第三十二話
王立魔法学園では、卒業式典後にダンスパーティが開かれる。在校生と卒業生の希望者が参加する、交流会のようなものだ。
魔王討伐以前、お嬢様は一度もこのパーティに参加したことがなかった。基本的に在学生は五学年から参加希望するのが一般的、というのもあるし、何より光魔法の特性が厄介過ぎるので迂闊にパートナーと踊れるはずもなく、余計な面倒を減らす為にも参加しないのが自然な流れだったのである。
だが、今年は魔王討伐の記念の年だ。平和の象徴たる聖女様が、これからの未来を担う卒業生たちの祝いの場に参加しないなどということは有り得ない。
幸い、光魔法の依存性は解決したから参加したところで何の問題もないしな。……と言いたかったのだが、今現在、お嬢様の前にはとんでもない大問題が横たわっていた。
「────分かっているのかしら、ウスノロ!? これは由々しき事態よ!」
「ええ、そうでしょうとも。全く酷い有様ですね、無様が極まっております」
「何を他人事のような顔をしているの! お前も当事者よ!! この無様な有様はわたくしたち二人が作り出していますのよ!?」
魔王討伐から早三ヶ月。お嬢様は今日も今日とて元気でいらっしゃる。
喧しく騒ぎ立てるお嬢様は現在、上半身を大きく逸らした状態で、殆ど逆さまになるかのようにして鏡に映る俺たちの姿を確かめていた。
お嬢様の腰を支える俺と、支えられているはずなのにどういう訳かとんでもない格好になっているお嬢様の姿を、である。
本来は美しく伸ばされている筈の片足が、あらぬ方向に持ち上がっている。腰に添えた腕と踏ん張った足が辛いのでそろそろ身体を起こして欲しいのだが、お嬢様はこれ以上手足の何処かを一ミリでも動かしたらすっ転んで頭を打つ、と騒いで譲らなかった。
さて。何をしているのかと問われれば、答えは簡単。パーティ用のダンスの練習中である。ついでにつけ加えるなら、大惨事の真っ最中だった。
「お嬢様、大騒ぎにお忙しいところ申し訳ありませんが、起き上がって頂いても構いませんか? そろそろ腕がキツイのですが」
「何よ、わたくしが重いとでも言うつもり!?」
「同身長同年代の平均よりは重い、ということは存じ上げておりますよ」
「はっ!? し、信じ難い無礼ですわ!! い、いつよ!! どこで知ったと言うのよ!! こっ、このウスノロ!!」
「抱えた時に大抵の体重はわかりますし、なんなら今だって殆ど抱えているではありませんか。分かりますよ」
告げた途端、お嬢様は散々騒いでいたくせにバク転を決めるようにして軽やかに俺の腕の中から逃げていった。
華麗な着地を決めたお嬢様が手負いの獣のような眼光で俺を睨みつけている。その身体能力があって、なんでダンスはここまで壊滅的になるのかと言えば、単に相手が俺だからだろう。
常日頃からシャンデュエで近距離戦闘を鍛えていたせいか、俺とお嬢様はダンスにおいては全くと言っていいほど調和が取れなかった。
恐らくだが、戦闘だったら完璧に連携を取れる自信がある。しかしダンスは駄目だ。駄目どころの騒ぎではないレベルで駄目だった。
このままではどう足掻いても壊滅的なコンビネーションにしかならない。清廉にして高貴なる聖女様が衆人環視のもと曲芸染みたダンスを披露する羽目になるのは、公爵家の、下手をすれば国の威信に関わるだろう。
俺としては是非とも他に適任を見つけてその人間に代わってほしいのだが、『聖女リーザローズ』のパートナーとしてならば、俺以上の適任はいないと見做されているようだった。
要するに、俺を充てがっておくのが一番、あらゆる面倒が起きづらいという話だ。
「全くお話になりませんね、恥を晒す前に欠席の連絡を入れればよろしいのでは?」
「出来ないと知っていながら言うのは無駄な議論だとは思わなくて、ウスノロ」
「申し訳ありません。あまりにも壊滅的で手の施しようがないもので、解決策がそれしか浮かばず」
魔王討伐の年に、平和の象徴たる聖女が祝いの場に出席しないのは大分不味いことは理解している。だからといって祝いの場で一発芸を見せるのも、それはそれで大変に不味いだろう。
「何より、首席代表であるアンジェリカ様があんなにも期待に満ちた顔で楽しみにされているのよ。参加しないなんて選択肢はないわ」
「……だとすれば、もはや曲芸レベルで極めて一種の芸として見せる他ないのでは」
「わたくしに曲芸団の猛獣をやれ、とでも言うつもりかしら?」
「よくお似合いかと」
「はっ倒すわよ」
身を低く構え、臨戦態勢を取るお嬢様に、俺も反射的に半身を返して構える。完全にシャンデュエの時と同じ構図である。いや、だから、これじゃ駄目なんだよな。分かってんだよ。
溜息と共に構えを解き、練習用にと与えられたダンスホールを見回す。
壁一面が鏡張りになっている室内で向かい合うこと既に一時間半。本日も成果らしい成果は一向に出ていなかった。
なんだかんだと練習も一週間を越えているため、振り付けも足運びも全て覚えている。そこに関しては問題はない。
唯一にして最大の障害こそが、俺とお嬢様が組み合うと近接戦闘になる、というどうしようもない事実だ。
別に意識してやっている訳ではないので困る。本当に困る。……マジで困ったな。どうしたもんかな。
