第20話 惑わす香りは一時の幻
香道の先生である志乃さんに、春之信さんがことの経緯を説明してくれた。
「お話は分かりました。花の露を見せていただく前に、少々、香の話をいたしましょう」
陶器で作られた器──後で聞いたのだけど、香炉と呼ばれる火種を入れる物らしい──の用意を始めた志乃さんは、静かに語り始めた。
「香りとは、華国から仏の教えと共に伝えられた祈りの心にございます。それが雅とされ、部屋や衣装にたきしめ、香りそのものを楽しむようになったのが千年ほど前のこと。この香を嗜むのは、武家の習わしでありますが、楽しむのは武家社会のみにありません」
薄い石だろうか、小さなプレートが器の中に入れられた。そこに、小さな木片が置かれる。
「今では、庶民の間でも多くの香が出回っております」
ふわりと甘い香りが立ち上がった。
「私はこうして、お雪様に香道の手順いろはを教えに参っておりますが、それは正当なる香のみにございます」
「……正当な香?」
「左様にございます。表があれば裏があるものです。祈りの心である香の道にも、相反する裏の顔があるのです。誠に残念なことにございます」
志乃さんの顔は神妙な面持ちだった。
つまり、どういうことかしら。私があの夜にかいだものは、香道で嗜む香りではないってこと?
話の意味がいまいち分からず、通訳をしてくれる春之信さんを見る。彼は、少し眉をひそめて顎のあたりを触りながら、何か考えているようだ。
器から立ち上がる仄かな香りを、すんっと鼻をならすようにして吸ってみる。それは、あの夜にかいだものより穏やかで優しかった。
「志乃殿、件の香の出どころは分からぬか?」
「人を惑わせる香は、裏で取引されると聞いたことがございます。同じものとは断言できませぬが……栄の練香は危険だとの噂もあります」
「ねりこう……?」
「香の粉末を蜜で固めたものにございます。様々な香りを合わせもっております。香木と違い、何を混ぜたかは作った者にしか分かりません」
「様々な香り……」
「ゆえに、甘い香りに隠された危険なものが何かを言い当てるのは至難の業にございます」
「志乃殿、それを使う幻術師に聞き覚えがあるか?」
「噂程度でしたら。しかし、確かな話を聞いた訳ではございません」
「そうか……」
あの香りが突き止められたら盗人に近づけると思ったけど、そうは簡単にいかないようだ。
小さくため息をつくと、志乃さんが気遣うように私を呼んだ。
「薬師様。惑わす香りは一時の幻にございます。お心を強くお持ちなされよ」
「……はい。ご助言、ありがとうございます」
私が頭を下げると、お銀様が「志乃さん」と声をかけた。すると志乃さんはにこりと微笑んで頷く。
「新しい花の露を見せて頂けると聞き、楽しみにして参りました。お力になれればよいのですが」
「そうでした! ぜひ、皆さんからご意見をいただきたいです」
「女中たちも呼びましょう」
お銀様が襖の向こうに声をかけると、屋敷で働いている女中さん達が数名入ってきた。さすがに全員は集まれなかったようだけど、一人でも多くに試してもらえるのはありがたい。
エミリーに持たせていた包みを受け取った私は、取り出した瓶を二つ並べた。
「まずこちらを試してください」
お銀様の前にずいと押し出した瓶は、ジャスミンの花びらで作った花の露だ。ローズを加えたことで、薔薇の露を好む女性が受け入れやすい香りになったと思う。さらにクマザサ、カモミール、赤爪草を加えて、保湿や殺菌効果をより高めてある。だから、手のひらに吸い込まれるように浸透するはずだ。
お銀様は掌に花の露を落とすと、そっと広げて香りを確かめた。続いて、志乃さんとお雪ちゃんも。それから、女中さん達にも渡されていく。
「なんとも甘い香りですこと。零れることなく肌に吸い込まれ、こんなのは初めてでございます」
「巷で流行る薔薇の露よりも芳醇でございますね。雨に濡れた梔子の花のようです。しかし、梔子とは少し違いますかね……茉莉花でしょうか?」
手を摩りながら感心されるお銀様の横で、志乃さんはしっかりと香りを言い当てている。さすが香道の先生ね。
