第十六話
────白い、どこまでも白ばかりが広がる空間で、『女神』はそっと溜息を落とした。
憂いを帯びているようにも、冷淡な人工物のようにも見える顔を伏せた彼女の視線の先にあるのは、空間に同化してしまいそうなほどに白い棺だ。
繊細な装飾が施されたそれは、上部がガラス張りになっている。
その中に横たわる『彼女』は、傍らで棺を見下ろす『女神』と寸分違わぬ顔で目を閉じ、眠り続けていた。
『女神』は再び溜息を吐く。もはやこれ以上どう手を打てばいいか、彼女には分からなくなってしまったのだ。
今回の巻き戻しでは他世界の人間を呼び寄せた。それが出来る程度には権限を得たのだ。だがこのまま続けて、『彼女』が目を覚ますのかは分からない。そして、目を覚ました彼女が幸福であるのかも、『女神』には想像できなかった。
「所詮、模造品に出来ることなどこの程度なのでしょうか」
『女神』は確かな意志を持って言葉を紡ぐ。造られた当初は、自分がこのようにぼやきを口にする日が来ることなど考えたこともなかった。十度も世界を巻き戻して尚、『彼女』の憎悪が尽きないことも、予想していなかった。
『女神』は振り返り、広く続く白い空間に手をかざす。左から右へ、壁を撫でるように手を滑らせれば、そこには『女神』が管轄する世界の一部が映し出された。
画面の中心に映るのは例の執事だ。異世界人。徐々に得た権限で世界を跨ぐ術を学び喚び出した、特異な魂を持つ者。
彼の働きは『女神』の予想以上のものであった。停滞していた世界が、彼の影響で再び回り出し、再び力を取り戻しているようにすら思える。
それは喜ばしいことでもあり、また危惧すべき事態でもあった。
活性化した世界で、『彼女』の憎悪はかつてないほどの力を得ている。今度こそ討ち滅ぼさなければ、この世界は『巻き戻し』にすら耐え切れずに自壊してしまうだろう。
そうなれば、これまで続けてきた繰り返しはただの徒労に終わってしまう。徒労を厭う心も無ければ後悔を抱くような性質も持ち合わせてはいないが、ただ、少し残念だとは思う。
『彼女』を失えば、『女神』は今度こそ信仰すべき何もかもを失い、ただそこにあるだけの現象に成り下がるのだ。生み出されたのならば、それに見合う意味を見つけたいと願うのは、人も神造物も変わらないだろう。
生みの親からも望まれず、ただ心地よい食事だけを求めて命すら落とした青年──永松秀久の顔を画面越しに見つめながら、『女神』は何度目になるかも分からない溜息を落とした。
視線の先では、与えられた器に収まりカコリスとして振る舞う秀久が、新製法の串揚げを頬張るリーザローズの口元についた衣を指で拭っている。『全く、貴族の御令嬢とは思えぬ食い意地でございますね』などと呆れたように口にしているが、その目に浮かぶのは手のかかる妹を可愛がるような慈しみだ。
何やら勢いよく言い返すリーザローズの頬は明らかに熱を持って赤く染まっている。淑女の口元に不作法に触れるだなんて、などと喚いているが、それとなくおかわりを差し出す秀久の視線に気づくと一瞬言葉に詰まり、あらゆるものを振り切るように勢いを増した声音で、『ふん! 無礼者の貢物を素直に受け取って差し上げるわたくしの優しさに感謝することね!』などと告げた。
どうやら聖女パーティでの遠征の帰りのようだが、二人寄り添って食事を楽しむ様は恋仲にある男女のようにしか見えない。メンバーの一人、アザン・クレイバーなどは、今にも呪いでもかけそうな勢いで秀久を睨みつけている。
「やはり此奴、相当に鈍いのでは……」
思わず、といった様子で『女神』の口からぽつりと言葉がこぼれ落ちる。『女神』にとっては永松秀久の存在は光魔法の使い手である聖女の補強と、魔王戦で聖女への致命傷を避ける意図さえこなしてくれればいいだけの存在でしかなかった。
