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第二十七話 【白の間】



 真っ白な空間で、ラピス・・・は何かに導かれるように視線を上方へと向けた。

 

 表情筋の働くことが少ない彼女の顔に浮かぶのは、確かな驚愕だ。まるで突然季節外れの初雪を見たような仕草で、彼女は己に降り注ぐようにして捧げられる『信仰』を受け止めるように掌を宙へと差し出した。


 定義上は天界に当たるこの場所にこれより上は無いというのに、それでも、祝福に値するものはいつも最も高く尊い場所から与えられる。


 誰かが、己の名を呼んでいる。否、誰か一人ではない。数え切れぬほど多くのものが、己の名を。

 何故。疑問は尽きなかった。どうしてあの・・世界の民が自分を認識しているのか。そもそも何故、ラピスはこの名前を『己の名前』だと認識しているのか。何故?


 ラピスは、ただの被造物だ。真なる女神に作られた道具でしかない。彼女の憎悪を打ち消し、彼女の愛した世界と民を救う為だけに用意された仮初の女神。目的を果たす為だけに存在している自分に、かつてない程の信仰が集まっている。


 その中心にいるのは、間違いなく件の聖女──リーザローズ・ロレリッタであった。


 聖女認定の式典にも使われた聖なる間で、彼女は一心に女神ラピス・ルーゲンスティアへの祈りを捧げていた。

 正装に身を包み、膝をついて祈りを捧げる少女は、普段は勝気な光を宿す紅い瞳を閉じているからだろうか、ひどく儚げに、美しく見えた。それこそ、正真正銘の『聖女』であるかのように。


『ラピス・ルーゲンスティア様、聞こえておりますか。わたくし、リーザローズ・ロレリッタと申しますわ。力不足の女神様に変わりまして、わたくし、いえ、わたくしたちが全ての後始末をつけに参りましたの。

 ご心配なさらないで、わたくし、是非とも貴方様のお力になりたいと思っております。わたくしがよりよく住み易い世界を維持できるように、貴方様の存在が必要不可欠ですもの!

 完全無欠のわたくしが実在を提唱したのですから、きっとすぐにでも充分な信仰が集まりますこと、お約束致しますわ!』


 ……内心で語られる言葉は普段の彼女と何ら変わりない点が、その美貌に妙な恐ろしさを生み出していた。何故そこまで自信満々でいられるのか、ラピスにはさっぱり分からなかった。彼女は純粋に、揺らぐことなく、創造主である女神よりも自分の存在の方が遥かに上だと信じている。この世に自分より偉いものはない。底抜けの無邪気さと自己愛により、そのように

信じ切っている。


 叱られはしないだろうか、などと思ってから、ラピスは思わず自嘲の笑みを浮かべた。

 後方で眠る彼女は、一度だって民を叱ったことなどなかった。ただ慈しみ、受け入れ、心の底から愛した。そして、だからこそ、このような事態に陥ってしまったのだ。


 ふと、ラピスの胸の内に違和感が滲んだ。

 ここ暫く、どうにも下界の様子が見づらかった。ラピスに認識できていない間に彼女には名前が与えられていたし、世界を覗けるようになった頃には、何故か聖女が『ラピス・ルーゲンスティア』の名を広め始めていた。

 何者かが、世界に〝干渉〟したのは間違いなかった。

 ラピスにはその権限は与えられていない。未だミアス・ルーゲンスティアからそこまでの権限を得ることも出来ていない。彼女にできるのは、あくまでも世界に送り出す新たな人間を作り出すことだけ。ならば、残る可能性は一つだけだった。


 振り返る。後ろにあるのは、白い棺。横たわった彼女には些細な表情の変化ひとつすらない。意識を失い、永遠に憎悪の熱に取り憑かれながら、日に日に魔の王の力を強めていくだけの創造主。ラピスを作り上げ眠りについてからの彼女は、これまで一度だって外界へ反応を示したことはなかった。


 だが、世界に干渉できる手段を持っている存在はこの場には彼女しかいない。

 ラピスの知らぬ間に何かが行われた筈だ。それが何かは分からないが、あの男が関わっていることだけは確かだろう。


 聖女からの祈りをきっかけに、久方ぶりに下界の様子が見れている。あの男──永松秀久は、どうやらいつも通りリーザローズの傍らに控えていた。

 祈りの間には他に誰もいないのだから、わざわざ彼が側にいる必要はないのだが、それでも常と同じく、専属執事たるものそうあるべき、とでも言うような顔で彼女の傍らに立っている。


『ラピス様はどのようなお顔をしていらっしゃるのかしら? 此方でラピス様を模した像を作れたらもっと布教が捗るのに、と思っているのですけれど、この不信心な痴れ者と来たら、女神様の見目を録に覚えていないと言いますの。

 女性の容姿に興味がないようで……そう、つまり、此奴は女性の魅力を感じる能力に乏しいのですわ! わたくしのような魅力的な女性が側にも関わらず少しも気づくことなく食欲に生きているのはその性質が関係しているのです!

