第二十六話
カレー回です
「いい天気ね、ヒデヒサ!」
「左様でございますね」
「絶好のカレー日和と言えるわ!」
「……左様でございますね」
左様でございましょうか。今ひとつ腑に落ちないが、少なくとも雲一つない晴れやかな空模様であることだけは確かだった。
王城に赴いてから早一週間。世界の成り立ちなどという割ととんでもない真実を聞いた割にすっかり普段の調子を取り戻したお嬢様は、計画していた『成人の儀』の祝いの品作りに乗り出すことにしたようだった。
魔王顕現が近いこともあり、予兆の発現頻度も増えている。聖女パーティとしての対応でも疲れているのに無理に決行する必要もないと思うのだが、お嬢様にとっては重要な催しの一つであるらしい。何より、魔王戦を控える中での息抜きにもなっているようだ。
準備のために何度か料理長に教えを乞い、四苦八苦するお嬢様の顔はそれなりに楽しそうなものであった。
さて、そういう訳で快晴の本日。
『お嬢様の初めてクッキング 〜カレー編〜』の決行となった。
失礼なところ、練習の様子を見る限り始まる前から大事故の予感しかしない。残念ながら、誰にでも向き不向きというものはあるのだ。
練習で自信を付けたらしいお嬢様には「わたくし一人で作るなら光魔法の効果も何の問題もないのでしょう? お前は祝われる側なのだから外で待っていなさい」などと言われてしまったがなんとか説き伏せ、料理長から貸し出してもらったキッチンには俺とお嬢様の二人で入ることに成功していた。
カレーくらい一人で作れるわ!と未だに言い張っているのだが、絶対の絶対に無理に決まりきっているので、たとえ泣き喚かれたとしても共にいる所存である。
いやまあ、流石にお嬢様もこんなことで泣き散らしたりはしないと思うが。単純に、俺がお嬢様の涙に弱い、いうだけで出した仮定の話だ。
料理長からレシピと材料を用意してもらったお嬢様は、調理に臨む格好として髪を一つにまとめあげ、白い女性用のコックコートに身を包んでいる。
わざわざ新しいものを用意してもらったらしい。……何事も形から入るタイプだな。
格好だけは一流シェフのような出立ちのお嬢様はしかし、人参(それに類するもの)とじゃがいも(それに類するもの)を持つ手つきが既に怪しかった。
まだ野菜を洗っているだけだというのに、包丁持たせたくないな……と思いながら眺めてしまう。
ちなみに、俺は一切の手出しが禁止されている。口を出すだけならともかく、手出しまでされてしまっては『わたくしが作ったことにはならない』からだそうだ。
別にそんなことはないんじゃないか、と思うんだが、お嬢様の中ではそのように定義されているらしいので、俺は現在、斜め後方で『お嬢様の初めてクッキング』を見守っている。
……これは特に関係のない話だが、料理長はレシピと材料を用意してキッチンを貸してくれる際、限りなく緊迫した顔で『もし聖女様が傷を負い要らぬ痛みを覚えてしまった場合私が全ての責任を持って斬首刑を受けます』と宣言した。天才料理人の首を落とさせる訳にはいかないので、仮に怪我をした時には全力で光魔法を使い証拠を隠滅してもらわねばならない。
……包丁持たせたくないな。マジで。お嬢様は何故風魔法(斬撃に使用可能)ではなく炎魔法の使い手なのだろうか。風魔法だったら良かったのに。まだ野菜と共にキッチンがぶち壊れた方がマシである。
「では────まず、野菜を切るわ!」
いざ尋常に勝負!と同じトーンで宣言したお嬢様は料理長の教えに従い、レシピを壁際に貼って一度最初から最後まで丁寧に確かめ、手順を一つ一つ追っていく。
