第三十話
魔王も完全に消滅したし、魂の共有によってお嬢様も無事に意識を取り戻したし、無事にみんな揃ってハッピーエンド。
そういう風に収まればよかったのだが、事態はそう簡単には行かないようだった。
魔硝石の寝台で目を覚ました俺とお嬢様は、すぐに異常事態が起きたことを察した。
二つの寝台の間、ちょうど視界に入る位置に、緊迫した面持ちの王妃殿下が立っていらっしゃる。ルナ嬢と所長の姿がないのは、恐らく万が一にも耳に入れずに済むように、だろう。
一難去ってまた一難、というやつである。意識を失う前に声を聞いたような気もしたので、王妃殿下がこの場にいること自体にはさほど驚きはしなかったが、殿下の顔に浮かぶ表情から、状況がかなり不味い方向に転がっていることは察した。
「聖女リーザローズ。魔王討伐直後に申し訳ありませんが、今しばらく貴方の力を借りたいのです」
「殿下がわたくしを必要となさるのならば、無論いつだって力になりますわ」
力強く答えるお嬢様の声に迷いはなかった。先ほどまでの病的な青白さこそないものの、とても平常通りとは言えない顔色であるにも関わらず、だ。
勢い任せに寝台から降りようとした結果、重力に逆らい切れずに崩れ落ちかけたお嬢様の身体を、すんでのところで支える。
「起き抜けに無理をしないでください、また倒れますよ」
「別に、無理なんてしていないわ」
「なんと。あれほどの無茶をしておきながら自覚がないとは、恐ろしさに私の方が気絶しそうです」
あの時、あまりにも肥大化した憎悪を前にして、お嬢様は無意識に魔王を完全に消滅しきる威力まで光魔法の出力を上げたのだろう。魂の限界を、意志の力のみで凌駕した訳だ。
そして今、魂の共有によって半減したとはいえ、疲労を抱えたままの身体で更に光魔法を使おうとしている。全く困った主人である。いくら心配しても足りねえな。
「言っておくけれど、お前にわたくしを責める権利はなくてよ! 無茶ならば、お前の方が先に仕出かしたのだからね!」
「返す言葉もございませんね。よってこの話は終いです、殿下の要件を伺いましょう」
「に、逃げたわね! 卑怯者!」
大人は卑怯でずるいのだ。というか、別に俺にお嬢様を責めるつもりなど一切ない。世界を救った英雄の何を責めろというのか。単純に、心配で小言が増えているだけである。
口調だけは勇ましいが、依然として体調は本調子ではない。立ちあがろうとする度にふらつく身体が見ていられず、とりあえず横抱きにして支えた(多分、この先移動の必要性が出てくるはずだと判断した)ところ、お嬢様は急に静かになった。よし、そのまま安静にしていてくれ。
「何が起こったのか尋ねてもよろしいですか? この通り、お嬢様は魔王戦で疲弊しております、場合によってはお力になれない恐れもあるかと」
「リュナンが倒れました。聖女リーザローズでなければ解決は出来ない事態です」
「…………陛下は何方に?」
訝しげに目を細めた俺に、王妃殿下は出入り口にさっと視線を走らせてから、殆ど唇を動かすことなく、囁くように答えた。
「地下牢に。リュナンの希望です」
おっと、果てしなく嫌な予感がしてきたぞ。
お嬢様の力──つまりは光魔法が必要で、陛下自ら地下牢──身動きと自害を封じる措置の施された場所に赴かなければならない状況。俺の頭の端に、苦悩する陛下の顔が浮かぶ。
陛下はずっと、得体の知れない不安に悩まされていると言っていなかっただろうか。不安と焦燥。その権化と相対した今、俺の脳裏にはひとつの仮説が浮かんでいた。
……この世界で『記憶の持ち越し』の処理が出来るのは女神だけである。ラピスがカコリスにそれを施そうとしていたのだから、当然そうだろう。だが、ラピスの干渉していない状態で、陛下はずっと記憶を保持したまま歴史を繰り返していた。そして、ラピスは陛下の存在自体にあまり重きを置いていない、意識をしていないように見えた。常時ではないとはいえ世界を観測している割に、扱いが不自然だ。
