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第十八話



 『女神と会話がしたい』などと言っているのがバレたなら、まあまず確実に気が触れたと思われるだろう。

 魔法があり、魂の概念すらあり、世界の繰り返しを知る陛下がいてすら、『女神』という概念はウルベルトシュでは単なる信仰の対象であって、実在が信じられているものではないからだ。


 もちろん、女神を蔑ろにするような者はいないが、『この世界に恵みを与えてくれる概念』を女神と呼んで信仰しているだけであり、そんな高次存在が実在すると本気で考えているような魔法学徒は滅多にいないのである。


 だが、どうやらルナ嬢はその『滅多にいない』方だったらしい。お嬢様から俺が魔法開発、それも女神との接触を図って悩んでいる、と聞いたルナ嬢からの手紙には、『実現可能かはともかく理論上不可能ではない』とされる高次元存在への接触方法について書かれていた。

 魔法開発分野では初心者も初心者な俺には半分ほどしか理解できなかったが、それでも、闇雲に方法を探るよりはよほどまともな道筋であることは確かだろう。


 何をするにも自信が持てないでいる様子だったルナ嬢が、まさかここまで強い探究心を持って知識を蓄えているとは思わなかった。

 ……というかこれ、普通に歴史に残る規模の発明だったりしないか?


「改めて思いましたが、ルナ様は凄い方ですね」

「ええそうよ、ルナは凄いのよ! 何? 今更気づいたのかしら? 全く、お前の目は相も変わらず節穴のようね!」


 王立図書館の禁書区域にて。届いた手紙に書かれていた理論と、魔法構築の参考となる本を見比べて感嘆の息をこぼした俺に、お嬢様は嬉々として声を上げた。

 此方を見やるお嬢様の顔には、自慢の友人の素晴らしさを褒められたことによる純粋な喜びが浮かんでいる。


 周囲に人がいるならば、「ええ本当に、お嬢様とは違い素晴らしいお方です」だとか「図書館ではどうぞお静かに願います、お嬢様の並外れた雄叫びは他の方の迷惑になりますからね」とでも言っておくのだが、現在、この廊下には俺とお嬢様しかいない。

 不必要な嫌味も罵倒も必要ないので、素直に相槌を打っておいた。


 ふふん、と鼻を鳴らしたお嬢様はしばらく満足そうな顔でルナ嬢がいかに素晴らしい友人かを語っていたが(まさかあのお嬢様が他人をここまで誉める日が来るとは思わなかった)、ふと勢いを無くしたかと思うと、やや声量を落として呟いた。


「ねえ、ウスノロ。やっぱりルナは凄いと、お前もそう思うわよね?」

「ええ、それは勿論。ルナ様の年齢でここまで魔法開発の研究に踏み込んだ女性は今までいないのではありませんか?」

「そうよね。そう、なのよね……」

「……何か気がかりなことでも?」


 先程までの上機嫌から一転、何処か気落ちしたかのような様子で呟くお嬢様は、明らかに気にかかる素振りを見せたにも関わらず、頭を振ってそれを打ち消した。


「いえ、別に何でもないわ。これはルナが自分で決めるべきことだし、もう決めたことだもの。わたくしが首を突っ込むことではないわね」

「左様でございますか」

「それに、何より、この世の誰が認めなかったとしても、この類稀なる神聖の乙女であるわたくしに認められることこそ最大級の栄誉であるはずだもの! わたくしがするべきは、唯一神にすら届くこの威光を磨き上げることのみですわ!」


 何やら決意を固めているらしいお嬢様は天に向かって気合いを込めた拳を突き上げると、気を取り直すように力強い口振りで宣言を放った。相も変わらず自己肯定感が突き抜けていらっしゃる。

