6-14
ノックの音が静かな廊下へ響く。中からどうぞと声をかけられ、トーマは深く息を吐くとドアノブを強く握った。ゆっくりと扉を開くと品の良い香りが鼻を掠め、次に淡い光が漏れてくる。大きく開けば、ゆったりとした椅子に腰かけたナルディーニがこちらへ笑顔を向けていた。
「やあ、いらっしゃい。トーマ殿」
「こんばんは、ナルディーニさん」
浅く頭を下げれば、畏まらないで下さいと声をかけながらナルディーニは立ち上がりこちらへと近付いてきた。そのままトーマの背へ腕を回してくると、中へ入るように促し、扉をもう片方の手で扉を閉めた。バタンと立てた重い音に、なんだか閉じ込められたような気がしたが、今ここで怖気づいては居られない。そんな心境を微塵も感じさせず、トーマはお得意の笑顔を張り付けると失礼します、と部屋の中へと足を進めた。勧められるまま椅子へと腰を下ろすと、ナルディーニは棚へと向かい茶器を取り出し始めた。トーマの目の前に置いてあるローテーブルへカップを乗せれば、お茶の準備は完璧だ。向かい合う様に設置されている椅子へナルディーニも腰を下ろすと、カップと一緒に取り出した茶葉の蓋を開けた。
「あ、そんな、お気遣いなく…」
慌てて声をかけたトーマに、ナルディーニは視線を上げるとニコリと微笑みながら小さく首を振った。甘い香りを纏った茶葉をポットへ入れると、お湯を注ぐ。白い湯気がゆらゆらと揺れた。
「お呼びたてしているのです、これぐらいさせてください」
「…すみません」
「いいえ。甘い物は、お好きでしたよね?」
「はい…でも、なんで…?」
「すみません。デザートを食べている貴方は幸せそうな顔をされていたので…お好きなのかと」
「え?!そ、そんな顔してました…?!」
身内に指摘されるなら大した事はないが、知り合って数日であるナルディーニにすら察せられる程顔に出ていたと思うと、恥ずかしいやら、情けないやら…赤く染まる頬を隠すように両手を宛て身を小さくするトーマを見て、ナルディーニは更に目元を緩めた。慣れた手つきでカップへお茶を注ぐと、トーマ前へと湯気がのぼるお茶が出される。それから、サイドテーブルの上に乗せられていた盆の蓋を開ければ、ドライフルーツが入った皿が置かれていた。
「このお茶とこの菓子は、非常に相性が良いんです」
どうぞ、と微笑みながら同じようにテーブルへと置いてくる。釣られるようにその皿へ手を伸ばしそうになり、トーマは慌てて自分を制した。あれほど注意をしなければと話しているのにも関わらず、出されたものを口にするのは不用心すぎるだろう。何か仕掛けられている可能性は高い…まずはそれから探るのが必要だろう。とは言っても、今まで平和に過ごしてきたトーマがどうすれば確認が取れるか等、分かるはずもない。できる事と言ったら、思わせぶりな態度をとって、なかなか口に含まずに相手を煽る事ぐらいだろう。浮かべた愛想笑いの下で、滅多に行わない高速計算でこれからとるべき行動を導き出したトーマは、有難う御座いますと礼を述べながらカップへと手を伸ばした。ソーサーごと持ち上げ、カップへ顔を寄せれば、先程から香っている甘い匂いが鼻を掠める。
「良い香りですね」
「ええ、そうでしょう?私もこの香りが好きで、取り寄せているのです」
「取り寄せですか?」
「暖かい気候でしか育たない茶葉なんです。一度自分の所で栽培をしてみたんですが、うまく育てられませんでした」
苦笑を浮かべながらカップを手に取ると、ナルディーニはそれへ口を付けた。何事も無くお茶を飲む姿に、まるで何も仕込んでいないとアピールをされているようで…そのアピールには気付いていませんと言った表情を浮かべたトーマは、残念ですね、と眉を下げて首を傾げてみせた。
「しかし、流石は貿易港を治めてらっしゃるだけはあって…何もかも洗練されてますね」
「そんなことありません。もしそう感じられるのならば、仕事柄流行物を多く取り扱いますからね、そのせいでしょう」
再びカップへと口を付けたナルディーニは、もう一口飲んでから、興味があるのは食事ぐらいですから、と悪戯げに笑ってみせた。飲むか飲まないか、カップへ唇を近付いてたトーマは、その言葉を聞くと思い出しかのようにカップをテーブルへと戻すと顔を上げる。
「食事と言えば、ここ数日間、本当に有難う御座いました」
「いえ、お口に合えば良かったのですが、いかがでしたか?」
「とても美味しかったですよ」
