第二十四話
◆後半ルヴァ視点
一時間後。
湯浴みを済ませたお嬢様の髪を乾かしていた俺は、最後の仕上げとしてせっせと縦ロールを作りながら、心の隅に引っかかっていた提案を口にした。
「お嬢様。王城へ向かう前にルナ様にお会いしたいのですが、構いませんか? 折角ご厚意から魔法開発に協力して頂いたのにも関わらずこのような事態に陥ってしまった不手際をお詫びしておこうと思いまして」
今回の件は責任の一切が俺にあることは疑いようのない事実である。
だが、お嬢様から聞いたところによると、ルナ嬢は手を貸しただけの立場だというのに魔法を開発した自分の責任だとひどく落ち込んでしまっているらしい。
お嬢様も顔を合わせていない間に念話で『ルナのせいではない』と何度も話したそうなのだが、やはり何処か元気がないままなのだという。
ルナ嬢の性格からして、『気にしなくていい』と言われたところで気にせずにはいられないだろう。目を覚ました俺の無事な姿を見せて安心してもらう方が手っ取り早いし、実行するなら早ければ早いほどいい。
そんな考えから口にした提案だったのだが、鏡に写るお嬢様は僅かに眉を顰め、少しばかりの困惑を浮かべるだけだった。
「ルナなら、今は学園にいないからすぐには会えないと思うわ。むしろ王城に行った方が会うには早いかもしれないけれど……忙しくしているようだから、時間が取れるかは怪しいところね」
「王城に? 口ぶりから察するに長期で滞在している、ということでしょうか」
ルナ嬢が王城に呼び出され、尚且つ拘束されるような案件の心当たりはない……とは言えなかった。昏倒時に自分が作った魔法が関係している、と心配したルナ嬢は、恐らくその件について自分から学園長等の関係者に相談した可能性が高い。
『深淵魔法』と似た性質に干渉する新たな魔法を開発したともなれば、当然、話を聞く必要は出てくるだろう。
「ええ。お前が倒れた時に、ルナが昏倒の原因を作ったのは自分の魔法かもしれない──と話したのよ。新しく発明した魔法を使用する際にはそういった事故が起こることも稀にあるそうだから一応話を聞くことになったのだけれど……あの魔法は、わたくしとルナが会話するのに使っている魔法を応用したものだとは言え、根本的には異なる性質を持っているわよね。
わたくしには詳しいことは分からなかったけれど、深淵魔法の構築式も入っているとか…………王立魔法研究所本部が魔法術式の詳細を聞いてから、ルナの勧誘にかなり積極的になっているのよ。今すぐにでも研究員として所属して欲しいと言い出しているみたいなの」
勧誘。勧誘と来たか。少なくとも俺が倒れたことで下手に責められるような事態にはなっていないようだ。
まあ、お嬢様が自分の親友にそんな狼藉を許すとは思えないから、その点に関してはあまり心配していなかったのだが。
しかし『勧誘』となるとまた厄介な流れになってるな。
丁寧に作り上げた縦ロールたちをまとめ、後頭部のやや高い位置で結い上げる。最近は結び目に巻き付けるタイプの装飾品が流行っているので、幾つか並ぶうちから一つを選び取って覆うように括り付けた。
考え事で思考が埋まっていても手が勝手に動くあたり、習慣というのは有難いものだ。
「もしや、それで学園支部と研究所本部が揉めている、という話でしょうか?」
「その通りよ。ルナは今、学園研究室長と本部所長の間でどちらの研究室に所属させるかの論争の種になっているの。別にどちらも国の機関なのだから何処に所属しようと構わないはずなのだけれど……ほら、本部と学園支部は前から折り合いが悪いでしょう? どうしても自分の研究室に欲しい、と譲らないらしいのよね」
「コラットン家とカルグス家は三十年前から互いを目の仇にしているそうですからね」
学園支部の研究室長も本部所長も共に魔法研究の第一人者であり、十年に一度の天才だと言われるほどの実力者だが、齢四十を超えるはずの両者は『思春期の男子でもそんな諍いしないぞ』、というような些細なことでよく争っている。
それが代々優れた研究者を生み出している両家の派閥による確執故に生じているのは、もはや魔法学会に関わるものなら誰もが知るところだ。
『年甲斐もない争い事』に関しては人に言える権利が一切ないのでとやかく言う気はないが、そこにルナ嬢が巻き込まれている、となれば話は違ってくる。
恐らくだが、ルナ嬢の研究の後ろ盾になっている学園の研究室は、卒業まで待ってから正式に研究員として迎え入れたかったのだろう。それまでに目をつけられては困るから、詠唱短縮魔法についてはともかく、遠隔会話魔法については極秘事項としたに違いない。
あとこの魔法、単純に技術革新としてとんでもないので迂闊に公開すると混乱を招くと思われているのだろう。
「わたくしとしてはルナの実力が認められるのは嬉しいのだけれど、それでルナが困ったりするのは嫌だわ。この間話した時には『御二方に納得していただくために二つの研究を同時に進めようと思うんですが……』なんて言い出したから、三十分かけて説得して保留にさせておいたのよ!