 決してわたくしの魅力がカレーにも劣る、と言うことではなく! いえ、でもわたくしの作ったカレーだからこそ、ヒデヒサも夢中になって食べているのかしら……? あの、ラピス様はどう思われますか……? わたくしと、その、こ、この下僕が……っ、い、いえ、何でもありませんの!』


 自分は一体何の話をされているのだろう。ラピスは白い空間で一人、そっと首を傾げた。

 世界の命運の話をしているのではなかっただろうか? 『魔王』との戦いも、もはや数週間に迫っているのではなかったか? 何故、恋愛話に……? 私と恋愛話を……?


「…………? ……? え、……?」


 私と……恋愛話を……、する、つもりなのか……? この聖女は……?

 これまでの歴史でも、『女神』に祈りを捧げる聖女は少なからず居た。それはリーザローズ・ロレリッタを最も適正ある聖女として定める前の話であり、もはや切り捨てられた歴史の話ではあるが、少なくとも名も知らぬ『女神』に祈りを捧げるだけの信仰心を持つ人間は存在した。

 だが、その誰もが、魔の王を倒す力を願い、感謝を捧げるばかりで、このような雑談を振ってきた存在は一人としていなかった。


 確かに、それはそうだろう。これまでの世界では女神は『人格ある存在』として認識されたことは一度もなかった。厳密に言えばラピス自身も人格のある存在ではなかったが、名を与えられた今、彼女には個としての自我が確立されつつある。

 永松秀久がこの世界にやってきてからも多少の変化はあったが、ここに来て、彼女の人格には大きな変化が生まれ始めていた。


「れ、恋愛話をされている、のですか……私が……」


 恐らくだが、今のラピス──つまり、世界から求められている女神として──ならば、祈りに応えるという形で強く念じれば声を届けることは出来るだろう。

 だが、その一番初めの話題が恋愛話なのは……ちょっと、どうなのだろうか?

 そもそもラピスには恋愛など分からない。少なくとも、隣にいるその男は、やめておいた方がいいのではないだろうか?くらいしか言うことが無い。


 リーザローズ・ロレリッタはどうしても永松秀久が良い、と言うのだから、そんな案は口に出すより前に却下する他なかった。


「……………………」


 しかし、恋愛が分からないにしろ、ラピスにはひとつだけ気になる点があった。


 リーザローズ・ロレリッタが出会ったのは、カコリスの身体を使って転生した永松秀久である。彼と触れ合い、その人格と能力に影響され、リーザローズはこれまでにないほど真っ当に、それでいて厄介に成長を遂げ、難儀な恋に落ちている。

 リーザローズが『ヒデヒサ』を好きなのは間違いがない。だが、それは『永松秀久』本人を好きでいるのとは、少し違う。


 肉体は精神を入れる殻に過ぎないが、それでも精神は間違いなく肉体の影響を受ける。自分がどのような身体を持って生まれ、育って来たかは、人格に多大な影響を及ぼす。

 仮に永松秀久が元よりカコリスの見目を持って生まれていたのなら、今とは全く違った人格を持つ人間になっていただろう。当然の話だ。


 『永松秀久』という存在は、彼の肉体と精神が共にある状態でなければ自己を持つ個人として成り立たない。少なくとも、ラピスは人間をそのように定義していた。


 これは別に、リーザローズにとっては何の障壁にもならない定義だ。彼女にとっては、見えているものが全てであり、そもそも出会った存在がカコリスの身体を得たヒデヒサであるのだから。


 だが、永松秀久にとってはどうだろう?


 永松秀久はこれまで『カコリス』であると名乗ることで、何処か世界に対して傍観的であり続けた。リーザローズが本名を呼んでいることからして、『ヒデヒサ』として接するようになり、多少意識が変わった面もあるように見える。


 しかし、カコリスの身体を使っている彼が、本当の意味で『永松秀久』としてリーザローズに向き合う日は来るのだろうか?

