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第十五話


「まだ読んでいない本は、……この辺りか」


 ある夜。お嬢様の就寝を確認した俺は、特別な許可を得て王立図書館へと足を運んでいた。

 ここ二月ほどの間、俺はそれまで手を出したことのなかった魔法開発理論について学ぶようになっていた。


 女神の手により作られた『念話』に、此方側から手を加えることができないだろうか、と考えたのだ。


 転生当初、俺は全くと言っていいほどこの世界に興味を持たなかった。あの時の俺にとって重要なのは、目の前で泣き叫ぶ青年がただの一度も食事を楽しんだことがない、という事実と、俺が代わりになれば彼の身の安全は保証される、という確証だけだったからだ。

 魔王を倒すために『カコリス』という存在が必要だとか、聖女リーザローズが碌でもない悪女であるだとか、そのために世界は滅びそうになっているだとか、そんなことはどうでも良かった。


 前世でも二十歳で死んだのだし、今生でもそのくらいで死ぬと言うならそれでいいか、と何処か消化試合のように思っていたのだ。


 だが、カコリスから生存を願われ、やむを得ないとはいえ長年仕えてきたお嬢様がこの先も自分の能力に悩まされずに生きていくために俺が必要だと言うのなら、使える手段はなんだって使うべきだろう。


 この世界の歪さはもう既に感じているところではあるが、それについていくら話したところで、世界の内側で生きているだけの俺たちからは憶測以上の考えは出てこない。

 世界の外側、創造主とも言える女神に問いただすのが一番早い筈なのだ。あくまでも女神は世界に送り出した此方側に干渉できないのだとすれば、此方から呼びかける他ない。あの様子だと待っているだけで親切に説明してくれるとも思えないが、聞かないよりはマシだ。


 何より、恐らくは『魔王を倒すために作られただろう世界』が、本当に魔王を倒した後にも続くのか知りたい。仮に魔王討伐というハッピーエンドを迎えたとしても、その先の世界まで終わってしまっては意味がないからだ。世界を巻き戻しているのが女神である以上、直接聞くほかあるまい。


 そう考えて、女神から与えられたものであるならとっかかりにならないだろうか、と『念話』の範囲をどうにか拡張できないかと画策している訳なのだが、残念ながら一筋縄ではいかなそうだった。


 俺が単独で行動できるのはお嬢様が眠っている時くらいしかない。それだって緊急で何か起こればすぐに戻らなければならない以上、長く寮を空けるわけにもいかない。

 念話に手を加えることを思いついてから早二ヶ月。成果らしいものは何一つとして上がっていなかった。


「いや〜さっぱり出来る気がしねえな。どんな仕組みで動いてんだよこの魔法」


 手元を照らしつつ読み進めるもどうにも理解が及ばず呻く俺に、『念話』を繋いでいたカコリスが苦笑する。


『使い方は分かっても仕組みを知ろうとすると一苦労だな……此方で言うスマートフォンみたいなものか』

「あー、確かに。そもそも魔法自体、使い方は分かっても理屈を知ってるのは上級魔導士だけだったりするもんなあ……誰か詳しいやつに協力でも願った方がいいのかね」

『信頼できる魔道士となると陛下の直属の者になるだろうが……用途を詳しく伝えないで望みのものが得られるかは怪しいな』

「それなんだよなあ。まあ、もう少し粘ってからにするか」


 今夜も収穫はなく、持ち出し禁止の書物を棚に戻して図書館を出る。

 眠気覚ましに会話に付き合ってくれるカコリスと言葉を交わしつつ寮に戻った頃には、午前一時を回っていた。



   ✳︎  ✳︎  ✳︎



「ちょっとウスノロ、最近弛んでいるのではなくて?」


 翌日。茶会の最中、紅茶を差し出す俺が欠伸を噛み殺し切れていない様子を見て、お嬢様は気分を害したとでも言うように片眉を上げてみせた。その対面に座るルナ嬢は何処か心配そうな視線を向けてくるものの、特に何も口にすることなく目を伏せる。


「申し訳ありません、少々調べ物に手こずっておりまして」

「ふんっ、言い訳は結構よ。辛気臭い顔で仕えられると迷惑だわ、目障りだから部屋に戻ってちょうだい」

「……お気遣いは有り難いのですが、お嬢様の側を離れる訳には行きません。放っておいたら何を仕出かすか分かりませんからね」


 鼻を鳴らしてそっぽを向いたお嬢様から放たれた言葉は、声音こそ刺々しいものの、明らかにこちらへの心配が滲んでいた。いくら気に食わない執事といえど、今のお嬢様は長年仕えている人間への配慮ができないような性格ではない。