 まあ、ルナ嬢にとっては本当にそうである可能性の方が高いだろうが。


 現在、俺はお嬢様の付き添いのもと、閉館後の王立図書館で魔法開発についての資料を漁っている。いつぞやの言葉通り、お嬢様が俺の行動に合わせてくれているという訳だ。

 陛下の計らいで閉館後に入館できているのもありがたい。お嬢様と行動を共にするのなら、周囲に人は少なければ少ないほど良いのだ。


 ルナ嬢から示された方法論を補強できるように、それに相応しい資料を探していく。再度考え直すべき点はいくつかあるようだったが、ど素人の俺が一からああでもないこうでもないと捏ねくり回すよりは遥かに時間の短縮になるはずだ。

 希望が見えてきたな。果たして行き着く先が希望かどうかは怪しいところだが。


「それにしても、対話を望むほどに女神を信仰しているのならば、その女神に遣わされたといえる聖なる乙女であるわたくしに対してももう少し尊敬の念を抱くべきではなくて?」

「僭越ながら申し上げます、お嬢様。権威ある者に選ばれたというだけでその者を神の如く崇め奉る、というのは、私の最も嫌う性質の人間です」


 脳裏にアザンの顔が浮かび、知らず眉間に皺が寄ってしまった。

 ついでに言えば、俺は女神と話がしたいだけであって信仰している訳ではない。さらに言うなら、実在を確認しているから信じているだけで、そこに尊敬や信仰という感情は一切ない。

 だが、この辺りの説明をしたところで上手く伝わるとも思えないので、一番分かりやすい答えをそのまま口にしておいた。


「例えばルナ様もお嬢様を神の如く崇め尊敬の念を抱いておりますが、私はそれに対しては特に不快だと思ったことはありません。ルナ様はお嬢様の行動を目の当たりにし、その身を救われたことでお嬢様への畏敬の念を強めた訳です。

 私も同じく、お嬢様の行動を見た上で尊敬に値するか否かを判断しているのです。ご理解いただけましたか?」


 わざとらしい煽りを混ぜて紡いだ言葉を、そこで一度区切る。振り返れば、分かりやすく拗ねた様子で顔を顰めたお嬢様と目が合った。

 常ならば此処でさらに『私に尊敬されたいと仰るのであれば、それに見合うだけの素晴らしい聖女になっていただきたいものですね』とでも続けるのだが、周囲に誰もいない状況で、わざわざそれを口にする気になるかと言えば、答えは否だった。


 苦笑混じりの溜息を零し、不要な書物を棚に戻しながら呟く。


「ですが……そうですね。近頃のお嬢様は尊敬に値する面もあると思っておりますよ」

「面もある、ですって? 口を慎みなさい、ウスノロ! わたくしに尊敬に値しない点など存在しなくてよ!」

「お嬢様がそう思うのならそうなんでしょう、お嬢様の中ではね」


 いつぞや口にしたのと同じような台詞を紡ぎつつ唇の端を持ち上げた俺に、お嬢様は一瞬言葉に詰まった後、苛立ちをこめるように鼻を鳴らした。

 設られた椅子に腰掛け、足を組んで此方を見やるお嬢様の目には、どこか戸惑いに似たゆらめきがあるように思えた。


「ねえ、セバスチャン」

「なんでしょう、お嬢様」

「……お前は、…………………いえ、やっぱりなんでもないわ」

「言いかけてやめられると気になりますね」

「なんでもないと言ったらなんでもないのよ。わたくしがそう断言したのだから素直に受け入れなさい。ここは、人目もないのだし」

「確かに。それもそうですね」


 気になるのは本心ではあったが、しつこく問い質すほどのことでも、わざわざ混ぜっ返すほどのことでもない。何より、今のお嬢様は俺の予定のために付き合ってくれている状態である。