 仮に想いを告げられたとして、それが叶うとして、真剣に交際について考えたとき、あの男が『自身の身体が借り物である』という点から目を逸らすとは思えなかった。何せ、自身への能力の評価すら、『カコリスの身体が優秀なだけなんだけどな』で済ませる男である。


 ややこしい。人間というのは、あまりにもややこしい。

 これまで、秀久と同じく──否、それよりも更に傍観者としての立場にいたラピスには、あまりに情報量の多すぎる問題であった。恋愛経験値ゼロの作り物の女神には、些か解決が困難である。


 故に、ラピスはきっと頑張れば届けられるだろう何某かの言葉を飲み込み、無言で祈りを受け止めるに留めた。今のところ、信仰はこのペースで足りている。

 代わりに、空間に取り出した小さな鐘を鳴らすことで答えとした。これは昔、ミアス・ルーゲンスティアが信徒達を集め言葉を届ける際に使っていたのを真似たものだ。


 祈りの間にも響いたのか、鐘の音を聞いたリーザローズがぱっと顔を上げる。その表情は明るく、晴れやかなものであった。


『……お言葉は頂けなかったけれど、これは確かにお返事でしょうね! 祝福の鐘……つまりはこれからも力を尽くすべき、とのことですのね!?』


 ちょっと違うけれど、もうそれで構わなかった。頑張ってほしい。魔王を倒すのも、その鈍感男を落とすのも。どちらも、好きなように頑張ってくれればいいと思う。きっとそれで救われる者は無数にいるだろう。


 常ならばこの辺りで観測を切り上げてしまうラピスだったが、今回はまだ知りたいことがある。二人の会話から、己が観測できなかった地点の事柄を知ることができないだろうか、と考えたラピスは、そのまま下界の様子を見続けることにした。


 決意を新たに拳を握りしめるリーザローズの後ろで、秀久が口を開く。


『予定よりも時間がかかりましたね。随分と熱心に祈っていたようですが、一体何を伝えたのですか?』

『えっ!? べ、別に、大したことではないわ! お前が気にするような点は一欠片とてなくてよ!!』

『左様でございますか』


 あっさりと頷いた秀久は、それきり本当に気にしないでいるつもりのようで、相槌ひとつで片付けてしまった。

 一瞬、呆けたように口を開けていたリーザローズが、少し拗ねたように唇を引き結ぶ。が、それ以上は自分でも墓穴を掘ると思ったのか、素直に話題を変えることにしたようだった。


『ところで、魔王討伐が近いのだけれど、お前はまだアザン様との喧嘩に決着がついていないのかしら?』

『……喧嘩というか、一方的に絡まれているだけなんですがね』

『でも、お前だって気に食わないと思っている節があるのでしょう? たまにわざと逆撫でするようなことを言うじゃない』

『それは、まあ……そうですが。今さら下手に出たところでクレイバー様は納得しないでしょう。どんな組織でも反りの合わない者はいます。流石に二年間で連携に支障は出ない程度にはなっていますし、このままでも問題ないかと』


 どうやら、また聖女パーティのメンバーで揉めているらしい。

 アザン・クレイバーは、これまでに送り出した人間たちの能力不足を補う意味で作った存在ではあるが、性格にはほとんど手を加えてはいなかった。ある程度自主性に任せたほうが上手くいくことが、これまでの歴史で判明していたのだ。……まあ、十度目に至るまでお世辞にも『上手くいって』などいなかったのだが。


 アザン・クレイバーが権威と家柄、そして才能ばかりに目を奪われるのは、彼の気質以外にもその育ちが関係している。

 幼い頃から付与魔術の才能を見出されたアザンは、付与魔術の権威である大祖母に預けられた。彼女は実力こそ申し分なかったが、典型的な権威主義の人間である。半ば虐待とも言える厳しい躾と共に教え込まれた価値観は、学園入学前にクレイバー家に戻された頃にはとっくに手遅れになっていた。そのように躾けた方が大祖母にとっては扱いやすかったのだろう。


 聖女パーティに選ばれたことで大祖母の手を離れたことは、むしろ彼女にとっては予期せぬイレギュラーだった。

 クレイバー家当主としては、悪影響を受けた息子の目を覚まさせられないだろうか、と言う意図もあったのだろう。散々悩んだ様子はあったが、結局は国王陛下の命ということもあり選定を受け入れた。


