第三十一話
◆後半三人称視点
────かくして、世界には無事平和が訪れ、一月が経った。
聖女パーティは任を解かれ、それぞれ本来の役職へと戻っていった。式典や周年祭の際には再び集まり国の安泰を印象付けることにはなるだろうが、この先は顔を合わせる機会も減っていくだろう。
カルフェなんかは特にその傾向が強かった。パーティ解散の際、別れの言葉を告げてからすぐに居なくなった。そういう男である。
多分、騎士団の宿舎に行ってもそんなには会えないだろう。元々、人と触れ合うのが苦手なタイプであるし。もしどうしても会いたい、となったらアーサーを通すのが一番手っ取り早い筈だ。
騎士団上層部としてはいずれは副団長としてアーサーの右腕にしたい、という思惑があるらしいのだが……あの様子だとどうなることやら。少なくとも、本人は限りなく嫌がるに違いない。
逆に、アーサーとは顔を合わせる機会はそれなりにある。次期総団長にとの呼び声が高いアーサーは、現在配置換えにより旦那様の側について働いている為、時折公爵家の屋敷にも顔を出すのだ。お嬢様の屋敷が王都に建つまでは、それなりに姿を見かけることがあるだろう。
ちなみに、会うたびに少しげんなりした顔で『俺は事務処理が嫌いだ……』と零している。分かるぞ、俺も嫌いだ。しかし仲間思いで人望も厚く、実力も伴っているアーサー以外に総団長に相応しい男がいるとも思えないので、逃げ出して良いんじゃないか、とは言えない。頑張ってくれ。
リィラルは宮廷魔導師として最も高い位を与えられ、最年少で魔導師団の長となるのではと期待を込めて囁かれていた。
だが、リィラルはその期待の全てを裏切り、どういう手を使ったのかコラットン家とカルグス家からそれぞれ引き抜いた一級魔導師を引き連れ、『共同特別研究室』を設置した挙句────そこに『ルナ・ウィステンバック』を研究室所長に据えた。
恐ろしいことにこの研究室、完全な独立機関である。聖女パーティとしての功労と、ルナ嬢の開発した魔法への報奨として設置が許された。家の柵をあらゆる物理で断ち切りに行った訳だ。
……言うまでもなく、かなりキレている。そりゃそうだ、あれだけの功績を上げたルナ嬢を、ウィステンバック家は未だに軽んじ、侮蔑の言葉まで浴びせたのである。いや、本当に、あれは酷かった。
この世には何を言おうと矯正不可能な人間というのはいるものである。残念なことに。
ちなみに、リィラルはルナ嬢に好きに研究を続けてほしいと思っているようで裏方に徹しているらしい。口さがない者たちはあれこれとやかく言っているようだが、二人にとってはそんなことは今更何の障害にもならないだろう。
アザンは、……まあ、アザンはいつも元気だ。なんでか知らんがしょっちゅう会いに来る。
別にアザンの顔は見たいとも思ってないんだが、彼が名を貸して立ち上げた孤児院にいるシャロンとリィナを連れていることがあるので会わない訳にもいかない。二人とも元気そうで何よりだった。
魔王の被害に関わらず、身寄りのない子供というのは一定数存在する。アザンはそういった者たちに対し、なるべく助けになってやりたい、と思っているようだった。貴族第一主義だった男が何故そうも変わったのかといえば、何よりリィナの存在が大きい。
リィナは圧倒的に低い自己評価に比べて、素晴らしい才能を持った子供だった。何より、居場所を求めるが故に必死に学ぶ。その様を見ている内に思うところが出てきたらしい。
身分に関係なく優れた者は居るし、仮に優れていなくとも命あるだけで価値はある、と知ったアザンは、取りこぼされる者がいないように力を尽くしたいと思い始めたようだ。
この辺りは陛下が力を入れようとしている政策と上手く噛み合うので、付与術師として以外にも福祉関係の仕事が増えていくことだろう。
さて、そういう訳でそれぞれの道を歩み始めた聖女パーティの面々だが、俺はと言えば現在、四学年の必須科目から教科書を見直している。卒業証明資格を得るための勉強だ。