 しかして素直に気遣うのは癪だ、というのが態度に透けているあたり、お嬢様はどこまでいってもお嬢様なのだろう。慣れ親しんだやり取りには、もはや何処か微笑ましさすら感じる。


 ノルマをこなすついでに揶揄うような声音で返した俺に、お嬢様はむくれた顔で紅茶に口をつける。

 どう反論してやろうか、と分かりやすく考えている顔で黙り込んでいたお嬢様は、言い訳したばかりですぐに欠伸を噛み殺し始めている俺に、今度ははっきりと呆れたような視線を向けていた。


「何に手こずっているのかは知らないけれど、どうせ夜中にこそこそと調べ回っているのでしょう? 睡眠時間を削るだなんて愚か者のすることだわ。そうね、平伏して頼むのなら、少しくらいはわたくしがお前の都合に合わせて差し上げても宜しくてよ」


 高飛車でありながらも、専属執事として仕事をこなさなければならない俺への気遣いは隠しきれていない物言いで紡がれた言葉に、思わず口元に笑みを浮かべてしまう。

 俺が相手だからこそ捻くれた言い方になるものの、お嬢様は既に立派に他人を気遣えるだけの令嬢へと成長しているのだ。いや、もしかしたらこの物言いすら、俺が嫌味や罵倒を返さなければならないことを見越しての気遣いなのかもしれない──などと思ってしまう。


「それは確かに有り難い話ですね。未だシャンデュエでは勝利を得ることなく正攻法では私を這いつくばらせることも出来ないお嬢様のお気遣いに感謝して最上級の礼を取ることとしましょうか」

「正直今のお前になら勝てる気がするのだけれど、見逃して差し上げるわ。感謝しなさい」

「ああ、それは、はい。確かに。ありがとうございます」

「…………ウスノロ、お前、もしかして本当に眠いのね?」


 確かに今の俺がシャンデュエを申し込まれれば、おそらく八割の確率で負けるだろう。そのくらいには頭の働きが鈍っている自覚があったし、自覚があってもどうしようもないくらいには眠気が勝っていた。

 幸い、今日は休日であり、何よりルナ嬢と約束した茶会の予定もあったため決闘の申し込みはない。加えて、お嬢様は万全ではない俺に勝ったところで満足する人間ではないから、不意をつくような申し込みはしないはずだ。


 きっと俺は睡眠だけは削ってはいけないタイプの人間なのだろう。俺が、というより、カコリスの体が、かもしれないが。

 あちこちに飛んでいく思考に振り回されつつ何処かぼんやりと答えた俺に、お嬢様は今度こそ心配を隠しもしない声で尋ねた。此方を見上げる紅い瞳には、非難とも憂慮ともつかない感情が映っていた。


「全く、わたくしの専属執事でありながら執事の仕事が疎かになるだなんて信じられない愚か者だわ! お前でなかったら首にしているところよ!」

「首は困りますね。旦那様と陛下から直々にお嬢様を頼む、と言い付かっておりますので」


 襲いくる眠気に勝てない上に至極真っ当な指摘を受け、しばらくごく普通の会話を交わしてしまっていた俺は、そこでふと対面に座るルナ嬢が何処かぼんやりとした視線を宙に向けていることに気づいてはっと我に帰った。

 二人きりならともかく、他に誰かいる状況でまともな受け答えをしてしまうのは少々不味い。かといって、上手く回らない頭ではもはや揚げ足取りすら出てこない。


 致し方なく、ごくシンプルに耳元で「申し訳ありません、少々罵倒してもよろしいですか?」と囁いた俺に、お嬢様は「寝言は寝てから言ってちょうだい」と軽くむすくれた顔で答えた。

 何度目かになるかも分からない「お嬢様はアホでございますね」を使って場を凌いだ俺に、ルナ嬢がゆっくりと一度瞬きをして、その澄んだ瞳を俺へと向ける。


 何かを見透かすような視線に、俺は長年浮かべ続けてきた鉄壁の笑顔を返す。最近は通じている気がしないが、周囲を騙しているという意識があるとやはり何処か誤魔化したくなってしまうものだ。

 ロレリッタ家と聖女パーティの者を除けば、ルナ嬢は最もお嬢様の近くにいる人間だ。流石に付き合いも数年ともなれば何某かの察しがついているような気がしなくもない。核心は知らずとも、何かは掴んでいるのでは。