複製品だろうと、女神は女神である。その女神ラピスと同質の力を持ち、尚且つかの女神の目を欺けるとしたら、それは本来の女神ミアスであるはずだ。……そして、魔王はミアスより切り離され、肥大化した憎悪という力の塊。恐らくだが、ラピスを欺くくらいのことは出来るに違いない。
「魔王に関する事態ですか」
「…………リュナンの身に残滓とも呼べる存在が隠れ潜んでいたわ」
確信を得るべく尋ねた俺に、王妃殿下は薄らと青ざめた顔で頷いた。そこには陛下の身そのものを案ずる思いと、国王という立場のものに魔の王が侵食していたという事実に対しての懸念と恐怖があった。立場と感情が、忙しなくぶつかり合っているのが抑えた表情からでもよくわかる。
腕の中のお嬢様を見下ろす。真剣な顔で王妃殿下を見つめていたお嬢様は、不意に俺を見上げると、意志の通った声で告げた。
「ヒデヒサ、地下牢へ急ぎなさい。陛下をお救いせねばならないわ」
「承知しました。一刻も早く向かいましょう。殿下、先導をお願い致します」
「ええ、此方へ」
頷けば、王妃殿下が足早に研究室を出る。お嬢様を抱え直し、その後を追う。まだ仕事が残っているのだから、余計な体力を使わせる訳には行かない。お嬢様も体力の配分に文句はないのか、移動に適した体勢が取れるように腕が回された。
「……此処まで来て、尚も陛下を苦しめるだなんて、許し難いわ」
歯噛みしたお嬢様が、悔しげに呟く。そこには陛下の内に隠れ潜む闇の気配に気づけなかった自身への憤りも含まれているように思えた。
だが、外界に顕現していない魔の王に、此方から干渉する術はない。性質から考えるに最後の保険として残されていたのだろう残滓が、容易に気配を悟らせるとも思えなかった。
答えを求めての呟きでないことは分かっている。俺に出来るのは救いの一手となるお嬢様を、陛下の元まで無事に届けることだ。
本来は王家の者しか知らないのだろう通り道を選んで足を進めれば、目的地に近づくほど人気のない暗がりに繋がっていく。王城の一階、倉庫として使われているらしい場所の更に奥へと向かい、錆びた扉に王妃殿下が触れ、隠匿の為に施された魔法を解く。ちょうど、第三資料室の隠し扉と同じ要領のものだ。
「────この先です」
開かれた扉の向こうはひどく暗く、湿気を帯びた空気が漂っている。記憶としてちらついたのは、公爵家の懲罰室だった。懐かしい思い出だ。別に、一切懐かしみたくはないが。
石製の階段が、下へと続いている。お嬢様を抱えたまま見下ろしていると、奥の方から微かに声が聞こえてきた。
呻き声、に近い。獣の唸り声のようにも聞こえる。何にせよ、人のものとは思えない響きのそれが、暗がりから這い出るように響いていた。
殿下の白い顔から、更に血の気が失せていく。だが、それでも意を決したように足を踏み出した殿下の前に、闇の中から抜け出すように一人の男──旦那様が姿を現した。
「ルヴァ! リュナンは──、」
「君は見ない方がいい」
端的な進言だった。全ての反論を切り捨てるようにして言い放った旦那様は、戸惑いと共に詰め寄ろうとした王妃殿下の肩をそっと押さえ、静かに押し返した。
「何を言うのです、私は」
「リュナンは君には見られたくない筈だ」
真剣な顔で告げる旦那様に、殿下は一瞬、何からの言葉を紡ごうと口を開きかけたが、すぐに目を閉じ、小さく頷いた。
「……此処は任せます」
「御意に」
礼を取った旦那様が、王城内へと戻る王妃殿下を見送る。陛下が不在の今、王妃殿下までが姿を消している訳にはいかないだろう。踵を返した殿下の顔は、既に普段見慣れた慈愛と威厳に満ちた妃殿下の顔へと戻っていた。
背後で扉が閉まる。隠匿魔法が再び効果を発揮したようで、外の音はすぐに断絶された。此方の音も同様だろう。
改めて、旦那様が俺たちを見下ろす。制服に身を包んだ身体の至る所に酷い裂傷があるのが見えたが、息を詰めて見つめるお嬢様がその傷に触れるより早く、旦那様は軽く顎をしゃくって俺を促した。
