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基本、この世界では、シャワーの概念はなく、風呂は貯めているお湯を少しずつ使い体を清めていくものだ。現代社会のように水を使い放題できるわけではない。それができるとしたら王族や金のある貴族ぐらいだろう。それを知ったトーマは、自身の魔法でシャワーを生み出したのだから。
そして、この宿も例に漏れず湯を少しずつ使っていくタイプのものだった。最初こそ我慢して貯められた湯を使っていたが、あまりの寒さに耐え切れず、トーマは自身の魔法を利用し贅沢なシャワーで湯を浴びていた。魔法で生み出された水は同じく魔法で熱せられ、トーマの頭から降りかかる。少し熱め温度が心地よい。詰めていた息を吐くと、一気に気が抜けていった。昼間はアメリアの様子ばかり気にしていたが、自分も相当参っていたらしい。少しはこの世界に慣れたつもりでいたが、やはり平和ボケはまだまだだ。甘い考えの自分が嫌になるし、そもそもこの世界に自分がいることに不満を感じ、そんな考えしかできない自分に自己嫌悪の無限ループを繰り返していると、気づけば目頭が熱くなっていた。
「何、してんだろ…」
自嘲にも似た笑みを浮かべ、ため息混じりに湯を首の後ろへあてるようにすれば、自分の体が目に入る。すとんとした平らな胸から下へと視線を降ろしていけば、日本で生活をしていた頃とは比べ物にならいぐらい引き締まったお腹、続き丸みを帯びた尻、筋肉がついた足。男性のふりを続けてはいるが、流石に脱げば腰から下は女性そのものだ。ぼんやりとそれを眺めていると、視界までぼやけてくる。そこで、初めてトーマは自分が泣いていることに気付いた。気付いてしまうと、もう止められない。ロッテを助けられなかった事から始まり、もう割り切ったはずの異世界での不安、男として扱われるのを受け入れては居たが、時折感じる寂しさ、この2年、ミラージュと共にのんびりとした生活を送っていた為、旅をする生活に気付かぬうちにストレスを感じ、心休まる時間が無かったのかもしれない。色んなものが入り混じって、弱ってしまった心では、しばらく涙を止めることは出来なかった。
ひとしきり泣けば、自然とすっきりしてくる。お湯を止め、タオルで体を拭い手早く服を身に着けていく。最後に気合を入れ直すために自分の頬を叩くと、何事もなかったような顔をして廊下へと出た。冷たい空気が今は心地良く、目を細める。今日はとっとと寝てしまおうと部屋へ向かう足を早め、角を曲がろうとした所で、反対側に影が現れた事に気付いた。気付けはしたが、足を止められるはずもなく、トーマはその影へと思い切りぶつかってしまう。衝撃に後ろへ倒れそうになった所で、ぶつかった相手に自分の腕を掴まれ、更には相手の腕が素早く腰に回ると抱き留められる。
「っ、すいませ…」
慌てて顔を上げたトーマは、相手の顔を見て力を抜いた。目の前には、ひどく驚いた表情のライアスが立っていたからだ。ごめんねと苦笑を浮かべ声をかけるが、一向に掴まれた腕も腰に回された手も離れる気配がない。
「…ライ?」
名を呼んだ声が、思ったよりも戸惑いを含んでいた。呼びかけに瞬きで答えたライアスは、トーマに回していた腕を離す。やっと動き出した彼にほっとしたのも束の間で、今度は強い力で両肩を掴まれ、トーマは驚いて彼を見上げた。
「ちょっ、ライ」
「泣いてたのか?」
「え…」
遮って振ってきたライアスの声に、ピクリとトーマ肩が揺れる。そんなこと無いよと笑ってみても、彼の表情は一向に崩れることはない。それどころか、彼はトーマの目尻を親指で優しく撫でると、心配げに眉を下げてきた。
「腫れてる」
「あ…」
「一人で泣いてたのか…?」
そう言われ、思わずライアスの視線から避けるようにトーマは俯く。泣いていた事を知られ、気まずい上に恥ずかしい。なんと答えようか返答に迷っていた所を、自然な力で肩を引かれる。気付くとライアスの胸に顔が埋まっていた。何が起こっているのか分からず固まっているトーマに構うことなく、肩に置いてあった手は背中へ回ると強く抱きしめられる。