だが、予期せぬ魂の特性により光魔法の依存性の緩和まで果たした秀久の動向は、今や最も知るべき情報である。故に、時間の許す限りは見守るようにしているのだが────この男、神造物にして通常の感性を持たない『女神』から見てさえ、相当に鈍いのである。思わず呆れて独り言すら呟いてしまうほどには。
眠り続ける『彼女』が見れば目を見張るような変化だろう。異世界からの来訪者は、世界内部のみならず、外部にすら干渉しているのだ。
そして彼らは、明確な意思を持って女神との交信手段を得ようとしている、らしい。それが世界にとって良い変化をもたらすか、はたまた逆に崩壊を早めるのか。それは未だ、『女神』にさえ判断のつかない事象であった。
『彼女』は未だ眠り続けている。
胸の内から切り離された憎悪だけが、棺から溢れ出るように黒い影となって下界へと落ちていった。
◆ ◇ ◆
「────お嬢様、いま何か仰いましたか?」
「べっ、別に何も言ってないけれど? 呆れたわねウスノロ、とうとう幻聴まで始まったのかしら?」
遠征帰り、俺たち聖女パーティ一行は学園近くのある店にて食事を摂っていた。
いつもなら幾つかの店を回ってそれぞれ好みの品を買って帰るのだが、今日はパーティメンバー全員での遠征ということもあり、せっかくだからと夕飯を共にすることにしたのだ。
そんな食事の最中、何か聞こえたような気がして振り返った俺に、お嬢様はやけに上擦った声を上げつつ、片手に掴んだ五本の串でもって此方を指してきた。
待て、食べ物で人を指すんじゃない。いや指でもダメだけどな、串で人を指すのはもっと危ないからやめろという話だ。
例え先端にはからりと揚がった衣つきの卵が丸いフォルムで鎮座していようと、少し加減を誤ればぐさりと刺さりかねないのである。
先ほどお嬢様から半分頂戴し、綺麗に平らげた方の俺の串を片付けるのと同時に、やんわりとお嬢様の手を制しておく。
強欲なまでに五本を握り締めたまま手放そうとしないのでもはや何らかの武器のようにすらなっていたが、ひとまず人に向けるのではなく己の口に向かう方へ誘導することはできたようだ。
よし、そのまま美味しく平らげてさっさと片付けてくれ。
味変すると更に美味しいですよ、と勧める俺の術中にハマり、お嬢様は素直に目を輝かせて咀嚼に集中し始めた。
「聖女様でもこういったところで食事を取ることがあるんだな」
半ば独り言のような口ぶりで意外そうに呟いたのはアーサーだ。
爵位を持っていても騎士団員であるアーサーやカルフェなどと違い、お嬢様はれっきとした公爵令嬢である。廊下をすさまじい勢いで駆けようと、演習場で野生動物もびっくりの運動神経を披露しようと、時折怪鳥のような叫び声をあげようと、れっきとした公爵令嬢なのである。
普通の公爵令嬢というのは、間違っても屋台などで食事を取ったりはしない。さらに言えば、串焼きを手慣れた様子で豪快に食べたりもしないし、店主が笑顔でつけてくれたおまけに「もう一声ですわ!」とも言ったりしない。最後のは多分市井の女性でもしないだろうが、お嬢様の奇行には慣れ切っている店主は特に突っ込みも入れず素直に気のいい返事を返してそれぞれの串にひとつずつおまけまでつけてくれた。有難いが、奥方様の望みからはどんどんかけ離れている気がするので、若干後ろめたい思いも湧いたりした。まあ、そんな俺の心のうちは置いておくとして。
「そうですね、聖女任命式の後くらいからでしょうか……貴族社会における食事だけではなく、市井の方々が食す品にも興味を保たれたようで、こうして度々都市内の店を回っております」
「それは、つまりはお前と二人で、ということか? 麗しの乙女たる聖女様をこのような下賤な場所に連れ回していると?」
