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第二十八話 前

1/2 更新



 ────その日は雲ひとつない快晴で、恵みに相応しい日差しが降り注いでいた。

 洗濯物を干したらさぞよく乾くだろう、と思わず微笑んでしまうような。何処かに出掛けるのもいいかもしれない、と思えるような。


 そんな、幸福に満ちた一日を予感させるような朝に、魔王顕現の知らせは舞い込んできた。


「場所は何処ですの? すぐに向かいますわ!」

「イラーベルの港付近です!」


 聖女パーティの待機用に用意されていた屋敷の一室で、戦闘に適した服に身を包んだお嬢様が勢いよく立ち上がる。料理長渾身の英気を養う朝食が片手に握られたままだったが、恐らくあの方が気合が入るので特に指摘せず、扉も閉めずに駆けていくお嬢様の後へと続いた。


 魔王本体の顕現は予兆とは異なり、全体が顕れるまでにそれなりの時間を要する。膨大な力を持つ存在である魔の王が世界の境界を越え、活動可能状態に至るまで身体を再構築するまでの時間だ。

 無論、全身が顕れるまでに時間がかかるというだけで、既に現れた部分だけでも甚大な被害を齎す。それをどれだけ食い止められるかは、付近の騎士団による避難誘導と、出現した地点にどれだけ早く聖女パーティが辿り着けるかに懸かっている。


 故に、陛下は北の大国フェールメルズからの協力の申し出を受け入れ、待機場にグリフォンを入れることを許可した。

 フェールメルズの王は厄介な男ではあるが、繰り返した歴史でもパージリディアへの態度は一貫して変わらなかったのだという。『信頼できる敵』が彼の王を表すのに最も適した言葉だと、陛下は苦笑と共に評した。


 二人乗りの鞍がついた三体のグリフォンたちは、その獰猛な見目とは異なり案外人懐こい幻獣だ。

 研究によりそのように生体内の魔素を操作したのだ──とフェールメルズからの使者キャンベルは得意げに言っていたが、彼の様子を見るに、グリフォンたちは異様に可愛がられているようだったので、単に懐いている説がやや優勢だった。何せ、懐くまではキャンベル以外には普通に威嚇してきたしな。


「エーレ! クラン! ユィタ! 行きますわよ!」


 屋敷の階段を中程からすっ飛ばし、手すりを乗り越えて降り立ったお嬢様が外へと声をかける。三体それぞれのグリフォンたちが咆哮でもって答えた。準備は万全のようだ。


「お嬢様! 幾ら急いでいるとはいえ階段を飛び降りるなどと────とても淑女の振る舞いとは思えませんよ!」

「緊急事態なのだから多めに見なさいよ! こんな時にまで小煩いわね、お前は!」

「申し訳ありません、いついかなる時にもお嬢様に小言と嫌味を放つのが仕事ですので」


 残念ながら、紛れもない事実である。お嬢様も反論はし難かったのか、それとも応酬に割いている時間などないと判断したのか、小さく鼻を鳴らしただけでいつものように地を踏みつけるようにして駆けて行ってしまわれた。

 玄関扉を出て少し経つ頃、準備を終えた他のメンバーが集まる。グリフォンは三体、パーティメンバーは六人。二人一組で乗り込むことになる。組み合わせは俺とお嬢様、アザンとリィラル、アーサーとカルフェだ。アザンは最後まで不満げにしていたが、まあ、妥当だと言えるだろう。


 二段式の足掛けが付いている鞍に跨り、手綱を握る。これにはグリフォンの可聴域にある音を出す鐘が付いており、揺らすことで上昇や前進、降下といった指示が出せる。

 基本的には耳よりも目の方が優れている幻獣だそうだが、この鐘の音や、ある程度は人間の言葉も理解できるらしい。キャンベルが熱の篭った講義を怒涛の勢いで続けるものだから、意味もなくグリフォンに詳しくなってしまった。下半身が獅子なのに、何故か総排出孔なんだとか。へえ。一体いつ使うんだろうな、この知識。


