第二十五話
久しぶりに顔を合わせた陛下は、以前見た時よりも少々やつれているように思えた。
元より忙しい方ではあるので単純な疲労のせいもあるかもしれないが、今回の俺の失態が余計な心労をかけてしまったのは確かだろう。
疲れは見えるものの常と同じく穏やかな笑みを浮かべる陛下の前で膝をつき、要らぬ心労をかけたことへの謝罪を述べる。そんな俺を少し困ったように見下ろした陛下は、軽い調子で顔を上げるように告げると、席に着くようにと促した。
「いや何、結局のところは問題は起こらなかったのだ。ならば御主を責めることなど何一つあるまい。むしろ、今日まで御主一人に光魔法への対処を任せてしまった私の方にこそ責があるとも言える」
「そのようなことは、」
「無い、とは言わないでくれ。七年もの間この厄介な事態を私の我儘で隠匿してくれたのだ、倒れた程度で責め立てるようでは、私は本当の愚王になってしまう」
光魔法の特性の隠匿は確かに陛下が願ったことではあるが、前提として我がロレリッタ家のお嬢様の人格に難がある、という問題を抱えたからこその対応でもある。
〝我儘〟の度合いで言うのならむしろ此方の方が大分酷かったような気もするのだが、陛下がこれ以上は触れるなと示すのなら、俺としては素直に従っておく他ない。
了承の意を返して席につけば、同じく着席を促されたお嬢様が俺の隣に座った。
「聖女リーザローズは久しいな、式典以来か。御主の活躍は聞いている、民に愛されるべき聖女として着実に成長しておると。日々努力する御主の心根を疑い、信頼せずに欺き続けたこと、改めて詫びよう」
「滅相もないことでございます、陛下。わたくしが完全無欠の素晴らしき聖女であることは世界が認めるところではありますが、しかして未だ倒さねばならない敵に手が届き切らず、精神に未熟さがあるのも事実。陛下の憂慮は御尤もです、むしろ御英断に感謝致しますわ」
「……そのように言って貰えると此方としても有難い。これは後に伝えようとしていたことだが、魔の王の顕現が早まった、という報告がある。御主がより一層鍛錬に励み、我が国──いや、世界の敵を討ち滅ぼしてくれることを切に願っている」
声こそ普段と同じく威厳に満ちたものではあったが、真っ直ぐにお嬢様を見つめる陛下の瞳には微かな揺らぎのようなものがあった。
救いを見るようでもあり、災いを見るようでもある。どちらにせよ、そこには確かな切望が滲んでいた。聖女リーザローズと魔王の手により幾度も滅びの道を辿った国の王としては、抑えきれないほどの思いが在るのだろう。
悲痛さすら感じさせるその視線を受け止めたお嬢様は、普段のように自信たっぷりに笑みを浮かべると、はっきりと口にした。
「お任せください、陛下。何も心配は要りませんわ。わたくしの隣には、この男がいるのですから」
「……そうだったな」
にっこりと、いつになく輝かしい──しい、どころか本当に輝いている──笑みで告げたお嬢様に、陛下も何処か気を許した様子で肩から力を抜く。国を統べる王と世界平和を齎す聖女の間に流れる空気としては限りなく清浄なものには見えたが、しかして空気中に漂う『それ』は残念ながら清らかな性質には程遠いので、早々に吹き飛ばさねばならなかった。
陛下の胸の内から湧く信頼は、まさしく陛下自身のものでなければならない。厄介な光魔法の効果のせいではなく。
「お嬢様、失礼ですが少々罵倒しても構いませんか」
「よろしくてよ! ちなみにわたくしは三週間前、お前の分のおやつを料理長の目を盗んで食べたわ!」
「…………それは何とも、卑しい聖女様でございますね。生まれたての子犬の方がまだ理性があることでしょう」
謎のアシストが入ってしまった。どうした。それは一体何のアシストなんだ。
有難いといえば有難……くなくもなくないが、定型としての『お嬢様はアホでいらっしゃいますね』でもそれなりに効果はあるから許可だけもらえればそれでよかったんだが。
何故かドヤ顔で自分の摘み食い報告をかましてきたお嬢様は、「わたくしにはまだ使える失態の手が五つも残っておりましてよ!」などとほざいた後、尚も澄ましたドヤ顔で胸を張って見せた。
陛下を見る。苦笑していた。