五学年からでも足りるかと思ったんだが、いかんせん実践に寄りすぎているので四大属性への理解が足りなかったのだ。とりあえず分かる地点まで戻って進めている次第である。
旦那様から直々に『今年中に取れ』と言われているので、ペースとしてはちょっと急ぎ気味だ。試験に挑むとなると、知識の穴抜けが多過ぎる。
あと、魔法理論と実践だけではなく、普通に教養科目と歴史学が混ざってくるので辛い。ざっと目は通しているが、興味のないことを頭に入れるのは苦手だ。まあ、誰しもそうだろうが。
「うーん……俺暗記もの苦手なんだよなあ……年号やら死んだ偉人やら覚えて何になんだよ、って昔から思ってたし」
『年号だけを覚えようとするから良くないんじゃないか? 年号よりも歴史の流れで何が起こったか、の方が重要だと思う。同時期に各国で何が起こったか紐付けられないのなら本質は理解できないだろうし、ただの情報として捉えるのなら、それは結局知識にはならないんじゃないか』
「……駄目だ、カコリス。それはな、頭が良くて歴史に興味があるやつの考え方なんだよ……」
言っていることは分かる。非常によく分かる。だが出来るかは別だ。あとやりたいかも別である。
頭を掻きつつ、一先ず後回しにする。その他のまだマシな教科の間に挟みつつ消化することでなんとか良いものとして印象づける作戦だ。俺はこういうことをしないと大抵碌に覚えない。
しかしまあ、お嬢様にどの口で嫌味言ってんだ、とはなるからやるけども。
前世だったら絶対にやらなかったな。何故なら張り合うような相手も、怠惰で居ても恥ずかしいと思うような相手もいなかったからである。
ペンを回しつつ教科書全体にざっと目を通す。何度か繰り返し、流れを把握しつつ詳細を頭に叩き込む段階にまで持っていく。俺は書いて覚える派なので、基本的に覚えたい事柄は繰り返し書くしかない。
カコリスに念話に付き合ってもらっているのは、ラジオ的な感覚だ。多少別の音声を聴いていた方が覚えが良いタイプなのだ。逆に言えば、無音だと他所ごとに思考が持っていかれるとも言える。
そういう訳で度々雑談を振ってもらっているし、俺も無意識で返しているのだが、覚え切れない単語を再度書き出し始めたところで、カコリスが不意に素っ頓狂な声を上げた。
『────はあっ!?』
「うお、なんだ、びっくりした。何かあったか?」
『こっちの台詞だ! ヒデヒサ、お前今なんて言ったか覚えてるか!?』
「ん? あー、えーと……ああ、そうだ。『お嬢様って好きな人がいるらしいぜ』?」
「その後は」
「『でも誰なのか教えてくんねえんだよな、専属執事続けるなら当主との相性は結構大事だと思うんだけど』……?」
ペン先は一度止まった形のまま、紙の上に黒い染みを作っている。
カコリスは俺の答えにしばらく無言になった後、ものすごくデカい溜息を落とした。凄まじく長かった。
何だか妙な居心地の悪さを感じつつ、言葉を待つ。よく分からんが、俺は今怒られている気がする。なんでそんな気がするのかも分からんが。
『何がどうしてそんな流れになったんだ。何も聞いていないぞ』
「あー……悪い、色々あり過ぎたから説明してなかったな」
というか、俺にとっては重要でも、カコリスにとってはどうでも良いかと思って言わなかった。お嬢様の結婚相手なんて、カコリスには興味もないだろうし。
だが、それはどうやら俺の思い違いだったらしい。きちんとした説明を求めるカコリスに、俺は魔王討伐後に陛下の私室で聞いた話を伝えた。
お嬢様は既に想い人が居て、聖女として名を馳せたお嬢様への求婚の全てを断り、自由恋愛ののちに結婚できる権利を得たという話だ。しかしその『好きな人』とやらにさっぱり思い当たる節がないのである。
四六時中俺のような邪魔者がくっついていた以上、相手を探すのには苦労していたことだろう。もしかしたら手紙や何かでやり取りをしていたのかもしれない。そんな風に憶測を交えつつ話した俺に、カコリスは小さく呻き声を漏らした。どうした、胃でも痛いか。