 その後は時間の許す限り資料を漁り、いくつか試行の方法をまとめてから図書館を後にした。




    *  *  *




 成長、というのは日々の積み重ねである。だが、積み重ねたものがいつ成果を上げるのかは、実のところ誰にもわからなかったりするものだ。


 だからこそ人はすぐに成果が出るものに心を強く惹かれ、成果が出ないものを遠ざけがちである。

 ダイエットなどが良い例だろう。より早く結果が出るものを求めた結果、何も成せずに終わってしまうことが多い。結局は地道に続けていく他ないのである。

 そして努力というのは、それと意識せずに続けることが持続のコツである、と俺は思っている。はてさて。つまり、なんの話かと言えば、お嬢様の話である。


 お嬢様の話だが、ダイエットの話ではない。シャンデュエの話である。


 入学時から続けること五年弱。

 昼休み中の十五分間を使って行われていたシャンデリアエクストリーム・ゴージャスデュエルにて、ついにお嬢様が白星をあげた。


 炎魔法による攻撃と、光魔法による身体強化によって自身の闘い方を確立したお嬢様は、とうとう、土魔法によって逃げる俺を捕らえることに成功したのだ。


 此処まで来るともはや執念の産物である。

 行く手を阻む植物を焼き捨て、土魔法によって生み出した障害物を使って回避を続ける俺を強化された肉体で持って捉えたお嬢様は、見事、地に伏せた俺の腕をとって捻り伏せ、勝鬨を上げた。


「や、やりましたわ!! ついに! ついにわたくしの勝利でしてよ!!」

「おめでとうございます、お嬢様。何百戦とした内の一回ですが、それでも確かにお嬢様の勝利ですとも。恥も外聞もなく大いに喜んでいただいて結構でございます、それが淑女として正しい行いだと思っていらっしゃるのなら、どうぞ好きなだけ騒いでくださいませ」

「ふふん! そんな無様な状態で何を言おうと負け惜しみにしか聞こえませんわね!!」


 まあ、実際負け惜しみである。負け惜しみとして好きなだけ罵倒が口にできるので、むしろ俺としてはありがたいくらいであった。

 長年の宿敵を打ち果たしたのがよほど嬉しかったのか、お嬢様の顔は歓喜に紅潮している。当然、周囲にはキラッキラの光魔法の余波が飛んでいるので、負け惜しみだろうがなんだろうがとにかく罵倒する必要があった。


「地に伏せた従者にのしかかるという行いは、御令嬢としては無様に当たるのでは?」

「今のわたくしは一人の戦士! 戦いの場での振る舞いに無様も何もありませんわ!!」

「戦士であるのに対戦相手に敬意もなく衆人環視の中で地べたに這いつくばらせることがお望みとは、全くもって悪趣味でいらっしゃる。聖女様ではなく悪女様がお似合いだと言われても致し方ない振る舞いでございますね。

 しかしてそろそろ本当に退いて頂けますと助かります。昼食の時間がなくなってしまいますので」

「何よ! もう少し勝利を味わう時間くらい与えてくれても良いでしょ!」

「勝利の味は後ほどゆっくり噛み締めてくださいませ。今は料理長自慢の創作料理の味を楽しむべきかと」


 流石に背中側からのし掛かられてしまっては身体を起こしづらい。起こせないことはないが、背中にお嬢様が乗っているが故に、無理に起こせばバランスを崩してお嬢様が地面にすっ転がりかねないのである。

 勝利の喜びに浸っているお嬢様を地面に転がすようなことになれば、機嫌を損なったお嬢様はきっとこの後半日は拗ね続けるだろう。実際のところお嬢様は怒っているよりも拗ねている方が面倒臭いので、それは避けて通りたいところだった。


 あくまでも穏便に、ついでに食べ物で釣りながら誘導した俺に、お嬢様は渋々、と言った様子で身体を退けた。

 立ち上がり、服の前面についた砂埃を払いつつ演習場の出口へと向かう。前を歩くお嬢様は着替え室から出てくるまで何やら納得がいかない様子で眉根を寄せていたが、出迎えに立つ令嬢たちから祝いの言葉を向けらえると、ころりと機嫌を直したようだった。


 俺とお嬢様のシャンデュエだが、当初に比べて観戦者は減った分、コアなファンがつくようになっているのである。今では別の会場でサークル対抗のシャンデュエ大会が開かれていたりもするので、そっちに観戦者が流れた、というのもある。