無意識をコントロールしようとした時点で、それはもはや無意識とは呼べない。意識した時点で改善は不可能である以上、どうにかこうにか意識そのものを──つまるところは脳を騙くらかす必要がある。
鏡を眺めつつ悩むこと十数分。
俺は突如として、一つの結論に至った。
「お嬢様、一つ提案があるのですが」
「何よ、使える案なのでしょうね」
「『ダンス』は諦めましょう」
「……お前、わたくしの話を聞いていなかったのかしら?」
「聞いておりましたよ。記念式典でもあるパーティで平和の象徴たるお嬢様が踊らない訳にはいかない、と」
「だったら、」
「ですので、ダンスは諦めます。よろしいですかお嬢様、我々は今から、これを『決闘』と定義付けします」
「決闘」
真顔で言い放った俺が立てた人差し指を、何処か呆けたような様子のお嬢様が見つめる。アホだと思われる提案であることは十分に理解していた。しかして、アホこそが世界をなんとかしてきたのも事実である。
故に、俺はいたって真面目な顔で、限りなく阿呆な提案を口にした。
「典麗と優美を賭けて決闘を致しましょう。指先の所作から視線に至るまで、互いに一切の妥協を許すことなく競い、闘うのです。まあ、先程の粗野と粗暴が極まった野生動物の如きお嬢様の有様を見れば私の勝利は確実とも言えますが、慈悲深い私はお嬢様の成長に一縷の望みをかけてチャンスを与えて差し上げましょう。
その猛獣の如き足捌きを少しでもまともなものに出来るよう、どうぞ無駄な努力を重ねてくださいませ」
組み合えば知らず闘いになってしまうというのならば、もはやその闘争本能を利用する他あるまい。本当に他に無いのか?という自問は無視しておいた。
これ以上、場外に弾き飛ばされるベーゴマみたいな速度で吹っ飛んでいくお嬢様の相手で時間を浪費する訳にはいかないのだ。何せ、パーティはひと月後に迫っている。正攻法ではどう頑張ったって間に合う気がしない。
そういう訳で、俺はここ暫くやっていなかった、ど直球な煽りをお嬢様へとぶん投げた。出来る限りの豪速球である。この場合、お嬢様は煽られた方がやる気が出る。よく知っている。
最近煽っていないので腕が鈍っている気がしていたが、どうやらただの杞憂だったらしい。相対するお嬢様の顔には、見慣れた好戦的な笑みが浮かんでいた。
「その勝負、受けて立つわ……!」
かくして、俺とお嬢様の『決闘』の火蓋が切って落とされた訳である。
決闘と書いてダンスと読む。そういうことだ。……どういうことだ?
多分、この場に俺たち以外の誰かが──最有力候補としては旦那様が──居たならきっとこのアホなやり取りを諌めてくれたのだろうが、残念ながら、この場には俺たちしか居なかった。
本当に、残念な話である。
◆ ◇ ◆
「……お前たちはどうしてそう阿呆なんだ」
「…………返す言葉もございません」
一週間後。久方ぶりの報告会にて。『最近のお嬢様』について語った結果、決闘の件にも触れることになった俺に、旦那様は心の底から呆れ返った顔で溜息を落とした。
『お前』ではなく、『お前たち』なところが極めて居た堪れない。旦那様がお嬢様すら引っくるめて言う時は、大抵本気で呆れて物も言えない時である。
「しかしですね、旦那様。実際に結果として優れた方法であると証明されております。ここ一週間のお嬢様は口元に微笑を湛えたながらたおやかにステップを踏む、という、椎折熊に国章の刺繍をさせるよりも難しいことを成し遂げていらっしゃるのです。つまりは」
「無い筈の返す言葉を出してくるな。仕舞え」
「はい」
許されてもいない反論を勢いよく語り出した俺の口は、接続詞から先の言葉を紡ぐことなく、そのまま静かに閉じられた。気分としては大剣で正中線を掻っ捌かれたようなものである。
唇を引き結び黙り込んだ俺に、旦那様が再度、大きく溜息を零す。眉間に刻まれた深い皺を、しばらく指の腹で揉み解した旦那様は、やがて全てを諦めたかのような視線を床へと向け、静かに目を閉じた。
「……それで? 勉強の方はどうなんだ。順調に進んでいるのか」
「ええ、まあ。合格という面でしたら心配ないかと。お嬢様の求める基準には達していないので、もう二ヶ月ほど猶予が欲しいところですが」
「そうか、ならば良い。期間は希望通りに与えてやる」
受かるだけなら何とかはなる。一生に一度の勉学での正式な一騎打ち、とするのならまだ少し足りない。
生半可な結果を出して失望されるのは御免だ。怠いし辛いししんどいし、結構投げ出したい気もするが、出来る限りは力を尽くす予定である。
俺の言葉に特に何を思うでもなくあっさりと頷いた旦那様は、そこで気を取り直したように顔を上げた。
「ところで、今日呼び立てた理由についてまだ話していなかったな」
「いつもの定期報告会かと思っておりましたが、違うのですか」
「それならば書面で済ませる。娘の近況を聞く為だけにわざわざ専属執事を呼びつけたとでも思っていたのか」
「………………」
正直ちょっと思っていた。何たって、旦那様は親馬鹿である。お嬢様が元気にやっているか聞きたくなったんだろうな、と普通に思っていた。
目を逸らした俺に、旦那様が何か言いたげに眉根を寄せる。が、結局余計な時間を消費することになるだけだと察したのか、特に言及はないまま話は切り替わった。