『ヒデヒサ』
「おう」
『お前』
「おう、何だ」
呼びかけられたので答えたが、念話は再び沈黙した。何かに思い悩む唸り声だけは聞こえてくるので、通話が切れている訳ではない。
俺の話を聞きたがっている様子だが、もしかしたらカコリスの方にこそ悩みがあるのかもしれない。カコリスは勤勉で心優しい人間だし、なんでもそつなくこなすからあまり心配はしていないのだが、それでも何かしらのトラブルに巻き込まれることはあるだろう。
相談くらいなら幾らでも乗るんだけどな、などと思いながら言葉を探していた俺に、カコリスはようやく、意を決したように切り出した。
『ヒデヒサ、これまでお前とそういう話はしてこなかったと思うから突然なんだと思うかもしれないんだが』
「何だよ、俺とカコリスの仲だぜ。遠慮せず何でも言えって」
『好きな女性というのは居るのか?』
「は?」
やっぱり悩みのようなものがあったらしい、と耳を傾ける準備としてペンを置いた俺の脳内に、唐突な質問が降ってきた。突然なんだ。先に断りがあっても尚、思ってしまった。
間抜けにも口を開けて固まった俺に、カコリスは気が急いた様子で咳払いを響かせる。
『いや、何、普段は恋愛話なんてしないだろう? そもそも其方の世界は魔王への懸念があったし、特にここ最近は緊迫した状況が続いていたし、そんなことを相談できる機会ではなかったというか……』
「ああ、なんだ。カコリスお前、好きな子でも出来たってことか。でもなあ、俺はあんまりそういう面では役に立たねえからな」
『恋愛相談なんてのは役に立つか立たないかじゃないだろう、話せる相手が信頼できるか否かだ』
「……それは確かに」
至って真面目な口調で紡がれた言葉に、小さく苦笑を返す。信頼できない相手に恋愛相談なんぞした日には悲惨なことになる。思い出の少ない学生生活でも、遠巻きにそんな悲惨な光景をいくつか見てきた。
カコリスが俺を信頼できる相手だと思ってくれているのは、素直に嬉しい。まあ、何より、世界が別だから何を言っても秘密は守られる、というのも大きいかもしれないが。
「しかし……好きな女性、ねえ」
『いないのか? その、例えば好みのタイプ、だとかいうのも……』
「うーん……」
言っていいか迷う。実はお嬢様のことを主人としてだけではなく、女性として大事に思いつつあるんだ、なんて言ったら、カコリスは椅子ごとひっくり返るかもしれない。それは別に『リーザローズ・ロレリッタ』にトラウマがあるから、とか、そういう話ではなくて、単純にこれまでの俺とお嬢様の付き合いがあまりに碌でもないからだ。
幼少期から子供じみた諍いを繰り返し、逃げ追われの狩猟染みた戦闘に励み、暴言と嫌味と罵倒でコミュニケーションを取ってきたのだ。何がどうして好きになるんだよ、となるだろう。仮に何年か前の俺が聞いたら、絶対に『頭でも打ったのか?』と言うだろう。
でもまあ、カコリスなら良いか。ひっくり返らせたら申し訳ないが、少なくとも変に茶化されることもないだろうし、何より俺が本心を話すことでカコリスも相談がしやすくなるかもしれない。
そう考えて、俺は書き取りを再開しながら(なんだか気を紛らわせる方法が欲しかったのである)、あくまでも軽い調子で告げた。
「実は、最近お嬢様のことを女性として意識してるっぽいんだよな、俺」
沈黙。
なんだか大分似た空気を最近味わったような気がするが、あれがどんな理由だったかは上手く思い出せなかった。やはり俺は記憶力が弱い。
静寂の中、しばらくペンを走らせる。ついでに歴史学の教科書も覗く。
『コーフォランド条約』って何だったかな、なんて思ったところで、思い浮かべた人物名の幾つかが吹き飛ぶような声が響いた。
『────はああぁっ!?』
「うお、びっくりした」
『こっちの台詞だ!』
