6-17
体の痺れが取れた頃には、すでに陽は沈みかけていた。浅い眠りを繰り返していたトーマは、やっと自由に動かせることを確認してからゆっくりと起き上がる。昨晩夕食を少量しかとらず、今まで何も口にしていない為空腹のはずなのだが、部屋の隅に置かれている食事が視界をかすっても口にしたいとは思えなかった。緩慢な動きで起き上がった体は、皮肉なことに依然よりもむしろすっきりとしているような気がする。自嘲気味な笑みを浮かべた後にベッドから抜け出すと、窓辺へと足を向けた。メイドに脱がされた靴を履く気にもなれず、素足で踏んだカーペットは驚くほどふかふかだった。自分専用として揃えられたこの部屋の物全てが良い物なのは素人目に見てもわかる。監禁状態に違いはないが、とても大切にされているが…だからと言って、このままナルディーニの言いなりになるわけにはいかないだろう。
窓の外には、やはり同じ風景が広がっており、遠くから汽笛の音が響いていた。
「…夢と、違う…」
見通す力で見た夢では、夕方を待たずにライアスが捕まっていたはずだ。赤く染まる外の風景を焦点の合わない目で眺めたトーマの呟きは酷く掠れていて。外の風景から窓に映るアメリアの姿をした自分へと視線を移せば、酷く憔悴しきっている姿が映っていた。あまりにも酷い顔に小さく苦笑を浮かべてから、今度はローテーブルへと向かう。銀の蓋をあければ、冷めてしまった食事とポットが現れた。トーマはポットからカップへと茶を注ぐと、一気にそれを煽った。昨晩ナルディーニの部屋で飲んだものと同じ味に、ほだされるつもりはないが、心遣いのようなものを感じてしまう。喉の渇きを潤すため、ポットの半分ほぼを一気に飲み干してから、トーマは自分の頬を強めに叩いた。自分の行方を探してくれているのだと、自分の目で確認が取れた事で気持ちが落ち着き、何とか足掻こうと前向きになれのはなんとも現金な事だ。手始めに部屋の中を見てみることから始める。あそこまで魔法道具と魔法封じを施されているにも関わらず、部屋の中には花瓶や皿、置物など武器になりそうなものが多数置かれていた。
「解除者が武闘派だったらどうするつもりだったんだよ…」
思わず漏れた独り言は、青銅の蝋燭台を見つけた時だ。その蝋燭台を手にとってみれば、ずしりと確かな重みを感じる。これで窓ガラスを叩き割れば外へ出れるのではないか。だが、その音を聞きつけて誰か来るかもわからないし、そもそも今部屋の入り口に誰か見張りが立っているかもしれない。なす術がない今、その危険を冒してでも試してみる価値はあるが、うまく割れた事を考えれば、逃げ出すのは暗くなった方が良いだろう。後は、この高所からの脱出方法を考えるだけだ。魔力吸収がどの範囲まで効果を発揮しているかは分からないが、これだけの高さから考えれば、一般的な魔力吸収は地面付近になれば範囲からは外れるはずだ。
「重力操作系の魔法か…確か本に載ってたはず…」
今まで使ったことはないそれを思い出そうとして、肝心の呪文が出てこず首をかしげる。一回きりのこの計画で、一番恐ろしいのは地面に到着する前までに魔法を発動できるかどうかだ。確信も自信もないが、ここで引く事は出来ない。窓の外は、群青が広がり始めていた。
足音が部屋の前で止まると、ゆっくりと重い音を立てながら2枚の扉が開かれた。現れたのは、昼間にも食事を運びに着たあの人形のメイドだった。手にはやはり盆を持っており、食事のいい匂いと香が混ざり合った匂いが部屋に広まった。
「夕食をお持ち致しました」
お決まりの深いお辞儀をしてから、メイドはローテーブルへ置かれていた盆と交換するように持ってきた方を置く。手を付けられていなかった昼食を見ても気にすることなく蓋をする。
「ねえ、皆は今どうしてるの?」
すぐにでも部屋を出ようとした彼女を呼び止めれば、律儀に体をこちらへ向けてからメイドは口を開いた。
「聖女様方は本日夕方にお屋敷を発たれました」
「この街にはまだ滞在を?」
「トーマ様がまだいらっしゃるかもしれないから、と聖女様が仰られておりましたので、おそらく」
「そっか」
「…では、私は失礼いたします。何か御座いましたらお呼び下さいませ」
この状況でどうやって呼べと、と心の中で突っ込んだトーマの前で、メイドは恭しく頭を下げると部屋を出ていった。出ていく際、薄くだが笑顔まで浮かべヒラリと手を振って見せるトーマに対し、メイドは一切表情を変えずにいのは人形故だろう。この変化をどのようにナルディーニへ報告をするのか…相手の出方が分からない上に不利な状況なのだ、早く行動へ移したいが、深夜までは我慢だ。脱出するのであれば、少しでも体力をつけておいた方が良い。数時間前までメソメソ泣いていた事など嘘のように、気持ちを切り替えたトーマは蓋をあけて運ばれてきた夕食を頬張った。