 まるで我が事のように喜び、お嬢様へと祝いの言葉を投げかけていた御令嬢方は、隣に控える俺の顔をちらりと見やると、何やら小声で囁き合いながら去っていった。

 何を言われているのかはわからないが、まあ、あまり悪感情を向けられている印象はなかったので流しておく。女子というのは、何故か人前でする内緒話が好きなものなのだ。


 楽しげな声が遠ざかるのを耳にしつつ、お嬢様を振り返る。いつもなら食堂に向かうお嬢様が一向に歩み出す気配がなかったからである。


「お嬢様? 休憩時間がなくなってしまいますよ?」

「………………セバスチャン」

「なんでしょうか」


 そういえば最近、名前の訂正をしていないな。まあいいか。言っても直らないし。


「お前、上着はどうしたのよ」

「は? ……ああ、先ほどのシャンデュエで汚れてしまったので、一旦収納箱にしまっておきました。後で取りに来たいのですがよろしいですか」

「ベストは?」

「同じくしまってありますが」

「ネクタイは」

「それも同じく」


 普段はごく一般的な執事服に身を包んでいる俺だが、今は上着とベスト、ネクタイを外しているので、上はシャツのみという格好であった。

 今聞くべき質問だろうか、と思ったが、確かに従者である俺が正装ではなく極めてラフな格好をして付き従っているのは、公爵家の令嬢としては看過できないのだろう。


「申し訳ありません、着替えを用意していなかったもので。見苦しいかとは思いますが、一先ずこのままお供させて頂きます」

「なんですって、全く用意の悪い! 執事失格ではなくって──……まさかお前、わたくしには土をつけることもできないと高を括っていたということね!?」

「いえいえまさか、そのような事実は一切ございません。全く私の不徳の致すところでございます、執事の資格無しと詰られることも覚悟しております、さ、お嬢様、ともかくまずは昼食と致しましょう」

「わたくしに負けることなど少しも想定していなかったと! それどころか服が汚れる心配すらしていなかったと! そう! そういうことですのねっ!?」

「さあお嬢様、急いで食堂に参りましょう、さあさあ、昼食の時間がなくなってしまいます、さあさあさあ」

「こっ、このウスノロ!! 信じられませんわ!! 無礼者!! 無礼者ーーっ!!」


 全くもって図星だったので、俺は何もかもを誤魔化す勢いでお嬢様を食堂へと押し込むことにした。いや、別にお嬢様を侮っていたとか、そういう訳ではないのだ。本当に。

 ただ、五年も負けなしで、特に汚れることも無いままでいたら、用意しておくのが面倒になってしまっただけで。


 こればっかりはただただ俺が悪いので、何一つ正当な反論が出てこなかった。まあ、俺が正当な反論をしていたことの方が少ないわけだが。


 道すがら散々喚いていたお嬢様だったが、食堂で美味いものを食べた上に、勝利を報告された料理長が『では腕によりをかけて祝いの品を作らせて頂きます』と笑顔で告げるのを聞いた途端、機嫌を直した。

 お嬢様が単純でよかった。 


 と。


 思っていたのだが。



「ふん……度を越した無礼者だとは思っていたけれど、まさかここまでだとは思わなかったわね……」


 どうやらそう簡単に直るようなものでもなかったらしい。


 午後の授業をこなし、いつものように湯浴みを終えたお嬢様は、髪を乾かしながら整える俺を鏡越しに睨め付けながら、なんとも不満げに吐き捨てた。


「そもそも考えてみれば戦闘に相応しい格好に着替えもしないでいること自体がわたくしへの侮辱だわ……全く……なんて不敬な執事なのかしら……性根からして無礼なのね……」


 その呟きは、俺に聞かせるため、というよりはもはや口からこぼれ出てしまっている、というのが正しい様子だった。

 そして、言葉の割には表情に覇気がないあたり、苛立ちよりも落胆が勝っているようである。


 なるほど、お嬢様にとっては俺は幼少期からの宿敵だ。そんな相手に『そもそも対等に戦う相手と見做されていなかった』というのは、プライドの高いお嬢様にとっては許し難い事実であったのだろう。