全く、そんなことしたら今度はルナが倒れてしまうじゃない! わたくしの親友に心労をかけるだなんて、とんでもない無礼者どもだわ」
「それだけ評価されているということなのでしょうが、派閥争いで事態がややこしくなっている節はあるでしょうね。出来れば何方からも適度に距離を取っておきたいものですが……研究者としての立場が保証されるのは、ルナ様としては魅力的な提案でもあるのが悩みどころでしょうか。本部の研究員になった時点で卒業資格が与えられたも同然ですから、成人でなくとも同等の扱いを受けることができますものね」
成人の儀は二十歳で行われるが、魔法適性のある貴族は学園を卒業した時点で成人した者と同等の権利を得る。
逆に言えば、魔力を持つ貴族は学園を卒業しなければ正式に家を継ぐことができない。貴族社会では魔導師として認められることそのものが理性ある大人の証なのだ。
俺は貴族ではないので全く関係ない話なのだが、まあ、仮に貴族の令嬢に婿入りするとでもなれば卒業資格の証明が必要になるので試験を受けることになったりするらしい。確か、前に旦那様から校則について説明を受けていた時にそんなようなことを聞いた覚えがある。
「そう、それが難点といえば難点なのよね。ルナにとっては今すぐ卒業資格と同じ権利を得られるのなら本部に所属するのは魅力のある話だけれど、先に評価して後見についてくれたのは学園支部の方でしょう? 支部と本部とは名づいているものの権力的には二つとも変わらない地位にある訳で……簡単には判断しづらいでしょうね」
お嬢様もその点については思うところがあったらしく、顎に手を当てながら悩ましげに呟いている。親友であるルナ嬢にとって最善の道を歩んで欲しい、と心から思っているのだろう。
あの歩く傲慢ミートボールだったお嬢様にこんな風に思いやれる友人が出来た、という事実を目の当たりにするたび、何故だか妙に眩しく思えてきてしまう。なんなら謎の感慨深さまで覚える程だ。
お嬢様は『効果を打ち消す俺が居たからだ』などと言っているが、やはり旦那様もお嬢様自身の成長を感じ取ったからこそ真実を打ち明けようと思ったのだろう。
陛下としてもただ旦那様に言われただけでお嬢様に真実を知らせる気になるか、と言われれば答えは否だ。繰り返した歴史を知る人間である陛下は、人一倍お嬢様を──というよりは『リーザローズ・ロレリッタ』という人間を警戒している。
その気になればいくらでも代案を出すだろう陛下が素直に呑んだ理由に、これまでお嬢様が見せてきた七年間の成長がないとは言えない筈だ。
「ルナがいつまでも困っているのは見ていられないわ……そうよ! いっそわたくしが聖女兼所長として魔法研究所を立ち上げてそこでルナに活躍して貰えばいいのではなくて? 名案だわ!」
「名案? 迷案の聞き間違いでしょうか? 全く……感慨深さを噛み締めているところに新たな権力機関を立ち上げないでくださいませ。お嬢様に魔法研究の何たるかが理解できるとは思えません」
「わたくしが理解する必要はないのよ! 研究は全てルナがやるのだし、わたくしはルナが手足のように使える下僕を用意することだけだわ!」
「名ばかり所長の元で働く羽目になるルナ様と下僕呼ばわりされる助手の方々が心底気の毒ですので二度とそのような戯言を口にしないで頂きたいものですね」
「何よ、ウスノロ。子供みたいな揉め事で日々諍いを繰り返している責任者の元で働く方がルナにとって幸福だとでもいうつもり?」
成長を感じてしみじみとしていたところにトンチキ案を捩じ込まれてしまった。感慨が吹っ飛ぶので馬鹿なことを言わないでいただきたい。
お嬢様が所長になった日には研究資金論争に爆竹を投げ込む勢いで突っ込み、あらゆるものを巻き込んで大規模バトルに発展した挙句、我が国の予算決定機関の者は軒並み胃痛で倒れる。間違いない。