旦那様を見る。頭を抱えていた。
あまりに沈痛な空気を醸し出していたので、それ以上見るのはやめておいた。
「阿呆のお嬢様は放っておくとしまして、魔王顕現の時期が早まったとは? 予測ではまだ半年以上先だと言われておりましたが……」
「誰が阿呆よ! わたくしの優しさを何だと思っているの!?」
「お黙り下さい、お嬢様。恐らくその失態の数々、大半は食関係であることは明白と見ました。国王陛下の前でこれ以上公爵家の恥を晒す訳には参りません、以降は私の方で勝手に罵倒して参りますので、数え集めた失態は胸の内にしまっておいてくださいませ」
「な、何よ……! 人が一生懸命探してやったというのに……!」
心外な、とでも言わんばかりの顔で睨みつけてくるお嬢様に、知らず真正面から呆れ切った視線を向けてしまう。大真面目なところ申し訳ないが、国王陛下の前で摘み食いの自白をし続ける聖女など、アホ呼ばわりされても当然である。
わざわざ自分で自分の失態を探した結果、真っ先に摘み食いが出てくる辺りもアホポイントが高い。
もっと他にあるだろ。演習場で着替えの際に外し忘れて家宝の耳飾りに傷をつけただとか。……まあ、そんなことを知ったらこの場にいる旦那様が胃痛で倒れかねないので口が裂けても言わないが。
我がロレリッタ家の親愛なる奥様は普段は慎ましやかな分、怒らせるとそれはそれは恐ろしいのである。
旦那様が奥様に逆らえないのは、もちろん愛妻家である面も関係しているが、何よりも怒らせた時の奥様の鬼神の如き怒りようが恐ろしいからである。俺だって怖い。なので、仮に拷問されようと吐く気はなかった。
まあ、こんな話は置いといて。今は陛下の話を聞かねばなるまい。
「どの程度早まっているのですか? 報告は私が意識を失った後にあった、ということですよね」
倒れる前にはそんな話は聞いた覚えがなかった。魔王討伐に深く関わる存在である以上、俺には比較的早めに情報が回ってくることが多い。
そうなると、話があったのは俺が倒れている間だろう。目を向けると、陛下は何故か一度軽く唇を噛み締め、小さな咳払いを響かせてから口を開いた。
「その通りだ。研究所の見立てでは、恐らく一月の間に起こるだろう、と言われている。予想よりも半年以上早まった訳だが……私は、この急激な変化はどうやら御主が倒れたことと関係しているのではないか、と考えている」
「……と、言いますと」
「聖女リーザローズからも報告があった。御主が倒れる前、闇の魔法の気配がした、とな」
お嬢様へと目を戻す。『黙ってください』と言われたのが余程癪に障ったのか表面上は澄ました顔で、それでいて拗ねているのは伝わる顔で唇を引き結ぶお嬢様は、俺の視線に答えることはなかった。
まあ、別に答えを求めての仕草ではないので構わない。そのまま陛下へと視線を向け直せば、真剣な面持ちで俺を見つめる陛下と目が合った。
「御主が話したいと言っていたのはこの件についてか? 闇の存在が彼方から接触を図ってきたと、いうことか」
「…………いえ。ああ、いや、確かにその側面も持ってはいるのですが、少々厄介な事態になっておりまして」
「これ以上に?」
「………………はい」
いささか自嘲めいた笑みを浮かべて問いを口にした陛下の前で、限りなく神妙な顔をして頷いておく。
この世界が既に十分すぎるほどに厄介であることは、世界を繰り返してきた陛下なら痛いほどに分かっているだろう。
しかし困ったことに、それよりも更に厄介な事態になってしまったのである。『世界の繰り返し』を知る俺と、『異世界からの使者』を知る陛下の間で無意識に取られた『今以上に?』という確認は、肯定するだけで頭が痛くなる程の疲弊を生んだ。
ただ、それはどちらかというと状況が変化した、というよりは、俺たちの認識が変わった、という意味での『厄介』さだ。
複製された世界であるこのウルベルトシュは、始まった時からずっと『厄介な事態』だった。その中を生きる俺たちがそれを知っているか否か。変わったものはそれしかなく、そして、『それだけ』が何より重要である。
「よかろう、覚悟を持って聞こうではないか」