「衣装の採寸だ。世界平和の象徴として人前に出る以上、生半可な格好では許されん。ようやく相応しい仕立て屋に予定を開けさせた、パーティには間に合わせるからさっさと測られてこい」
旦那様はやや投げやりな仕草で立ち上がると、入ってきた扉とはちょうど対面に位置する扉のひとつを見やった。
どうやら奥で採寸ができるらしい。成程、普段と違う店を集合場所に指定されていたのはこういう訳だったのか。
確かに、パーティでパートナーを務める状況でまで普段の燕尾服でいるのは不恰好が過ぎるだろう。『聖女リーザローズ』のパートナーに相応しい装いが必要だ。それについて特に異論はない。だが、気になる点はある。
「旦那様、一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか」
「どうした。言っておくが今更拒否は許されんぞ」
「いえ、この服飾代は給金から差っ引かれるのかが気になりまして」
「…………」
もしも天引きされるのならそれ相応の覚悟が要る。
なんと言っても、ロレリッタ公爵家御用達どころではなく、当主自ら、望みの品を得るために『予定を開けさせた』ような仕立て屋である。
その上、期間は三週間後。どういう条件が交わされたのかは分からないが、最高級の技術というものにはそれなりの時間がかかる。その時間をすっ飛ばすには、当然金がかかる。場合によっては俺の一年分、いや、数年分の給金が飛びかねない。
向こう数年無給労働はちょっと辛い。主に買い食いが出来ないあたりが辛い。無事に生き延びた以上、俺には王都のみならず大陸の美味いものを食べ尽くすという使命があるのだ。
よって切実な声音と表情で尋ねた俺に、旦那様は無言で目を細めた。しばしの沈黙。次いで、何某かの感情を逃すように細く息が吐かれる。
「給金のことは気にするな。どうせすぐに心配は要らなくなる」
それ以上の質問は許されない気配だった。まあ、旦那様が心配ないと言うのなら無いのだろう。
腑に落ちないながらも、野良猫でも追い払うかのような手つきで退室を促す旦那様に従い、部屋を後にする。
……というか、引き立て役である俺にも最高峰の仕立て屋を用意する辺り、旦那様ってやっぱり親馬鹿だよな、なんて思いながら、俺は後ろ手に扉を閉めた。
────そうして、旦那様の計らいで衣装の準備も済み、お嬢様との一騎打ちという名のダンス練習に励むこと更に二週間。
俺たちはついに、何方も近接格闘戦に持ち込むことなく、見事優雅に一曲踊り切ることに成功した。
お嬢様は何処にもすっ飛んでいかなかったし、足捌きを間違えて中国拳法みたいになったりもしなかったし、何がどうなったのか分からん関節技を極めることもなかった。
何処に出しても恥ずかしくない、貴族の嗜みとしてのダンスである。俺とお嬢様の間でこれが成立するとは、まさしく快挙だと言えた。
余韻を残して踊り終えたお嬢様が、それまでの淑やかな表情から一点、普段の快活に輝く笑みへと変わる。
喜びに見開かれた瞳が周囲の光を取り込み、喧しいほどに輝いていた。やたらと眩しい。光魔法でも拡散してんのか。
「────やったわ! これはかなり優雅だったと言えるのではくて!?」
「たった今優雅さの欠片も無くなりましたが、まあ及第点だとは言えるでしょうね」
「少なくとも、これでアンジェリカ様の期待は裏切らずに済むわ」
「ああ……随分と期待されていましたものね」
アンジェリカ・バーノット侯爵令嬢は、今年度の卒業生首席代表であり、第一王子の正式な婚約者であり、知性と教養に溢れる淑女の鑑であり、『聖女リーザローズ』のファンである。幼い頃から厳格なバーノット家の教育を受け、完璧な淑女として過ごしてきたアンジェリカ様にとっては、自由を体現したような『リーザローズ・ロレリッタ』の生き様はひどく眩しく思える代物だったらしい。
……自由というより暴走だと思いますが、という言葉は飲み込んでおいた。そんなことはアンジェリカ嬢も知った上での憧れだからである。
『自分は決してあのようには振る舞えないし、振る舞うこともしない』けれど、それでも世界に平和をもたらす『聖女』がお嬢様であることを、アンジェリカ嬢は心の底から喜んでいるようだった。
かなり熱心なファンのようだが本人は忙しいので、大抵お嬢様と俺のシャンデュエにはアンジェリカ嬢が懇意にしている御令嬢方が観戦にやってきて、彼女へと報告しているらしい。
何の需要なんだかさっぱり分からんが、忙殺されるアンジェリカ嬢にとって、お嬢様の存在は大分癒しとなっているようだった。
お嬢様が癒しの存在。アロマキャンドルを求めてキャンプファイヤーをするくらいには無茶な割り振りだと思うが、嗜好は人それぞれなので一先ず納得しておいた。
さて、そんなアンジェリカ嬢だが、無事に魔王を討ち倒し、世界に平和をもたらすまでは聖女リーザローズ様の邪魔をするわけにはいかない、とファンとしての自分をかなり抑え込んでいたらしい。
それが今年魔王が討伐され、自分が無事に学園を卒業し、しかもそのパーティにはあの『聖女』が参加する────と聞いたアンジェリカ嬢は、普段の冷静さの一切を投げ、頬を紅潮させながらお嬢様へと期待に満ちた眼差しを向けた。