 実際、確かに俺はお嬢様を侮っている部分があった。小さい頃から面倒を見ている、という前提でいつまでも幼い子供のように見てしまう面もあるが、何よりこの身体が結構なハイスペックであるからして、多少の相手には負ける気がしないと思ってもいたのだ。


 しかし真剣勝負を望むお嬢様にとって、それは単なる侮辱でしかない。本気でやっている相手に手を抜くことがどれほどの無礼であるかは理解していたが、無意識に驕りが出てしまっていたのだろう。この点は俺に非があり、気を引き締めるべきところだ。


「申し訳ありません、お嬢様。次からは本気で臨ませて頂きます」

「それはこれまでは本気を出していなかったと言うことかしら? どこまでも舐め腐った執事ですわね!」

「現状での全力は出しておりましたが更に努力致します、という意味でございます」

「嘘よ! お前はどうせ余裕ぶって勝つ気でいたのだわ! だから着替えも用意していなかったのよ! その上あんな格好を見せつけるような真似を!」

「これは本心から申し上げますが、四学年に上がってからお嬢様は確かに見違えるほどお強くなられました。お嬢様が思われているほど余裕があった訳ではございませんし、今日のシャンデュエでも手を抜いた訳ではありません。単に私の気構えの問題でございます」

「ふん! 言葉ではなんとでも言えるわ! 着替えを用意しなかったという態度そのものに出ているのよ! お前の心の底がね! だからあんな格好を見せる羽目になったのだわ!」

「確かに仰る通りです、その点に関しては何の反論もございません。ですのでこれからは心を入れ替えます、と申し上げております。ところで、『あんな格好』とはどの格好のことでしょうか。以後気をつけたく思いますので、教えて頂けませんか」


 そんなに言われるような格好をした覚えはないんだが。地べたに這いつくばったことを指しているのだとしたら、それをしたのはお嬢様である。地に伏せた従者にのしかかって腕まで捻じ伏せているのである。そこまで怒られるような謂れはないと思うんだが。

 単純な疑問から尋ねた俺に、鏡越しのお嬢様がぐっと言葉に詰まるのが見えた。


「…………あんな格好? ど、どんな格好のことかしら。そんなことは言っていないわ」

「二回ほど聞いた覚えがあるのですが」

「わたくしは覚えていないわ。つまり言っていないということよ」


 何処ぞの政治家のようなことを言いよる。が、思い当たる格好がないので、本当に聞き間違いだったのかもしれない。

 もしくは、やっぱり言わなくてもいいようなことだったのかもしれない。


 左様でございますか、と流すことに決めた俺に、お嬢様はしばらくやり場のない感情を逃すように視線を彷徨わせたあと、何か思いついた様子で口を開いた。


「そういえば、お前に敗北を与えた記念すべき日だというのに、わたくしを讃える言葉のひとつも聞いていないわね!」

「お嬢様を敬愛する御令嬢方から散々頂いていたかと思いますが」

「打ち負かした相手から敗北の宣言を受けることこそ勝者の特権であるはずだわ!」


 うーん、やはり当家のお嬢様は性根が曲がっていらっしゃる。


 ご機嫌に鼻を鳴らしたお嬢様は、誇り高き勝者として俺からの敗北宣言を受ける気満々の顔で鏡越しにこちらを見つめていた。

 誇りある勝者が敗北宣言をねだるか否かはさておき、更に言えば動機の不純さも傍に置くとして、これまで欠かさず己を鍛え上げることに注力していたお嬢様の努力は認めるべきところである。


 本当に、動機はともかく、努力家でいらっしゃることは確かなのだ。


「いいでしょう。お嬢様の悪趣味さには辟易しておりますが、勝者の特権であることも確かでございます」


 乾かし終えた髪を絹のリボンでまとめ、軽く横に流す。寝るときに邪魔にならない位置に落ち着けつつ、俺は昼間からうっすらと抱いていた疑問を口にした。


「それで? 敗北の宣言とはどのようにすればよろしいので?」

「ど、どのように、って、何よ」

「散々仰っていたではありませんか。私を這いつくばらせて踏み台にするのがお望みだったのでしょう? 何でしたか、ふん縛って踏みつけて『この憐れなセバスチャンに慈悲を下さいませ』と泣かせてやりたかったとか。では、縛られた方がよろしいですか?」