「いや、まあ、驚くのは無理もないと思うんだが、なんて言えばいいかな、魔王戦を超えたお嬢様がさ、今までより綺麗に見えるっつーか」
『違う、違うぞヒデヒサ。俺が驚いているのはそこにじゃない、そりゃもちろんそこにも驚いているがそこじゃない、そこじゃないんだよ』
「じゃあどこだよ」
『………………それは言えない』
「な、なんでだ」
一体何に口止めされているんだ。謎の挙動を取るカコリスに尋ねてみるも返事はない。別に俺としても言いたくないことを無理に聞き出すつもりはないが。
驚いたせいで大きく外れたペン先を修正する。長く伸びた黒い線を避けて筆記を続けていると、恐る恐る、と言った様子でカコリスが口を開いた。
『……ヒデヒサはそれでいいのか?』
「ん? 何がだ?」
『いや……だから、お嬢様には好きな人がいるんだろう? それで、ヒデヒサもお嬢様が好きなんだろう。……好きな人が誰か別の……別の人と結婚しようとしていたとして、ヒデヒサは辛くないのか?』
「あー、そう言うことか」
聞きたい意味が分かった。なるほどな、それで驚いた訳だ。
そりゃまあ、自分が好きな相手が他の誰かと結婚しようとしていて、そこで『側に置いて貰えるといいんだがなあ』なんて言っていたらおかしくも感じるだろう。
「それがなあ、全然辛くないんだよな。だってお嬢様がもしも好きな人と結婚できたなら、それは少なくとも望まない結婚よりは幸せになれる訳だろ? 俺は別にお嬢様と恋人になりたいとか、結婚したいとか、そういうことじゃなくて、ただ、なんて言うかな、世界一幸せでいてほしい、と思ったんだよ。別にお嬢様が幸せだって言うんなら、わざわざ俺が無理に相手に収まる必要なんてないんだよな」
『…………随分と殊勝な考え方だな。ヒデヒサは欲しいものには躊躇いのない男だと思っていたが』
「食欲はな。我慢しないって決めてる」
苦笑いと共にこぼした俺に、カコリスは言葉の続きを待つように口を閉ざした。ああ、何か話したいことがあると察せられている。
そうだな。俺もちょっと、自分の気持ちを整理したいとは思ってたんだ。気持ちっていうか、まあ、人生というか。
「だって食欲はとりあえず金と環境さえ整っていれば、求めただけ与えられるだろ? そうして満足感だって得られるし、それを与えてくれた人に感謝だって出来る。
でも、愛とか恋とかはそうはいかない。こっちが幾ら求めたって、向こうが受け入れられないなら何にもならない。理屈じゃないからさ、頭ではどうにもならないし。心で求めて、それを返されないって思い知るのは、まあ、怖いよ」
愛を求めるのは怖いことだと思う。他の何も──何なら死ぬことだって怖くないが、それだけは怖いと思う。
俺を愛して欲しい、と示して、それだけは出来ない、と切り捨てられるのは怖い。愛を求めるというのは、言うなれば剥き出しの心をそのまま差し出すようなものだからだ。俺は多分、幼少期にそれをやって、かなり痛い目を見た。
両親は互いに愛し合っていたけれど、その愛の中に俺はいなかったのだ。いやはや、流石に堪える。ガキの頃のトラウマを引き摺ってるなんてまあダサいけど、これこそ理屈じゃどうにも出来ない。心の問題だからだ。
「要するに臆病なんだ。求めなければ傷つかねえとでも思ってるのか分かんねえけど、これ以上どうこうなりたいとも思わないし。まあ、そういう、俺が自己中だって話」
最後に笑って誤魔化したのは、そうしないと変に重くなりそうだったからだ。こんな程度の苦しみで重い空気出す訳にはいかないしな。何せ、カコリスなんて俺よりよっぽど辛い経験をしている。その上で、他の誰かが犠牲になるのならもう一度辛い人生を、記憶を持ったままやり直してもいい、とさえ思っているような奴なのだ。
俺とは比べ物にならないほど立派な奴である。本当に、尊敬している。そんな良い奴が向こうで俺の代わりに生きているなんて、かなり誇らしいことだとも思う。
『……ヒデヒサ、薄々思っていたんだが、お前はかなり馬鹿だな?』