「そのままで良いから付いてこい」
そのまま、とは。などと聞くまでもない。この様のことである。
良いとは言われたものの、お嬢様はすぐに腕を解くと、勢いよく俺から降りた。暴れるとまた倒れますよ。足を進めようとするお嬢様を、それとなく、存在感を消しつつ支える。
「じ、自分で歩けますわ」
「リザ、無理はするな。お前には既に十分無理をさせているし、……この後も無茶をさせる」
「問題ありません。陛下をお救いする為ですもの」
廊下は冷えているが、湿度は高い。じっとりと肌に張り付くような嫌な空気が漂っている。その奥から、人の言葉を成さない呻き声と、時折暴れているのか、牢に身体を打ちつける音が響く。
三人分の足音がそこに重なり、薄暗く照らされた空の牢がしばらく続いた後、旦那様はある地点で足を止めた。
「此処だ」
掠れた声が指し示した先では────人の形をした何かが、冷えた石の床を這いずっていた。
出来る限り拘束したのだろう身体は手足が縛られているが、その手は壁を掻きむしりでもしたのか、爪がほとんど剥がれてしまっている。
舌を噛まぬようにと用意されている猿轡越しに、唸り声が漏れ聞こえる。その全てが怨嗟の声である、と言葉を聞かずとも分かるのが、どうしようもなく悍ましく、そして、痛ましかった。
陛下の身体は、最後まで抵抗を続けたのだろう。片腕には、魔王を前にした時の若い騎士団員と同じように、自傷の跡が色濃く残っていた。そのまま放っておいたら後遺症すら残りそうな傷である。
一刻も早く、魔王の残滓から陛下を救い出さなければならない。
お嬢様も思いは同じだったのか、陛下の姿を見とめるや否や、ふらつきながらも牢へと駆け寄った。
その瞬間、拘束を引き千切った陛下が、影に忍ばせていた短刀を握り、お嬢様目掛け、檻の隙間から突き立てた。
否、突き立てようとした。
未遂だ。
俺が陛下の手首ごと蹴り飛ばしたので。
…………上手いこと短刀だけを吹っ飛ばせたが、本来人間には解きようがない拘束を無理に解いた陛下の腕は、元々の傷と相まって酷い有様になっている。少しの刺激でも痛むだろう。
ああ、くそ。やっちまったな。もっと上手いこと防げただろうが。届いたところで伝わりはしない謝罪を口にしつつ、お嬢様へと目を向ける。
「……お嬢様、お怪我はありませんか」
「問題ないわ。でも、これ以上手は出さないでちょうだい。陛下のお身体に不要な怪我は負わせたくはないわ」
反射で身を引いていたお嬢様が、落ちた短刀を拾い上げる。
恐らくは王家に伝わるものだろう、美しい装飾のついたそれを丁寧な手つきで俺に預けたお嬢様は、唸り声を上げる陛下を、じっと、静かに見つめた。
俺と同じくお嬢様を庇おうとした旦那様は、しかし、数々の裂傷が痛むのか、鈍く微かに声を漏らすと、不恰好に足を止めた。脇腹を抑えている辺り、肋骨も幾つか折れていると見える。
「旦那様、下がっていて下さい。拘束時に負った傷が酷いでしょう、それ以上動かない方がよろしいかと」
「…………俺は、…………いや、……頼んだ」
躊躇うように呟いた旦那様は、それでもそれ以上言葉を続けることはなく頷き、壁際へと身を引いた。壁に背を預けて座り込んだところを見るに、旦那様の限界も近かったのだろう。そもそも、此処に来る前も各所で起きた予兆対策への指揮を取っていた筈だ。疲労がない訳がない。
お嬢様は依然として、暴れ回り、牢を破壊してでも己を殺そうとする陛下の身体を一心に見つめている。恐らく、残滓の所在を確かめようとしているのだろう。
強く歯噛みしたお嬢様は、あらゆる感情を飲み込むように息を吸い、細く吐き出すと、吐き捨てるように呟いた。
「…………許し難い暴挙ですわ」
陛下を見つめるお嬢様の横顔には、抑え切れない怒りが浮かんでいた。真紅の瞳が、燃えるように輝いている。というか、実際結構輝いている。いつものことだ。