身を乗り出すようにして対面から口を挟んできたのはアザンである。相変わらずの盲目ぶりだ。
お前の崇める聖なる乙女は今、店の特製絶品三つ足の牛シチューに揚げた卵を三つも乗せて喜んで食べている訳だが、一体どんな変換を持ってその目に映っているのか聞いてみたいもんだな。
あと声を抑えているとはいえ店内で『下賎な場所』とか言うんじゃない。失礼だろうが。
「お嬢様のご意向に従っているまでですので」
諸々言いたいことは飲み込みつつ澄ました顔で答えてみせれば、アザンはそれ以上は言葉にできなかったのか、口の中で悪態を噛み潰すような顔をして黙った。
一応パーティメンバーとしての付き合いも一年は越えているのだが、一向に態度が緩和する兆しが見えない。信奉と敬愛に誤った方向の情熱が加わった人間というのはこれだから厄介である。
「しかし、何度見てもあの『予兆』というのは薄気味が悪いな」
アザンの暴走も毎度のこととなると止めることすら面倒になったのか、アーサーが微かな咳払い混じりに話題を変えた。本日の昼頃、王都の西と東、それぞれの外れに『予兆』が顕現した。
同時多発であり、かつてないほどの大規模な予兆でもだったため当初は『魔王』そのものの顕現と間違われ、急遽聖女パーティも現地に向かうこととなったのだ。
しかし二箇所以外には同時発現する気配もなく、聖女パーティは現地で騎士団員と連携し予兆との戦闘に当たった。向かったのは人材不足が懸念されていた東の地区の方だ。
結果、聖女が向かうことで普段よりも楽には倒せたようだが、魔王顕現時には聖女は頼れないことを考えると、本体が顕れた時の被害は決して軽いものでは済まないだろう。その辺りはお嬢様も近頃気にかけている点であり、より早く、正確に攻撃を当てる鍛錬を積んでいるようだ。
本体と同時に顕現する無数の分体による民への被害を防ぐには、聖女パーティができる限り早く魔王を倒す必要がある。魔王本体が消えれば、同時に分体も消えるからだ。
「魔王本体も、文献では似たようなものだそうですネ……」
食事の場ともなれば逃げようもないのか、普段は風のように素早く消えるカルフェも渋々といった様子で会話に加わる。痩躯に違わず食は細いようだが、必要な栄養素はとっているのとのことで、アーサーも食事面で口を出すことはしていないようだった。
ちなみに、生活面ではよく叱られているのを見る。なんでも、すぐに部屋の角で膝を抱えて寝たがるのだとか。
「予兆は最大で四つの触腕を持つとされているが、魔の王はその三倍は操ると伝えられているな。光魔法で牽制しつつ、他の予兆と同じように体を分断し戦闘不能にするのが最も適した戦い方であろう」
頷きつつ話を続けるのはリィラルだ。彼の食事作法は貴族としても洗練されていて、どんな場所であろうと丁寧で美しい。食事に対する敬意が感じられる食べ方で、素直に好ましいと思う。
「あれが十二か……なかなか厄介だな」
「体躯も予兆とは比べ物にならないでしょうしネ」
話題に上っている予兆の形態についてだが、見た目ははっきり言えば黒いスライムに似ている。伸び縮みする触腕を持ち、対峙する者には常に強烈な焦燥感と不安感を植え付けるため、訓練された騎士でも動きが鈍ることがある。それを打ち消しつつ戦えるのが聖女である訳だ。
その効果をさらに打ち消す存在が俺である訳だが、これは罵倒の頻度を調整することでそれなりにちょうど良い塩梅を生み出すことができている。戦闘時の興奮状態と組み合わさることで影響がまた変化しているようだ。
平時でも恐らく常に酒でも飲んでいれば効きにくくなるのかもしれない。が、それはそれでまた別の依存症を生み出しそうなので、あまり良い解決法とは言えなかった。
「ご馳走様ですわ! 店主、また腕を上げたようね。褒めて差し上げますわ!」