「少なくともこれまでの実績がある方々に評価してもらい、立場を固めるのがルナ様にとっては最善かと思います。それに、こうした場面で決断することも一つの成長の為に必要なことではありませんか?」
溜息混じりに呟いた俺に不満げに唇を尖らせていたお嬢様だったが、納得できる部分はあると思ったのか、それ以上トンデモ案を続けるような真似はしなかった。良かった、少なくとも財務大臣の胃の無事は保証された。
代わりに、やや拗ねたような響きでぽつりと小さな呟きが落とされる。
「……もしもルナが過剰労働の過労で倒れるようなことがあったなら、わたくしは室長と所長をまとめて投げ捨てるわ」
「その時はとっておきの『主人の横暴を止めようにも止めきれなかった力量不足の執事』の真似を披露致しましょう、お任せ下さい」
過剰労働は滅ぼすべき悪である。ルナ嬢が倒れるようなことがあれば、俺とて容赦するつもりはない。
至って真面目に頷いておけば、鏡越しに此方を見やったお嬢様は少し呆れたように眉を上げた後、微かな笑みを浮かべた。
◆ ◇ ◆
「────リュナン、平気か? 顔色が悪いぞ。あまり体調が酷いようなら日を改めさせるが……どうする?」
王城の第三資料室にて。俯くリュナンの調子を横目で伺っていたルーヴァンは、主君のあまりの顔色の悪さに、とうとう見かねたように声をかけた。
カコリスが倒れてから一週間、日に日に顔色を悪くしていくばかりだったリュナンだが、目を覚ましたとの報告を聞いてからは幾分落ち着いたように見えた。それが此処に来て再び目に見えて悪化している。
リュナンが何か計り知れないものに対して怯えを抱いていることは、ルーヴァンも長い付き合いで感じていた。だが、生来隠し事の得意な男だ。此処まで動揺を露わにしているところは今までにも見たことがない。
光魔法の抑止力となる男は目を覚ましたし、体調面でも問題はないと報告を受けている。ならば会合を急ぐこともあるまい、と判断したルーヴァンのかけた言葉に、リュナンは常よりも覇気のないものの芯のある声で答えた。
「……いや、問題ない。私からの用件だけなら構わないが、カコリスからも話したいことがあると言われているからな。彼の話は聞いておきたい」
緩く頭を振ったリュナンは、手元の水を一口飲み下すと、微かに響く程度の溜息を落とした。
吐息の音を最後に、埃っぽい室内に沈黙が落ちる。
何処か常とは違う緊張感を孕んだその空気を、ルーヴァンの呟きがやんわりと裂いた。
「…………やはり俺の娘は心配か? まあ、根がああだから不安にはなるだろうが」
昔からの付き合いを感じさせる気易さで話しかけたのは、その方がリュナンも気軽に心中を吐露しやすいだろう、と判断したからだ。腕を組み、壁際に寄りかかるルーヴァンは、額を押さえて俯くリュナンに対し、あくまでも軽い調子で言った。
優秀な娘ではあるが、精神面ではまだまだ未熟な部分が多いのも確かだ。幼い頃からとことん甘やかしてしまったせいで、十六も近いのに何処か根が幼稚だとも言える。……いや、それはあの執事を相手にしている時だけかもしれないが。
苦笑いを唇の端に浮かべつつ、冗談めいた気軽さは残したままリュナンに語りかける。
「それに、あの男は極度の鈍感だが、愚鈍ではない。今回倒れたのも、単なる不摂生や気の緩みではないだろうさ。研究所員の報告も受けているんだろう? 恐らくは、必要があって別の厄介ごとに首を突っ込んだんだ。
……まあ、それはそれで不安の種ではあるかもしれないが、少なくともあいつは王都の五ツ星店を食い尽くさない内に死ぬような男ではないからな。そこまで心配する必要はないんじゃないか」