 いささかバツの悪い思いでその視線を受け止めていた俺に、ルナ嬢は数秒の間を空け、にっこりと微笑んでみせた。


「リザ様。カコリス様もお疲れのようですし、今日のお茶会は此処までにしておきませんか?」

「いいのよルナ、こんな男の不調なんて気にかけなくても。ただの寝不足なのだし」

「寝不足を侮ってはなりません。カコリス様は近頃お疲れのご様子ですので、一度ゆっくり休んで頂いた方がいいかと」

「……ルナがそう言うならそうしようかしら。ウスノロ、ルナの優しさに感謝することね」


 わざとらしいまでに澄ました顔で片付けを命じたお嬢様の言葉に従い、素直にルナ嬢への感謝の言葉を口にする。そこにお嬢様への感謝も含まれていることに気づいているのかいないのか、下げられたカップを見やるお嬢様の瞳には何処か妙な照れ臭さが浮かんでいるようにも見えた。


「リザ様さえよければ、次は手作りの菓子を持ってこようと思うのですが、何か好きなお菓子はございますか?」

「あら、ルナが作ったお菓子ならわたくしは何だって好きよ。どれも美味しいもの」


 退席の前に尋ねたルナ嬢に、お嬢様は目を輝かせて答える。

 手先が器用なルナ嬢は、菓子作りもお手の物だ。自分が作ったものを人に食べてもらうことに勇気が踏み出せずにいたようだが、予兆による怪我の一件でお礼として作ってきてもらってからは月に一度ほど茶会に手製の菓子を持ってきてくれるようになった。

 クッキーにタルトにチーズケーキと、どれも公爵家の職人にも見劣りしない出来のものばかりである。


「では次は最近覚えた新しいお菓子をお持ちしますね。エリーさんから教えてもらったレシピがあって、どんなお菓子なのかまだ分からないのですが……」

「エリー……ああ、あの子爵家の令嬢ね。付き合いを持つ相手は選びなさいと言ってやりたいところだけれど……ふん、まあいいわ。心を入れ替えて反省したようだし、もう私の親友に手を出そうなどとは思わないでしょうしね」


 エリー・カールズは、三ヶ月前の予兆の一件でルナ嬢に助けられた令嬢である。

 元々はウォンバート公爵家の令嬢と共にルナ嬢を虐めていた取り巻きの一人だったが、ルナ嬢が命を顧みずに助けてくれたことで完全に改心し、今ではルナ嬢のためにあれこれ世話を焼いてくれているのだとか。


 正直なところお嬢様は報復してやりたい気持ちもあるようだったが、ルナ嬢本人が望まないと言うのならば手出しはしないと決めたようだった。

 それは優しさというより諦めに近い感情でもあるように見えたが、俺もまた、本人が納得しているのならばそれでいい、と口を出すことはしなかった。


 プライベートなことなので詳しくは聞いていないが、ルナ嬢は学園だけではなく家でも長年虐げられているような状況にあったらしい。ウィステンバック家では彼女の弟だけが可愛がられ、ルナ嬢は幼い頃からずっと差別されていたようだ。学園への入学も、幼少の頃にリィラルがルナ嬢の父を説得したから許されたようなものだったのだという。

 そんな状況が続いていたからか、彼女は他人から与えられる危害に対し何処か諦めを持って接している節がある。自己評価が低いのもこの辺りの事情が関係しているのだろう。


 『聖女の親友』となった今でも家庭内での評価は変わらないとすらいうのだから、もはやウィステンバック家は徹底してルナ嬢への差別を行っているようだった。おそらくはかなり碌でもない家族なのだろうが、まあその話は置いておくとして。


 『親友』とはっきり言葉にされるのが嬉しいのか、ルナ嬢は喜びに頬を染めたまま綻ぶように笑う。見ている此方側も幸せになるような笑みにお嬢様が釣られて微笑んだところで、ルナ嬢はそっとお嬢様に近寄り、俺には聞こえない程度の声音で何やら囁いてから去っていった。


 内緒話とは珍しい。普段は知られたくないようなことは万が一にも俺に聞かれないように手紙でやりとりするのだが。

 茶器の片付けで距離が空いていたので問題ないと判断したのだろう。俺も女子同士の内緒話にわざわざ聞き耳を立てるような無粋な真似をする気はないので、それとなく視線を外し、意識を向けないように少し距離を取った。