『まずは全ての下拵えを済ませる』こと自体がレシピに組み込まれているあたり、ものすごく親切なレシピである。
俺も前世で自炊はしたことがあるが、たまに『その調味料(あるいは材料)はどこから生じたんだ』みたいな手順がぶち込まれると、結果的には悲しい出来になったりするのだ。手練れの人間のレシピは、たとえどれだけ丁寧であっても初心者も初心者な作り手には厳しかったりする。ほろ苦い思い出だ。
「お嬢様」
「何よ! 話しかけないでちょうだい! 集中しているのよ!」
「人参を置いてください、お嬢様」
「何故?」
「持ったままヘタを落とすのはやめましょう。いえ本当に。後生ですからおやめください。やめてください、縦に握ったままヘタを落とそうとしないでください。お嬢様。お嬢様? やめろと言ってるでしょうが! お嬢様!」
なんでガッツリ握り締めながら横薙ぎに落とそうとしてるんだよ。何をどう習ったらそんな切り方になるんだ。しかも人の話を聞かねえ。聞いてくれ。ヘタではなく料理長の首が落ちてしまう。
一旦止めろ、と必死にこいて止めた俺に、お嬢様は唇を噛み締めたまま睨みつけてきた。包丁をおろせ。本当に怒るぞ。
「…………何よ、わたくしがどのような切り方をしようとお前には関係ない筈だわ」
「お嬢様はヘタと一緒に指も切り落として私に食べさせる気ですか。猟奇的にも程がありますよ、良いから人参を置いてください。怪我したらどうするんですか」
「ふん、そんなの治せばいいでしょう」
「嫌です。あの人参さっき血塗れになってたな……なんて思いながら食べたくありません。いいから置いてください」
本当に嫌だったのと、不要な怪我をしてほしくない気持ちから眉を顰めた俺に、お嬢様は渋々と言った調子で人参を置いた。
人を刺す気満々の持ち方をしている包丁にも文句をつけ、まな板に沿った状態で落ち着かせる。やっぱり別の祝いにしてもらおうかな、という思いが二十回ほど脳内を駆け回っていたが、わざわざ俺の好みに合わせ、お嬢様の技量でも出来るレシピを考えてくれた料理長に申し訳が立たなかったので、あらゆる思いを飲み込んで続行することとした。
「いいですか、お嬢様には料理長のように手早く下拵えを終えるなどということは出来ません。これは下級魔法が使えない人間に上級魔法が使えないことと概ね理屈は同じです。努力の下地がないものには技術はついてこないのです。
それを肝に銘じつつ、一先ず人参の細い方の端を押さえてください。包丁は垂直に、刃の近くではなく、背の方を支えるように指を添えて。よく研がれていますから、力尽くではなく刃物を流すように引いてください、勢い任せにやったら此処で中止にしますからね」
押させると危ない気がしたのでとりあえず引かせておいた。口出しされるのが癪なのか不満げにしつつも、慎重に引かれた包丁が人参のヘタを切り落とす。
一応料理長の元でも包丁捌きは習ってから始めたのだが、気が急いているのかトンチキな動作が多い。一瞬たりとも目が離せない状態である。
「では、そうですね……このくらいの長さで切り分けてください。料理長に習った切り方は覚えておいでですか?」
「もちろん、覚えているわ」
「覚えている人間は人参をあんな持ち方はしないのですよ、お嬢様」
反論できなかったのか、一旦手を止めたお嬢様が包丁を置いてから俺を睨みつける。よかった、仮に突きつけてきた場合には何がなんでも中止にしてやるところだった。…………なんで俺は祝われるためにこんな疲労を覚えているんだ?