おっと。そんな誇らしい、尊敬すべき相手に馬鹿だと断じられてしまった。
まあ紛れもなく馬鹿なので異論はないんだが。
『アホだと言ってもいい』
特に反論はない。ので、そのまま黙って聞いている俺に、カコリスはどうしてか少し苦しそうな声で続けた。
『求めたものを得られなかった時の苦しみは、勿論分かるよ。それを求める気持ちが強ければ強いほど、きっとどうしようもなく辛い。立ち直れないくらいに傷つくことだってあるのが恋だし愛だ、その認識は間違っていない。
でもな、お前は一番大事なことから目を逸らし続けている。見なくて済むようにしている。答えはすぐ目の前にあるのに、だ。
……お前はアザン・クレイバーに対して、肩書きや表面ばかりを見て正当な評価をしていない、と憤っていたが、おそらく今のヒデヒサはそれを同じことをしているぞ』
「え゛っ」
話が思いもよらない方向に転がった。勢いよく転がった上に、ぶつかってきたそれにとんでもないダメージを受ける羽目になった。
俺がアザンと同じことをしている? お嬢様を正当に評価していない、だと? そんなことはない。俺は誰より近くでお嬢様を見てきたし、その努力が本物であることを知っている。
「さ、流石にそれはないんじゃないか……」
『いいや、ある。お前はお嬢様の気持ちを勝手に想像し、勝手に決めつけ、彼女の心による決断をなかったものにしようとしている。分かるぞ。親友だからな』
「……………………」
『なあ、ヒデヒサ。心当たりは本当にないのか?』
「……………………」
ない、と言い切ろうとしたのに、俺の口は一向に動かなかった。断っておくが、心当たりは本当にない。
お嬢様の周りにいた異性は、聖女パーティの面々と、学内でたまに関わる程度の生徒だけである。その中のどれにも、お嬢様は強く心を惹かれているような素振りは見せていなかった。
あれだけ分かりやすい表情筋の持ち主である、そんな感情を抱いていたらすぐに分かりそうなものなのだが。
思考の先は袋小路だ。どうにも道が見つからない。この先があるような気が、しなくもないのだが。
行き止まりでアホみたいに悩んでいる俺に、カコリスは一転して呆れたような声で小さく笑った。
『とりあえず、今はそれでいいんだろう。お嬢様も納得の上で覚悟を決めた筈だ。外野が急かすようなことでもない。……まあ、狼狽えたあまり大騒ぎしたのは悪かった』
「いや、カコリスが謝るようなことは一つもないだろ。俺の方こそ、なんか悪いな」
何が悪いのか、と聞かれれば具体的な答えは出せないのだが、なんだかとても悪いことをしたような気がする。きっと、カコリスが心の底から俺を心配してくれているからだろう。
俺は何か、カコリスに心配をかけるようなことをしてしまっている。元々多くの心労を抱える身の親友に余計な負担を掛けたくはない。
上手いこと解決する方法があればいいんだがな。何せ、何を解決すればいいのかが分かっていないので解決のしようがない。
一先ず言えることは、俺は、目の前にいるお嬢様のことをもっと深く見る必要があるんだろう。見えるはずのものが見えていない、というのなら、それこそアザンと同じ扱いをされても文句は言えない。……それは流石に嫌だからな。
その日の午後、なんでか知らんがまた訪ねてきたアザンに、「貴様! 何か僕の噂話でもしていなかったか!?」と絡まれた。変に勘がいいなこいつ。リィナは土属性の魔法が得意なようで、俺に聞きたいことがあって連れてきたらしい。
手土産持った来客をそのまま追い返すのも忍びないので、致し方なくもてなすことにした。狭いが、まあそれなりに使い勝手のいい部屋である。
ちなみに、お嬢様は不在だ。見事自由の身となったお嬢様は本日、ルナ嬢と楽しく『女子会』を開催していらっしゃる。
敬愛なる聖女様に会えなかったアザンはしばらく文句を垂れていたが、なんだかんだと二時間くらい居座り、雑談のついでに俺が卒業証明資格試験を控えているという話をしたら、六学年時の高等詠唱術式の参考書をいくつかおすすめして帰っていった。