「……大丈夫だ、ルヴァ。私も、あの二人については特に心配しておらぬ」
「…………じゃあ、何がそんなに心配なんだ? 北の大国か?」
「いいや、違う」
ならば何を、と口にしかけたルーヴァンに、リュナンは何処か自嘲めいた笑みを浮かべ、緩慢な仕草で視線を向けた。その目に浮かぶのは疲労と忌避、そして紛れもない恐怖だった。
「分からぬのだ。自分が何故これほどまでに恐れているのか、一体……何を恐れているのかさえ、分からぬ」
「…………原因に心当たりがない、と?」
「そうだ。しかし原因は思い当たらずとも、恐怖ばかりが止め処なく溢れてくる。押さえつけるだけでも苦労するほどに。……私は一体、何に怯えているのだろうな」
歪んだ唇から掠れた声を溢したリュナンは、それきり言葉を続けることなく、テーブルへと視線を戻した。細かい傷のついた古い円卓をただじっと見つめているリュナンの横顔には、彼の言う通り抑えきれないのだろう恐怖が冷汗と共に薄く滲んでいた。
彼がこのような顔を晒すのは自身の妻と、自分を相手にした時だけであるとルーヴァンは知っている。
リュナンは他の臣下の前ではその胸の内に潜むものの全てを抑え込み、いつ何時も穏やかに、柔らかい笑みを浮かべてみせるのだ。
その笑みが民や臣下に安心を与えるものであると同時に、彼らと一定の距離を取ろうとするものでもあることには、ルーヴァンはもうずっと前に気づいている。
ルーヴァンが気づくほどなのだから、恐らく王妃であるフレアはもっと深く知り得ているのだろう。フレアとは互いに暗黙の了解として触れないようにはしている為に明確には把握していないが、彼女が婚約を結んだ当初から人一倍リュナンを気にかけていることは、側で見ているだけでも痛いほどに伝わってくる。
リュナンがフレアに弱みを見せるのは彼女の長年の献身と愛故だが、ルーヴァンに対してもそれを見せても良いと思っているのは、恐らくは幼少期の脱走が関係している。
リュナンは昔から何処か達観した子供であり、同時に常に瞳の奥に悲観を滲ませる子供でもあった。
将来王となることが決まっている彼の背負う重圧は、ルーヴァンには推し量れない程のものがあっただろう。五つ下の少年が抱えるには重すぎる心の負担を少しでも和らげてやりたい、とルーヴァンは度々リュナンを連れ出し、王城裏の森での狩りや散策に誘っていた。
……ちなみにこの辺りの脱走癖はしっかり娘に受け継がれている気がするが、ルーヴァンは極力自覚しないように努めている。
ともかく、リュナンが少しでも日々を楽しく思ってくれればいい、と思い、ルーヴァンは時折脱走の手助けをしていた。初めは何処か無気力な様子で、それでも断ることはせずについてきていたリュナンだったが、ある時、彼自ら脱走を願ったことがある。
行き先を尋ねるルーヴァンに対し、リュナンは僅かに震えた声で、しかしはっきりと『世界樹に登りに行きたい』と口にした。
世界樹とは、王都の外れに位置する、『女神』の住む天界へ繋がると言い伝えられている巨木だ。
管理用に足場が組まれているので登ることは充分に可能だが、王族をそんなところに連れていくなど、普段は目溢ししてくれている者たちも決して許してはくれないだろう。下手したらルーヴァンは一生騎士になる権利を剥奪されるかもしれない。
だが、それでも迷わず『城を抜け出そう』と言ったのは、リュナンが何か、助けを求めるような顔をしていたからだった。
隠そうとしても隠しきれない、何処か縋るような、それでいて逃げ出したいと怯えているような視線。
彼は恐らく歳も近く親しいルーヴァンを信頼して、やっとの思いでその願いを口にしたのだ。普段大人たちの前では快活に振る舞ってみせるリュナンのそんな態度を見て、我が身可愛さに断るほど、ルーヴァンは男を捨ててはいなかった。