「聖女サマからお褒めの言葉をいただくとは、光栄の極みですわな」
余す所なく食事を楽しんだお嬢様が店内に響き渡るほどの声で賛辞を告げ、勢いよく立ち上がる。お残しもなく、更には立派に食事を終えた挨拶まで済ませたお嬢様は、斜めに上げた顎に片手を添え、高飛車な笑みを浮かべて言い放った。
「心配要りませんわ、このパーティにはわたくしがいるのですもの! 史上最高の聖なる乙女であるわたくしにかかれば、魔の王だろうと五秒で塵にして差し上げます!」
「おお、流石は聖女リーザローズ様……! 我々の希望にふさわしき聖なる乙女であらせられる……!」
そのままの勢いで高笑いまで響かせそうなお嬢様を、両手を握り合わせたアザンが期待に輝いた瞳で見上げている。気のいい店主の親父は快活な笑顔を浮かべ、軽く拍手を送っていた。
「五秒とは大きく出ましたね、現状十五分かけても私を捕まえられないようですが? ついでに言えば口元にシチューが残っております、聖なる乙女どころか淑女としてもまだまだ力不足のようですね。全く、大きくなるのは口と態度ばかりとは、嘆かわしいことです」
店内でも大いに目立っているお嬢様の脇に立ち、手早く口元のシチューを拭う。十五にもなって幼児とさほど変わらない世話を受けているのは一体、と言ってやりたい気もするが、罵倒のネタとしてはその迂闊さに助けられている部分もあるのであまりうるさく言うつもりはなかった。
罵倒により拡散の効果を和らげたのもあるだろうが、リィラル、アーサー、カルフェの三人は、自信満々に言い放つお嬢様を比較的冷静な顔で見上げている。やはりこの三人をパーティメンバーに選んだ陛下の目に狂いはなかったようだ。
「この無礼者めが! 一体どこまでリーザローズ様を侮辱すれば気が済む! 大体お前が十五分も捕まらないのはお前が異常だからであって断じてリーザローズ様の不手際ではない! この化け物め!」
「人を化け物呼ばわりとは……全く、同じパーティの仲間に向けてはならぬ言葉も知らぬようですね。一体どのような教育を施されていたのか、親の顔が見てみたいものだと……おっと、顔は存じ上げておりましたね。先日お会いした際には『どうぞ愚息を宜しく頼みます』などと頭を下げられてしまいました。いやはや、クレイバー様の御父上とは思えぬほどの礼儀に満ちた方でいらっしゃる」
「貴様……! まさか父にまで魔の手を!!」
そしてアザンはやはり俺には敵対的な目を、そしてお嬢様には行き過ぎた信仰心を向けている。こいつはダメだ。ダメだが、陛下が選んだからには連れて行くべきだろう。ダメなのは対お嬢様の態度だけだしな。
「良い加減にしろアザン、お前は一体いつになったら大人になるんだ。……まあ、一部同意する点はあるが、とにかくもう少し落ち着きを持て」
勘定を済ませる俺に噛みつこうとするアザンを、アーサーが拳一つで黙らせる。「良い店だった、聖女様のご贔屓なだけあるな」とフォローも忘れないあたり、日頃の苦労が伺えた。二十六には見えない顔立ちも、もしかしたら常日頃からの苦労によるものかもしれない。
根は悪い奴じゃないんだけどなあ、とぼやくアーサーに、リィラルが苦笑を浮かべる。カルフェはさっさと店外に出ていた。本当に、ちゃっかりしている。
ともかく、店内をやや騒がせつつも無事に店を後にした俺たちは、学園に戻る俺とお嬢様の二人と、それぞれの家に戻るメンバーに別れることとなった。最後の最後までアザンがついてこようとしていたが、いつものようにアーサーが引きずっていった。
それにしても懲りないなあいつ……。
そんなにお嬢様が──というより、『聖女様』が大事なのだろうか。そこまで大事だと言うのならば、少しは正面からきちんとお嬢様自身を見つめれば良いものを。