…………マジで何なんだったんだこいつ。
可愛げのようなものが見えなくもない辺り、尚更不気味である。
◇ ◆ ◇
「────ルナ!! 会いたかったわっ!!」
「私も、会えてとても嬉しいです、リザ様」
王都にある可愛らしいカフェの一室。予約した個室にて顔を合わせたルナとリーザローズは、久しぶりの再会に明るく顔を綻ばせた。
聖女としての仕事は終えたものの、数々の場に出なければならないリーザローズと、新たに有望な研究者として活躍を望まれているルナ。互いに多忙に多忙が重なり、こうしてようやく二人でゆっくりと会えたのは、魔王討伐後から一月が経ってからとなっていた。
「少し痩せたのではなくて? きちんと食べているのかしら、駄目よ、食事だけは何があっても切り捨ててはいけないわ」
「大丈夫です、ちゃんと栄養は摂っております。ただ、お菓子を作る暇がなくて……その分研究で気は紛させているのですが、少し寂しいですね……」
残念そうに零しながら手元のメニュー表を眺めるルナは、どうやらそこに並ぶ洋菓子たちの制作過程に想いを馳せているようだった。彼女は常々、製菓は魔法術式の構築に似ている点がある、と思っている。
正しい材料を、正しい分量で、適切に扱って処理しなければ、望むものは得られない。完璧と最善を求めれば求めるほど奥は深く、果てはない。そういう点で、ルナは菓子作りと魔法開発を同じように愛していた。
それはそれとして、単純に綺麗で美味しいものは大好きである。
「リザ様! この新商品、とても素敵だと思いませんか?」
「あら、色が華やかで良いわね。飴がコーティングされているのかしら……こっちは花弁を模しているの? 綺麗ね」
「そうなんです、二種類あるのですけれど……その……」
「いいわよ、二つ頼んで半分ずつ食べましょう」
にっこりと微笑むリーザローズに、ルナも嬉しそうにはにかむ。正直なところ、別に二人とも二つ食べるくらいは訳ないのだが、単純に『半分こ』がやりたいので相談した形だ。
壁にかかった小さな鐘を鳴らして店員を呼び、おすすめの紅茶と新商品の洋菓子を注文する。店員を見送った後、リーザローズはふと窓際へと目をやった。
個室ではあるものの、陽の光を取り込むように作られた大きな窓からは柔らかな日差しが差し込んで開放的な空気がある。
そこから見えるのは、なんとも平和な街並みだ。ほんの一月前に魔王の顕現があったなどとは思えないほどに。
何処か誇らしい気持ちで笑みを深める。機嫌よく笑ったリーザローズを眩しそうに眺めていたルナは、用意された紅茶にそっと口をつけてから、心の底から祝福を込めた声で尋ねた。
「ところで、カコリス様とリザ様の結婚式はいつ行われるのですか? 式典も無事に終わりましたし、そろそろなのですよね?」
紅茶が燃えた。割と派手に。火柱である。軽く身を引いたルナは、慌てふためきつつもそっと、耐火術式を付与したハンカチを、カップに被せた。
なんだかんだ、この二人の付き合いも長くなっている。対処はお手のものであった。あとは単純に、あらゆる荒波に揉まれすぎて、ルナの肝が据わってきたとも言える。
対するリーザローズはといえば、親友に対する気安さと心を許している部分もあってか、普段よりも更に狼狽えた顔で、それでも最後の矜持を持って、紅茶のカップを割とスムーズに下ろした。
「どっ、だっ、えっ!? け、結婚式!? そんな、ま、まだ気が早くてよ!!」
「えっ、そ、そうなのですか……? 陛下直々に婚姻の自由が許されたとあったので、あの、て、てっきりもう既に約束を交わされたのかと……! も、申し訳ありません」
「べ、別に、謝るようなことではないわ。むしろ謝るべきはあの男よ、全く……あのウスノロと来たら……信じられませんわ……!」
「……何か、婚姻を遅らせねばならないような事情があったのですか?」