『聖女リーザローズ様も此の度のパーティには参加なされるのね。パートナーは、もちろん、カコリス様かしら? お二人のダンスをとても、とても楽しみにしておりますわ。ああ、わたくしが生きている間にそんな素敵なものを見られるだなんて、当日はバーノット家お抱えの画家を会場に呼ぶ予定ですの……彼女は記憶力に優れているから、きっと寸分違わぬ素晴らしい絵を残してくれる筈だわ……わたくしの部屋に飾っても構わないかしら? いえ、そもそも絵に残していいかを尋ねるべきね、いやだわ、わたくしったら、どうかお願いしますわ、お望みの対価ならどんなものでも差し出す覚悟があります』
随分と熱心な信奉者のようである。常日頃から『わたくしはこの世で最も貴き、全ての民に愛されて然るべき存在』と自負してやまないお嬢様ですら、若干気圧されるほどの熱量であった。
ところで、俺はこの熱量が何に由来するのか、何となく察している。アンジェリカ・バーノット侯爵令嬢の本棚には、甘く切ない恋愛を見事に描いた傑作少女小説がずらりと並んでいるそうだ。ルナ嬢がいつぞやそんなことを溢していた。
つまり、彼女は自身に課せられた重責と厳しい教育を乗り越える糧として、愛おしい物語の世界を望んでいるのだ。それ自体はとても良いことだと思う。自分のやる気を自分で調整できるだなんて、本当に淑女の、いや、人間の鑑だ。
つまるところ、彼女は『聖女リーザローズ』とその従者である俺こと『カコリス』に対しても、愛する物語に抱く期待と同じようなものを持ち合わせているのだ。
これに気づいた時、俺は若干の、いや、かなりの冷や汗を掻いた。え? 周囲にはバレバレとかそういうことか?と思ったからである。俺がお嬢様のことを好きだと気づいたのはつい三ヶ月前のことだが、その三ヶ月の間で俺はすっかり態度でだだ漏れだったりすんのか?と。
そうではない。アンジェリカ嬢は既に何年も俺たち二人を好きな小説と同じような甘酸っぱい関係であると期待して見ているし、『もしかしたら現実は違うかもしれない』ということまで理解した上で、楽しみの一つとして見守っているようだ。
だから彼女は決して、俺たちの関係性を確認するような言葉は向けてこなかった。単純に不躾だというのもあるが、彼女はあくまで、輝かしいお転婆聖女のお嬢様と、それに付き従う捻くれた執事という自分の理想に胸をときめかせているのである。そこの線引きは、流石はアンジェリカ嬢と言ったところだった。
それに気づいた時、俺は本当に、心の底から『聞かれなくてよかった』と思った。それは俺たちの実情がアンジェリカ嬢の期待とはかなり異なるから、というのもあるし、単純に、『お二人は想い合っていらっしゃるのですよね?』などと聞かれた日には、俺はまず間違いなく動揺を隠し切れないからである。
『想い合って』はいないが、想いを向けてはいるのだ。俺はどうでも良いことなら幾らでも嘘をつける自信があるが、これまでに制御した経験のないこの謎の感情に対しての対処法はまだ身に付けてはいなかった。
恋愛感情、マジで訳が分からねえ。俺の感情の癖に、俺の意思を無視して動く。厄介極まりなかった。
それに、お嬢様には『好きな人』がいるのだ。俺との関係を勝手に推測されて、憤慨したお嬢様が否定した日には割と悲惨だ。いや、俺の心が、とかでなく、アンジェリカ嬢との関係においてって話で。次期王妃であるアンジェリカ様との関係を良好なものにしておくことは重要だと言える。
今はまだ魔王討伐後のお祝いムードで全体的に好印象だが、それもこの先五年十年と平和が続いていく中でいくらでも揺らいでしまうだろう。英雄というのは、物事が解決すれば大抵は邪魔になるものだ。
お嬢様の後ろ盾になってくれるような存在は大事にした方がいい。初めから向こうがこちらに好印象を持っているのなら扱いやすい、と捉えがちだが、実際のところ、好印象を持っている人間に失望した時の方が、反動は強いものだ。対応は慎重にするべきである。もちろん、理性的なアンジェリカ嬢に限って、私情で暴走するなんてことはないだろうが、それでも。
そういう訳で、我々はアンジェリカ嬢を筆頭に、『聖女リーザローズ』に好意的な方々を満足させるだけの出来のダンスを披露するべく頑張っている訳である。悪感情を持っている類の人間に対して隙を見せるのはよろしくない、という面もあるが。
「とにかく、あとは本番を完璧にこなすだけですね」
「ええ、そうね。お前との決着はパーティでの本番でつけるとしましょう、覚悟しておきなさい!」
「…………あー……そうですね、首を洗って待っていることにします」
……まだ続いてたのか、その勝負。俺としては動機付けだから別に勝敗はどうでも良いのだが。
生返事で答えた俺の様子を気にすることもなく、お嬢様は勝負への期待を表したような輝きを宿した瞳で此方を見上げる。
「判定はルナにしてもらうことにするわ。アザン様でも良いかと思ったのだけれど、どんな結果でもわたくしの勝利となりそうだったからやめておいたの」
「どうでしょうね、最近はそうでもないので公平な判断が出来るとも言えますが。そもそもこの場合の『公平』とはなんだ、という話になりますし」
優雅さを競うとなった場合、果たして勝利の基準とは一体何になるのだろうか。