アザンの口から出るのはいつだって『素晴らしき聖女様』だ。公爵令嬢でありながら聖なる力を持っているから凄い、という一点に評価が集約している。
別にそれが間違いだとは言わない。が、それだけではあまりにもお嬢様に失礼だ。アザンはお嬢様がまるで完璧な聖人ででもあるかのように持ち上げるが、それはアザンの頭の中にいる理想の『聖女リーザローズ』であって、本当のお嬢様ではない。
別に、俺だって、アザンがきちんとお嬢様自身を見ているのならばこんなにも邪険に扱ったりはしない……筈だ。多分。きっと。
「……? どうしたのよ、ウスノロ。そんなところに突っ立っていないで、早く部屋の準備をなさい。それとも、何処か負傷でもしていたというの?」
「いえ、そのようなことは」
お嬢様をきちんと真正面から捉え、正しく関わるアザン、という存在を想像しかけた俺は、浮かびかけたそれを途中で軽く打ち消した。
何故そんなことをしたのかは分からない。単純にそんなアザンは想像がつかなかっただけかもしれない。
寮部屋に辿り着き、いつものように備え付けの湯船の準備をしろと告げたお嬢様が、一転して不安げな視線を此方に向ける。
そこに浮かんでいるのは、純粋な『闇の魔力による負傷』への心配だ。
異世界人の魂を持つ俺には、お嬢様の光魔法が効かない。そして、魔王──闇の魔力による負傷は、光魔法でしか治療が出来ない。ここから導き出される答えと言えば一つだ。
聖女パーティの中で、俺だけ一人一撃必殺の死にゲーをしているのである。治療不可の身体を持って魔王戦に参加するとはそういうことだ。
その点に関して俺のパーティ参加が今日までほとんど問題になっていないのは、ひとえに『俺の攻撃回避スキルが異様に上達しているから』でしかない。
お嬢様との攻防を続けること早七年。俺は類稀な回避の術を身につけてしまっていた。ということは、同時にお嬢様もとんでもない追撃スキルを得ているということなのだが、まあその話は置いとくとして。
ともかく、俺は『聖女の力を底上げすることが出来る』という点でパーティに選ばれ、尚且つ『攻撃を避けることが出来る』という点のゴリ押しで参加が許されているのだ。
事情としてはやや違う訳だが、俺を聖女パーティに入れておきたい陛下の意向で表向きはそうなっている。
そして恐らく、真っ当に育ちつつあるお嬢様は、俺が一度でも攻撃を受けたとなれば負傷した俺を魔王戦に連れて行くことを断固拒否するだろう。
何せ、攻撃を受けたかもしれない、と思っただけでこの態度である。
「本当でしょうね? お前はわたくしの光魔法が効かない、不信心な無礼者なのよ! 気づいていないだけで負傷していた、となればそこから傷が広がることだって大いに有り得るのだから、もっときちんと確認なさい!」
「ご心配なく、何処にも傷ひとつ御座いませんとも」
「本当の本当に? 矮小な器とプライドが邪魔して言い出せないなどと言うことはないでしょうね!」
「そんなまさか。お嬢様ではあるまいし」
「なんですって!? わたくしの器はウルベルトシュ並ですわよ!」
「世界と肩を並べる気とは。まさしく世界級の尊大さ、流石としか言いようがありません、感服いたしました」
「また馬鹿にして! わたくしが珍しく真面目に心配しているというのに、お前って本当に嫌な執事だわ!」
眉を吊り上げ怒りを露わにするお嬢様は、しかして真実、言葉通りに心配しているようでもあった。
確かに、心から心配してくれている相手に今の態度は少々失礼だったかもしれない。
売り言葉に買い言葉、というが、今のはどちらかというと少なくとも本人は売るつもりのない言葉を勝手に買ったようなものだ。
「申し訳ありません、私のような者をお嬢様が真摯に心配してくださるなどとは思っても見なかったもので。お気遣いありがとうございます、お嬢様。