「はっ!? そん、それは、なっ、何年前の話を持ち出しているのよ!!」

「四年以上前の話ですかね」


 思わず懐かしくなって笑ってしまった俺に、お嬢様は真っ赤な顔で頬を膨らませた。

 明確な発言自体は四年と十ヶ月ほど前であるが、意味合いとしては似たようなことは常々言っていたように思う。勝利者の権利としてやりたいことは変わっていないのだと思って持ち出したのだが、どうやらお嬢様の中では想定にはなかった切り返し方だったらしい。


「しかし困りましたねえ、縄の手持ちがありませんので、倉庫から持って来る他なさそうです。少々お待ちいただけますか?」

「子供の戯言を本気にしないでちょうだい! 縄なんて要らないわよ!」

「では踏みつけるだけで構わないということですね。首を垂れますので好きなようにしてくださいませ」

「ふ、踏むのも別にいいわ! お前はただ、その、わ、わたくしに負けたことを認めればいいのよ!」

「おやおや、あんなに踏みたがっていたではありませんか。どうぞ遠慮なさらずに」

「結構よ!!」


 かつてないほどの大声で叫んだお嬢様は、そこでようやく揶揄われていると察したのか、首まで真っ赤に染まった顔で、きつく眉根を寄せた。眦には涙まで滲んでいる始末である。

 幼少期から高飛車極まりない物言いを繰り返していたお嬢様だが、プライドの高さと性根は変わらずとも、淑女としての恥じらいは持つようになったらしい。


 実際に踏まれたところでそれで気が晴れるならば思うところは一つもなかったのだが、結構だと言われてしまったのならば他の方法を取るべきだろう。別に嬉々として踏まれたかった訳でもないし。


「ではお嬢様、方法は私にお任せくださるということでよろしいですか?」

「…………よろしいわ」


 これ以上何も言葉にしたくない、とでも言いたげな態度で唇を引き結んだお嬢様は、前方に回り込んだ俺が膝をつくのを見ても尚、どこか拗ねたように此方を睨み下ろしていた。

 ちょっとやりすぎたな。俺もなんだかんだで負けず嫌いということだろうか。


 誤魔化しをこめて苦笑を浮かべるも、お嬢様からは胡乱げな視線が返ってくるばかりである。

 せっかくの記念すべき勝利の日に水を差すなんて、とんだ無礼者だわ、と思っているのがありありと分かる視線だった。


「この六年半、私はお嬢様を側で見守っておりました。まあ、見守るというよりしばき倒していたかもしれませんが、ともかく、お嬢様を最も側で見てきたのは私だと自負しております。

 故に、私は誰よりもお嬢様の変化と成長を強く感じています。信じ難いことに、お嬢様は私が予想していたよりも素晴らしい御令嬢へと成長なさっています。

 仮にお嬢様がこの世で最も尊ぶべき聖女ではなかったとしても、公爵家の御令嬢ではなかったとしても、これまで積み重ねてきたお嬢様の努力そのものに敬意を払います。

 お嬢様は間違いなく私の仕えるべき主人であり、私は此処に職務としてだけではなく、リーザローズ・ロレリッタ様に心からの忠誠を誓いましょう。

 以上を持って、私の敗北宣言と致します。

 改めて、おめでとうございます。よもや在学中に私を打ち破る日が来るとは思ってもみませんでした。随分と成長なさいましたね、お嬢様」


 何を話すかは特に決めていなかった。何なら、お嬢様を喜ばせるために適当に無様な敗北宣言をしてもいいか、とすら思っていた。


 だが、口をついて出たのは素直な祝いの気持ちだった。実際、入学してから四年半、そして公爵家からの付き合いでいえば六年半の時を経たお嬢様は、当初からは予想しなかったほどに真っ当に成長していた。