「絶対の絶対に無事に帰してくださいよ! その可愛らしい羽や凛々しく愛らしい顔に傷一つでもつけてごらんなさい! 絶対に許しませんからね!!」


 キャンベルは青ざめた顔で、あくまでもグリフォンのみを心配し切った文言を発し、俺たちを見送った。

 付き合いは一週間程度だが、彼は大体四六時中この調子だ。素敵な幻獣以外の存在は軒並み無価値だと思っている類の男である。


「エレちゃん、クーちゃん、ユィちゃん……どうか無事で帰ってきておくれ……う、うう……」


 マジで一ミリも此方のことも、何なら世界のことも心配していない見送りの言葉を聞きながら、俺たちは空へと舞い上がった。

 ……なんとも締まらない出発だが、気は引き締めていかねばなるまい。


 魔王顕現が近づいたとの知らせを受け、かなりの民がいざという時の避難に備えている。だが、充分な避難所が確保されている訳でも、すぐにその場を離れられるような人間ばかりでもない。


 何より、聖女パーティが魔王を滅することが出来なければ、いくら抵抗しようともいずれは全てが飲み込まれ、世界が滅んでしまう。結局は俺たちに命運が掛かっているのだ。……まあ、俺はおまけの補欠メンバーな訳なのだが、入ったからには全力を尽くすべきだろう。



 イラーベルの港は、待機場から飛び続けて二十分ほどの場所にある。観光地としてもそれなりに評判が良く、建物は青系統の色合いで揃えられ、砂浜で採れる玉星魚キュニティアの鱗が恋人たちの間では流行りの装飾品として有名なのだとか、なんだとか。


「────見えてきたわね……!」

「お嬢様、私の肩に顔を乗せて覗くのは危ないからおやめ下さい、と一体何度言えば分かるのですか」


 遠目に見える海に目を凝らしていると、不意に俺の頭の横からお嬢様が顔を出してきた。覗き込むのに丁度いいのか、肩で顎を支えている。


「お前の方が背が高くて見えづらいのだからこうした方が合理的だわ」

「欠片も理があるようには見えませんがね。そもそも私が後ろに回れば全てが解決すると言っている筈ですが。一度停まって座り直しませんか」

「そんなことをされたらわたくしは飛び立つや否やグリフォンから飛び降りて華麗な着地を決めるわ」

「はあ……一体、何がそこまで嫌だというのです? 理解ができません」

「しなくて結構よ。良いから、きちんと手綱を握りなさい」


 前後の配置なんぞ変わったところで大差ないだろうが。飛行練習の時から散々言っているのだが、お嬢様は頑として後部座席を譲らなかった。敵に背後に立たれるのが嫌なタイプなのかもしれない。殺し屋か何かなのか?


 全く分からんが、この状況でわざわざ時間をロスするのも馬鹿らしい話だ。

 あとなんか知らんがアザンが喚いている。うるさい。リィラルが迷惑しているだろうが。


 三体のグリフォンは、それぞれ翼の風圧が影響し合わない程度の距離を保って飛行している。鞍には風魔法の付与魔術が施されているため、騎乗する本人は比較的快適に乗れる。この当たりは流石大国の技術力だと言えるだろう。


 さらに飛び進めること数分。

 青く美しい街並みの中心に、黒く悍ましい気配を放つ一点があることに、皆が気づいた。


 五メートルはあるだろう巨躯が、地面から湧き出るようにして形を作り始めている。

 黒く澱んだ泥のような身体は、まるで人の形を真似るように歪な四肢を生やし、未だ形が定まらずにぐらつく頭部を携えている。

 大きく膨らんだ頭部に顔はない。ただ、鼻下に当たるだろう部位に裂けたような切れ込みがあり、そこが時折口を開くように撓むのが見えた。


「────……!」


 『魔の王』とは、憎悪が形を成した厄災である。女神ミアス・ルーゲンスティアが切り離した、止め処ない憎悪の塊。全てを憎み、全てを滅ぼそうとする破壊の権化。

 『王』と呼称されるにはあまりに人格に乏しく、臣下も配下も持たない、一種の現象である。


 恐らくだが、複製元となった世界では、『魔王』と呼ばれるような存在が示唆されていたのだろう。ミアスは特に疑問を持つでもなく、あれを『魔王』と呼んでいた。


 まあ、呼び名などはどうでもいいのだ。本当に。どうだっていい。問題はそれが何を齎す存在であるか、だ。

 ただ、もしもあれに『魔王』と付いていなかったのなら、人々はあれをなんと呼んだのだろう────そんな疑問だけは、頭の片隅に確かに浮かんだ。


 肌を刺すような寒気と、胸の内に沸き起こる焦燥と不安が、距離を縮めるほどに増していく。恐怖を抱いているのは人間である俺たちだけではないようだ。

 グリフォンは魔王の姿を捉えた途端、三体とも足踏みするかのように羽根を止めかけたが、お嬢様が声をかけると意を決したように進んだ。


「……これは、確かに、高揚の効果でもないとやってられないな」


 口の中が妙に乾いている。この焦燥をなんと表せばいいのか、俺は知らない。仮に例えるのなら、そう、己が今までに味わってきた全ての嫌な記憶を無理やり掘り返され、更には治った筈の傷まで再び抉られているような、そういう、生理的な不快感と恐怖だ。精神を常に甚振られている。