テーブルの上で指を組んだ陛下の手に、それまでよりも強い力が込められる。重苦しく吐き出されたその声には隠しきれない緊張が乗っていた。知らず、旦那様とお嬢様も背を正す。
陛下は、今回の件は旦那様にも聞かせるつもりのようだ。俺が話す内容がどんなことであろうと、退席を命じる気配はない。
一瞬旦那様へと目を配った俺の意図を感じ取ったらしい陛下は、ただ静かに頷いてみせた。
まあ、最悪俺と陛下の気が狂ったと思われたとしても、お嬢様が説得してくれることだろう。旦那様はなんだかんだで娘に激甘であるからして。
緊張感が肌を刺す。三人の視線を一身に受けながら、俺は小さく咳払いを響かせ、意を決して『意識を失っていた時に起きたこと』について話し始めた。
────そうして、三十分後。
「…………………………………」
「…………………………………」
「…………………………………」
室内は沈黙で満ちていた。時折、隠し扉の奥から微かに抜ける風の音すら聞こえてきそうな沈黙であった。
俺が話したのは、まずは『ウルベルトシュを作った女神』が辿った滅びの運命と、そこから生まれた『憎悪の塊』である魔の王について。
そして、その魔王を滅ぼすために『複製された』、我々にとっては真の世界であるウルベルトシュの成り立ちと、世界が『繰り返している』という事実。
加えて、魔の王が滅びることで前女神も消失してしまう為、新たな世界を安定させるために『ラピス・ルーゲンスティア』への信仰が必要である、ということ。
以上の三点である。
出来る限り分かりやすく、そして聞いた人間が飲み込みやすく話したつもりではあったが、途中から陛下の相槌は唸り声に変わり、最初は疑わしげな目で見ていた旦那様の顔には職務中の真剣味が宿り、お嬢様の眉間には普段滅多に見ないような皺が二、三本刻まれる事態となった。
まあ、当然のリアクションだろう。俺の話が本当ならば、とどのつまり我々は『無垢な善意で人類を堕落させた女神』と、その『堕落した人類が引き起こした女神への冒涜』の尻拭いをしているようなものだからだ。
信じたくはない話の筈である。だが、誰からも否定の言葉は出てくることはなかった。というより、言葉を発すること自体を疎んでいるようにも見えた。
仄暗く静かな怒りが満ちる室内で、陛下がゆっくりと口を開く。
「……それが、御主が聞いてきた世界の全てか?」
「はい」
「…………成る程な……私が抱いていた感覚は間違いではなかったという訳だ……」
額に手を当て、溜息を落とす陛下の脳裏に浮かぶのは、いつぞや俺が異世界人であると説明した時の記憶だろう。
俺の話を聞いた陛下は、この世界に生きる者たちを『より良い実験結果を出すために使い潰される魔鼠のようだ』と言った。そして、この世界の先に何があるのかわからない、とも。
度重なるループを経験している陛下には、陛下にしか分からない感覚があったのだろう。それを最悪の形で裏付けることになったのが、今回の俺の話だ。気が重くなるのは当然だと言えた。
「全く、巫山戯た話だな……」
「全面的に同意致します」
「神からすれば、我々などただの道具の一つに過ぎぬか。生き延びる努力すら馬鹿馬鹿しくなる話だな」
疲弊の滲む声で零された陛下の呟きに、俺は返す言葉を持たなかった。どうしようもないほどに事実だったからである。
女神ミアスが愛していたのは、あくまでも原初の人類である。そして、憎んでいるのもまた、原初の人類だ。際限なく溢れ出る憎悪を切り離し、その度に力を増す『魔の王』の敵は、この世界の人類ではない。
本来は俺たちが対処する必要などない存在である。だが、複製された世界の人々は、『魔の王』に対処するためだけに存在を許されている。意志と感情を持ち、生きる意味を見つけて人生を歩むはずの人々は、結局のところ、後始末のための道具でしかない。そう突きつけられているも同然だった。
「私は、……いや……我々は何の為に…………」
何の為に生きればいいのだ。
聞かせるつもりもなかったのだろう掠れた呟きは、静かな部屋では耳に拾えるほどに響いてしまった。
魔の王を倒せば世界には平和が訪れる。女神の信仰を集めれば、世界は滅びずに済む。