 そうして片付けを終えたところで部屋に戻る提案をするつもりだったのだが、振り返った俺は、彫刻のように微動だにせず固まっているお嬢様を前に、訝しげな声で尋ねることとなった。


「お嬢様? 随分と顔が赤いですが、体調でも悪いのですか」

「べ、別に、なんともないわ!」

「なんともない……とは言い難いように見えますが」

「うるさいわね! わたくしがなんともないと言ったらなんともないのよ! そ、それより、お前の方こそ体調が悪いのだから、さっさと休むべきだわ!」


 もっともな意見だった。睡眠不足というのはどうにも正常な判断を鈍らせてしまう。

 お嬢様からも付き添うと言われたのだし、今度は昼間に時間を見つけて調べるべきだろう。俺の立場でどこまで魔法開発に手を出していいのか分からないのであまり人目にはつきたくなかったのだが、本職が疎かになっては元も子もない。


「確かにそうですね。ではお嬢様、片付けも済みましたので、申し訳ありませんが寮部屋へ戻っていただいても構いませんか?」

「…………………………」

「……お嬢様?」


 返事がない。もしかして何か済ませておきたい用事でもあったのだろうか。ならばそれを先に済ませておくべきだ。内情はどうあれ、俺はお嬢様の執事である。主人の用事より自分の都合を優先させるのは、流石に執事として失格だろう。


「そ、それなのだけれど、此処で休息を取るというのはどうかしら?」

「此処で?」


 予想しなかった言葉に目を瞬かせた俺を、お嬢様はほんの一瞬見やってから、目を向けた時と同じか、それ以上早く視線を逸らす。


「お前は少なくとも昼間のうちはわたくしの側にいる必要があるのでしょう? 寮部屋で眠ってしまっていては私が何処か勝手に出歩いてしまうのでは、と心配なのではなくて?」

「いえ、あまり心配はしていませんが」

「心配なのではなくて?」

「いえ、近頃のお嬢様は信頼に値すると判断して、」

「心配で仕方がないわよね?」

「…………はあ、はい」


 何故だろう。なんだかものすごい圧を受けたような気がする。

 ので、全く同意できないがとりあえず頷いておいた。


 学ぶべき事柄から逃げ出し、屋敷から抜け出して風のように駆けていたお嬢様ならいざ知らず、今のお嬢様は部屋で大人しくしているくらい出来るだろう。

 ルナ嬢の手前『放っておくと何を仕出かすか分からない』などと言ったが、その点については俺はもうお嬢様をすっかり信用していた。


 だがお嬢様にとってはその信用はどうやら邪魔であるらしい。何故だかはさっぱり分からん。とにかく眠かった。


「そうよね。だから、わたくしが側に居なければならないことと、お前が仮眠を取ることを両立させる必要があるわ」

「まあ、そうとも言えますね」

「だから、その、……つまり、そう! あそこにベンチがあるわ!」


 急に勢いよく声を上げたお嬢様は、テーブルクロスの掛けられた白テーブルに手をつき、華やかな意匠の椅子から立ち上がると、テラスから見える裏庭のベンチを指差した。

 目を向ければ、柔らかな日差しが降り注ぐ裏庭には確かに木製のベンチが置かれている。

 薬草の育成地としても使われているそこには色とりどりの花が咲いており、採取時の休憩場所として置かれているらしいベンチは広々としていて、大人が四人かけてもあまりそうなほどの長さがあった。


「ありますね」

「お前はあそこで仮眠を取りなさい。わたくしが、膝、膝、ひさザザざ枕をして差し上げますわ!」

「はて。ひさザザざまくらとは一体」

「わたくしの高貴なる膝を貸して差し上げると言っているのよ! さっさと頭を寄越しなさい!」


 単純な疑問から首を傾げた俺に、お嬢様はまるで決闘でも挑むかのように指を突きつけ叫んだ。よく分からないが、どうやら膝枕がしたいらしい。本当によく分からんな。何故だ。

 確かに膝枕をしていればお嬢様がその場を離れればすぐに分かるだろうけれども。それを利点として膝枕を選択するには、いささか問題が多いように思う。


「しかしお嬢様、それでは誰かが来た時にどのように見られるか分かりませんよ」


 婚約者も決まっていない御令嬢が、執事とはいえ異性に膝枕をしている姿など見られでもしたら大変だ。少し規律や礼節に厳しい者が見れば『ふしだら』だとか『はしたない』だとか言い出すかもしれない。