身体の両脇で握られた拳は、もはや爪を強く立てすぎて微かに血を滲ませている。全身を怒りに震えさせたお嬢様は、陛下から目を逸らすことなく、恐ろしいほど静かに命じた。
「ヒデヒサ、檻を開けなさい」
「…………しかし、お嬢様」
「良いから早くなさい、わたくしが望んでいるのよ」
どう考えても、牢屋越しに光魔法をかけた方が安全である。陛下もそう思ったからこそ、己をこの場所に閉じ込めさせたのだ。渋る俺に、お嬢様は鋭い声で告げた。致し方あるまい、我が敬愛すべき主人がお望みである。俺は黙って牢の鍵を破壊した。
……一拍遅れて旦那様から鍵が投げつけられたが、見なかったことにした。あったのか。鍵。そりゃまあ、かけたんだからあるか。すみませんね、即時決行を優先してしまって。
鍵の壊れた扉を開け放ったお嬢様が、牢の中へと足を踏み入れる。普段と同じくド派手な足音を立てて踏み出したお嬢様は、転がる陛下の胸倉を掴むと──む、胸倉を? 掴むと?──、真っ直ぐな声で怒鳴りつけた。
「聞こえていますの、この卑怯者! 陛下の中に潜む愚か者の女神────貴方のことですわよ!!」
地下牢に、罵倒が響いた。
どこまでも派手に、壁すら突き抜けるような罵声が響いた。
お嬢様の瞳は怒りに燃えている。
「貴方の事情はお聞きしましたわ! 愛していた民に裏切られたのですってね! そこに関しては同情致します! ですが、その他一切を許しはしませんわ!!
何故、憎しみを己で昇華も出来ない愚鈍な女神のせいで陛下が苦しまなければならないんですの!? 後始末だけさせて、自分は満足して消えるつもりでいらっしゃるの? 巫山戯ないでちょうだい!
貴方、本当は民のことなんて愛していなかったのではなくて!? 民を愛するというのは、陛下のような方のことを言うのよ! たとえ不平不満を浴びても平穏の為に努力し、時には憎まれてでも正しき道を示し、清濁を併せ呑んで民を導くことこそが愛ですわ!!
貴方のように全てを手助けして、甘やかして、そうして堕落させて、それで憎まれたから全てを殺し尽くそうだなんて、しかもそれを何の関わりもないわたくしたちに処理させようだなんて────許し難い冒涜ですわ!!」
怯えている。
陛下の影が。
時折光の加減とは異なる方向に揺らめいていた影が、明らかに逃げようとしている。
「魔の王は切り離した憎悪でしかないから、ご自分は関係ないとでも思っていらっしゃるのかしら!? だとしたら、それこそ度し難いほどの責任の放棄ですわよ!! ミアス・ルーゲンスティア様!!」
お嬢様は、陛下の胸倉を掴んでいた手を一瞬で放すと、決して逃しはしない、と感じさせる手つきで陛下の影に手を突っ込み、怯え逃げ惑う〝それ〟を引きずり出した。断末魔に近い叫び声が響く。
「もちろん、わたくしたちは自分たちの住む世界の平和を守るため、これからもどんな敵が現れようと全力で戦いますわ! 何よりも、この世界で生きるわたくしたち自身の為にそうするのです! 貴方の事情など知ったことではありませんわ!!」
お嬢様の手の中で、引き摺り出された人の成り損ないが暴れている。ちょうど、魔王の本体をそのまま小さくしたような形だ。
必死に逃げようと手足をばたつかせては、光魔法の輝きに身を焼かれ、か細く高い叫び声をあげていた。
「他の誰が許そうと、新たな女神たるラピス様が貴方を信奉していようと、わたくしは貴方を許しませんわ! この世界の者に迷惑をかけたこと────精々後悔して下さいませ!!」
憤りをそのまま罵声へと変換したお嬢様は、頭部を握り締めるように掴んでいた残滓へ向かってもう片方の拳を握り締めると、間違いなく、本体を屠った時と何ら変わりない勢いの正拳突きで、真っ直ぐに暴れるそれを打ち抜いた。
割れるような叫び声。地下牢を埋め尽くすほどの輝き。
これもう一回倒れかねんぞ、と冷や汗を掻く俺の前で、お嬢様は完全に消し去った残滓の存在を振り払うように、握っていた手のひらを軽く振るった。
肩で息をするお嬢様が、何度か深呼吸を繰り返してから、そっと此方を振り返る。