最近のルナは多忙が極まっており、王城内の情報や聖女パーティの面々については、たまに聞き拾える程度の事柄しか知らないままだった。
本当に、寝ても覚めても研究である。朝から晩まで、研究で殴り合っている。コラットン家とカルグス家は、そろそろもはや『喧嘩が楽しい』という領域に来ているのではないだろうか。
ルナは何処か遠くを見るようにして研究室の面々に想いを馳せ、休日まで考えたくはない事柄だっただのですぐに頭から追い出した。代わりに、大事な親友の言葉に集中する。
「だ、だって……あの男……わたくしが、…………す、…………」
紅茶を睨みつけるリーザローズの顔は赤い。下手したら首まで真っ赤に染まっている。
今にも爆発しそうな顔でカップを見下ろしていた彼女は、やがて覚悟を決めたように力強く顔を上げると、やや掠れた声で、できる限りの勢いをつけて言い放った。
「あの男はわたくしがあの男を、あっ、愛しているなどと少しも思っていないようなのですわ!」
「そ、そんな馬鹿な」
「…………そんな馬鹿なことが有り得るのがあの男なのよ」
思わずカップを持つ手が震えてしまった。ソーサーとカップが当たり、カチカチと音を立てる。マナー違反もいいところだったが、マナーなど気にしている場合ではなかった。
「た、確かに? わたくしはまだ、明言はしていないのよ。その、でも、だって、別に、い、言わなくたって、もう、わ、分かるのではなくて? ね、ねえ?」
「……存分に伝わっていらっしゃるかと思います」
「そうよね!? わたくしだって、ここまで来てバレていないだなんて、そんな馬鹿なことは考えていないのよ! でも! けれどね!! バレていない、のよ!!」
「…………なんだか恐ろしくなってきました」
「わたくしもよ」
とうとうカップを置き、震える両手を握り合わせたルナに、リーザローズが自身の手を重ねる。手と手を取り合い、しばし見つめあって震えていた少女二人は、そこでにこやかに微笑んだ店員が運んできた新作のケーキを目にすると、するりと行儀よく背を正した。
新作の商品説明を淑女の笑みで持って聞き、店員が扉の向こうに消えると同時にさっと目を合わせる。ケーキは一旦、後回しである。
「……その、これは私の勝手な憶測なのですが」
「是非教えてちょうだい。ルナはよく人を見ているから、信頼できるわ」
「恐縮です。ええと、私が関わったお二人の様子から見るに……カコリス様も、決してリザ様に好意がないわけではない──どころか、むしろかなり好意的であると言えます」
「……そ、そうかしら? そう見えるのなら、その……そ、そうなのかもしれないわね……」
明らかに嬉しそうに、しかし不安げに頷いてみせるリーザローズの顔に浮かぶのは、恋する乙女そのものの表情だ。
期待と不安が入り混じり、自分でもどうにもできない衝動に振り回されている。彼女のそういう顔を見るとき、ルナはいつも、なんて愛しい方なのだろう、と微笑ましくなる。是非とも、愛する人と幸せになってほしい。
だからこそ、『これだけの好意の嵐を前にして全く気づいていない恐ろしい男』こと『カコリス』をなんとかしなければならなかった。
「ですが、カコリス様から見れば、リザ様は幼少の頃からお世話を続けてきた仕えるべき主人である訳ですよね。いくら女性として素敵な存在になっていたとしても、前提として、『恋愛の対象でではない』という位置に置いてしまっているのかもしれません。だからこそ、『リザ様が自分を愛することなどあり得ない』と思っていらっしゃる、というのも有り得ます。
人というのはかなり思い込みが激しい生き物ですから、『そういうものではない』と信じ込んでしまえば、自分の中の価値観を突然変えるのは難しいものです。それこそ、全てを一変させるような衝撃がなければ、価値観は変わりません」