 ただでさえ婚約者が見つけづらい状況にあるお嬢様にさらに候補の男性が近寄らなくなってしまっては、流石に旦那様からも減給を言い渡される恐れだってある。


「それなら、問題ないわ。ルナが人払いをしてくれるそうだから、ここにはしばらく誰も近寄らないでしょう」

「はあ、それでしたら……まあ、問題はない……でしょうか?」


 まだあるような気がするが、眠気が勝っていてどうでもよくなってしまう。流石に連日図書館に通い詰めたのはやりすぎだったか。

 今ある魔法をただ覚えるのとは違い、自分で既存の魔法──それもかなり特殊な代物──に手を加えるのは想像よりも途方もない苦労がある。先の見えない徒労感と身体的な疲弊が相まって鈍った思考回路は、そのまま促されるままにベンチへと横たわっていた。

 無論、頭はお嬢様の膝の上である。やっぱりこれ無礼だよなあ、と思いはしたのだが、横になった途端、すぐに瞼が落ちてしまった。




    ✳︎  ✳︎  ✳︎




 夢を見ているな、とすぐに気づいたのは、前世で見慣れた実家のリビングに立っていたからだった。

 ダイニングテーブルを見下ろす俺の視線はやや低く、その手には今しがたテーブルの上から取り上げたばかりの一万円札が握られている。卓上には『三日分の食費です』という書き置き。どうやら両親は二人とも出張に出かけてしまったらしい。


 見慣れた光景だ。小学生の頃からずっとこうだった。

 仕事が生きがいの両親と、そんな二人の間に生まれてしまった俺。授かったからには育てるしかあるまいと生を受け、少なくとも何不自由ない生活は保証されながら過ごした日々。

 食べるものも着るものも求めれば与えられていたし、進学先だって好きなように選べた。ただ両親が俺に興味がない、ということを除けば恵まれた家庭だっただろう。


 ただ俺はその恵まれた状況にあっても、何処か満たされない思いを抱えていた。カコリスと比べればあまりにも贅沢な、甘ったれた悩みだ。


 一人で食べる飯がどうしても美味しくなくて、俺は中学生になる頃には外食ばかりしていた。カウンター席で賑やかな声を聞きながら食べるのがいい。訝しげな顔をする店主もいたが、金はきちんと払うし、俺が世辞ではなく心から美味いと称賛を贈れば満更でもない顔をされた。

 美味い飯を食って、作り手へ尊敬と感謝を伝えると、自分にも居場所ができたような気がしていた。食べ盛りの俺の胃袋はまさに無限と言ってもよく、際限なく食べ、際限なく肥えた俺は、いつしか『美味いもの』を心の拠り所にしていた。


 祖母が亡くなってからは家庭の味も忘れてしまったが、それでも美味いものがあれば俺はいくらでも幸福に生きていけた。

 揚げたてのコロッケは俺のテンションも上げてくれたし、丁寧に作られた優しい味わいの煮物は心に染みたし、ガツンと塩気の効いた肉厚のステーキは明日への活力になったし、美しく盛り付けられた芸術品のようなコンフィを口にしたときは背筋が伸びる思いだった。


 俺は自分が不幸だなどと思ったことは一度もない。両親の元に生まれたことにも後悔はしていない、育ててくれたことには素直に感謝している。

 だがそれでも、一度でいいから『家族団欒』というものをしてみたかった、とは思ってしまう。共に居たいと願う相手と食卓を囲み、美味いものへの感想を語り合いたい、と。

 一人で食べても美味しいものなら、家族と食べればもっと美味しいだろう。


 それを確かめる機会が一度もなかったことだけが、ほんの少しだけ心残りだった。




    ✳︎  ✳︎  ✳︎




 ────目を覚ますと、視界には眉根を寄せたお嬢様の顔が広がっていた。前世の夢を見てしまったせいだろうか、一瞬、此処が何処だか理解するのが遅れる。

 俯くようにして此方を覗き込む紅い瞳を見つめて数秒、ようやく自分が今どこにいるのかに思い至った俺が何か言うより先に、お嬢様はやや不安げに眉を顰めたまま問いかけてきた。


「何か悪い夢でも見ていたのかしら?」

「……はい?」

「魘されていたようだったから、悪夢でも見たのかと思ったのよ。……どうなの?」

「悪夢、ですか。いえ……どうだったか、忘れてしまいました」


 嘘ではなかった。目を覚ました途端に予想していなかった顔が視界に入ったものだから、それまで見ていた夢のことなど殆ど意識から流れてしまったのだ。

 前世の夢、という朧げな状況だけは覚えているが、一体どんな夢だったかは記憶にない。しかし魘されていたと言うのなら、あまり良い夢ではなかったのだろう。疲れている時に眠ると大抵よくない夢を見る。そういうものだ。