 我々は今から彼処に降り立たなければならない。更には、あの災厄を打ち倒し、世界に平和を齎さねばならない。

 考えただけでも胃が痛くなってきた。だが、今現在もあの場所で避難の為に力を尽くしている者たちがいる。精一杯生きようとする人々を見捨てて逃げるという選択肢を持つ者は、パーティの中には一人もいなかった。


 ならば、俺たちは最善を尽くす他ないだろう。その為に必要なものは揃っている。此処は最強の聖女様たるお嬢様の力を存分に発揮してもらう他ないだろう。


「お嬢様」

「何よ、ウスノロ」

「頼りにしていますよ」


 振り返らずとも声が届いているのは分かった。何故かリアクションとして脇腹の当たりを強めに握り込まれたので。

 なんでだ。痛いからやめてほしいんだが。新手の攻撃か? このタイミングで?


「まっ、ッ、任せなさい!」


 奇行はともかく、気合は充分に入れ直したらしい。瞬く間に伝播する光魔法の余波で周囲はキラッキラに輝き始めた。

 俺以外の者は不安と恐怖が軽減されているんだろうなあ、などと思いながら、周囲を取り巻く粒子を眺める。実際、グリフォンたちは随分と落ち着いた様子で飛行体勢を立て直していた。


 さてここで。

 ため息をひとつ。


「お嬢様、少々罵倒してもよろしいですか?」

「ふん、構わなくてよ、それがお前の仕事だものね」


 理解ある主人で大変に助かる。普段の軽い余波程度ならやる気に欠けた雑な罵倒でもそれなりになんとかなるのだが、流石にここまでの規模だと少し気合を入れねばならないのだ。

 全く、どういう仕組みか分からんが、限りなく面倒な仕様である。


「では最近ややリバウンドしつつあるお嬢様に忠告なのですが、幾ら料理長手製の品が美味であろうと飢えた獣のように食い散らかすのはやめた方がよろしいかと思いますよ。制服の釦が締まらなくなるたびに涙目になるのはお嬢様なのですから、その碌に働かない理性で節制に努めては如何ですか? 世界を救った高貴なる子豚聖女として名を馳せたいのなら別ですがね」


 今度は割と本気で腹部を殴られた。たとえ仕事であっても許せなかったらしい。特に許されるつもりはなかったので、とりあえず甘んじて二発目も受け入れておいた。









「────リっ、リーザローズ様! 此方です!」


 観測された目標地点に辿り着いた時には、住民の避難はかなり進んでいる様子だった。騎士団による誘導と保護、日々の意思づけが上手く働いたのと、比較的住居が少なく、避難しやすかった場所だったことが幸いしたのだろう。

 少なくとも、聖女パーティが全力で戦える場は整っているように見えた。


 呼びかけに応え、声のした方向へと駆け寄る。住民の避難のため、同時多発的に現れた予兆の相手をする騎士団員たちの中でひとり、比較的若い男がグリフォンに対しての合図である魔煙灯を揺らしていた。


 グリフォンを乗りつけ、手早く降りる。三羽が地を蹴り離れていくのを見送ってから、騎士へと向き直れば、彼は焦りをそのままに表したような足取りで此方に駆けてきた。

 精悍な顔立ちだが、血の気が全て失せたのかと言うような真っ白な顔色をしている。今にも倒れそうだったが、お嬢様の姿を見てとると、その顔に微かに安堵の笑みを浮かべた。


「付近には予兆の顕現はありません、我々は住民の避難、避難に、じ、尽力し、ほとんど、の者が、イラーべルを出ています」

「それは何よりね。騎士団の尽力に感謝致しますわ」

「勿体無いお言葉です、俺、いえ、わ、私の隊はこれより、残った住民がいないか確認を、かく、確認を、して、参ります」


 引き攣った喉から零れ落ちるのは、今にも叫び出しそうな自分を何とか律して、千切れそうな言葉を繋ぎ合わせただけの声だった。

 その瞳は落ち着きなく彷徨い、震える唇からは、幾度か噛み締めたせいで血が滲んでいる。浅く、碌に息を吸えていないのだろう呼吸が焦燥を含んで吐き出される。この分だと、近い内に酸欠を起こしかねない。