世界樹を登り切った時、雲がとても近かったことと、夏だというのに肌寒かったことをよく覚えている。それと、戻った後に思い出したくもないほど叱られたことも。『私が無理に頼んだんだ』と床に両手をついて謝るリュナンのおかげでなんとか許して貰えたが、下手したら本当に勘当されていたかもしれない。
そして、あともう一つ、ルーヴァンの頭にはどうしても忘れられない記憶が焼き付いている。これはリュナンでさえ知らないことだが、世界樹の上、人の足で辿り着ける最も高い場所で、リュナンは確かに言ったのだ。
このまま死んでしまいたいな、と。
風に紛れて聞こえないと思ったのだろう。もしくは、呟くつもりなどなかったのかもしれない。
皆に好かれる快活さを持ち、それでいて聡明で思慮深い、まさに民を統べる王となるべき資質を備えた彼がどうしてそんなにも悲観的になるのか、その時のルーヴァンには分からなかった。
分からないが、彼の抱える心の傷が、容易く触れていいようなものではないことだけは察した。
だからこそ今日まで触れることなく、ただ忠実な臣下として、そして時には気兼ねない友人として振る舞ってきたのだ。
テーブルを見つめたまま俯くリュナンの顔には、あの時、世界樹の上で見せた時と同じものが浮かんでいるようにも思える。飲み込まれてしまうほどの悲観と、拭い切れない恐怖。
一体何に怯えているのか。ルーヴァンはその怯えの原因について、数年前に仮説を立てたことがある。
もしかしたらリュナンは『未来が見える』のかもしれない、と。
それ故に、いずれ生まれてくるルーヴァンの娘が類まれな光魔法を宿していることも、性格がやや……いやかなり……結構、厄介なことになってしまうこともずっと前に察していて、そんな『聖女』が『魔王』を倒し切れずに訪れてしまう破滅的な未来について憂いているのではないかと。
この仮説について、成り立たない点が幾つかあることは認識している。だが、いくつかは当たっているのではないか、と感じてしまうのも確かだった。
リュナンの先見の明は、時折周囲の人間にとっては恐れを抱くほどに鋭く冴え渡ることがあった。それこそ未来を見通す力でも持っているのかと言われるほどに。
本人はそれを聞くたびに苦笑と共に『私に使えるのはしがない水魔法くらいのものだ』などと溢していたが、全くの的外れでもなかったのではないだろうか。
少なくともリュナンは、『異世界より現れた特異な魂を持つ者』などという超然とした得体の知れない存在をあっさりと受け入れている。
ルーヴァンは最初、そんなことが有り得るものか、と真っ向から存在を否定した。当然だろう。この世界で『異界より姿を顕す者』など、歴史上『魔王』しか観測されていない。そうなるとあの男は魔族であるということになるが、それにしては目的があまりにも読めなさすぎるし行動があまりにもアホすぎる。
あのアホのちゃらんぽらんが『異世界人』だと? 断じてありえん、と言い切ったルーヴァンがカコリスに確認を取り、分かりやすく肯定の反応が返ってきたのは二年前のことだ。
肯定され、一度は受け入れたルーヴァンだったが、それでも未だにあの男が『異世界人』であるなどとは飲み込み難いものがあった。まだ『特異体質を持つ自分を異世界人だと思い込んでいる精神異常者』の方がしっくり来る。
だが、リュナンは確認が取れた後にはすんなりとそれを受け入れていた。そして、娘の親友が負傷した一件の際には、カコリスにのみ何かを語り聞かせるほどには信頼している様子すら見せた。『貧民街出身の得体の知れない男』を、一国の王が信頼することの危うさと迂闊さを知らぬほど、リュナンは愚かな男ではない。
特殊な能力を持つ者をあっさりと信頼するのは、リュナン自身がそうだからではないだろうか?