「それなら別にいいけれど、お前がそこまで疲弊するなんて珍しいわね。聖女パーティでの演習でも疲れた素振りなんて見せなかったじゃない」

「ええ、まあ。なんと言いますか、目の前のことを片付けるのではなく、未だ見ぬものを探らなければならないので……疲れ方が違うのかもしれません」

「ふうん? 一体何を調べているというのかしら? 白状なさい、力量不足の不出来な執事に代わって聖なる乙女たるわたくしが解決して差し上げますわ!」


 自信満々に言い切ったお嬢様が、やや芝居がかった仕草で髪を手で払って靡かせる。

 不敵な笑みを浮かべるお嬢様を見上げていると、何故だか丸っと解決しそうな気がしてくるから不思議なものだ。幼い頃から何一つ変わらない自尊心の高さだが、実力を伴いつつある今では素直に頼もしいとさえ感じてしまう。


「女神と会話する方法を探しておりまして」

「……女神様と?」

「……あー、いえ、なんでもありません」


 口が滑った、と気づいたのは言葉にしてからだった。夢の影響を引きずっているのか、寝起きで頭が働いていないのか、もしくは言ったところで伝わるはずもないだろうと気が抜けていたのか。『女神』という、信仰されているものの聖女ですら姿を見たことはないとされる存在と『会話がしたい』などと、下手したら気狂いだと思われかねない発言をしてしまった。

 お嬢様ならば俺のことなど元から気狂いだとでも思っているだろうからさほど問題はないだろうが、それでも誤魔化しておいた方が無難だろう。


 そう判断し、ついでに頭を退けるなら今だろうと身体を起こしつつ適当に流そうとした俺に、お嬢様はわかりやすく不満げな顔で言い放った。


「セバスチャン! お前はわたくしのことを馬鹿だと侮っているようだけれど、わたくしとていつまでも騙し易い子供のままではありませんのよ!」

「何をおっしゃいますか。ご安心ください、今ではさほど馬鹿だとも思っておりませんよ」

「そうでしょう、当たり前……待ちなさい! 聞き捨てならないわ! それじゃあ少しは馬鹿だと思っているということではなくて!?」

「失礼、言葉を間違えました。今でもたまに奇怪な挙動を取るなあ、とは思っております」


 枕を抱き潰したり、急に叫んだり、急に転がったり、急に走ったり、なんだりかんだり。奇行がないとは言えないだろう。

 近頃の記憶を辿っても決して少ないとは言えない奇行たちを仄めかすと、心当たりがあったらしいお嬢様は一瞬言葉に詰まった。が、気を取り直すように立ち上がると同時に、高らかに宣言する。


「お前が何か大事なことを隠していることくらい、聖女にして主人であるわたくしにはお見通しですわ! お前の稚拙な隠し事が心優しいわたくしの配慮によって見逃されているのだということ、よく肝に銘じておくことね!」


 それは表面的には、これまでと同じような高飛車な態度から来る挑発じみた台詞に聞こえた。負け惜しみじみた、優位性を示すだけの言葉と同じものであると。

 しかし此方を見据える紅い双眸には、これまでに見たことのないような真摯な輝きが在るように思えた。真意を読み取ろうとするような真剣な眼差しと、どこか迷いに似た遠慮を抱いた表情。

 俺が何かを隠しているのは察しているが、それを無理に暴きたくはない──とでも言うかのような、少しばかり大人びた顔だ。

 そんな感情の機微を読み取った瞬間、俺は素直な驚きから言葉を返すのも忘れ、二、三度目を瞬かせてしまった。


「……何よ、その流星馬クロインが底なし沼に嵌ったような顔は」

「いえ、お嬢様は本当に立派な聖女になりつつあるのだなあ、と思いまして」

「何を今更! わたくしは生まれた時からこれ以上ないほどに立派な聖女ですわ!」

「その主張は流石に承服しかねますね」


 中庭を駆けていたボンレスハムを思い出し、知らず真顔で返してしまった俺に、お嬢様はなんとも華麗な飛び蹴りをかましてみせた。

 立派な聖女は飛び蹴りなんぞしないのではないだろうか。言ってやりたい気もするが、それこそ今更だったので、俺は黙って最小限の動きで飛び蹴りをかわしておいた。



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