「……わかりました、お嬢様。一旦私がこの半分を剥きますから、真似してください」
「お前は手出しをしない約束だったじゃないの」
「知らないのですかお嬢様、約束とは破られる為にあるのですよ」
「わたくしとの約束を破るつもり? 二度とわたくしへの誓いを違わないと言っていた筈だけれど!?」
「それとこれとは話が別です。そもそも絶対の忠誠を皮剥きくらいで持ち出さないでください」
手を洗ってから転がった人参を取り、お嬢様に見せるようにして皮を剥いていく。私に出来るのですからお嬢様にも出来ますよね?とでも言ってやれば負けん気の強さで静かに観察し始めるので、扱いやすさとしては楽な方だ。
一度手本を見せたあと残りの分を手渡せば、不満げにしつつも思ったよりも慎重な手つきで人参を扱い始めた。ゆっくりと皮を剥いた人参を一口大に切り(見てるだけで凄まじく怖かった)、ひとまず別皿にまとめておく。
お次はじゃがいも(それに類するもの)である。正直に言うとピーラーが欲しかった。なんで無いんだ。この世界は案外便利なものに溢れているというのに、何故ピーラーは存在しないのだろうか。やっぱり風魔法使える人間を呼んでくるべきかもしれない。
「……お嬢様、指を切ったら直ちに中止にします」
「…………そんな真面目な顔で言わないでちょうだい。……変に緊張するじゃない」
「もう少しリラックス出来た方がいいですか? 歌でも歌いますか?」
お嬢様はなんとも微妙な顔で俺を見上げた。俺も『変なこと言ったな』と思ったが、音になってしまった言葉は今更取り消すこともできないので、そのまま流してもらえることを願った。
もしかして俺は案外テンパっているのかもしれない。いやまあ、テンパるだろうよ。こんな惨状見せられたらな。
「……歌いたいのなら歌っておきなさい」
「いえ、別に歌いたい訳では」
「では黙っていなさい」
「はい」
かつてない程に素直に頷いた俺の前で、お嬢様は限りなく慎重にじゃがいも(それに類するもの)を剥き始めた。
味と食感が似ているので俺が勝手にじゃがいもと呼んでいるだけの野菜なのだが、日本のものとは違って芽があちこちにあるということは無く、上部にあるものを一つ切り落とせばそれで問題ないのである。
これは本当に助かった。芽取り無しで取り除くなんてことになってみろ、惨劇だ。この世の終わりである。
「これは水に晒しておくのよね」
「よく覚えていらっしゃいますね。素晴らしい、その通りでございます。流石、才色兼備を自称するだけあります」
「……慇懃無礼を地で行くわね、お前は」
感動と安堵のあまり単なる褒め言葉を口にしたのだが、お嬢様からは胡乱げな視線が返ってくるばかりだった。怪我をしなかったことにほっとしすぎて過剰に褒めすぎたのかもしれない。
さて。残る野菜は玉葱(それに類するもの)である。材料はいたってシンプルだが、初めて作るカレーとはそのくらいが塩梅として丁度いい。何より、主役である肉が最高級の六面豚である。具材はシンプルな方が主役が引き立つ。
「お嬢様、球体ですので刃を入れる際には気をつけてください」
「分かってるわ。まず両端を切り落とせばいいのよね……」
料理長ならばすんなりと上を落とし、根の方は抉って皮を剥くのだが、お嬢様向けに『まず一端を落として平面の場所を作り、設置面を安定させて半分に切ってから皮を剥く』という方式を採用することにした。
見ているだけで怖いので、いっそ見ない方がいいんじゃないか、という気がしてきたが、完全に気のせいなのであくまでも近くで見守っておいた。怖い。俺は初めてお嬢様に対して恐怖を覚えているかもしれない。すげー怖い。誰かこの恐怖を一緒に共有してくれ。ルナ嬢とか来てくれ。頼む。