ルーヴァンの胸の内にはそのような憶測が在る。だからといって忠義心が揺らぐ訳でも、無理に暴こうと言うつもりも無い。
リュナンが何を恐れようと迷いなく剣を抜き、命を賭ける覚悟もある。その思いだけは、たとえ何が敵であろうと変わることはなかった。
「……やはり日を改めた方がいいのではないか? 彼奴が倒れてから一週間、ナナヴァラの方でも動きがあっただろう。疲れが抜けていないんじゃないか」
「何、さして問題はない。どちらの国も『魔王』を討ち倒すその時までは派手には動けん。我が国が傾けば魔の王への手立てを失い、自らの国すら滅びかねんからな……ガルガ王のいつもの悪癖に過ぎんよ」
「…………全く、厄介な国と地続きだな。まだ山でも挟めばやりやすいが……いや、それもまた国を統べる王次第か」
秘密主義にして享楽主義、狂気的な研究者を王として掲げる北の大国を思って溜息を落としたルーヴァンに、リュナンは小さく苦笑を零した。敵に回ったとしても長年付き合いがある分、何かしろ思うところがあるのだろう。
気を取り直したように顔を上げたリュナンが、ルーヴァンへと目を向ける。
「今は何よりも『魔王』への対応を考えねばならん、研究所の〝予測〟の件も伝えねばな……。ルヴァ、そろそろあの二人も着く頃だろう、迎えに行ってくれないか」
そこに浮かんでいた恐怖の色は、すっかり為政者の仮面の下に押し隠されてしまっていた。しかし道を知っているだろうカコリスをわざわざ迎えに行かせるあたり、僅かでも一人になる時間が欲しいのだろう。王としての顔で示されてしまえば、友人ではなく、ただの臣下として振る舞う他ない。
それ以上言及することなく礼を取ったルーヴァンは一人第三研究室を出ると、『あの二人』を迎えるために足を進めた。
「(…………あのアホのアホさ加減が少しでもリュナンの心労を軽くしているのなら、それはそれでいいんだがな。ただあまりに彼奴のアホが過ぎていることだけが問題といえば問題だが……)」
廊下沿いの灯りを辿って歩くルーヴァンの胸に、ふとぼやきにも似た呟きが落ちる。
規則的な靴音を響かせる彼の脳裏に浮かぶのは、自身が貧民街から拾ってきた孤児、カコリスの顔である。
齢十三にして貧民街を牛耳る頭の右腕として生きていたあの男は、出会った頃から異質な存在ではあった。
到底孤児とは思えない言葉遣いはもはや礼儀を通り越し慇懃無礼としか言いようがなく、謙ってみせるくせに命など惜しくはないとでもいう平静さを持ち合わせる不気味な子供。
教会の魔法適性検査を受けた上で捨てられていたことから出自が厄介なものであることは容易に想像がついたが、あの男の生家はついぞ突き止められなかった。
底知れなさを感じたのは確かである。この男を使えば己の娘をより高みへと辿り着かせることができると確信し、屋敷へと連れ帰ったのももう七年も前の話になる。
そこから半年、食事の場で好き放題振る舞うリーザローズをソファの上からすっ飛ばし、汚れ散らかされた皿を掴んで怒鳴りつけたあの暴挙は、あの場にいた人間全ての記憶に強く刻みつけられている。……正直、今思い出しても二、三発ぶん殴ってやりたいくらいである。仮に光魔法による隷属と魅了の効果がなくとも、娘を思う一人の父親として懲罰室には引き摺り込んでいただろう。
あの場で何を思ってあんな戯言を並べ立てたのか。ルーヴァンはいまだにカコリスの精神状態を疑うことがある。正気であんなことが出来るとは思えなかった。
何処の世界に命すら奪われかねない罰を与えられている最中に『太り過ぎたお前の娘をシュッと縮めてご覧にいれましょう』などと長々言い放つ執事がいるというのか。実在を疑われてもおかしくはない。が、実在する。確実にいる。なんなら特異体質が判明する前にもちゃっかり専属執事の座に収まっているのだから恐ろしい。
当初のルーヴァンにとっては、事情さえなければすぐにでも叩き出したいほどには厄介な男であった。それがなんだかんだと七年の付き合いになりつつある、という事実を思うと、ルーヴァンは未だにこめかみに手を当てて唸ってしまう。付き合いが疎ましい訳ではない、というのが更に頭痛の種になる点だ。