だが、そうして訪れる平穏をただの『ハッピーエンド』として受け入れるには、陛下の心はあまりにも擦り切れてしまっていた。
人生を繰り返すのは辛いだろう。しかし、滅びに慣れた今、積み重ねた苦しみを抱えたままその先も続く世界に希望を見出すのがあまりにも難しい。陛下の中で『いずれ終わる世界』だからこそ気力を保っていた部分は、確かにあったに違いない。
諦念を持って許容していた陛下には、こんな事実を突きつけられた上で『魔王を倒した先』を生きる意味が持てないようだった。だが、それでも人生は容赦なく続いていくだろうし、陛下はこの国の王であり続けるだろう。第一王子は魔王を倒した後の混乱した世界を任せるにはまだ頼りない。
生きなければならない。だが、生きる意味が、気力が保てない。
陛下の呟きには、そんな苦悩が滲み出ていた。
気遣わしげな目を向ける旦那様は、それでも陛下に声をかけることはしなかった。『歴史が繰り返している』という話を聞いた時、旦那様の目は確かに陛下へと向けられていた。元より何処か思うところがあるように見えたから、俺の話によって何らかの確信を得たのかもしれない。
胸の内に渦巻く苦しみが分かるからこそ、軽率に声をかけることなど出来なかったのだろう。
それは俺も同じくで、更に言うなら伝えたことが正解か否かにも迷って、口を噤むしかなかった。
そんな中、それまでいつになく大人しくしていたお嬢様が、重苦しい空気を飛ばすように鼻を鳴らした。
「ご心配なく、陛下。先程も申し上げましたが、わたくしは高潔にして麗しの聖なる乙女として、かの魔王を討ち倒してみせますわ。ですから、そんな悩みは早くお捨てになってくださいませ」
「リザ、待ちなさい。いくらお前でも、陛下に対して『そんな悩み』、などと言うものでは」
「いいえ、お父様。『そんな悩み』ですわ。わたくしたちを都合よく使おうとした女神様とやらは、件の魔王を打ち倒せば同時に滅びるのでしょう? ならば、それは女神を滅ぼしたも同然ではありませんか! この世界が都合良く作られたものだと言うなら、そしてそれに陛下が苦しんでいると言うのなら、これまでの恨みつらみのありったけを込めて打ち滅ぼしてみせますわ!
それが相手にとっては救いになったとしても、そんなことは知ったことではありません! 陛下、もしも魔の王に浴びせたい罵詈雑言でもあれば書き留めておいてくださいませ、わたくしがぶん殴る時に代わりに吐き出しておきますわっ!」
円卓に手をつき、勢いをつけて立ち上がったお嬢様が、口を挟む隙も与えずに続ける。
「そしてこの完璧にして無敵、神にも勝る無欠の存在であるわたくしが慈悲を持って、新たな女神様とやらにこの世界を支える権利を与えて差し上げましょう! 陛下が安寧と繁栄を齎したこの素晴らしい国を未来永劫見守らせる権利をくれてやりますわ、女神様などよりも余程素晴らしく優れた、崇高な聖女であるわたくしの許可を持って!
そう! ですから! 陛下は何一つ憂うことはございません! もし仮に、何の為に生きるのかと意味を問いたくなったのなら、是非わたくしのことを思い出してくださいませ!
この世界で生まれた唯一無二の最強の聖女であるわたくしが健やかに成長できる国を作った、ただそれだけで、陛下のこれまでには意味と価値がありますのよ! そう、そしてこの素晴らしきわたくしが存在する限り、この先にも輝かしい意義がありますわっ!」
それは言葉にし難いほどの衝撃だった。
我々は今ここに、自己肯定感と自尊心の天元突破を見た。
魔の王を倒す為の世界で、実験体のように歴史を繰り返している人類の生きる意味を、お嬢様は『全てはわたくしのためですわ』と言い切ったのである。とんでもねえ自己肯定感である。ついでに言えば不敬もいいところである。この国全部がお嬢様の為に存在している訳ではない。が、女神の為に、あるいは魔王の為に存在するのだ、とされるよりは、どうしてかマシなように感じてしまうのは何故なのだろうか。
どんな理由で生まれていようと限りなく自己愛に溢れ、自己肯定感が突き抜けに突き抜けた存在から、『貴方の生には意味がある』と断言されたのだ。それは理屈ではないからこそ、笑えるほどに心を軽くした。