お嬢様の宝石を借りて通話したところ割と元気な様子を見せていたルナ嬢の顔を思い出す。彼女はお菓子作りも料理もそれなりに得意なようだったから、きっとこの状況を見たら一緒に冷や汗を掻いて見守ってくれたことだろう。
もし次の機会があったら一緒に来てもらうか……なんて馬鹿なことを考えつつ、お嬢様が先端を落として半分に割る様を見つめる。
料理長の指示通り、水に潜らせながら皮を剥いたお嬢様は、一度丁寧にまな板を流してから恐る恐るといった調子で玉葱に包丁を入れ始めた。料理長としては薄切りでじっくり炒めたいみたいだが、お嬢様向けに大体1センチくらいの幅を指定してある。有難い。ありがとう料理長。本当にありがとう。見てるだけで怖い。
「……………………」
「……………………」
「…………ウスノロ」
「何でしょうか」
「…………何か歌でも歌いなさい」
思わず息を止めてまで見つめてしまっていた俺の横で、どうやら同じく息を止めていたらしいお嬢様が謎の要望を口にする。その目が微かに潤んでいるのは、硫化アリルに似た成分がこの玉葱もどきにも含まれているからだろう。
ストン、ストン、と切れ味だけは抜群の包丁が玉ねぎを不恰好なぶつ切りにしていくのを眺めながら、俺は何を歌おうかしばし迷い、『クックラのおやま』を歌った。こっちの世界では子供向けとして知られる、割とポピュラーな歌である。
クックラ クックラ げんきなこやま いきてるこやま
おおやまこやま なかよしこよし みんなでげんきにさようなら
クックラ クックラ げんきなこやま いきてるこやま
おおきくそだて なかよしこよし みんなそこからきたんだよ
「………………案外上手いじゃない」
「お褒めに預かり光栄です」
切り終わった玉葱の方はお世辞にも『案外上手い』とは言えなかったので、俺は賛辞をただ受け止めるに留めた。別に切り方くらい何であろうと問題はない。無事に切り終わってよかった。
いつの間にか片手が勝手に胸を撫で下ろしていた。ちなみに、主役の肉は既に料理長が切り分けてくれているので心配ない。
深型の鍋に油が敷かれ、弱火でゆっくりと火が────、……火が、強い!
「お嬢様、火力を下げてください」
「え? でも、強い方が早く火が通るのではなくて?」
「レシピには何とありますか」
「…………弱火、注、鍋の底にちょっと炎の先が届くくらいでございます」
「注釈まで読み上げなくて結構ですよ」
料理長の記した文言を読み上げたお嬢様は、きゅ、と唇を引き結ぶと、鍋の下にある火を覗き込むようにして確認しつつ調節した。じわじわと炒められていく肉を見下ろしながら、お嬢様が両手で掴んだヘラで鍋をかき混ぜ、がたつく鍋に気づいて、片手は鍋を押さえるのに使い始めた。
油の中で転がる肉を、いつになく真剣な光を宿した紅い瞳が見つめている。この火加減なら多分そんなに睨みつけなくても焦げないとは思うのだが、お嬢様の目はまるで肉たちが突如逃げ出すとでも思っているかのような切迫した力強さで睨みつけているので、俺はその集中を途切れさせないよう、傍らでただ黙っていることにした。
室内に油の弾ける小さな音と、鍋底をかき混ぜるヘラの音が響く。
ふと、遠い昔に祖母が台所に立っていた時のことを思い出した。面倒な宿題に向き合いだらける俺の耳には、これによく似た音が微かに届いていた。
婆ちゃんのカレーは焼いたカボチャが入っていたんだっけ。どうだったかな。最後に婆ちゃんの料理を食べたのなんてもう三十年近くも前のことだから、鮮明に覚えているとは言えない。
「ヒ、」
「?」
「ヒデヒサ」
「はい」
「な、何か話しなさい」
「集中なさっているようですので、お邪魔になるかと思ったのですが」