入学後は顔を合わせる機会も減ったが、それでも報告会として月に一度は会っている。今もなお小憎らしい使用人であることに変わりはないが、ある意味恩人とも呼べる相手だ。多少の親しみを持ってしまうのは、人として自然な流れだろう。
たとえ当初は心から娘に暴言を吐き、罵倒し、なんなら張り倒し、しかも逃げ惑う娘を土魔法で捉えて荷物の如く運ぶ男だとしても、だ。
…………そして、いずれは娘を父親の元から奪っていく男だとしても、である。
「全く、あんな男の何処がいいんだ。我が娘ながら趣味が悪い……」
今度のぼやきははっきりと口に出てしまった。それはそうだろう。将来婿入りする(もはや殆ど確定事項であるため、ルーヴァンは現在、妻を納得させる地盤固めにも尽力中である)男がアレである。頭を抱えたくなってもおかしくはない。
理由が分からなくもない、というのがまた頭を抱えたくなる原因の一つでもあった。
リーザローズは生来我儘な気質で、自分が最も優れた存在であると疑いもしていなかった。周囲全てを自身の信奉者とし、際限なく甘やかされることを当然のものとしてきた。
そのような状況で突如現れて己の世界をぶち壊し、価値観を変えに来た男である。存在自体が良くも悪くも気になるものだし、それが恋愛感情に変わってしまってもおかしくは……おかしくは、いや、……おかしくはない、筈である。
初めは確かにただの対抗心であったのだろう。この男にだけは負けたくはない、という一心で、リーザローズはそれまで逃げ惑っていた勉学や鍛錬に励むようになった。動機はどうあれ、それ自体は純粋な努力である。
そして、あの男は努力を積み重ねる存在には割と甘いのだ。何が理由であろうと変わろうとしているリーザローズを前にしたあの執事は、表面上は何と言おうとその態度で忠信を示してみせた。それを無意識にでも察したからこそ、リーザローズは憎たらしい執事を相手にあそこまで気を許していたのだ。
……つまりはもはやルーヴァンがとやかく言うまでもなく『そう』なのだが、いかんせんその対象である男が『ああ』である。今度は違う意味でも頭を抱えたいところだった。
思わず渋面で溜息を落としてしまったルーヴァンの口から、苦々しげな言葉が溢れる。
「しかし俺はあの男に御義父様などとは死んでも呼ばれたくはないぞ……」
「あら、どなたにですか? わたくし以外にお父様をお父様と呼ぶ方がどちらかにいらっしゃって?」
「…………リザ、曲がり角はそう勢いをつけて曲がるものではない。気をつけなさい」
二つ目の角を曲がったその時、ルーヴァンの胸に飛び込むようにしてリーザローズが角から出てきた。
令嬢とは思えない身のこなしでかわされた為ぶつかるような事態にはならなかったが、少なくとも淑女としてはあまり誉められた挙動ではないだろう。
年々人間離れしていく娘の資質には目を見張るものがあるし、何ならその純粋な体術の才能にはかなりの誇らしささえ覚えているが、それとこれとは話が別なのだ。
「申し訳ありません、お父様。気が急くあまり、はしたない真似を致しました」
苦言を呈したルーヴァンに、リーザローズは一転して公爵令嬢に相応しき礼を取った。何処の公的な場に出しても恥ずかしくない、洗練された動きである。先ほどのも別に何処の戦場に出しても恥ずかしくない洗練された動きではあったので、どちらにせよ誇らしいことには変わりはないが、ルーヴァンは娘の正常な成長のために特に口に出すことはなかった。
「ですから先を行くのはお辞めくださいと申し上げたではありませんか。直進でしたら間違いなくぶつかっておられましたよ、よもや心まで猪になってしまったとでも言うのですか?」
そこで、厳格な父の顔を保ちつつ頷いてみせたルーヴァンの耳に、聴き慣れた慇懃無礼な物言いが届いた。
知らずルーヴァンの眉間に皺が足されるが、彼が何か口にするより先に、今しがた淑女の礼を取ったリーザローズが俊敏な動きで後方を振り返った。
「心までですって!? この麗しく美しい聖女たるわたくしの見目が猪にでも見えるというの!?」
「少なくとも神馬にも聖女にも見えはしませんでしたね。暗がりを喧しい足音を立てて闊歩していく様などまさに無粋な闖入者、此処が歴史ある神聖な王城だとは信じ難い程の野蛮な足取りでございました。全く、我々は闘技場の入場に来たのではありませんよ、お嬢様」