「…………お嬢様はとんだ阿呆でございますね」
苦笑混じりに呟く。俺を見下ろすお嬢様からは強い視線が飛んできたが、素知らぬ顔をしてスルーしておいた。
呆けたような顔でお嬢様の口上を聞いていた陛下が、ふと半開きになっていた唇を閉じる。少し眉を下げた陛下は、閉じた唇を笑みの形に歪めると、小さく笑いを溢した。
「いやはや……唯一無二の素晴らしき聖女殿からお褒めの言葉を頂いてしまっては、私も少しは己を誇りに思うしかあるまいな」
「……陛下、申し訳ありません。娘が多大な御無礼を」
「構わんよ、ルヴァ。お前の娘だ、このくらいは言うだろうさ」
「………………それはどのように受け止めれば宜しいですか」
「そのままの意味だとも」
軽い調子で喉を鳴らして笑う陛下に、旦那様は一瞬視線を左上に逃してから、やや渋い顔で黙り込んだ。何やら思い当たる節があったのかもしれない。
言うだけ言って満足したお嬢様はと言えば、何やら澄ました顔で座り直していた。立ち上がった時に倒れた椅子をそれとなく直しておいたので、割とスムーズに済んだ。
しばらく笑い続けていた陛下が、最後に区切りをつけるように息を吐く。
「たとえ女神がどのような存在であろうと、この世界がどんな意味を持って存在していようと、この国で生きる全ての者はそれぞれ己で意味を見つけて人生を歩んでいる。それだけは間違いがない。私の方こそ、共に生きる民をまるで決められた人生で動く人形のように感じていたのかもしれないな……彼らは自分の意志で生きていると言うのに……」
「ええ、たとえ魔王を倒す為に作られた世界だとしても、全ての方が全力で生きておりますわ。貴族だけではなく、市井の方々も……そうです、陛下は下町の串焼きを食べたことはありまして? とても美味しいんですの、様々な店が競合することで日々新たな美食が生まれておりますのよ! 彼らの研鑽には生きる強さと煌めきがあり、まさしく人間の意志というものを強く感じますわ! 陛下にも味わって頂きたいですわね、是非とも共に参りましょう!」
「ふむ、串焼きとな。……成る程、良いかもしれぬ」
苦笑を滲ませつつ頷く陛下に、お嬢様は尚も『近頃見つけたおすすめ店』の話を続けようとする。
顔を抑えた旦那様が椅子の背に身体を預けて溜息を吐いていたが、とりあえず見ないふりをしておいた。
何もよくないが……?という呟きも聞こえないふりをしておいた。
「陛下、先に申し上げておきますが、お嬢様と食べ歩きをするならば己の分は己で確保せねばなりません。略奪者の異名を持つ聖女様であらせられますから、油断すると一瞬で此方の手元から消失致しますよ」
「わたくしが陛下の串焼きを奪う筈がないでしょうっ!? 無礼が服を着て歩いているお前と一緒にしないでくださる!?」
「お嬢様は六十二日前、私が手に入れた新商品の緑宝鳥の香味焼きを一口だけ、と言って全て奪っていかれた訳ですが。これを略奪と言わずして何と言うのか、お聞かせ願いたいものですね」
「日付まで覚えているなんて、なんて陰湿な男……! お前はわたくしの下僕なのだからその程度は許容するのが当然ではなくて!?」
「愚か者のお嬢様はご存じないかもしれませんが、食べ物の恨みとは恐ろしいのですよ。私は未だに、自身の持つ串から艶やかに焼かれた肉が奪われたあの一瞬を夢に見ます。折角ご主人が特別に仕入れてくださった貴重な肉だというのに、全くなんてことを……全く、なんてことを……」
思い出したら再度悲しみと切なさと恨みが蘇ってきたので、俺はそれ以上考えるのをやめた。取り返せないものについて考えるのは精神衛生によくないのである。
緑宝鳥の群れは三年に一度大陸の東の海に現れるとされている。次に俺があの艶めく美しい串焼きに出会えるのは少なくとも三年後である。つまりは魔王をぶっ倒した後だ。何が何でも生きねばならぬ、という気になるので食い意地というのは素晴らしい。
「私は三年後、この卑しい聖女様から緑宝鳥の串焼きを死守して己のみで楽しむ予定です。陛下もその際には是非、共に楽しみましょう。食というのは素晴らしいですよ、それだけで生きる価値があります」