 実際のところ、アザン・クレイバーの態度は当初に比べれば随分と軟化している。

 聖女パーティの選定はリーザローズの認定より前に行われていたが、聖女リーザローズとその専属執事としてヒデヒサが加入する前は、パーティ内の空気はそれはそれは酷いものであった。


 貴族としての家柄を重視するアザンは、明らかに爵位の低いアーサーとカルフェを軽んじていた。リィラルも、態度には出していなかったが、低位貴族を見下す発言を繰り返すアザンにあまりいい感情は抱いていなかっただろう。

 実力だけを重視してメンバーを揃えたせいで、かなり酷いパーティに仕上がってしまったわけである。ただただ機械的に設定した存在だったが、改めて見ると問題点しかないように見えた。今更ながら、ラピスの胸の内を反省が占めていく。


 ……ともかく、最悪の空気を漂わせていた聖女パーティは、ヒデヒサが加入したことによってようやく今の形へと変わったのだ。

 アザンの関心は今やヒデヒサただ一人に向けられており、ヒデヒサ憎しのあまり、アーサーやカルフェへの評価を見直し態度を改めたほどである。


 アザン・クレイバーにとって『カコリス』とは、それほどまでに許し難い存在だったのだ。


 貧民街の生まれでありながら裏社会の権力者に取り入る強かさと類まれな才能を持ち、公爵家の一人娘の専属執事の座に収まり、御婦人方に噂されるほどの美貌でありながら、入学もしていない学園の授業を先取りして嫌味にまで活用する頭脳も併せ持つ。

 ……中身があの男であることを知らなければ、まさしく嫌になるほど優秀な男に見える。


 ただ、中身はあの男である。なんだか上手いこと歯車が噛み合って一見冷静に対処しているように見えるが、内情はあれである。

 外面を取り繕うのもまた、ある種の才能の一つと言えた。何せ、本当にアホなことを言っている時にすら『何か裏がありそうだ』と思わせるような空気を放っているのだ。ただアホなことを言っているだけだというのに。


 しかし外面しか知らないアザンにとっては、ヒデヒサは『生まれも育ちも卑しいくせに妙に実力を兼ね備え、身分も構わず高貴な方に暴言を放つ、これまでのアザンの価値観では許容しきれない存在』である。

 どうしたって反りが合うことはない。人間がそんな簡単に分かり合えるのならば、大陸の歴史はこのような形にはならなかっただろう。


 ラピスから見ても諦めるしかないように見えるのだが、リーザローズにとっては気にかけ、解決を望む事柄のようだった。


『……確かに、アザン様も私情を理由に職務を放棄するような方ではないから、魔王を討ち倒すことには全力を尽くしてくださるでしょうね。でも、仲を深めてほしい、というのは連携を危惧してのことではないのよ』

『では一体何を理由にそのようなことを? 私からすれば無駄な努力でしかないように思えるのですが』

『だって、お前……友達がいないではないの』

『……はい?』


 突如落とされた呟き──それもかなり深刻そうな響きのそれに、ヒデヒサはそれまでの受け流すような姿勢から一転、流星馬クロインが底なし沼に嵌ったような顔で固まった。

 何を言われたのか分からない顔をしている。返事もできずに首を傾げるだけのヒデヒサに対し、リーザローズはあくまでも真剣な顔で続けた。


『前に友人がどうとか言っていたけれど、よくよく考えても、いえ、考えなくとも、お前に友人がいるとは思えないわ。お前……やはり、架空の友人を作っているのではなくて?

 事情があってわたくしの側を離れられないのだから致し方ないことだけれど、信頼できる友人が一人もいないというのは、いくら無神経に足が生えたようなお前でも、その、きっと寂しいことでしょう?』

『……お嬢様、ちょっとお待ちください。一旦私の話を、』

『陛下とお会いした次の日あたりだったかしら? お前は珍しくかなり気落ちした様子で、友人から説教を喰らっただとか、そんなようなことを零していたわよね? でもお前が寮を出たという話は聞かなかったわ。一体どこのどんな友人に説教を受けたと言うのよ! いけないわ、架空の友人との付き合いを長く続けるのは精神にも良くないと、文献にも書かれていましたのよ!』

『あー……いえ、お嬢様、それは……お嬢様の聞き間違いでしょう』

『そんなことはないわ! わたくしはもう、お前の言葉を聞き逃すまいと心に誓ったのだもの! だからねヒデヒサ、お前は歳の近い友人を作るべきだと思うの。例えばわたくしとルナのような……いえ、そこまでの尊く美しい友情は難しいかもしれないけれど、とにかく、アザン様とは歳も近いし、ほら、最初にぶつかり合った方が殿方は友情を深めやすい、とも聞いたことがあるし……』


