた。
「やる気があるのは良いよ、お嬢様のおかげで難度の高い魔物討伐もこなせて助かってるとも聞くしな。けど、それで今まで地道に頑張っていたギルド所属の冒険者が割を食うのは良くない。
力がある奴ってのは普通の奴より更に領分を弁えないとならないんだからさ、稀有な能力を持っていて尚且つ後から参入したんなら、気は遣いすぎるくらいで丁度いいよ。まあ、これは俺にも言えることだけど」
光魔法使いの冒険者としてギルド所属で活躍し始めたお嬢様も、新たな事業と共に貴族社会に本格的に関わり始めた俺も、気をつけるべき点は大体同じだ。
出る杭は打たれる。それは世界を救った聖女様でも変わらないのである。むしろ、世界が救われたからこそ、そういう柵が増すことすらある。
幸せに、健やかに暮らしたいと願うなら、やはり周りとの調和は大事だ。当初の俺はガンガンに死ぬつもりなのでその辺りの調整を一切して居なかった訳だが、今はそうはいかない。生きるのって難しいよな、ほんと。
上位貴族であり才ある魔術師としても過ごしてきたアザンにも、その辺りの機微は伝わりやすいらしい。何かを思い起こすように目を閉じていたアザンは、同意を示して何度か軽く頷いてみせた。
「ああ、それは確かにそうだな。結果を出さずにいても見限られるが、あまり急激に出し過ぎても反感を買う。その調整は重要だと、僕も思うよ」
「それが死ぬほど難しいんだよな……水戸黄門みたいに全員印籠でひれ伏せられたら楽だろうけど、流石にこの立場でやったら最悪すぎるからな……」
「みと……インロー? なんだ、新しい魔法か何かか?」
「なんでもない。こっちの話」
「…………貴様さてはかなり酔ってるな? もういい、水にしろ、そのグラスを寄越せ」
その通り。俺は結構酔っている。ようだ。多分な。
前にも思ったが、今の俺は割と酒に弱い方である。飲んだせいでぶっ倒れたりはしないが、普段ブレーキをかけているような部分が一切働かなくなるので、いつもなら誤魔化して黙っていることが簡単に溢れ出るのだ。
商談の場で酒を飲まねばならない時にはどうしようか、と不安になるので、たびたびこうしてアザンやアーサーと酒に慣れる練習をしている。残念ながらあまり成果は上がっていない。最悪の場合は光魔法の酩酊除去に頼る予定である。本人の治癒力に依存するので、あまり効果がある気はしないが。
ちなみにお嬢様と一緒に酒を飲むと酔いが回るのが倍は早いのでちっとも練習にはならない。お嬢様がなんだかやたら楽しそうになるだけで成果は一欠片もない。まあ、楽しそうだからいいと思う。ほんとか? 本当にそうか? どうかな。
「おい、カコリス。寝るな。水を飲め」
「寝てないが?」
「なら目を開けろ」
「開いてる」
「開いてないんだよ。いいから水を飲め」
「面倒見のいいアザン、不気味だな……」
「やかましい。いい加減にしないと水をぶっかけるぞ」
以前なら本当にぶっかけられたかもしれないが、今のアザンはどうやらそういうつもりは一切ないようだった。むしろ本当に心配そうに水を差し出してくるので、なんだか面白くなりつつグラスを受け取る。
対面に座るアザンはすっかり酔いが覚めた様子で不気味なモンスターでも見るような目を向けてきていた。おう、面倒見させて悪いな。
「全く、聖女様もこんな奴の何処がいいのやら……」
「態度は悪いけど認めるべきところは認めてくれるところらしいですよ」
「……そ、そうか」
「あと人に物を教えるのが上手いところだそうです」
「カコリス、ちょっと待て」
「結構態度に出やすいところとか、手先が器用なところも好きなんですって」
「待て。いいから。水を飲め」
「あとお嬢様の料理を食べる時の顔だそうですよ」
「水を飲むんだ、早くしろ」
なぜか凄まじく急かされて水を飲むことになった。気づいた時にはグラスが追加されていた。一杯分の水を飲んでから、過ぎた酔いを堪えるように目を閉じる。自分でも眉間に皺が寄っているのが分かった。
五分後。のろのろと目を開いた俺の対面で、アザンは心底呆れた顔で会計を済ませていた。前回は俺が払ったから、今回はアザンが払うつもりだったのだろう。
あと、アザンは奢り奢られでないと約束がしづらいようだった。貴様に奢られてばかりでは気分が悪いからな!などと言いながら嬉々として誘ってくるし、美味い店を調べては、次は貴様のおすすめを披露しろ!などと声をかけてくる。そうなると俺も『俺の方が美味い店を知っているが?』となるわけで。
まあ要するに、俺とアザンは割といい飲み友達となりつつあるということだ。
「全く、この程度の酒で酔っ払うなんて情けない男だな、貴様は」
「体質は変えようがありませんからね。アルハラは良くありませんよ、まあこの世界にハラスメントの概念はないようなものですけども」