「頼むから…」
絞り出すような声に、固まっていたトーマは我に返ると顔を上げる。無言でされるがままの反応を肯定と受け取ったのか、思ったよりも近くにあったライアスの顔は、苦しげな表情を浮かべていた。
「一人で泣くなんてことは、しないでくれ…」
「ライ…」
「今回の件は、俺の力不足だったのは痛感してるし、反省もしてる…そんな俺が言うのもなんだが、何でも一人で抱え込まないでくれ」
目を逸らさず切実に訴えてくるライアスを、トーマはぼんやりと見上げていた。いつも先頭を行き皆を引っ張ってくれる彼でも、こんな表情をするんだなどと頭の片隅で考えながら、自分の事をひどく心配してくれる姿がとても嬉しかった。
(女々しいな、私は…)
心の中で苦笑をしてみても、顔は嬉しそうに緩んでしまっているかもしれない。
「ライにはすごく感謝してるよ、力不足なんて言わないで」
「トーマ…」
そっとライアスの胸を押すと、背に回る腕が弱まった。トーマはそれを振りほどくことはせず、ゆっくりと腕をライアスの頬へと伸ばし、顔を包み込むように手を宛てた。
「大丈夫、一人でどうにかしようなんて、もう思ってないよ。こんなに俺の事、心配してくれる人がいるもんね。だから、そんな顔しないで」
「お前…」
ね?と笑いかければ、彼は困ったように笑いトーマの背から腕を離す。そして、抱きしめるのを諦める代わりだと言わんばかりに、乱暴に頭を撫でられた。
「わ?!」
「逆に慰められるとはな…」
出会った当初は優しいだけだったライアスが、今ではレオルドやウィルと同じように気を使わずに接してくれる。いつの間にか君からお前へと呼び方が変わり、ただ優しく撫でられていた頭も、わざと乱暴に撫でてくれたり。彼が素の反応を見せてくれるまで信用されているんだと思うと、嬉しくなる。今も、やっといつもの調子に戻り苦笑を浮かべているライアスに対し、満面の笑みを浮かべながらトーマは宛てていた手を離していた。
「ライも、辛かったらいつもで俺の胸に飛び込んできていいのよ?」
「そうだな、考えておく…それじゃ、俺も湯でも浴びてくるよ」
「うん。ありがとね」
「ああ」
頷いてトーマの隣を通り過ぎようとしたライアスが、ポンと彼肩へ手を置くと腰を折り耳元へと口を寄せる。
「次、一人で泣いたりしたら、一晩中離さないからな」
「っ?!」
するりと通り過ぎ際に口にしたライアスの言葉に驚き、勢いよく振り返るトーマの前には、今までに見たことのない表情を浮かべたライアスが居た。
「それが嫌なら、ウィルにでも甘えること。いいな?」
「も、もう泣かないよ…!」
「トーマ」
「そ、それに、男が頻繁にメソメソしてたら気色悪いでしょ?」
「返事は」
「う…」
「トーマ」
「…善処します…」
「良し」
ニヤリと笑って頷いたライアスを、トーマは頬を膨らまし恨みがましく一睨みしてから、くるりときびを返し自室へと戻っていく。耳まで真っ赤にしている彼の後ろ姿に、自然とにやけていく口元に気付き、ライアスは手で口を覆った。
未だに赤く染まっている頬を感じながら、トーマは階段を駆け上った。彼の前ではいつも通り対応をしたが、今考えれば相当恥ずかしい。抱きしめられた時に見上げた彼の表情が初めて見たものだったから、こんな顔もするんだと思考を切り替えられたが、あれが見たことのある表情だったら。きっと、迷うことなく彼へと腕を伸ばし縋り付いてしまっていただろう。それと同時に、彼の腕の感覚と温度を思い出し、思わず顔を歪めた。
(…勘違いするな)
今のライアスも、先程のレオルドも、昼間のウィルも、全部男性であるトーマに対しての親愛に基づいての行動だ。だから、誰も好いてはいけない。男に懸想され、嬉しいはずもないし、
「私はいずれ、居なくなるんだから…」
目を閉じ深呼吸をして、チクリと痛む胸へ無理やり言い聞かせた。