「お父様、この通り、無事に終わりましたわ。あとは陛下の治療を行います。……お父様は後回しになってしまうのだけれど、お身体の調子は大丈夫かしら?」
「………………………………大丈夫だ」
お身体の調子以外の全てが大丈夫ではない、みたいな顔をしていたが、旦那様はただ頷くに留めた。えらいな、と思った。俺だったら絶対に変な突っ込みを入れてしまうと思う。
お嬢様は横たわる陛下の身体の隣へと膝をつくと、此方を見ることもなく仕草だけで俺を呼んだ。促されるまま、牢の中へと足を進める。
「ヒデヒサ、わたくしを褒めなさい」
「…………お嬢様って最高ですね」
「雑だわ、ウスノロ。急に仕事が出来なくなったわね」
「元からさほど出来ていた記憶もないのですが」
仕事の出来る男のイメージでもあったか? 何処にあった? 何処にもなくないか?
俺に出来ることなんて、お嬢様を罵倒することと、逃げるお嬢様を捕まえることと、お嬢様が望むなら逃げ惑うくらいのことである。仕事と呼んでいいのかすら怪しいな。
「お前は仕事の出来る男だし、この世で最も信頼出来るわたくしの専属執事よ」
「……私が褒められてどうするんですか」
「お前を褒める時間を作ると言ったと思うのだけれど」
「今じゃなくていいんじゃないですかね」
いや、別に後でもいらないんだが、褒められるようなことは一切できていないし。などと思いながら見守っていたのだが、何故だか光魔法の威力はかなり上がっていた。何故だろう。別にお嬢様は褒められていないのだが。
魂の共有によって何らかの変化があったのかも知れない。威力が半減する、とは聞いていたし、実際そのように感じるが、それでも傷を癒やすのには十分すぎる程の効果があったようだ。
陛下の身体のあちこちに刻まれた痛々しい傷の数々が、ゆっくりと薄れていく。光魔法の拡散は変わらないが、妙な高揚感や精神への悪影響は、本当に綺麗さっぱり収まっているようだった。
一安心だ。これで一生懸命やっているお嬢様を無意味に罵倒せずに済む。
いつになく静かに見守ること十数分。各所を完璧に治し切ることより、全身の負担を軽減することを目的とした治療は、傷を薄く残す程度の段階で一旦止めることとなった。
「…………一先ず、このくらいで大丈夫でしょう。……体力が持たないのが残念ね、お父様の怪我は、後ほど……」
言葉を切ったお嬢様は、気力を保たせるためか、大きく一呼吸置いた。疲労からか、両手が微かに震えている。後方から身体を支えるように肩に手を添えれば、そのまま静かに体重を預けられた。
しかし、首を持ち上げて俺を見上げたお嬢様が、ゆっくりと陛下を指し示す。
「先に陛下を運んで差し上げて、わたくしは……此処で少し休んでいるから」
「…………承知しました」
「もう……大丈夫よ、そんな顔しないでちょうだい……」
そりゃあもちろん、此処から運び出すなら陛下が最優先だとは思っていたけれども。頑張れば二人くらい揃って運べないだろうか、みたいなことを考えながら見下ろす俺に、お嬢様は眠たげに目を閉じながら、微かに笑った。
そのまま、疲労からか穏やかな呼吸と共に意識が落ちる。今度のは昏倒ではなく、単純に睡眠に近い様子だった。
なるべく固くない場所を選ぼうと試み、そんな場所一切ないことに渋々諦める。壁際にお嬢様を横たえ、陛下を抱え上げた。
人目につかずに通れるルートは頭に入っているので問題はなさそうだった。何より、陛下の体調も問題なさそうで一安心である。
ところで、気になる点が一つ。
「…………どんな顔してました?」
さっぱり分からなかったのが妙に引っかかって聞いてみたのだが、旦那様からはただ一言「阿呆なことを聞いていないでさっさと働け」とだけ返ってきた。
まあ、仰る通りである。
俺は一人首を傾げつつ、それでも迅速に仕事をこなす為に階段を上がった。
◆ ◇ ◆
────陛下が目を覚ましたのは、それから三日後のことだった。