競技ダンスならば採点基準や技の難度などがあるのかもしれないが、俺とお嬢様が競っているのはそういった項目ではない。というか、何より最後まで近接格闘にならずに終わればそれで良いのである。
だが、お嬢様はどうしても俺に勝ちたいらしい。勝負と定義したもので俺に負けるのが何より我慢ならないのだろう。そして、俺に勝ちを譲られるのも耐え難いのである。
ならば俺に出来ることは、お嬢様が本気で立ち向かえるような存在でいることだけだ。
でもこの場合の勝敗、本当に分かんねえよな……などと概念について考え始めた俺に、お嬢様はやや意外そうな、それでいて納得が行ったような表情で片眉を上げた。
「あら、『お友達』が一人増えたのかしら? めでたいことね」
「…………そういうのではないです」
「アザン様はお友達だと思っているのではなくて?」
「………………まあ、向こうがそう思いたいなら、お好きにどうぞ、とは言いますが」
「そう、良かったわね」
最近のアザンの訪問頻度については、お嬢様も知るところである。数少ない休日を何故かわざわざ俺の元にやってきて潰しているアザンは、物言いこそ尊大極まっているが、以前よりも遥かに友好的であると言えた。
まあ、好意が反転するとより強い害意に変わるのと同じように、悪感情が反転すると当初よりも加点が多くなるのはよくあることだ。ヤンキーが雨の中で猫を拾うと好感度が上がる現象である。初めに気に食わないやつを気に入ると、普通に気に入った場合よりも思いが強くなりがちなのだ。
懐くにしても物言いには素直さがないのでめんどくせえな、とは思うが、別段、門前払いするほど嫌という訳ではなかった。
そんな俺の感情もまた、お嬢様にとってはお見通しらしい。何処か微笑ましいものを見るような目で見られている。
「…………お嬢様にもお友達が増えると良いですね」
何だか居た堪れないというか、謎のむず痒さに耐え切れなくなったので揶揄うように口にした俺に、お嬢様は「わたくしにはルナがいれば十分なのよ」と言いつつも鳩尾に軽い拳を入れてきた。
◇ ◆ ◇
────パーティ当日。
俺とお嬢様は会場に向かう前に使用人たちによって身支度を整えられていた。当然、それぞれ別室だ。お嬢様については専属の者を呼び、俺はロレリッタ家の使用人に準備を整えてもらっている。
光魔法の影響が無くなり、俺以外の人間にもお嬢様の身の周りの仕事を任せられるようになったのは素直に有難かった。今までの距離感、どう考えてもおかしかったからな。
一応、聖女の強大すぎる力が周囲に悪影響を及ぼさないためだとか、国外の勢力に対する護衛の為だとか、何だとか、色々理由をつけていたりしたのだが、それにしたっておかしい。明らかにおかしい。疑問を持たれないわけがない。
当然、周りの人間だってその辺りの疑問に理由をつけたい、とは思っているわけで。
「カコリス様がリーザローズ様を思い慕うあまり他の使用人を全て遠ざけていたというお話は本当なのですか?」
「……はい?」
普段は下ろしている前髪を緩く後ろに撫でつけている最中、侍女の一人がそんな質問を投げかけてきた。視線を向ければ、歳若い侍女が期待に満ちた瞳を俺へと向けている。
……俺はこの類の目を知っている。つい最近、アンジェリカ嬢に向けられたものと全く同じだからである。
どうやら世界平和が訪れた今、安堵した乙女たちは素敵な物語を求めているらしい。
「シンディ! 貴方って人は本当……! 申し訳ありません、カコリス様。この者は技術は確かなのですが好奇心が旺盛で礼儀がなっておらず……」
シンディと呼ばれた少女よりは立場が上なのだろう、別の侍女が慌てて言葉を付け加える。まあ、流石に今夜は一人で身支度するには難しいからと用意されただけなので結局は使用人同士だ。
何を言われても文句はないし、俺から旦那様に言って罰せられるようなこともない。そもそも俺は使用人階級からは早々に外されているのでその辺りの礼儀については心配しないでほしい。
この場合何を言うのが正解だろうか。多分何も言わないのが正解である。何を言っても曲解され、変な噂が広まるのがオチだからだ。
「確かに、仕事振りは極めて的確ですね。今後ともロレリッタ家を支えて下さる重要な人員であると言えましょう」
よって、俺は質問に答えることなく、シンディを誉めることで会話を終わらせた。鉄壁の笑顔のおまけ付きで封殺した。それ以上聞かれたら俺は確実にボロが出るので、先に全てを絶っておく作戦である。
雑な作戦だったが、持ち合わせた造形美によってなんとか通った。室内には平穏が戻り、準備は粛々と進む。この分ならこれ以上突っ込まれることはないだろう。
カコリスの顔はこういう時にとんでもない武器になるので有難い。なんならたまに本人にも感謝を伝えている程度には有難く思っている。
『…………そうか……役に立っているようで何よりだ』と微妙な反応を返されるが、俺の方も『ヒデヒサは軽く運動しただけで勝手に筋肉が育つから面白い』と言われた時に『おお、良かったな』としか返せなかったので、自分への評価を受け止める時というのはそんなものなのかもしれない。
正確に言えばもう自分の身体ではないので、受け止め方にも他人事のような空気が流れるというのもあるが。