「そうですか。本日は少し食欲がなさそうでしたので…聖女様の護衛も行ってきているのですから、お疲れでしょう。すみません、付き合わせてしまって」
同じくカップをテーブルへと戻したナルディーニが申し訳なさそうにこちらを伺ってくるものだから、トーマは慌てて両手を振ると曖昧な笑みを浮かべた。
「張っていた気を緩めただけなので…!それに、こんなに至れり尽くせりで、申し訳ないぐらいです」
「トーマ殿は本当に謙虚な方だ」
「そんな…」
「実に、好ましい」
「え、あ、有難う、御座います…」
含みのある笑みを浮かべたナルディーニに、張り付けていた笑顔を一瞬引きつらせてしまった。何か雰囲気が変わったように思えたが、次の瞬間にはいつも通りの彼に戻ってしまっていて、何が違うのかが分からない。戸惑っているトーマを他所に、ナルディーニは背もたれへと背を預けると、足を組んだ。
「聖女様はこの国の希望です。国の為に旅をしている貴方方を持て成さないわけがありませんよ」
「そう…ですか…」
それっきり、彼は微笑みを浮かべたままお茶を飲み始めてしまう。急に訪れた沈黙がつらくて、トーマも一度テーブルへ置いたカップを再び手に持ち直すと、両手で覆うようにして握った。膝の置いたカップを覗きこめば、頼りなさげな自分の顔が映り込む。未だにうっすらと微笑みは張り付いているが、どうも表情が緊張しているのはすぐにわかるような顔だ。こんな時、ライアスならどうするのか…そう思ったが、すぐに考えることをやめた。自分はあそこまで現場慣れをしているわけでもないし、力技で切り抜ける能力を持っているわけでも無いのだから、彼と同じやり方で切り抜けられるとは思えない。では、先ほど考え付いた、思わせぶりな態度の結果はどうだろうか…まだその結果を見るには早いのか、やりすぎなのか…それすらも分からないが、目の前の貴族は、カップをいじるだけで飲もうとしないトーマに対して、何も感じていないように見える。落ち着いて、笑みを浮かべて、お茶を楽しんでいる彼を見る限りでは、この飲み物自体に何かを入れられていることはないのかもしれない…。だが、今ここで判断して飲んでしまっても大丈夫なのか…むしろ、今飲まなければダメなのだろうか…考えれば考える程、混乱してしまう。
(やっぱり駆け引きとか無理…!)
内心涙目になったトーマは、結局握っていたカップを口元へと運ぶと、軽く淵へと口を付けた。湿らす程度に口に含み、飲み込まないように気を付けると、香って居る香りとはまた違ったスパイシーな香りが広がってくる。
「あれ…」
驚きは、声にも出てしまっていたようで。トーマの声に、ナルディーニは嬉しそうに微笑んだ。
「気付きましたか。口に入れた時の風味が全く違うんですよ、この茶葉は」
「すごいですね…香辛料を入れてるわけでは無いんですか?」
「茶葉本来の香りです。いやぁ、嬉しいなぁ…私の周りにはこう言ったちょっとした違いが分かる人がいないものでね…トーマ殿とは仲良くなれそうだよ」
若干砕けた口調で、楽しげに茶葉について語り始める彼に呆気にとられながらも相槌を打つと、更に饒舌になる。今まで見てきた中で一番素に近い状況の彼は、表情豊かに話しかけ親しみやすく感じた。
「さっき、香辛料と言っていたね。茶に香辛料を入れるなんて聞いたことがなかったんだが…トーマ殿はそんな茶を飲んだことが?」
「ミルクを入れた物に、生姜やシナモンを…」
「しなもん…?と言うのは初耳ですが、生姜とも相性が良いのか…他には?香辛料と言わず、他の物でも構わないよ」
「後は…果物、ですかね。柑橘系の…って、俺、そこまでお茶に詳しいわけでもなくって、」
「いやいや、これはすごい勉強になるよ。研究をすれば、新たな商品が生み出せるかもしれない」
自分の持っている薄っぺらい知識をうろ覚えレベルで話しているのも関わらず、少年のようにはしゃぎながら聞いてくるナルディーニの反応に、悪い気はしない。次第に解かれていく緊張と、緩めないようにする警戒の間で、自然と表情が緩くなっていくのを感じながらトーマも会話に花を咲かせた。
ゴーンと言う柱時計の音に、トーマは振り返った。時間を見れば、すでに2本の針は頂点で重なり合っている。こんな時間まで話し込んでいたとは、この部屋に入った時は緊張でどしようもなかった事など嘘のようだ。案外、ナルディーニと気が合うのかもしれない…が、やはり出されたものへは全く手つかずのままだが。