「無言でいる方が緊張するのよ! というか、これはもうお野菜を入れてもいいのかしら!?」
炒まったら、って何処までなのよ!と叫んで振り返ったお嬢様の隣から、鍋の中身を覗き込む。ちょうど良さそうだったので、小皿に集まっていた玉葱たちを入れておいた。
「ちょ、ちょっと! わたくしが進めますのよ、勝手に手出ししないでちょうだい!」
「別に手助けくらい良いではありませんか。むしろ私はお嬢様の下僕なのですから、それこそ手足のように使えばよろしいのでは?」
「はあ!? 今日のお前は下僕である以前に主賓なのよ! それをお前が我儘を言うから此処に入れてやっているだけで……!」
「混ぜないと焦げますよ、お嬢様」
俺に抗議の言葉を浴びせるせいで止まっていた手を動かすように言えば、お嬢様は胸の内から湧き出る不平不満を引き結んだ唇でかろうじて堰き止めたような顔でヘラを回した。
勢いのままに吐き出したいのだろう不満が、膨らんだ頬に溜まっていく。が、結局音にはならず、吐き出されたのは溜息に似た空気だけだった。
やはり話しかけない方が集中できるのではないだろうか。特に声を掛けるでもなく黙ったまま見守る俺の横で、野菜にある程度火が通ったことを確かめたお嬢様が、用意していた水をゆっくりと注いだ。
あとは掻き混ぜつつ、煮立ったら灰汁を除く。水さえ入ってしまえば早々焦げる心配はない。お嬢様は灰汁をあらかた掬い終えると、そこでようやく一息ついた。
「……料理というのは何度やっても緊張するわね」
「ええ、本当に。緊張します」
「お前は見ているだけじゃないの、何を緊張することがあるのよ」
「本当に緊張します」
「何故繰り返したのよ」
知らず片手が勝手に胸を撫で下ろしていた。半目で俺を振り返ったお嬢様が、此方の顔に浮かんでいるのが心の底から素直な安堵であることを見てとると、文句を言いかけていた口を渋々と言った調子で閉じた。
そこから先は特に言葉を重ねるでもなく、お嬢様はただ野菜が煮えるのを見守るように目線を下ろした。浮かんできた灰汁を掬い上げることしばらく、出てくる灰汁も少なくなったところで、固さを確かめて調味料を加える。味を整え、料理長と共に十回ほど作り直したブラウンルーを掻き混ぜながら入れていく。
滑らかな茶色のそれは、お嬢様が大量の鍋を焦げ付かせながらやっとの思いで作り上げた代物である。お嬢様はどうにも火加減が苦手なようだ。というより、火は強ければ強いほど良い、と思っている節がある。強いのは炎魔法だけで結構なのだが、未だに伝わっていない気がした。
そんなこんなで、更に煮込むこと十数分。料理長のアドバイスを再度確かめたお嬢様は、小皿に取ったルーを味見すると、分かりやすく輝いた顔で俺を振り返った。
「────出来たわ!」
「お見事でございます、お嬢様。無事に作り終えられて何よりです」
「ふんっ、わたくしの手にかかればこの程度、赤子の手を捻るようなものよ!」
なんともご機嫌でいらっしゃる。完成したのが余程嬉しいらしい。火を止めるのをうっかり忘れそうな勢いで喜んでいるので、それとなく火を落としておいた。
「さあ、席に着きなさい、ヒデヒサ! わたくしが手ずから盛り付けて差し上げますわ! おかわりもありますわよ!」
「それはそれは、ありがたい話ですね」
これで米があれば更に最高なんだが、この際贅沢は言わないでおこう。カレーをリクエストしてからようやく、この世界米なかったな、と気づいたのである。シチューにすれば良かったぜ、と思った時には既に遅かった。ナンでも作ってドライカレーとかどうよ?と思った時には、みじん切りが怖すぎる……と想像だけで震えそうになったのでやめた。