それにしても、俺が着たところでこうはいかない、という様が目の前に広がっていると素直に感心してしまう。
最近は自分の姿を確認するために鏡の前に立つ機会が増えているので、尚更印象深い。全てを整え終えてから、改めて鏡を確認する。
黒を基調にした燕尾服には、控えめに見えるが繊細で華やかな銀刺繍が施されている。これは動いた時にこそ魅力が輝く逸品だろう。
俺は基本的に服のことはよくわからんのだが、それでもこれが確実に一級品だということだけは分かる。何よりシルエットが何処から見ても美しく隙がない上に、限りなく動きやすい。……真面目に値段が心配になってきたが、本当に大丈夫なんだろうな。
「まあ、流石にこれならお嬢様に恥をかかせるということはないでしょうね」
一人納得したように頷けば、後方でシンディが勢いよく繰り返し頷いているのが鏡越しに見えた。すぐさま隣の侍女に顎を引っ掴まれて固定されていた。
さて。俺の準備は整った訳だが、お嬢様はどうだろうか。一般的に、女性というのは男性よりも準備に時間がかかるものである。
用意された部屋を出て、一足早く屋敷の玄関先にてお嬢様を待つ。この屋敷から会場までは馬車で行けば然程かからない。当然用意はされているので、あとはドナドナよろしく運ばれ、最後の『決闘』をこなし、決着をつけるだけである。
そういえばルナ嬢は一体どんな気持ちで判定員を受け入れたんだろうか。
ダンス自体は「とても、ものすごく、果てしなく、どうしようもなく苦手です」と青ざめた顔で言っていたので参加できないことを残念には思っていない様子だったのだが、それでも、『判定員としてパーティに来てちょうだい』などと言われて呆れていたりはしないだろうか。ルナ嬢に呆れられるのは、旦那様に呆れられるのとはまた別の辛さがある。
あの所長殿は元気にぞよぞよしてんのかな、などと余所事に思考を巡らせていた俺は、そこで正面中央の階段を降りてくる人影に気づいた。
どうやらお嬢様の準備が整ったらしい。慣れてきたとはいえ女性を着飾ることが本職ではない俺とは違い、相応の腕の職人が飾り立てた姿とは一体如何様なものか。
褒め言葉には困らないだろうな、なんて思いながら目を向けた俺は、手すりに手を添え降りるお嬢様の姿を見た瞬間────ものの見事に固まった。
お嬢様は、基本的には色合いとしては赤と金を好む。
それは自身の持ち合わせた色であるという愛着からでもあり、両親から受け継いだ色への敬愛でもあり、単純に『キラキラしていて強そうなもの』が好き、という嗜好でもあるのだが、とにかく赤色と金色が好きな方だ。
だからまさか、ドレスに夜空を思わせる深みのある青色を選ぶとは思ってもみなかった。一面には惜しみなく宝石が散りばめられており、灯りを受けてまるで本当の星のように輝いている。
図らずもラピスラズリを思わせるような美しい色合いだ。動くたびに宝石のように色合いを変えるそれは、ただ歩くだけでも目を惹く。
シニヨンにまとめた髪は同じく青を基調にした装飾品で美しく整えられている。普段の猪突猛進暴走令嬢の面影など一欠片も見当たらない。見当たっていたら大問題なので、当然の話なのだが。
「………………どうかしら?」
俺が間抜けにも惚けている間に、お嬢様は階段を降り切っていたようだった。
本当に一切気づかなかったので、かなりの衝撃を受けたと見える。どの程度の衝撃なのか、自分でも把握しきれていないくらいにはとんでもない威力だった。
なので、俺はお嬢様の不安げな表情での問いを受けてすぐ、単なる感想を口にしていた。
「よくお似合いですよ」
これ以上の言葉が特に見当たらなかったのだ。本当に。
どんな語彙を持って美しいと褒め称えても、女神のようだと言ってみせても、それがこの場に相応しい賛辞だとは思えなかった。
よく似合っている。この世の誰より似合っているし、きっとこのドレスはお嬢様の為に用意されていて、他の誰が着たとしてもここまで魅力的にはならないのだろう。
本心からそう思ったから、端的な言葉に全てを込めた。仮に伝わらなくても構わないと思っていた。お嬢様が『雑な褒め言葉ね』とでも拗ねてしまえば、いくらでも言葉を重ねる準備は出来ていたし、俺は今この、俺が抱いた印象だけを大事にしたい、と思ってしまったのだ。
主人を立てるべき従者としてはいささか足りない物言いだろう。だから、きっとお嬢様からは「わたくしのこの素晴らしい姿を見てそれしか浮かばないだなんて、お前はなんて愚かなのかしら」だとか、その辺のいつも通りの言葉が返ってくると思っていた。
思っていた、のだが。
俺の予想に反し、お嬢様は俺の顔を見つめたあと、何かしらの多大な衝撃を受けた顔で目を見開き、堪えるようにきゅっと唇を引き結んで(口紅がよれてしまわないよう、最小限の動きであった)、後ろに控え立つ侍女に縋りついた。
丁寧に整えられ、紅を差された頬が見る間に赤く染まっていく。化粧いらないんじゃないか?という勢いで首まで赤く染まったお嬢様は、微かに潤んだ目で侍女を振り返る。
目線の合った侍女は、どういう訳かお嬢様と同じくらいに赤く染まった顔でその視線を受け止め、ぎこちない仕草で小さく頷いた。お嬢様も、何故か震えながら頷く。
はて。着慣れないドレスだから、何処か不具合でも合ったのだろうか。これだけ素晴らしい職人が用意した品なのだから、そんな筈はないのだが。