表向きは魔王討伐に向けての心労による休養、として自室にて療養していた陛下は、三日後に私室に俺とお嬢様、そして旦那様と王妃殿下の四人を集めた。
「すまない。私は、迷惑をかけてばかりいるな」
「何を仰いますか。陛下がこれまで諦めず民を導いて下さったからこそ、この世は秩序を保てていたのですよ」
開口一番謝罪から始めた陛下に、殿下を含め全員が口々に否定する。いつから取り憑かれていたのかも分からないが、陛下が優れた王であることは疑いようがない。
これまでの歴史の記憶があるからだ、などと謙遜しているが、こんな訳の分からん世界で此処まで立派な国を率いることがどれほど難しいか。今更言うまでもないだろう。
何より、陛下の政策のお陰で、魔王に破壊された地区の修繕もかなりスムーズに進んでいる。一時的に住居を失った住民への手当も厚い。もちろん、失われたものは多いが、それでも被害は最小だ。
「聖女リーザローズにも、随分と無理をさせた。強大な魔の王と戦った直後に、あのような後始末をつけさせてしまうとは……」
「全く構いませんわ。むしろ、陛下に害を成す存在に思いの丈をぶつけて滅することが出来てよかったくらいですの。ほら、大きい方はあまり言葉が通じないというか、倒し切ることに集中しなければならなかったでしょう? 尻拭いを押し付けてくる女神様なんて、わたくし許しきれませんもの。比較的言葉が通じる相手にぶつけられて良かったですわ」
「…………そ、そうか……いや、しかし……」
「それより陛下! 魔王討伐記念の祭典はどういたしますの!? 屋台は出ますの!? 是非とも一緒に回りたいと思っているのですけれど、陛下のご予定は!?」
「……ああ、そうだな。それも楽しみにしている」
ベッドの上で身体を起こしている陛下は、背もたれに用意されたクッションに背を預けながら、薄く微笑んだ。
魔の王、ひいては女神への罵倒を「それより」で済ませたお嬢様への呆れを含んでいるようにも見えたし、信頼と安堵を含んでいるようにも見える。まあ、どちらも持ち合わせているのだろう。リーザローズ・ロレリッタとは、そういう感情を呼び起こすタイプのお人である。
視界の端で旦那様が胃を押さえているのが見えたが、俺は見なかったことにした。後でまた怒られるんだろうな、とも思ったが、考えないことにもした。もはや避けようがない事項だからである。
お嬢様は本心から陛下と共に食べ歩きができるのが嬉しいらしく、満面の笑みで計画を語っている。魔王討伐を祝っての祭典では屋台が出る。王族依頼で出店した店の売上は全て寄付金となり、修繕と被害にあった世帯への補填に使われる予定だ。
まあ、このまま順調にいったとして、ひと月後あたりに開かれることになるだろう。
「それで、今回集まって貰ったのは、私の件についてだけではない」
お嬢様の計画に相槌を打ち、「私は辛いのは少し苦手だ」などと答えていた陛下は、話がひと段落ついたところで用件を切り出した。
「聖女リーザローズ・ロレリッタと、その専属執事であるカコリスについてだ。この度、二人は魂の共有を行い、光魔法の効果への対処とした。依存性、過度な高揚感による精神への影響等、あまり好ましくない効果については完全に消えたことが確認出来ている。
だがその代わり、光魔法の効果は本来の威力から半減した。そして、御主ら二人は一定の距離以上を離れることは出来ない。肉体と魂の乖離が起こり、一時的な仮死状態に陥ってしまう為だ。
この点は、これから先も研究を重ねることで解決法を探っていきたいと考えている。何分、かなり特殊な事例だからな……」
陛下の説明に、俺は軽く頷きを返す。此処までは前からも聞いていたことであり、この三日の間にお嬢様にも改めて説明したことでもある。
「具体的な距離に関しては、王都の南端と北端程度の距離だと考えてくれていい。少なくとも、王都で暮らす以上は生活に不自由は起こらない筈だ。