「大丈夫です、落ち着いてくださいませ。わたくし達が来たからには何も……──これは? 魔の者による負傷ですの?」


 震える騎士を落ち着かせようと声をかけていたお嬢様は、ふと彼の手に目をやると、そっとその手を拾い上げるように握り締めた。

 支えられた掌を見つめた騎士は、しばらく他人事のように自分の手を見つめたのち、はっと瞠目した。


「きっ、気にしないでください、これは、自分で、自分でつけたものです、すみません、すみません、自分は、弱い、弱いので、ああ、俺は、なんで、だ、誰一人、まともに、」

「いいえ、貴方は立派な方よ。きちんと仕事をこなされたのですから。さあ、この先は何一つ心配は要りませんわ、わたくしが来たのですもの!」


 騎士団員である男の右手には、無数の切り傷が付いていた。錯乱をそのまま表したような、めちゃくちゃな太刀筋の傷跡からは、彼の苦悩が窺えた。

 そりゃそうだ。誰だって、あんなもの・・・・・に対峙したらそうなるだろう。気が狂いそうなほどの恐怖に立ち向かうために、彼には正気を保てるだけの痛みが必要だったのだ。


「治療なら手早く済ませてください。愚鈍なお嬢様に付き合っている暇はありませんので」

「ふん、言うじゃないウスノロ! こんなもの、十秒もあれば治してみせますわ!」

「遅いですね、五秒で済ませてください。薄鈍はお嬢様の方では?」


 仕事である。以上。

 アザンが今にも此方を殺しそうな勢いで見ているが、何も言うまい。

 今しがた治療を受けたばかりの騎士団員にも凄まじい顔で見られているが、何も言うまい。


「もしまた恐怖を覚えた時にはわたくしを思い出してくださいな。この素晴らしく尊い聖女たるわたくしが、いつでも貴方の心の側に付いておりますわ!」

「せ、聖女様……!」


 光魔法により本当に後光が差しているお嬢様を眩しそうに見つめた騎士団員は、感謝と安堵の涙を浮かべながらお嬢様の手を握り返し、意を決したように走り出した。ついでに俺には盛大な舌打ちが向けられた。元気になったようで何よりである。


「さて、我々はあれに立ち向かわねばならない訳ですが。今一度役割を確認しておきましょうか」

「何故お前が仕切っているんだ! さっさと下がれこの役立たず!」

「言われなくとももうすぐ下がります。私に出来ることは後方から支援しつつ野次を飛ばすことくらいですからね」

「この状況でも野次を飛ばすつもりだと!? こ、この、不敬の権化が!!」


 悲しい話だが、不敬の権化であることが俺の存在理由である。ぎゃんぎゃんと騒ぐアザンを軽く押し退け距離を取らせつつ、『魔の王』へと向き直る。

 視界に入れることすら悍ましい、人間への害意だけで形を成した異形の化け物。形だけが妙に人をなぞろうとしているのが、殊更に不気味だった。

 再構築される身体の端々が、無人の家屋をいとも容易く薙ぎ倒していく。


 その破壊の中心へと足を進めながら、アーサーが口を開いた。


「……前衛は俺とカルフェが努める。物理的戦力を減らすのが目的だ。死角からの攻撃や中距離、広範囲の足止めにリィラル。アザンは全体に強化魔法と、出来ればアレに対して減退魔法を頼む」

「承知した」

「出来ないとお思いですか? 見くびられたようですね!」

「…………力は尽くしますヨ」


 リーダーであるアーサーが仕切れば、アザンは充分に気合の入った答えを返した。マントを翻し、魔力回復効果のある魔法薬の詰まった瓶の数々を誇らしげに見せる。一本で小型の船が買える程度には高級な代物だ。