本当に傷ひとつございませんので、どうかご心配なく……と申し上げたところですが、どうやら私の言葉はどうやら信頼には値しないようですね」
素直な気持ちを言葉にしてみたのだが、先の攻防が気に障ったのか、お嬢様から胡乱げな視線が向けられるばかりだった。
うーむ、どうやら臍を曲げられてしまったらしい。本心から出た心配を揶揄われればそうもなるか。
「致し方ありません。信用できぬ、と言うのでしたら見て確かめて頂いても構いませんよ」
「………………え?」
闇のものによる傷は、言うなれば呪いのようなものだ。多少包帯を巻いたり衣類で誤魔化した程度で隠し通せるものではない。
だが、上着とベストがある状態で見たとしても信用ならない部分があるのは確かだ。せめてシャツの上からなら判断がつくだろう、と普段着込んでいる執事服の上着から袖を脱ぐ。
「足の方は問題なく歩けている時点で支障ないことが分かるでしょう。まあ、確認したいとのことでしたら構いませんが」
ベストの前面を留める釦の一番上に手をかけ、外しにかかったその時、それまで固まったように動きを止めていたお嬢様がぎこちなく動き出した。
「いえっ、それは、あの、けっ、結構、いえ、でも、あの、そ、そうね、ちょっと…………だ、ダメよ!!」
「……ダメと申しますと、何か問題が?」
「何か問題が!? 何もかもが問題ですわ!! このっ、こ、この、ウスノロ!! もう結構よ!! 傷一つないと信用しますわ!!」
かつてないほどの声量で怒鳴ったお嬢様は、真っ赤な顔で俺の上着を拾い上げると、思い切り顔面に叩きつけてきた。難なく受け取り、再度袖を通す。
あとは風呂の用意をしてベッドを整えるから結局脱ぐんだけどな、と思いつつも襟を正していると、お嬢様は何やら憤慨した様子でどすどすと室内を歩き回り、今度は串ではなく人差し指で俺を指した。全く、よく人を指差すお嬢様である。
「お前!! 淑女と二人きりの部屋で突如ぬっ、脱ぎ出すだなんて、破廉恥にも程がありましてよ!!」
「はあ、脱ぐと言っても上着だけですが。というか、この後浴槽の用意の為に再度上着は脱ぐのですが」
「うるさい!! 馬鹿!!」
別に全裸になる訳じゃあるまいし、と思いつつ言葉を返したのだが、単純な『馬鹿』を頂戴してしまった。こうなるともはや理屈も何も通じないので、此方が折れる他ない。
嫌味な物言いや高慢な態度でいられるよりも、此方の方が余程厄介だったりするものだ。
その後、何故か掃除のために上着を脱ぐことも許されなかったので、俺は上着ごと袖捲りをして浴室の準備を整えることとなった。なんでだ。
「そういえばウスノロ、ルナからお前宛に手紙を預かっているわ」
「私に?」
就寝準備を終え、時間を置いたことで幾分落ち着いたらしいお嬢様が、ふと思い出したように書き物机の引き出しを開けた。
長いこと文通を続けているお嬢様の机にはルナ嬢からの手紙が幾つもの分厚い束となってしまわれているが、その中にひとつ、普段とは異なる色合いの封筒が並んでいた。
薄緑の封筒に混じる濃い藍色のそれを拾い上げたお嬢様が、ぶっきらぼうな態度で封筒を投げて寄越す。人様の手紙を投げるのは如何なものか、と思ったが、何か言うより早く、お嬢様はベッドへと潜り込んでしまった。
「確かに頂戴しました。それでは、おやすみなさいませ、お嬢様」
俺からは、勢いよく潜り込んだせいで妙な方向に食み出ている金髪しか見えない。それでもいつもと同じく頭を下げると、布団越しにくぐもった『おやすみ』が返ってきた。
受け取った手紙を手に、部屋へと戻る。
ルナ嬢が俺に手紙を出すだなんて、初めてのことだ。一体何が書いてあるのだろうか。
首を傾げつつ、俺はペーパーナイフを取り出し、藍色の封筒の封を切った。