 リーザローズは確実に、至って真剣な表情であった。そしてその内心も、表情と同じく真剣なものであることは容易に察することはできた。


 これはラピスの予想でしかないが、恐らくヒデヒサは今回の干渉に当たり、何か致命的なミスをしたのだろう。そうでなければカコリスが彼が目に見えて憔悴するほどの『説教』を食らわせるようなことはないはずだ。うっかりリーザローズの前でカコリスの存在を匂わせるほどの消沈っぷりだ、余程のことを言われたに違いない。


 ともかく、カコリスの存在を知る由もないリーザローズはヒデヒサが精神的な不安から『架空の友人』を作っているのだと思い、実在の友人を持つように勧めているのだった。


 ……通話の魔法が広く普及した後ならば『遠方の友人と会話していたのです』とでも言えたかもしれないが、少なくとも今現在通信魔法に関われるのはルナ・ウィステンバックと研究所の所長、そしてリュナン・パウル・パージリディアとルーヴァン・ロレリッタのみである。

 残念ながらこの中にヒデヒサの友人として数えられそうな人間はいなかった。


『………………………………………ご忠告痛み入ります』


 ヒデヒサも同じようなことを一通り考えたのだろう。珍しく眉間に皺を寄せ、苦悩をそのまま表したかのような表情で目を閉じていた彼は、丸々二十秒ほどの沈黙ののち、絞り出すような声で呟いた。


 珍しいことに、ヒデヒサの方がやり込められている。きっと、完全に善意から言われているからだろう。彼は自分で思っているよりもずっと、人の善意と献身に弱い。いや、弱くなった、のかもしれない。


 傲慢にして残酷な暴君であったリーザローズがヒデヒサに出会って変わったように、ある種の孤独と諦観を抱えて生きてきたヒデヒサも、リーザローズに出会ったことにより変わっているのだ。

 人間は、関わり合うことで相互に作用する。何より、ラピス自身が彼らと関わったことで変化し始めているのだ、より深く関係を持つ二人が、これまでと変わらないでいられる筈がなかった。


『ですがお嬢様……一つ言わせて頂くのであれば、仮に友人になるとするなら私はリィラル様のような方が良いです。それに、クレイバー様もわざわざ私のようなものと友情を育みたいとは思っていないでしょう』

『あら、それはどうかしら?』

『…………と、言いますと』

『だってアザン様、お前に褒められるとなんとも言えない、そうね、嬉しく思って堪るものか、みたいな顔をするもの。ただ嫌いなだけなら、きっとあんな顔はしない筈だわ』

『……クレイバー様を褒めた記憶が無いのですが』

『褒めたと思ってはいないのではなくて? お前は研鑽を積む者には素直に賞賛を口にするでしょう、アザン様は間違いなく付与魔術では国一番の実力者だし、それに見合う努力もしているわ。それが垣間見えた時に意識せずとも褒めているのよ』


 リーザローズの語る言葉は紛れもない事実だった。ヒデヒサは基本的に努力を惜しまない人間を好ましく思う傾向にある。彼がアザンを気に食わないと思っているのは、アザンがリーザローズに対し『リーザローズ・ロレリッタは聖女だから優れている』と評価しているのが価値観からして許せないからだ。アザン・クレイバー自体の研鑽について、ヒデヒサはかなり素直に賞賛を送っている。

 全く意識せずに零している(これはリーザローズに対しても同じくである)ため、ヒデヒサ本人の記憶にはほとんど残っていない。だが、アザンは突然放られた評価に対し、毎度なんとも言えない顔をして受け止めている。

 一見苦虫を噛み潰したように見えるその表情が、実のところはどうにか唇が笑みの形を描かないように食い止めているだけであることなど、ヒデヒサ以外のパーティメンバーは全員気づいている。


 彼は一度自分を『嫌い』だと表した相手は、この先も一生自分のことを嫌いでいるものだ、と思い込んでいるのだ。それは恐らく、壊れた関係を一度も修復してこなかった人生に由来するのだろう。

 嫌いと言われたらそれがこの先も永遠に確定するなどと思っているから、リーザローズに対しても死ぬほど鈍いままなのである。そういう意味で『好かれる』という可能性を微塵も考慮していない。


 気づいた方がいいのか、気づかない方がいいのか。人間の心の機微にようやく触れ始めたばかりのラピスには判断をつけることは難しかった。よって、特にそれ以上考えることはなく、ただ二人の会話を聞くに留めた。