 ここらで本当に尊敬しているのだと示しておいてもいいんじゃないか、と思ったのである。


 常日頃は染み付いた習慣で嫌味の応酬みたくなってしまうので、こうした機会でもなければ改めて想いを伝えることなどできそうになかったのだ。そもそも、信じてもらえそうにもないし。

 まあ、この場面でも信じてもらえるかは怪しいところだが。


 一応は最上級の礼を持って頭を下げた俺に対して、お嬢様はしばらくの間、黙り込んだままだった。

 おっと、もしやドン引きされてしまっているのだろうか。そりゃそうか。縄で縛るだの何だの言い出した後に突然真摯なことを言い出しても『なんだこいつ』でしかないだろう。


 タイミング間違えたな〜、と密かに一人反省会を始めていた俺の耳に、微かに強ばった声が届いた。


「顔を上げなさい、ウスノロ」

「は」


 命じられるままに顔を上げる。常にふんぞり返っているお嬢様のことだから今もふんぞり返っているのかと思っていたが、赤い顔で眉を寄せるお嬢様は、何かを堪えるような表情で持って、少しばかり俯いている様子だった。

 揃えられた膝の上に置かれた両手が、何処か居心地悪そうに指同士を遊ばせている。手の甲を引っ掻くように爪で皮膚をなぞっていた左手が落ち着いたころ、お嬢様は喉の奥に小骨でも詰まったかのような口振りで呟いた。


「お前は本当に……本当に、不敬な執事だわ。こんな時にもわたくしを貶めることをやめないくらいだもの、不敬の権化と言ってもいいくらいね」

「はて、何処か貶めておりましたか」

「うるさい。ちょっと黙っていてちょうだい」


 全く心当たりがないなあ、という顔をして見せた俺の膝を、お嬢様の足がやや雑に蹴り飛ばした。

 まあ、カコリスから聞いていた『聖女リーザローズ』からすると本当に信じられない成長だったからなあ、とも思ったが、黙れと言われたので黙っておく。

 一応、先ほど心からの忠誠を誓った身である。


「お前のような無礼者をわたくしの側に置くだなんて今でも許せないし、お前が倒すべき宿敵であることも変わらないし、こんな男が専属執事であることはこの非の打ち所がない高貴なる聖女であるわたくしのたった一つの汚点とすら言えるわ」


 膝に置かれた指先に僅かに力がこもる。

 一度言葉を切ったお嬢様は、細く息を吸い、吐くと、意を決した様子で言葉を吐き出した。


「でも、まあ、小指の爪先ほどは、いえ、髪の毛先ほどは、そうね、……お前がわたくしの執事で良かった、と思う時も、ないことも、ない、こともなくはないわ!」


 ないこともない、こともなくはない。

 えー。

 ないことがない、ので、ある。

 こともない。

 のがない。

 ので、要するにあるということであった。


 理解に十秒近くを要したのは、言葉尻がややこしかったからではなく、単に『お嬢様がそんなことを言う日が来るとは思わなかった』からである。


 今度は俺が完全に予想しなかった言葉を放られた形になったわけだ。

 当たり前のように呆けた顔でお嬢様を見上げてしまった俺の視線の先で、唇に歯を立てたお嬢様が、勢いよく立ち上がる。


「お、お前の敗北宣言はしかと受け取ったわ! ふんっ、ようやくお前にもわたくしの下僕としての自覚が出てきたようで何よりよ! ではっ、高貴なる聖女にして完璧な主人であるわたくしの有難い言葉を噛み締めて眠ることね! わたくしはもう、寝るわッ!!」


 力強い就寝宣言を告げたお嬢様は、そのまま逃げるように背のない椅子を跨いで逆方向へと降りると、なんとも素早い動きでベッドの中へと滑り込んだ。

 掛け布団を引っ被ったお嬢様に呼びかけるか否かしばし迷ってから、素直にドレッサーを片付けて部屋を後にする。


 おやすみなさいませ、と掛けた声には、何故か呻き声だけが返ってきた。猛獣の威嚇音みたいだった。



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