学園卒業後、聖女リーザローズは平和の象徴ということもあり、出来ることなら王城に近い位置に屋敷を設けてほしい。報奨金を含めて、此方で希望通りのものを用意する予定がある。使用人だが……現状、メイドが二名と、カコリスを連れて行くとあるが、これは間違いないな?」
「はい。その後のことはもう少し落ち着いてから考える予定ですわ」
「そうか。まあ、大事なことだ。充分に時間をかけてから決断するのが良いだろう」
納得したように頷いた陛下が、手元の書類を捲りながら続ける。
「ルナ・ウィステンバックについては先日伝えた通りだが、念のため確認しておこう。彼女は飛び級での卒業が決定した。ウェルダー・コラットンが此処数年で最も喧しくてだな……ジュード・カルグスもかつてないほど騒いでいる訳だが……まあ、悪いようにはしないと約束しよう。
……ところで、褒章としてカコリスにも卒業証明同等の資格を与えても良いと考えているのだが、どうしても自力で取るのだな?」
「有難いお話ですが、お嬢様が試験結果の比較をお望みですので」
素直に理由を答えれば、陛下からはなんとも言えない視線が向けられた。
俺を見て、お嬢様を見て、もう一度俺を見て、そしてゆっくりと旦那様を見やった。旦那様は、無言で首を横に振った。
なんだ。なんのやり取りだ今の。
「…………ちなみに、これは単に政略の話になるが、第一王子である我が息子と聖女リーザローズの婚姻の案が上がっているが、聖女自身の希望を鑑み、私の権限で却下している。この点に関してはどのような存在──例えば南の大陸の王族だとか、北の大国の王太子だとか──が相手であろうと覆ることはないため、心に留めておくがいい」
「えっ、あ……お、お心遣いに感謝致しますわ」
ついでのように付け足された文言に、お嬢様はその場でやや驚いたように肩を跳ねさせた。
跳ねた肩が少しばかり縮こまり、俯いたお嬢様がゆっくりと感謝の意を口にする。その頬は、微かに赤く染まっていた。
この度の戦いで、最良の聖女リーザローズの名は世界全土に知れ渡った訳である。何しろ、あの日立ち昇った光の柱は、大陸の端からでも確認できた程だと言う。
女神にも匹敵する聖女の存在を取り込みたいものは無数にいる。当然、山のような婚姻の申し込みが届いただろう。
だが、陛下はそれら全てを突っ撥ね、何より自国の政略すら度外視して、お嬢様に好きに相手を選んでいい、と告げたのだ。
どうやら、お嬢様自身がそのように希望したらしい。
つまり、お嬢様には既に、誰か希望する相手がいるということだ。いつの間に。四六時中俺と一緒にいたのだが、気になる相手を見つけていたらしい。俺が公爵家に行く前に顔を合わせていた第一王子でもないとなると……心当たりが一切ない。本当にいるのか? この先の自由恋愛への布石としての希望ではないだろうか。
しかして、口元に笑みを浮かべるお嬢様の顔は本当に嬉しそうなので、どうやら実在はしているし、なんならかなり本気のようだった。見つめているうちに、視線に気づいたお嬢様がそろりと此方を見た。照れ臭いのか、「な、何よ」なんて拗ねた口調で零している。
「何方か希望の方がいらっしゃるのですか?」
尋ねてしまったのは、完全に無意識だった。
この場で俺の発言権はないし、陛下の話を遮ってまで聞くようなことでもない。
ただそれでも、どういう訳か、口からは勝手に問いかけが出ていた。
そうして。
その場には、一瞬にして静寂が訪れた。
静寂。
ひたすらに、静寂である。
痛いほどの。
「………………………」
あまりにも静まり返っているのでだんだん怖くなって来た。室内の全員が揃いも揃って俺を見ているのも怖い。
何かとんでもない失言をした気配だけは感じる。どの点が失言だったのかが一切分からないため、俺はただ恐怖に耐えてやり過ごすことしか出来なかった。
そのままじっと息を潜めること数十秒。それまで胃を押さえていた旦那様が、軽い咳払いでもって、この場の恐ろしい空気を払った。
「……バカは一先ず置いておくとして、だ。……リザ」