静かに語る彼女の胸の内にあるのは、これまでずっと自分で自分に繰り返してきた、『私はどうしようもなく駄目な人間である』という価値観だ。自身が本来持つ能力の全てから目を逸らし、己を信じてくれる大事な人からの評価ですら切り捨てて、ひたすら全ては自分に責任があるのだと、戦うことを諦めてしまった記憶。
ルナにとってそれらを全て一変させた光は、間違いなくリーザローズだった。彼女がいなければ、ルナはリィラルという大事な人すら切り離し、何もかもを諦めて生きていっただろう。
リーザローズ・ロレリッタにはそういう、眩いばかりの力強さがある。だから、希望はある筈だ。
「わたくしが、何かこれまでとは違ったことをして意識してもらう必要がある、ということかしら? 上手く浮かばないのだけれど……」
「方法は幾つかあるの思うのですが……場合によっては髪型や衣装を変えて違った印象を与える、なども有効だと聞いたことがあります。ですが、リザ様の身の回りの世話はカコリス様のお仕事の内ですので、見慣れていない髪型や衣装の方が少ないでしょうし……」
「…………なんなら、入浴後の就寝着も知っているわね」
「……………それは……手強いですね……」
実際のところ、ルナも恋愛経験が豊富というわけではない。幼少の頃に出会ったリィラル一筋で、何処か神にでも縋るように愛を捧げていた。リィラルもただ真摯に、ルナを助けたいという一心で想いに応えてくれたように思う。その結果、立場と責任のある彼を随分と困らせてしまった。後悔がないと言えば嘘になるが、それら全てを含めて今の関係があると言える。
しかし、ルナとリィラルは初めから好意の種類はあれど相思相愛であった。どう考えてもリーザローズとカコリスのような関係の始まり方はしていない。参考に出来る部分は殆どないだろうし、恋愛小説や戯曲から引用した知識も今ひとつ噛み合わなそうだった。
「申し訳ありません、お役に立てず……」
「あら、そんなことはないわ。そもそも、あの男がわたくしに愛されるはずがない、と思っているだなんて発想、私の中には無かったもの」
しばらく頭を悩ませるも、妙案が出る気配はない。やや気落ちした様子で肩を落としたルナに、リーザローズは半分に切り分けたケーキを取り皿に分けながら、何処か自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「そうよね……愛を伝えるからには、きっと、相手に伝わるように、受け止めて貰えるように伝える必要があるのだわ。自分の好きと言う気持ちに、少し振り回され過ぎてたのかもしれないわね」
恋愛というのは相手がいるからこそ成立するものである。リーザローズはどうしようもなく『あの男』が好きだし、一生の忠誠を誓ったのだから、このままずっと共に居れば、いつか好きだと言う気持ちも受け入れさせることが出来るのではないだろうか、と思っていた。
でも、そもそも対象外だと扱われているのなら、対象内に入るための伝え方をしなければならない筈だ。きちんと意識してもらえるように。
「……ところで、わたくし、今自分に驚いているのだけれど」
「? なんでしょう?」
「振られるとは一切思っていないのよね、どうしてかしら」
自信と肯定感の象徴であるという自負すらあるリーザローズだが、流石にこれは自己肯定が突っ走りすぎではないだろうか。
フォークで掬い上げたケーキを口に含む。丁寧な所作で味わいつつも自嘲の笑みを浮かべたリーザローズに、ルナは一度目を瞬かせ、ゆったりと瞼を伏せるようにして微笑んだ。
「それは当然でしょう。カコリス様は、言葉以外の全てでリザ様を愛していらっしゃいますもの」
それが友愛か敬愛か、はたまた家族愛かは分からないが、かの専属執事の所作の全てには、紛れもない愛が込められていた。
だからこそ、リーザローズは迷うことなく決断し、一生を共にする相手に彼を選んだのだ。
何処か自信に満ちた声音で言い切ったルナの微笑みに応えるように、リーザローズはなんとも愛おしげな、柔らかい笑みを浮かべた。