「……うむ、御主にとっては、まあ、そうであろうな」
前世の俺の死因を知っている陛下からは、なんとも形容し難い笑みが返ってきた。食べ過ぎの不摂生で死んだなど、悪徳貴族のような振る舞いであるからして、自制の利く陛下からすれば苦笑してしまうのは致し方あるまい。
自分が食い意地の張った人間である自覚はあるので、極めて真面目な顔で苦笑を受け止めておく。陛下はまるで手のかかる子供を見るような目で俺とお嬢様を眺めた後、幾分か柔らいだ表情でそっと口にした。
「確かに、生命を維持する行為そのものに楽しみを見出すのは良いかもしれぬ。ここ数年、私の食生活のせいで料理長には食事を用意する楽しみを与えられなかっただろうしな……カコリス、御主の食した料理でこれはと思うものがあれば教えてくれぬか」
なんとも有難い言葉を頂戴してしまった。陛下の言葉に、ここ二十年の記憶をフルに働かせる。国王陛下にとって目新しいものがあればいいのだが。
幾つか思いついたものを挙げてから、後日リストアップしたものを旦那様経由で送る約束をした。国王陛下の口に入るものであるからして、一旦は旦那様預かりになる訳だ。
打って変わって空気の軽くなった室内で、陛下は柔らかくも場を引き締めるような声音で告げる。
「『女神ラピス・ルーゲンスティア』への信仰を集める件は、早急に手を回そう。魔王顕現については聖女パーティの面々にも伝えておく、各地の準備も殆ど完了しているから、あとは御主たちの活躍と、顕現の場所次第といったところだろうな。少なくとも、私が知る限りでは最も規模の大きなものになるはずだ。元より覚悟は決まっているだろうが、改めて気を引き締めて貰いたい」
「承知致しました。来る日に向け、更なる鍛錬を積んでおきますわ」
一礼した我々に頷きを返した陛下が、隠し扉を通って部屋を後にする。魔法によって閉ざされた扉を見送った後、旦那様がゆっくりと、肩に乗った疲弊を振り払うようにして席を立った。椅子を戻し、立ったまま卓上に両手をつき、俺とお嬢様を見下ろして口を開く。
「お前たち、一つだけ言っておくぞ」
『お前』ではなく、『お前たち』である時点で、俺とお嬢様は揃って目を逸らしてしまった。が、すぐに戻した。
「次に陛下にあんな物言いをしてみろ、揃って騎士団の演習場を百周させてやるからな」
……逸らし続けたら更に怒られることがわかっていたからである。
地を這うような声音で言い放った旦那様は、極めて神妙な顔で深く頷いた俺とお嬢様を見ると、深く息を吐き、それ以上の返事を待つことなく資料室の外へと出た。
怒りを抱えて尚、至って規則正しい足音を追うようにして立ち上がる。同じく立ち上がったお嬢様が、扉を抜けた直後に小さな声で囁いてきた。
「お前のせいでお父様に怒られてしまったじゃない……!」
「私のせいですか? 大体はお嬢様のせいだったかと思いますが」
「わたくしの何処が悪かったと言うのよ」
「女神どころかこの国全てを己の下に置く発言、まさに不敬の極みでございましたね」
「事実を言ったまでだわ。それに、お前から聞いた話だと、前の女神様にわたくしが敬意を払う必要なんて無いのではなくて?」
「その点に関しては概ね同意します。が、陛下に対しても上から目線とは、歴史ある公爵家の令嬢とは思えぬ振る舞いでは?」
「わたくしはこの世界で最も尊く偉い存在なのだから、立場など些細なことよ!」
「はあ、いやはや全く、呆れ果てるほどの自尊心でいらっしゃいますね。もはや羨ましいほどです」
足音にすら掻き消されそうな声量で話しているため、ひどく距離が近く歩きづらい。足が絡まりそうな位置だが上手く捌けているのは、普段からシャンデュエでぎりぎりの距離をやり合っているからだろう。こんなところでも役に立ったりするもんなんだな。
「いいから、お前が謝罪してきなさいよ」
「私の詫びは紙のように軽く捉えられるのでまだ愛娘のお嬢様が言った方がよろしいかと」
「嫌よ! お仕事の時の顔をしていたもの!」
旦那様は親馬鹿だが、それでも何もかもを許してくれたりなどはしない。お嬢様もそれは分かっているのか、腕を引っ掴む勢いで身を寄せてくると、いつになく鬼気迫った顔で「お前が詫びてきなさい……!」と詰め寄ってきた。