訝しむ俺の前でどういう理屈か手を取り合い握り締めあってから、「ご武運を」という掠れた声に見送られて俺へと向き直ったお嬢様は、気合を入れるように大きく一度手を打ち鳴らした。オペラグローブを身につけている割に、かなり派手な音が響いた。
「そ、それでは、い、行くわよ、ウスノロ!」
「ええ、参りましょうか。お手をどうぞ」
今夜の俺はお嬢様のエスコート役である。普段は後ろに控える身だが、今日は手を引かねばなるまい。会場についてからでもいい気はするが、慣らしておいて損はないという話だ。
手を差し出した俺に、お嬢様はなんだか妙に大きく深呼吸をしてから、洗練された所作で俺の手に自身の手を重ねた。
「……………………」
「……………………」
何故だろう。妙に沈黙が重い気がする。
馬車に乗り込んでから数分。揺れる車内で向かい合う俺とお嬢様は、珍しいことに双方揃って沈黙を貫いていた。
別に触れたい話題がない訳ではない。珍しい色合いのドレスですね、だとか、青色もお似合いですね、だとか、随分と緊張している様子ですが本番のためにはもう少し気を抜いたら如何ですか、だとか、言いたいことは結構あった。
でもそのどれもが、喉の奥に引っかかったまま出てこない。そのくせ互いに視線だけは相手を確かめているので、しょっちゅう目が合う。気まずい。なんなんだこの空気は。
「…………お嬢様、大丈夫ですか?」
「はっ!? な、何が!? わたくしは、いついかなる時も大丈夫ですわよっっ!!」
しかして主人に気を利かせて喋ってもらうのは不甲斐なさすぎる。沈黙を割くには相応の覚悟が必要だったが、とりあえず体調の確認から入ることにした。が、全然大丈夫そうではない返答が返ってきた。
宣言したお嬢様にも自覚はあったのだろう、目が泳いでいる。明らかにテンパっている様子だ。そして、人間とは自分より遥かに動揺している相手を前にすると、割と落ち着くものである。
「聖女として注目される中での出席ですから、当然緊張はするでしょう。無理もないことです。緊張するな、と言ってしないで済むのなら苦労はありませんしね。という訳で、どうです? 一つゲームでもしませんか?」
「ゲーム? 此処には何の用意もないけれど?」
「お嬢様は『最新版源流魔素辞典』はご存じで?」
「…………タウラスの基礎四大元素と応用六大三科までなら覚えているわ」
「では構成要素144個の内、実在を確認されていないものを言った方が負けということで」
「えっ、ちょ、ちょっと!」
しれっとした顔でゲームを始めた俺に、お嬢様は一瞬面食らった顔をしたのち、すぐに生来の負けず嫌いを発揮して回答を繋いだ。
最近復習したばかりなのだが、何処かで覚え直さないとすっぽ抜けていくばかりなのでいい機会に抜けの確認でもしておくか、と思った次第だ。突拍子もないことを言われると意識がそちらに向きやすい、というのもある。
案の定、勝負に釣られやすいお嬢様の意識は『ゲーム』に向かったようだ。このまま上手いことこの妙な緊張が解れてくれればいいんだがな、なんて思いつつ、俺は記憶を探り始めた。
さて。そういう訳で、会場に到着した訳なのだが。
「────りっ、『リドリスナーム』!」
「おっと、残念でしたね、お嬢様。まだ確認されておりません」
「はあっ!? 嘘よ! 絶対に観測結果がある筈だわ! 大体、正誤判定がお前の記憶では不公平ではなくて!? いくらでもわたくしを騙すことが可能ですわ!」
ちょっと緊張が解けすぎたな、というのが素直な感想だった。神秘的な憂いを秘めていた美しい令嬢が、いつもの猪聖女様に戻りつつある。
いかん、パーティのためにはもう少し淑やかさを維持していた欲しかったのだが、思ったよりも白熱してしまった。やりすぎたかもしれん。
「では後ほど、勝負の判定ついでにルナ様に聞いてみましょう、もうすぐお会い出来ますからね」
どうしたもんかな、と思いつつ隣のお嬢様へと囁けば、ルナ嬢の名前に反応したのか、お嬢様ははっとした様子で顔を引き締めた。
大広間への入り口へと案内してくれる人間の後ろにつきながら歩く内に、その横顔が徐々に冷静さを取り戻していく。これでまた落ち着きが緊張へと繋がってしまうと元の木阿弥なのだが、お嬢様は程よい状態で精神を整えることに成功したようだった。
「……何処か変なところはないかしら」
「ご心配なく、非の打ち所がない程に美しいですよ」
「…………お前も、普段よりはマシだと言えなくもないわ」
「光栄の至りですね」
軽口を叩きつつ、開かれた扉を抜けて大広間へと踏み入れる。落ち着いた演奏が程よく耳に馴染んだ。
場内の人間の視線がこちらを向いた気がしたが、意図して思考から排除しておく。緊張の種をわざわざ飲み込む必要はない。
今俺がするべきことは、この隣に立つ麗しの聖女様を出来る限り引き立て、それでいて卒業生への敬意を表し、尚且つ邪魔にならぬ程度に存在を主張することだけである。
此方の存在を見とめたアンジェリカ嬢が、中央の場に招き入れるようにしてそれとなく誘導する。首席代表とそのパートナーである第一王子からの挨拶を軽く受け、期待に満ちた瞳に背を押されるようにして幾つかのペアの輪に加わるように足を進める。