ただぼんやりと窓の外を眺めて時間が過ぎるのを待つ事を苦痛だと感じたのは、これが初めてかもしれない。大分高くまで上ってきた月に、そろそろか、と腰を上げる。数時間前には消えた港の明かりのせいで、外は月明かりによりぼんやりと映し出される程度だ。途中メイドが部屋の明かりをつけに着たため、使用予定の蝋燭台には炎が揺らめていた。揺れる炎を吹き消すと、室内は月明かりだけとなる。恐ろしいぐらい静かな中、台を握りしめると窓に向かいゆっくりと近寄って行った。ぼんやりと浮かび上がるアメリアの顔をした自分を見つめながら、手のひらへと力を込めるぐっと握りしめてからゆっくり腕を上げた所で、突然響く物音にビクリと肩を揺らした。慌てて振り返れば、2枚目の扉が開いていて、そこにはナルディーニの姿があった。今まで何も音などしなかったはずなのに、なぜ今彼がここにいるのか、動揺しながらも慌てて手に持っていた蝋燭台を隠すように後ろへと回す。そんなトーマの行動を全て見ていたにも関わらず、彼は深い笑みを浮かべたまま室内へと踏み込めば、その姿はすぐにアメリアへとへと変わってしまう。
「ここは危険だ、移動しよう」
「…どういう事ですか」
にこりと微笑んで差し出してくる彼の手は取らず、ただじっと見詰める。回答があるまでは動くつもりはないと目だけで訴えれば、ナルディーニは小さく息を吐くと距離を詰めてきた。咄嗟に後退するトーマの背に、先程までただ叩き割ろうとしていた窓が当たった。それとほぼ同時に目の前のアメリアの姿をしたナルディーニがトーマの両側へと腕を付き、窓と彼の間に閉じ込めてきた。
「何を…!」
非難しようと睨み付けた彼の瞳は、鈍く濁っていた。とても正気とは思えないそれを前にすれば次の言葉など出てこず、ただ息として飲み込む事しか出来ない。
「賊が侵入したんです。貴方は私の、私だけの小鳥だ」
「賊って…」
「約束しましょう、貴方を守り抜くと。奴等に渡して堪るものか」
優しい手付きで頬を撫でると、ナルディーニはトーマの腕を掴み歩き出した。状況に付いていけず、ただされるがままだったトーマは、引っ張られるように数歩歩みを進める。部屋の中程まで着たところで、やっと何か抵抗をしなければと我に返ると、持っていた蝋燭台を手離し、掴んできているナルディーニ腕を強く掴み引っ張る。だめ押しとばかりに足も踏ん張れば、彼は歩みを止めて振り返り、トーマの足元へ目をやりくすりと笑った。
「全く無謀なことをしようとする…さあ、まずは安全な所へ」
「放してください、俺は貴方とはいかない…!」
「トーマ、君の為なんだ、私は君のために」
「そうやって、俺の為だと言って自分を正当化しようとしているだけだ…!言っておくけど、俺が見通せるのは聖女についてだけですよ」
「聖女についてだけ…?」
「しかも自分の意思で発動することもできない。国の行く末なんかは全く分からない、限定されてる力。それでも、俺に価値があると?」
「そんな…」
浮かべていた表情が消え、じっと見つめてきたナルディーニに、トーマは畳み掛けるように口を開く。
「だから、放してください、俺に価値を見出だせるのは、聖女だけだから、」
優しく諭すようなトーマの声を掻き消すように、ナルディーニは笑い声をあげた。一瞬大きくあげた声を噛み殺すようにクツクツと笑う姿に恐怖を感じ、言葉を続けようとしていたトーマの声は、小さく息を吐き出すことしか出来なかった。
「そんな事、誰が分かると?」
「え…」
「君の見通す力が聖女限定など誰が分かる?売り込みの仕方だよ、トーマ。それに、私は君がカイジョシャだからだとか、特殊な能力があるからだかとかでこんな事をしている訳ではないんだ」
「じゃあ、なんで…」
「言っただろう、君の為だよ」
「意味が…意味が分からないです」
「分かっているはずだ、君は聡明な魔術師でしょう」
カーペットを踏みしめる音が静まり返った部屋へと響く。扉を開け放っていた為か、あれほどきつかった香が薄れ、目の前に立っているアメリアの姿が揺らいで見える。あの印象的な緑の瞳では無く、濁ったような青い瞳を細める姿に、拒否を示すよう首を振る。そんなトーマの姿にさえも恍惚とした表情を浮かべたナルディーニは、掴んでいた腕を思い切り引いた。大柄な成人男性に引っ張られれば、体は簡単に倒れていく。間近で見る彼は、アメリアの姿等ではなく、きちんと本来の姿で映る。金の髪を揺らす彼の姿をこんな近くで目にするのはひどく久しぶりな気がした。
「ああ…やはり貴方はその姿が良いな…」