本当に、あの時の俺はどうしてお嬢様に料理を作って貰おうなどと思ったのだろう。欲しいものが浮かばなかったにしても、もう少し考えようがあったのではなかろうか。
後悔がないといえば嘘になるが、一生懸命料理の基礎練習をするお嬢様を見守る中で、初めての挑戦に頑張る姿は素直に微笑ましいと思ったのも事実だ。今回の教訓は、『包丁を使わないで済む料理にしろ』の一点だろう。
それこそパンケーキとか、むしろパンでも良かったよな……などと思いながら調理場を出て、用意された席へと移動する。
素直に着席してサーブを待っていると、カレーを盛り付けた大皿と、料理長お手製のパンを乗せた皿を持ったお嬢様がやってきた。
「どうぞ、召し上がれ」
まるで一流シェフかのように堂々と言い放つお嬢様の顔には、声と同じく自信が満ちている。最後の味見での様子から見るに、満足がいくものができたようだ。良かった。これで納得のいかない出来で『作り直す』などと言われた日には、俺の心臓は握り潰されたかのような恐怖を受けて止まっていたことだろう。
実際、見目も匂いも、いたって普通のカレーである。美味しいことは間違いがない。
「では、いただきます」
あとはいかに俺がお嬢様の満足のいくリアクションを取るか、だな。いや、別にわざと大袈裟に褒め称えようなどとは一ミリも思っていない(確実に見破られる)が、少なくとも頑張って仕上げた作り手に対して失礼のない態度は取りたい。前世で俺に美味いものを作ってくれた料理人たちへの賛辞と同じように。
手に取ったスプーンには、歪に切られた人参と肉がちょうど収まった。香り高いそれを、何故か俺の横から身を屈めて見守ってくるお嬢様の視線を受けつつ口に含む。なんかすごい見られている。なんでだ。とにかく見られている。批評か。味の批評を求めているのか。
ならば気合を入れて感想を言わねばなるまい。そう思い、咀嚼ののちに飲み込んだ俺の口からはしかし、なんとも気の抜けた一言が、ころりと軽い調子で溢れ落ちていた。
「おいしい」
もっと気の利いた言葉を言うつもりだった。味の感想を並べつつ、適度にお嬢様の機嫌を良い方向に持っていけるような、そういう褒め言葉を声にするつもりだった。
しかし、俺の口から溢れたのは、ごく単純な四文字である。五歳の子供でもいえるような、簡潔な感想だ。こんな程度の言葉ではお嬢様は到底満足できないだろう。
もう少し具体的な感想でも付け足さねば、と隣に屈むお嬢様の様子を見て言葉を探そうとした俺は、そこで此方を見つめるお嬢様のひどく満足げな笑みを見て、そのまま見事に固まった。
「────そうでしょう! このわたくしが作ったのよ! 美味しくないはずがないわ!」
満面の笑みがひどく眩しい。恐らく本当に輝いている。光魔法の影響で。
だが、此処には俺とお嬢様しかいないので、このキラッキラは放っておいても問題はない。俺には光魔法は効かないからだ。お嬢様がいくらキラキラしていようと俺には何の問題もない。
ないか? 本当に?
本当に今、俺には光魔法の影響はないのだろうか? だってこんなにも、…………
「…………お嬢様」
「何よ」
「申し訳ありません、少々罵倒してもよろしいですか」
「は!? 何故よ!? 此処にはわたくしとお前しか居ないではないの!」
「このような碌でなしの執事程度しか側に置けないとは、とても高貴な聖女とは思えない体たらくでございますね。仕える者を見れば主人の格が知れるというものです」
「そ、それはわたくしというよりお前への罵倒になってはいなくてっ!?」
真っ当なツッコミが入ってしまった。だが、捻くれていても多少は効果があるらしい。キラキラの伝播は収まり、二人きりの空間は幾許かの落ち着きを取り戻した。
が。依然としてお嬢様は何故か妙に輝いたままであった。
……………?