「なんなら今すぐお前と闘技場に向かって差し上げてもよろしくてよ!? この無礼者!!」
淀みなく紡がれる罵倒に再び噛みつくリーザローズの後ろから、普段と変わらぬ様子のカコリスが顔を出す。分かりやすく顔を顰めたルーヴァンの前で腰を折ってみせた専属執事は、リーザローズが剥れた顔で唇を弾き結ぶのを横目で見てとると、澄ました顔で続けた。
「ご心配をおかけしました。この通り、意識も効果もはっきりしております」
「……元より心配などしておらん。お前が詫びるべきは心配をかけたことではなく、迷惑をかけたことだとは思わんか?」
「正しく、仰る通りで御座います。少々見立てが甘い状態で踏み切ってしまいました。以後このようなことがないよう、誠心誠意努めて参ります」
「ふん、お前が誠意など持ち合わせているとは思えんが……まあ良い。資料室へと向かうぞ」
ルーヴァンの見る限り、万全とは言えないまでも大きな支障はなさそうだった。一週間も倒れていたにしては平然としすぎている気もするが、元より特異な魂を持つ人間である。目に見えた不調が感じられないのであれば、わざわざ気遣うつもりはなかった。
二人を視界から外すように踵を返したルーヴァンの後ろに、リーザローズとカコリスが続く。今しがた男が口にした通り、光魔法による高揚の効果はしっかりと打ち消されているようだった。
依存と高揚によって隷属じみた愛情を向けてしまうよりは遥かにマシだが、それでも娘が罵倒されている様を見るのはあまり気分の良いものではない。たとえ『……まあ、言われても仕方あるまいな』という言動を娘がとっていたとしても、である。
故にルーヴァンは極力後ろの二人に触れないまま資料室へと戻ることに決めていた。
「公的な場では慎ましく振る舞えるようになったと思ってきたのですが、猪様にはまだ早かったようですね……」
「誰が猪様よ! お前が陛下に出来る限り早く伝えたいというからわたくしはそれを手助けしようと思って……!」
「お心遣いには感謝致しますが、あくまでも陛下のご都合を考えての待ち合わせ時間なのですよ、此方ばかり急いても無駄になるばかりです」
「ぐっ……それは、そうかもしれないけれど……」
「そもそも我々の用件は性急に伝えたところで理解して頂けるかも怪しいものです。あくまでも陛下には耳を傾けていただくだけ。そのように強引に突き進むのはあまり誉められた態度ではないでしょう」
「…………お前が今回やけに及び腰なのは『信じてもらえない』と思っているからなのかしら? ふんっ、常日頃は傲岸不遜も良いところだというのに、やけに弱気なのね。お前にはこのわたくしが後ろ盾となっているのだから、余計なことは心配せず、ただわたくしが世界を救う為の手助けをさせて貰えることに感謝していれば良いのよ!」
「それはそれは、何とも頼もしいお言葉ですね。……ああ、これで廊下を破壊する勢いで闊歩さえしていなければ尊敬すべき主人として素直に感嘆を抱くことが出来るのですが……帰りの際には逐一床を確認せねばならないとは……」
「穴が開くほど踏み締めてなどおりませんわっ! わたくしを何だと思っているの!?」
「以前休暇の際に闘牛を見に行ったのを覚えておいでですか?」
「ええ、覚えているわ。なかなか面白かったわね。……急に何の話よ」
「途中から私はお嬢様と見ているのか、お嬢様を見ているのか分からなくなっておりました」
「誰が闘牛ですってッ!? 何一つ似ている点がありませんわよッッ!」
…………あとは単純に、年頃の娘を持つ父親として純粋に気まずい面もあった。
「(…………リザよ……どうしてもその男でなければ駄目か……どうしてもか……)」
聞いたところで真っ赤な顔で否定しつつも態度で是を示されるに決まっているので、ルーヴァンは娘の恋心について、現時点では一切言及する気はなかった。
父心とはかくも切ないものなのである。
明らかに深く聞かねばならない点を撒き散らしながら会話を続ける声を聞きながら、ルーヴァンはその全てを一旦保留とし、後方で戯れ合う(としか形容できない)二人を出来る限り意識から追い出したまま、資料室の扉を開いたのだった。