そんなに嫌ですか。まあ、普段滅多に怒られないから余計にダメージがあるんだろうが。
俺だって別に喜んで怒られている訳ではないのだが、仕えるべき主君に対する態度でなかったのは確かなので、仕方ないな、と腹を括った。
揉め合っている内に王城を出てしまっている。馬小屋へと向かう旦那様の後ろを追い、その背に声をかけようとした──その時、旦那様が踵を返した。
ぎくりとした調子でお嬢様が足を止め、ついで腕を掴まれていた俺が引っ張られるように止まる。旦那様の目は一瞬俺の腕のあたりに視線をやったように見えたが、すぐに此方へと歩み寄ると、緊張した面持ちのお嬢様を優しい眼差しで見下ろした。
「リザ、お前はいつも私には出来ないことをやってのける。どうしようもないお転婆で手に負えない部分も多々あるが、その点に関して私は本当にお前を尊敬しているよ」
「……お父様」
「だからせめて、もう少し淑女として落ち着きのある振る舞いを身につけなさい」
「…………申し訳ありません。以後気をつけますわ」
眉を下げ、素直に頷いてみせたお嬢様に、旦那様もゆっくりと頷きを返す。そこに在ったのは娘の成長を喜ぶ父の顔だった。安堵したのか、俺の腕を掴んでいたお嬢様の手から力が抜ける。
次いで、お嬢様の隣に立つ俺へと目を向けた旦那様は吐き捨てるようにして口早に言い放った。
「それとカコリス、お前は魔王討伐後に魔法学園の卒業証明試験を受けろ」
「は。…………はい?」
「つべこべ言わずに受けろ。いいな」
苦虫を噛み潰したような顔で言い捨てていった旦那様は、俺の返事を聞くこともなく自分の馬を選ぶと、お嬢様にだけ声をかけて去っていった。隣の俺はガン無視であった。
「……また急な話ですね。必要があるとは思えませんが……」
「確かに不思議だけれど、お父様のことだから、何かお考えがあるのかもしれないわ」
学園の卒業証明試験。俺にはとんと縁のないものである筈なのだが、旦那様が言うのならば受けない訳にはいかなかった。雇い主には素直に従っておくべきである。魔王討伐後も世界が続くのならば尚更だ。
勉強か。魔法を覚えたての頃は割と熱心に(お嬢様を捕まえる術を身につけるため)学んでいたのだが、一通り技術として確立してからは理論の学習は疎かになっていた面がある。
せめて五学年の魔法基礎からはやり直さないと不味いかもしれない。
乗ってきた馬を出しつつ、頭の片隅で必要な魔導書のリストアップを行う。あれとあれは学園内の図書室にもあったな、などと思っていると、俺が用意を整えるのを待っていたお嬢様がハッとしたように顔を上げた。
「待ちなさい、ヒデヒサ! 卒業証明試験となると、わたくしの卒業試験成績との比較が出来ますわね!?」
「は? ああ、そうですね。筆記と実技共に内容は異なると聞いていますから厳密な比較ではありませんが……まあ、大まかには比べることはできるかと」
「では! わたくしの卒業試験の結果と、お前の卒業証明試験の結果を比べることで、学問の面でも勝敗を決することが可能ですわね!!」
夜空の下でも分かりやすく目を輝かせる──というか本当にほんのり光っている──お嬢様は、腕を組んだまま満足げに肩を竦めると、意気揚々とした足取りで俺が手綱を握る馬へと近づいてきた。
「流石はお父様ですわ! わたくしに主人としての威厳を見せつける機会を与えて下さるなんて……! ふふっ、見ていなさい! 必ずや首席で卒業し、完膚無きまでにお前を叩きのめしてみせますわ! 首を洗って待っていなさい!」
声高に宣言したお嬢様は、軽やかな身のこなしで馬へと跨ると、馬上から俺を見下ろして機嫌よく鼻を鳴らした。
相変わらず、勝負事となると凄まじく生き生きし始めるお嬢様である。多分どう頑張っても旦那様の望むような淑女にはなれないような気がしたが、まあ、そんなのは今更である。
お嬢様が勝負がしたい、と言うのならば、俺に出来ることは望みに応えることだけだ。
何か大事なことを忘れているような気もしたが、ご機嫌に馬をかっ飛ばそうとするお嬢様の後ろから手綱を握っている間に忘れたことすら思考の片隅に溶けて消えていった。