「……なんなんだ、一体」
「こっちの台詞ですわ! とうとう本当に気が狂ったのかしら!? このウスノロ!」
「やはりシンプルに『バカ』辺りを使った方が……?」
「まだわたくしを罵倒する気ですの!? 何よ、やっぱり美味しくなかっただとか、今更言う気ではないでしょうね!?」
「いえ、これは美味しいです」
「そ、そう」
「これは美味しいです」
「真顔で言わないでちょうだい……」
「とても美味しいです」
「詰め寄らないでちょうだい……!!」
味の感想が虚偽だと思われてはたまらない。気の利いた言葉が出て来なかったのは事実だが、それはイコール味が微妙だったとか、物足りなかったとかではないのだ。
むしろ、手料理としての満足感は十分にあった。客としてではなく、自分個人のために作られた料理というのは、どこか特別な味がするものだ。
ああ、そうか。俺はもしかしたら、それを求めてこんなリクエストをしたのかもしれない。
俺を祝うためだけに用意された、手作りの料理。本当に欲しいものは何かと聞かれたら、俺はきっとそれを願うだろう。欲しかった時に、望む相手からは得られなかったものだから。
ふと思い立って両親の記憶を掘り起こそうとしてみたが、顔も出て来なかったのでちょっと笑ってしまった。
「……何を笑っているのよ、不気味な男ね」
「申し訳ありません、少々自分に呆れてしまいまして。どうぞお気になさらず」
逃げるようにして距離を取ったお嬢様は、しばらく警戒するように謎の構えを取ったまま俺を見つめていたが、やがて阿呆らしくなったのか細く息を吐くと、気を取り直した様子で対面へと腰を下ろした。
それから特に言葉を続けるでもないので、俺は視線に促されるままに食事を再開することにした。早く食べなさい、と紅い瞳が催促している。
「……自分が作ったものを誰かが食べるというのは、存外良い光景ね」
皿の中身が半分ほど減った頃、此方をずっと観察していたお嬢様が小さな呟きを落とした。口元には薄く、機嫌の良さを表したような笑みが浮かんでいる。
「今度お父様にも振る舞ってみようかしら」
「……………………それは、良い案、いえ、では今、今お呼びしましょう。今です、このカレーを食べていただきましょう。今度ではなく、今です」
「……どうやらわたくしに再び料理をさせたくないようね?」
おっと、いつになく察しがよろしい。その通りである。俺はもう二度とあの恐怖を味わいたくはない。どうしてもというなら、旦那様も一緒に味わってほしい。
素知らぬ顔でカレーの咀嚼を続ける俺を見ながら、お嬢様は軽く鼻を鳴らした。
「こんなことにお父様をお呼び立てすることなんて出来ないわ。魔王の顕現も近いのだし、お忙しくしていらっしゃるもの」
「愛娘の手料理ともなれば、旦那様ならば喜んで時間を作りそうではありますがね」
「……それはそうかもしれないけれど。でも、そもそもこれはお前への祝いの品なのよ、他の誰にも食べさせるつもりはないわ。精々感謝の念を抱いてひと匙ずつ噛み締めて食べることね」
少し拗ねたような響きで紡がれた言葉に、俺の視線が知らずお嬢様へと向く。腕を組んだ状態で俺を見つめ続けるお嬢様を見つめ返しながら鍋いっぱいのカレーを思い浮かべ、とりあえず、いけるな、という判断だけしておいた。カレーは飲み物である。
「勿論、承知しておりますとも。お嬢様があれだけの準備をして作ってくださったものですから、全て大事に私の腹に納めますよ。ただ、そうですね。折角ですからお嬢様も一緒に食べませんか? 食事というのは一人でするよりも二人でする方が楽しいものですし」
「それは……確かにそうね! わたくしが作ったものをわたくしが食べない、というのも勿体無い話だもの」
それまで何やら熱心に此方を見つめていたお嬢様は、俺の言葉にはっとしたように瞬くと、軽やかな足取りで調理場へと向かった。
その背を見送りながら、詰めていた息を解くように吐き出す。……詰めていた? はて。謎の緊張を抱いていたような、ように思うが、それがなんだったのかは分からない。
対面の空いた席を眺めながらしばらく首を傾げるも、結局思い当たるものは見つからなかったので、俺はそのまま何かを飲み込むようにカレーを掬った匙を口に含んだ。