うっとりとした表情でトーマの顔を覗き込んでくるナルディーニの瞳には、黒髪が映り込んでいる。嫌だ、と小さい呟き等聞こえないのか、髪へ指を滑り込ませると、サラリと毛先を遊ばせてくる。あれほど前向きに考えられたはずなのに、いざ本人を目の前にすると、雰囲気に飲まれ動けなくなってしまう。ああ、あの魔法道具は対象者同士の距離にもよって効果が違うのか、とりとめのないことを考える、そんな時だった。背後から、ガシャンと派手な物音と共に強い風が部屋へと吹き込んできたのだ。
「その人に触らないで頂けますか」
聞き覚えのある声は、明らかに怒りを含んでいて。驚いて振り返れば、月明かりをバックに長い髪を風に遊ばせたウィルが窓枠に膝をついていた。
「ウィル…?!」
「やはり、トーマですね…?迎えが遅くなってしまってすみません」
驚きの声をあげたトーマに、一瞬浮かべたほっとした表情をすぐに消すと、軽やかに部屋の中へと降りる。柔らかな笑顔の中で眉を下げた困ったような悲しいような表情を浮かべながらこちらへと歩みを進めてきた。これは本物なのだろうか、それとも絶望的な状況で見せた自分の妄想なのか…混乱するトーマだったが、目の前のウィルに切な気に呼ばれれば、そんな迷いなどすぐに吹き飛んだ。ウィルの元へと駆け寄ろうとしたところで、それは彼の後ろにいるナルディーニが許さなかった。しっかりと握っていた彼の腕を強く引き、引き寄せれば簡単にナルディーニの胸元へと収まる。開け放たれている扉と、割れた窓より吹き込む風により既に魔法道具から出ている香は微かに香る程度で、月明かりに照らされた室内には本来の姿の3人が居た。
「やはり、あの香は姿眩ましの…あれは第一級指定魔法道具とされていましたが?」
室内の匂いに舌打ちをしたウィルは、威嚇するようにナルディーニを睨み付ける。だが威嚇等気にも止めず、むしろ煽るように笑顔を浮かべながら、胸元にあるトーマの髪をサラリすいた。
「そうだったのですか。私は魔術師などではないので、詳しくないのですよ」
ウィルの方へと背を向けているトーマの頭をそのまま抑え、もう片方の腕で抱き締めるようにすれば、ウィルの表情は簡単に抜け落ち、鋭い殺気を放ち始める。
「そんな言い訳が通じるとでも?所持しているだけでも厳罰物です」
「厳罰…それは貴方も同じでしょう。人の屋敷の窓を割り不法侵入か、聖女の護衛だとしても許される事では無いと思いますが?」
「誘拐監禁を行っている人に言われたくありませんね」
「聖女側の人間にはわかるまい」
「派閥等興味はありません。聖女派でも、国王派でも、魔導師派でも…好きに争って頂いて結構」
「…何…?」
「ですが、それにトーマを巻き込むのであれば、話は別です」
何とか抜け出そうともがいてはみるも、自分一人の力ではどうしようもなく。ナルディーニから弱々しい抵抗を見せるトーマへ視線を移したウィルは小さく苦笑を浮かべた。幸い、彼はウィルのへは背を向けている。今、自分が酷い顔をしているのだけは自覚があったため、視線がこちらへと向かないのだけは有り難かった。
「さて、もう一度言いましょうか。私のトーマに、触らないで頂けますか」
抜け落ち表情の中へ、目だけを軽く細めるようにして笑う。そこから先は一瞬だった。腰に下げていた剣を抜きながらナルディーニへと距離を詰めると、迷うことなく足を切りつける。苦痛の声をあげ傷口を庇うようにしゃがむ彼の元から、状況についていけずにいたトーマの腕を掴むと勢い良く窓際へと駆けた。
「トーマ…!」
すがるような声に腕を引かれたトーマが振り返れば、膝をついたナルディーニがこちらへと腕を伸ばしていた。痛みでなのか悔しさでなのか、顔を歪ませてはいるものの、懸命に微笑む姿に息を飲む。後ろで、低くしつこいですね、とウィルの呟きが聞こえはしたが、強引に引っ張ることはしなかった。窓枠を越えれば出れると言った所で動き止めた二人に、トーマに、嬉しそうに微笑むと彼はゆっくりと立ち上がった。
「トーマ、惑わされてはいけない、そちらに行ってしまえば、君の自由などなくなる」
「ナルディーニさん…」
「さあ、おいで、私の小鳥」
「…ごめんなさい、俺は、」
頭を下げたトーマだったが、全てを言い終わる前にウィルに抱き寄せられた。驚いて顔をあげれば、口元だけを上げた笑顔を作っているウィルの顔がすぐ近くにあった。
「重力操作の魔法は知っていますね?」
「え、うん、でも、実際に使ったことは、」
「上出来です」
最後まで聞かずにウィルは微笑むと、そのままトーマを横抱きにして持ち上げる。大人一人を抱き抱えてるとは思えない身のこなしで窓枠へと上がり、部屋の中に取り残されたナルディーニへと顔を向けた。
「見苦しいな、ウィル殿」
「何を。数秒でも許したのですから、感謝して頂きたいですよ、ナルディーニ卿」
「え、やだ、待ってウィル…」
トーマの制止を軽く流し、では失礼、と頭を下げたウィルは月明かりの中へと飛び込んだ。