 一応、国家予算の中から必要分は支給されているのだが、アザンは私財を注ぎ込んでそれ以上の物を用意したようだった。


お嬢・・はとりあえず負傷の回復と、手足を十分削り切れたら、止めを頼む。完全に滅さなければ、生きた身体の一部に逃げられる恐れがあるからな」

「承知致しましたわ! 頼りにしておりますわよ、リーダー!」

「ああ、任せてくれ」


 聖女パーティという名である以上、最初はお嬢様が仕切っていたのだが、いつしかリーダーに相応しいのはアーサーだろう、という空気から彼が意見を纏める存在となっていた。

 ついでにいうとお嬢様は名誉顧問聖女である。何か顧問らしきことをしているところは一切見たことがないが、それでも一応、名誉顧問であった。


「カコリス、お前の状況判断能力は信頼している。危ないと思ったらいつでも指摘してくれ」

「勿論、出来る限りの手伝いは致します」


 分かり切っている作戦事項をわざわざ確認しているのは、何か話していなければ張り詰めた空気に押しつぶされてしまいそうだからだ。平静を装わなければ、今すぐ正気が何処かに逃げ出しそうだった。


 正直に言おう。ずっと吐きそうである。そりゃそうだ。俺には光魔法の恩恵がない。恐怖は恐怖のまま、嫌悪は嫌悪のまま、呼び起こされる本能的な忌避感が胸を締め上げてくる。胃が痛い。マジかよ。


 イラーベルの住民たちも、きっと全く同じ恐怖を味わったのだろう。そしてあの場にいた騎士も。それでいて避難を完遂したのだ。並大抵の精神力ではない。

 全く、尊敬に値する人間ばかりだ。皆が皆、生きようと必死にもがいている。欲望のままに食を求め不摂生で死んだ男には眩しすぎるぜ。


「では、私はこの辺りで距離を取っておきます。後方支援はお任せください」


 自嘲にも似た笑みを浮かべながら立ち止まった俺を、お嬢様が振り返る。


「約束は覚えているかしら?」

「擦り傷ひとつ負うつもりはありませんよ」


 何せ、この戦いが終わったらお嬢様に半分明け渡し、依存性の効果を打ち消さなければならない命だ。むざむざ捨てる訳にはいかない。

 努めて澄ました顔を作って答えれば、お嬢様は満足したように頷き、魔の王へと向き直った。


 一呼吸。気合を入れたのが、その背からでも見て取れる。


 アーサーとカルフェが散開し、左右から回り込むように巨躯へと駆ける。

 リィラルが伸ばされた触腕じみた黒い腕に凍結魔法を放つのと、アザンの強化と減退の魔法が発動するのはほぼ同時だった。


「────……!」


 人の形こそ成しているが、魔の王の体からは無数の触腕が伸びている。現在、視認できるだけで七つ。その内の二つがリィラルの凍結魔法により硬化し、アーサーとカルフェ、二人の騎士によって切り落とされた。切り離されて尚蠢くそれを、お嬢様の光魔法が焼き尽くすように滅する。


 ようやく形を成した魔王の口から、咆哮が響く。耳を劈き、精神に干渉する、負の感情を詰め込んだ叫びだ。

 前衛二人の足がやや詰まる。反射的にか、お嬢様が広範囲に対し光魔法を行使した。


 上空から狙いを定めるように先端を鋭く尖らせていた触腕が、今しがたアーサーとカルフェが飛び退けた場所へと突き刺さる。地面を抉り、周囲に土埃と石塊を飛ばした一撃は、人体にあたれば容易く四肢の一つは抉るだろう。


「五秒で終わらせると言っておりましたが、既に三十秒が経っておりますよ。大きくなったのは口だけのようですね」


 久々に持ってきた新聞紙を丸めたメガホンを口に当てつつ野次を飛ばす。アザンからはシンプルに『失せろゴミ』というジェスチャーが送られた。すまんな、まだ失せる訳にはいかないんだ。


 恐怖で動きを鈍らせ、強力な一撃で仕留める。意思はなくとも攻撃手段が確立されている。ただ生きる者を屠るためだけの動きだ。

 真っ先にお嬢様を狙わないあたり、攻撃してくる近くの対象から反撃に出る性質は変わらないのだろう。この辺りは、一応歴史に残る記録と同じだと言えた。


 定期的にそれとなく野次を飛ばしつつ、触腕の打撃で破壊された建物の破片による二次被害を土魔法の由来の蔦で防ぐ。

 出来れば家屋の少ない港側に誘導したいのが本音だったが、そう容易く思い通りになる相手ではないことはパーティ全員が理解している。


 緊張と焦燥を抱えたまま、俺たちは咆哮する魔の王へと意識を集中させた。



 


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