「はい」
「本気なんだな?」
「……はい」
バカ呼ばわりされてしまったが、とてもじゃないが口を挟めるような空気では無かった。
俺の理解の及ばないところで何やら通じ合っているらしいお嬢様と旦那様は、しばらくの間視線を交わした後、互いに緊張が解けた様子で表情を緩めた。
「そうか。ならば私から言うことはない、あとはローズマリーに一任する」
「承知しました。お母様にはわたくしからきちんとお話ししますわ」
「……苦労するだろうが、お前の選んだ道だ。私は応援するとも。……まあ、苦労はするだろうが」
「覚悟の上ですわ」
「そうか。……まあ、そういうことのようだから、後は此方に任せて頂きたい」
旦那様の言葉に、それまで何故か固まっていた陛下は、ぎこちない仕草で頷いた。こんなに狼狽える陛下は初めて見た気がする。
それから細々とした報告や確認をいくつかしたのち、俺たちはその場で解散となった。
陛下の私室を後にし、何故か逃げるように去って行く旦那様の背を見送り、お嬢様と二人で帰路に着く。戻る先は学園内の寮部屋だ。少なくとも卒業まで、もう暫くはあそこで過ごすことになる。
しかし、なんだ。なんだか腑に落ちないような気持ちがある。結局、お嬢様が気になる相手は聞けていない。もしも婚約者が『妙に親しげにしている専属執事なんて嫌だ』というタイプだったらどうすればいいんだろうか。
まあ、魂の共有の条件を聞くに当初の想定よりは緩そうだから、仮に俺の存在が邪魔になったら王都の端の辺りにでも住めばいいのだろうが。
それはちょっと寂しいよな、なんて思いながら寮部屋まで戻ったところで、お嬢様は自室の前で俺を振り返った。
「さっきから一体何を考え込んでいるのかしら? 足りない脳味噌を無理に働かせてもあまり良いことはないのではなくて?」
「いえ、なんと言いますか……お嬢様も気付けば適齢期となっていたのですね、というようなことを考えておりました」
「…………そうよ、わたくしはもう適齢期ですし、もう既に立派な、魅力的な女性ですのよ!」
「とてもそうは見えない落ち着きのなさですがね」
「うるさいわね! 別に良いのよ! わたくしの魅力の前ではそんな欠点は些細なことだわ!」
確かに、その通りだな。
と思ったがために、反応が遅れてしまった。
確かに、そうだろう。お嬢様はお世辞にも公爵令嬢として相応しい淑やかさは持ち合わせていないし、なんなら聖女としてもかなりトンチキな奇行ばかりが目立つが、そんな程度の欠点は、お嬢様の魅力の前では些細なことだ。
だからきっと、お嬢様に愛された人間は必ずその魅力に気づいて、心惹かれることだろう。そうして愛し愛されて、幸せな家庭を築くに違いない。
それはとても素晴らしいことだと思う。心の底からそう思った。こんなにも魅力に溢れるお嬢様なのだから、きっと幸せになることだろう。
「……仰る通り、お嬢様の魅力の前では些細なことですね」
その時が来た時、其処に少しでも俺の居場所があるのなら、俺としては大変僥倖である。
出来れば良い感じの婚約者だと良いんだがなあ、などと勝手な未来予想図を描きつつ同意した俺に、お嬢様は突然、強く唇を噛み締めた。
千切れそうな勢いで噛み締めている。どうした、何処か痛いんですか。
負傷でもしてたか? 三日経って、少なくとも体調は普段通りに戻りつつあるように見えたんだが。
訝しむ俺の前で、お嬢様はようやく、ゆっくりと唇を開き、俺の名を呼んだ。
「ヒデヒサ」
「はい」
「おやすみ」
「はい?」
「精々良い夜を過ごせばいいわ!!」
「は?」
「おやすみ!!」
捨て台詞のように就寝の挨拶を放っていったお嬢様は、そのまま勢いよく自室へ飛び込むと、喧しく扉を閉めた。仮に眠気があろうと吹っ飛ぶ勢いである。
「………………流石に、もう少しくらいは淑やかになった方が良いのでは?」
……とてもじゃないが、これから健やかに眠る人間の挙動には見えなかった。