「……また訳の分からん言葉を使ってるな」
辻馬車を目当てにしばし歩く。もうすっかり夜も更けていて、街灯がぽつぽつと夜道を照らしていた。雲もほとんどないため、月明かりもあってかなり明るい。
「もう困ったら最悪の場合はアザンを持参していくか……」
「持っていくな。人をポーションみたいに扱うんじゃない」
「あるいは飲んだ酒を転移させる魔法を開発してもらうかだな」
「ウィステンバック所長にか?」
「正式に依頼をかければ近い内に叶うかと」
「転移魔法だぞ、そう簡単にいくか」
「それがいくのですよ、恐らくね」
ルナ嬢は魔法開発に関しては正真正銘、本物の天才である。押さえつけられていたこれまでを取り戻すように研究に没頭する彼女は、既存の魔法を組み合わせることで更に生活を豊かにする魔法を生み出すことに長けているようだった。
あまりにも寝食を忘れて熱中しているので、リィラルは度々攫うようにしてルナ嬢を寝室に運んでいるらしい。
一時期は抱えるたびに軽くなっている気がして不安でたまらなかった、とはリィラルの言だ。何せ、太らせるための料理について聞かれたほどである。
お嬢様が「もう一度言ってくださる?」と怖いくらいの笑顔で言い放ったので、「……栄養価の高い食事をご教示頂ければ有難い」と言い直されたのは記憶に新しい。
確信を持って呟いた俺に、アザンが素直に「それは……すごいな」と溢す。
ルナ嬢は正式に研究員として認められ、所長としても役職を持つようになっているが、未だに彼女の業績に懐疑的な者は多い。アザンも、直接深くやり取りしたことはないので、今一つルナ嬢の実力がピンと来ていないのだろう。
「まあ、それは最終手段としておきましょう。医療現場を補助する魔法の方が優先でしょうし」
私欲を優先するのはよろしくない。話を通すにしても、『飲んだ酒を転移させる』という効能が別に何らかの利便性を持ち、社会貢献に役立つ面を持つ魔法になることを証明してからになるだろう。
酒、味は好きなんだがなあ。体質ばかりはどうにもならんな。残念な話だ。
アザンに別れを告げた俺は、馬車に乗り込みつつそっと溜息を落とした。
◇ ◆ ◇
「おはよう、ヒデヒサ。お前に怪しい手紙が届いているのだけれど、差出人に心当たりはある?」
翌朝。身支度を整えて朝食の場に赴くと、出陣の準備(ギルド依頼の討伐がある日は、お嬢様は朝からすっかり装備を整えている)を済ませたお嬢様が濃紺の封筒を手にしていた。
宛先は俺だが、裏を見ると封蝋に家紋がない。差出人不明であるのに、封筒自体にはしっかりと本人以外が開けた際には自動焼却される術が施されている。
これはお嬢様が不審がって一旦手元に置くのも分かる品だった。だが、心当たりがない訳ではない。
「確かに怪しいですが、こういう手紙の出し方をする男が知り合いに一人おります」
「そう、別に呪いや危険物でないのなら構わないわ。普段届くような地味な嫌がらせとは違ったから、シエラが心配していたのよ」
シエラは、公爵家からこの屋敷についてきたメイドの一人である。以前の階級は中級ハウスメイドであり、公爵家では幼少期のお嬢様の部屋を掃除していたのが彼女だ。昔、お嬢様に『ヒョロガリ』を教えたメイドである。
今では侍女として、女主人となるお嬢様の世話をする立場にいるのだが、お嬢様はシエラが特にお気に入りで、たまに持ち帰った菓子を分け与えては嬉しそうに味の感想を言い合っている。
あとは二人で何故か俺の方を見て何やら話していることもあるが、女性の話に割って入るほど無粋ではないので、スルーすることにしている。気にならないと言えば嘘になるが、まあ、別にお嬢様になら悪口だろうが褒め言葉だろうが、何を言われてもいいしな。
シエラはこの手紙が何か深刻な害をもたらす不審物でないかを心配していたらしい。見るからに黒魔術的だから無理もないだろう。相変わらず悪趣味な手紙を出す御人である。
「差出人は、貧民街首領です。記名がないのは、そもそも彼が一切の固有名を持たないからですね」
ボスには名前がない。そもそも、持とうとしないのだ。彼は個を縛るものに対して常に懐疑的であり、自由を求める。
噂をすれば何とやら、とまでは行かないが、昨晩思い出したばかりの人物から手紙が届くと妙な胸騒ぎがあるのも確かだ。
差し出されたペーパーナイフを受け取り、封を開ける。
『お前さんの知り合いだって言う不審な男が突然空中から現れたんだが、会いに来るつもりはあるか? 来ないならこっちで適当に処分しておく』
取り出した便箋には、恐らくかなり複雑な事態だろうなと予測できる内容が、何ともシンプルな文面で綴られていた。