「贅沢な香りにございます」
「さすがは異国の花の露です」
「このような極上品、町では手に入りませんよ」
「作ることも出来ませぬ」
女中さん達の反応も上々で、思わずほっと胸を撫で下ろしていると、お雪ちゃんが無邪気に「花に包まれているようです」といった。そう、それがこの花の露のコンセプトだ。
「まるで花に囲まれたような心地となるのは、ほんのり薫る草の香りが混ざっているからでしょう」
先生は、さすがと言って良いほど的確に言い当ててくる。
最初は花束のようなイメージを考えたのだけど、藤倉家の庭を見て、恒和の人はより自然に近い造形美を好むのだと思った。だから、ただ甘い香りを集めるんじゃなくて、そこにほんの少し草の香りがあると馴染むんじゃないかって。混ぜた赤爪草がいい仕事をしてくれたわね。
「茉莉花の花弁から作った露に、クマザサ、赤爪草、薔薇、カモミールなどを合わせています」
「様々な草花が使われることで香りがまとまるのは、練香に似てますね」
「お雪には、茉莉花と梔子の違いが分かりませぬ」
「香りがとても似ております。恒和では梔子の花が身近ですから、香道を学び始めたお雪様には難しいかもしれません」
少ししょんぼりするお雪ちゃんにそう諭す志乃さんの横で、お銀様はたおやかに、これからですよといって微笑まれた。女中さん達も、うんうんと頷いている。お雪ちゃんは皆に愛されているのね。
その光景を微笑ましく思いながら、私はもう一瓶を取り出した。
再び花の露を手に取った皆さんは、それぞれに感嘆の声を上げた。
「これは柚子ですね。お雪はこちらが好きにございます!」
「なんとも瑞々しくて優しいのでしょう。その中にも甘い花の香りがありますね。これは、恒和にはない花のような気がしますが……とても心が安らぎます」
「エルダーフラワーという名の花を使っています。他に、カモミール、クマザサ、赤爪草を合わせました」
「エウロパの花にございますか」
「爽やかで若々しい香りにございますね。気持ちが若返ります」
なるほどと頷いている志乃さんの横で、お銀様がふふっと微笑んでいた。確かに、柚子の方が若い人向けな気はするわね。
「こちらは、役者や殿方も喜びそうですね」
「甲乙つけがたいです」
「あなたはどちらが好き?」
女中さん達も、こちらが良いあちらが良いと楽しそうに話をしている。好みで分かれるとは薄々思っていたけど、やはり片方に絞るのは難しいのかもしれない。
「お蘭様、どちらもとても良い品でございます!」
「どちらと決めるのは難しいですね。殿方のご意見も聞いてみてはいかがでしょうか」
そう言った先生は、通訳をしてくれている春之信さんに視線を向けた。
すると、まさか意見を求められるとは思っていなかったのだろう春之信さんは、ぎょっとして、私がですかと言いよどんだ。
「巷では殿方も花の露を買い求めておりますよ」
「しかし、私では化粧の良し悪しなど……」
「では、お兄様は女子に合う香りはどちらだと思われますか?」
「また難しいことを……」
言葉を詰まらせた春之信さんは、私を見た。
お雪ちゃんと先生の会話を全て聞き取れた訳じゃないけど、たぶん、春之信さんはどちらが良いかと聞かれたのだろう。
確か、恒和では化粧をする男性も多いと聞いたことがある。役者の方も買うことを考えたら、男性の意見というのも必要だったわね。
「どうでしょうか、春之信さん」
「そうですね……男が使うと考えましたら、爽やかな柚子の香りが良いと思います。ですが──」
そこで言葉を切った彼は、私をじっと見つめる。
何か、好みに合わない香りでも混ざっていたのだろうか。心配になって、少し身を乗り出した私が「ですが?」と聞き返すと、彼は目を細めて微笑んだ。
「薬師殿に合うのは、こちらの茉莉花ですね。とても華やかで、よろしいかと思います」
流れるように告げられた言葉は、私の思考を停止させた。
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