「すみません、こんな時間まで…!」
「いや、私の方こそ、疲れているのに、無理に付き合わせてしまい申し訳ありません」
慌てて立ち上がるトーマにつられるように、ナルディーニも立ち上がった。楽しかったです、と軽く頭を下げてから顔を上げれば、私もだよと甘く微笑んだ顔が思ったよりも近くにあって、ドキリとする。赤く染まった頬を隠すように素早く扉の方へと体を向けると、トーマが扉を開けるよりも早くナルディーニが取っ手へと手をかける。迷うことなく扉を開くと、ひやりと冷たい夜の空気が入り込んできた。
「もう遅い、部屋まで送ろう」
「ここ、屋敷内ですよ?」
「私がもう少しトーマ殿と話していたいんだ。駄目かい?」
扉の取っ手に手を置き、出口を塞ぐようにして立ったナルディーニは、笑っているトーマの顔を覗き込むようにして距離を詰める。囁くような声で優しげな美形がウインクをしてくれば、断れるはずがない。いくらイケメン慣れをしているトーマであっても、年上の優しげなお兄様からのアプローチは初めてな訳で、気づけば反射的に頷いてしまっていた。すぐに我に返り、からかわないで下さいとジト目で切り返す事が出来たのは、日頃のウィルによる口説き文句を聞き慣れたお蔭かもしれない。驚いたような表情を一瞬浮かべたナルディーニだったが、すぐにごめんと笑うと、出口を開放してくれた。廊下は来た時同様に暗く、灯りが揺れている。行きでは気付かなかったが、ここだけ灯りは炎でとっているようで、安定しない光量がひどく不安を煽ってくる。
「そう言えば、トーマ殿は騎士団には属してないのかい?」
「ああ…はい、そうです。騎士団に所属するほどでもありませんし。魔術師を名乗ってますけど、きちんとした学校の出と言うわけでもないんです」
「だが、師は居るのでしょう?」
「そうですね、変わり者の師匠なら」
懐かしい白髪を思い出し、思わずくすりと笑うトーマを横目に、ナルディーニは歩くスピードを落とした。至って自然に落とされたスピードに、気付かずトーマも自然と歩調がゆっくりとなる。
「魔女、ミラージュ」
「え…」
「トーマ殿の師は、魔女ミラージュでは?」
「え、えぇ…ご存じなんですか?」
「魔術を嗜む物では知らない人はいないとされている、大魔導師ですよ」
「そんな凄い人だったんだ…」
「確かに、魔女ミラージュの弟子が見通す力を持つカイジョシャと言われれば、納得もいくね」
ぽつりと呟いたナルディーニの言葉に、トーマは歩いていた足を止めた。一般的に、聖女の伝説の中で解除者については語られていない部分であり、知っているのは聖女関係者や、国の人間だけのはずだ。伏せられる最大の理由に、見通す力と言う未来予知の特殊能力持ちであることが挙げられている。そんな力を持っていると分かれば、争いの火種になる事ぐらい誰でも理解できるだろう。それ故に、一般人は解除者について知識を持ちえていない。解除者の存在を知っていたライアスたちですら、特殊能力については知らなかったのだ。
――― だが、彼は今、なんと言った?
ワンテンポ遅れて立ち止まったナルディーニは、ゆっくりとこちらへ体を向けると、向かい合う様にして対面した。丁度窓の前に立っていたトーマからは、暗がりに居るナルディーニの表情は確認しにくいが、彼はひどく嬉しそうだった。
「何の、話ですか…?」
「隠さなくても良いんですよ。私の、小鳥」
その言葉に、全身の血が引いた。
動揺しているトーマの元へ一歩ナルディーニが近寄り、反射的に後ずさりをしてしまう。そんな状態だったから、十八番である防御魔法を展開するのも遅れてしまった。ふわりと、相手の周辺で魔力が動いたと感じ取れたものの、対応することができず、先に強い光が視界を襲う。次の瞬間には、意識が遠のいていき…最後に目に映ったのは、金の指輪が嵌められた手が暗闇から伸びてくるだけだった。
咄嗟に上げた腕には魔力はおろか、力すらも籠らず、支えきれなくなったトーマの体が後ろへと倒れこんでいく。そのまま意識を失った彼の腕をナルディーニは掴むと、自らの方へと引き寄せ抱き留めた。力なく倒れこんできた様子に満足気に笑うと、月明かりの中、愛おしげに抱きしめる。
「あの部屋を」
ナルディーニの言葉に、いつの間にか暗がりに居たメイドはスカートの裾を摘み上げ礼を取った。暗く白いエプロンすら見えにくいと言うのに、ガラスのような瞳が瞬きをするのだけは、しっかりとしていた。