 ここでも観測を止めることはなかったのは、もしかしたら彼女の中に生まれた情緒の一端が関係しているのかもしれないが、少なくともラピスにはその自覚はなかった。


『お前がアザン様を逆撫でするようなことを言うのは、相手への実力を正当に評価せずに権威に流されてしまうからでしょう? 思うのだけれど、人というのは大なり小なりそういうものではないかしら? ほら、高名な画家と無名の画家だったら、やはり作品の評価には差が出てしまうのと同じよ』

『それは確かに、その通りではありますね。別に私とて、世間一般の評価基準にまでとやかく言うつもりはありませんよ。アザン様の問題点は、褒めているかのように振る舞いながら実質お嬢様を貶めている、ということに此処に来ても気づいていないということです』


 ヒデヒサのアザンに対するスタンスはいつもただ一つ。『お嬢様を正しく評価しろ』である。悪い点を無視してまで褒めたところでそれは正当な評価ではないというのに、アザンのそれは理想の聖女への賞賛でしかなく、ならば尚更、正当さなど欠片も生まれようがない。

 ヒデヒサにとってリーザローズとは、『欠点も無数にあれど、それを補えるだけの美点も備えた主人』なのだ。だからこそ、そこまでに至る努力が素晴らしいのだと、ヒデヒサは確信している。


 そしてリーザローズもヒデヒサがそのように自分を評価していると感じているからこそ、せめて努力にだけは誠実であろうとするのだ。

 誰だって、好きな人には失望されたくない。それも、こんなにも真っ直ぐに己を見てくれる想い人の前で、恥ずかしい真似が出来るはずもなかった。


『わたくしはこの二年の付き合いでアザン様がどういう方かきちんと分かっているもの。貶すつもりで口にした言葉などとは思いませんわ。それに、たとえこの世の誰にどんな風に言われたとしても、わたくしは何一つ気にならないわ。

 わたくしが疑いようもなく素晴らしい聖女であることには間違いがないのだし、それに……本当に評価してほしい人にはきちんと見てもらえているのですもの』


 やや居心地悪そうに、少し頬を赤くして咳払いを響かせたリーザローズは、そのまま逃げるように視線を逸らした。

 対面に立つヒデヒサが、そんなリーザローズを前にふと柔らかく微笑むと、小さく頷いてみせた。


『確かに、友情とは美しいものかもしれませんね』

『……え?』

『ルナ様とお嬢様の信頼を見ると、友とは良いものだと思えます。クレイバー様の件は些か半信半疑ですが、友好の手段を切り捨てるのもあまり褒められた態度ではありませんからね。一度検討してみます』

『…………え、ええ! そうね! 精々わたくしとルナの美しき友情を見て手本にするといいわ!』


 どうやらヒデヒサの中では、リーザローズの心の拠り所となる存在として浮かぶのがルナ・ウィステンバックただひとりに絞られているようだった。あるいはロレリッタ家の血縁者だけに限られるとでも思っている。


 ────いえ、貴方では? 今のは貴方の話では? 貴方では? あ、貴方の話では?


 ラピスは鐘を鳴らそうか五回ほど迷った後、黙って観測の窓を閉じた。これ以上見ていると自分の中の何かがどうにかなりそうだったのである。

 無茶な魔法を使った訳でも異界の神と契約を結んだ訳でもないのに、妙に胸が痛かった。名前を得たことによる副作用かもしれない。


「………………私は一体何を見せられたのでしょう……?」


 正確に言えば勝手に見ただけなのだが、ラピスはひとつの重労働でも終えたかのような気分で大きく深呼吸をした。

 そうして呼吸を整えたあと、そっと後方の棺へと足を進める。空間に溶け込むように鎮座する棺の傍らへ膝を突き、そっとその表面を撫でる。


 硬質で冷ややかな手触りは、温もりを失った彼女の肌を思わせるので少し苦手だ。だが、これに触れられるのもあと僅かだと思うと妙に名残惜しい。


「ミアス様……私は、貴方の望む通りに成せたのでしょうか……」


 答えはない。あるとしたら、それは存在の終焉のいう形でしか得られない。

 止めどない憎悪の円環から救いたいという願いと、このまま離れたくはないという想い。二つを抱えたまま、ラピスはしばらくの間棺の傍らに寄り添い続けた。





 ────白い棺が腐り落ちるかのように黒く染まったのは、それから一週間と四日後のことだった。




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