『聖女が参加した』という事実が重要なのだからそこまでダンス自体は注視しないでほしいんだが、という俺の願いはどうやら叶いそうになかった。明らかに場所が空いている。まあ、仮に俺が彼らの立場だったとしてもそうしただろう、と思うので特に文句はない。
俺が祈るのはただ一つ。どうか近接戦闘になりませんように、である。最悪ダンス自体は多少失敗してもいい、いや、よくはないが、別にいい。乱闘になるよりも百倍はマシである。
そんな風に、祈るようにして身を寄せたお嬢様を見下ろした俺は、此方を真っ直ぐに見つめる紅い瞳の輝きに気づいて、小さく笑ってしまった。
いや、だってな。
表情だけは麗しの聖女でありながら、その目だけが、丸切りシャンデュエの時と同じ輝きを宿している。
ブレず変わらず真っ直ぐに、真剣勝負を挑まれている訳だ。結構、受けて立ちましょうとも。
演奏に合わせて足を進める。
傍目から見れば限りなく優雅に、余裕たっぷりに見えることだろう。内情は一騎討ちである。
此方を見つめる御令嬢方から、うっとりとした溜息が落とされるのが分かった。しかして内情は一騎打ちである。
淑やかに微笑むお嬢様は、限りなく美しい所作で足を運んでいる。こうしていると至って普通の美しい令嬢に見えるが、つい先日も光魔法の身体強化で魔物をいくつか吹っ飛ばしていた。
魔王の顕現がなくなった今、現生生物である魔物が以前より活発化しているのである。世界には平和が訪れたが、一切の問題がなくなった訳ではない。
「……ヒデヒサ、何か別のことを考えているでしょう」
「お嬢様のことですよ」
おっと、足取りが乱れた。
目元を微かに赤く染めたお嬢様が、あくまでも小声で囁くように言う。
「………やっ、ややこしい言い回しをしないで!」
「こういう場ではそれっぽい言い方がいいかと思いまして」
「い、意図してやったというのね……こ、この卑怯者……わたくしの動揺を誘うつもり……!?」
思わずと言った様子で歯噛みしたお嬢様が、周囲の視線を気にして再び表情を取り繕う。
間違っても近接戦闘に雪崩れ込まずに済む雰囲気作りだったのだが、お嬢様には何らかの作戦のように捉えられたらしい。何事か考えるように一度目を逸らしたお嬢様は、まるで挑むような視線を俺へと戻した。
「それなら、わたくしだってお前のことを考えているわよ」
「はあ、左様でございますか」
張り合うにしても方向性が間違っていないだろうか。俺はそれにどういうリアクションをすればいいんだ。
素直に困惑する俺に、お嬢様はじっと此方を見上げたまま、少しばかり落ち着きを取り戻した声で呟いた。
「ずっと思っていたのだけれど、ヒデヒサの方がカコリスより背が高いのよね」
「…………………どういう意味ですか」
「そのままの意味よ。魂の場で会ったでしょう? あの時のわたくしの視線が此処にあったから……ほら、やっぱり、カコリスよりもヒデヒサの方が背が高いのだわ」
実際、それは事実だった。俺は転生時にカコリスと顔を合わせている。タックルを決めたり何だりかんだりと騒々しい場面だったのでわざわざ背など比べていないが、それでも、カコリスと比べると俺の方が少し背が高い。
「…………それが、何か?」
お嬢様の視線が、ほんの僅かに上へとずれる。知っている。多分、そこには『俺』が居る。魂の場で出会った時に、真っ直ぐに俺を見つめていたのと同じ目だ。
足取りが乱れた。それとは気づかせぬ程度に修正したが、お嬢様は気づいただろう。
「別に? ただ、そう思っただけの話よ」
楽しげに微笑んだお嬢様は、確かに思ったことを口にしただけのように見えた。
何故だろう。心臓が妙にうるさい。どんな言葉を返せばいいのかも分からず、ただじっと真紅の瞳を見下ろし踊り続ける俺に、お嬢様は少しばかり残念そうに口を開いた。
「どうせなら、ヒデヒサとも踊ってみたかったわ」
「…………俺とお嬢様じゃ釣り合いませんよ」
流石に、その『ヒデヒサ』が誰を指しているのか分からないほどの阿呆ではなかった。
記憶にある限りの自分の姿を思い出して、お嬢様の隣に並べてみる。笑えるほど似合わなかったので、思わず声にも笑いが滲み出てしまった。
お嬢様と『永松秀久』が釣り合わない、という点において、俺はそこまで悲観的な感想は抱いていない。単なる事実だからだ。
自嘲を込めた笑みを口元に残した俺に、お嬢様が小さく鼻を鳴らす。一瞬、不満げに寄せられた眉根は、すぐさま取り繕うように穏やかな表情を作った。
「お前がそう思うのならそうなんでしょうね、お前の中ではね」
しかして、声音だけは拗ねた口調のままだった。一体何がそんなに気に食わないというのだろう。訝しむと同時に、身体に染み付かせた動作のままに、ダンスが終わりを迎える。
お嬢様は周囲の視線に答えるようにして美しく礼を取ると、潤み切った目で此方を見つめるアンジェリカ嬢へと再度挨拶へ向かった。感極まった様子で何度も賛辞の言葉を並べるアンジェリカ嬢に、お嬢様は慈愛に満ちた笑みを浮かべて答える。
そこから先は、『聖女リーザローズ』と一言交わしたい者、できれば繋がりを持ちたい者、その他諸々家同士の挨拶やら何やらが重なり、ルナ嬢との約束を理由に切り上げる頃には、それなりに時間が経ってしまっていた。




