絶海の死闘③
漆黒の海面に漂う焼け焦げた浮遊物は、よくよく見ると人間の男ーー正確には人間とは言えない〝モノ〟だった。
閃光に吹き飛ばされた元漁師の精霊付きは、海面に辛うじて浮かびながら穴が空いた腹を指でなぞる。
異臭を放つ焼け焦げた大穴、中に詰まっていた筈の邪霊の種は全て炭化して海に溶け出していった。
巫女の発した閃光に他の邪霊の種が焼かれる中で、何故男に取り憑いた種は焼けなかったのか? それは黄魔石を奪ったダートやオーバルに潜入した目ず魔等、特殊な任務を持った精霊付きの種に施された絹状のコーティングが、聖なる光を逸らしたからだった。
だが種が守られたからといってダメージが無い訳ではない。現に閃光に吹き飛ばされた男はすぐに動けないほどの痛手を受けている。
ザブリ、ザブリと波が入り込み腹の炭を洗い流す中、暫く漂った男はノタリと手足を動かしてうつ伏せに寝返りを打つと、体液がこびり付いた水掻きを広げてゆっくりと浮島に漕ぎ出した。
その背後には黒い影、一艘の手漕ぎ舟がギチギチと海を掻きながら男に近づいていく。
真っ白な手で舟尾の櫂を左右に漕ぎながら、反対の手で器用に縄を海に送る。女の目は暗闇の中でもしっかりと男を捉えて離さず、月明かりを受けてギラリと光っていた。
二年ぶりに夫の姿を見た時、女の鼓動は跳ね上がり、櫂を漕ぐ手が震えた。膝から力が抜けて心が折れそうになるのを唇を噛み締めて奮い立たせる。
目頭が熱くなり視界が滲んだが、意地でも涙は流さなかった。
決意を込めて羽織っていた上衣を払うと、身に纏うのは真紅の鉢巻と紐状の褌のみ。海女特有の肉付きの良い肉体が露わになり、月明かりのもとで真っ白な肌が淡く輝く。その腰には島の呪術師セーニャから贈られた呪香の仕込み針が手挟んであり、たすき掛けに重り石のロープを吊るしていた。
そして火桶のある足元には煙玉を並べていつでも着火出来るようにしている。
なるべく音を立てない様に舟を近づけていくが、木を接いで作った櫂はどうしようもなく甲高い軋み音を発してしまう。
その物音に気付いた精霊付きの男は、一度顔を上げるとトプンッと潜水した。
中々良い反応を見せた男は、しかし腹の筋肉をゴッソリ無くしたため、上手く力が出せずに手先足先だけの泳ぎとなってしまう。
女は慌てずに櫂を置き、事前に決めた手はず通りに煙玉を火にくべると、全身の力を使って海に流した縄をグイグイと手繰り寄せた。
女が張っていたのは島の漁師が使う定置網。例え鉄牙魚が掛かっても噛み切られる事の無い、島のオジー特製の逸品を、旅立つ際に一人でも引ける様に小さく作り変えた物だった。
海中で不細工に泳ぐ男に網が迫る。女は必死に足、腰、腕、全身の筋力を使って全速で縄を引く。
罠にかかった男を後一息で絡め取る事ができる、女の腕がブルリと震えながら縄を引き切った時ーー男は水面に向かってジャンプした。
女は一瞬『逃したっ!』と思ったが、次の瞬間縄を引く手に手応えを感じる。
見ると、跳び越えた筈の男のフンドシが網に付けられた重りに絡まっていた。
そのまま力任せに手繰り寄せる。寒い初冬の海で裸に近い格好にも関わらず、女は大汗をかいていた。
男は必死に褌を抜こうとするが、ガッチリはまり込んだ布はビクともしない。かと言って脱ごうとしても、硬く結わえ付けられた約二年間履きっぱなしの褌は、結び目を解くことすら叶わなかった。
褌を脱ぐことを諦めた男は無抵抗になる。急に軽くなった縄を引き、舟まであと少しとなった時、全身に残った力を使って逆に縄を引っ張ると、舟に跳び乗って来た。
舟の上は既に着火された呪香の煙で満たされており、女に襲い掛かろうとした男の動きが見る見るにぶくなる。更に海中の網に絡まった褌が男の動きを阻害した。
女は煙に巻かれて自身もむせながらも、肩に掛けた重り石の札を剥がす。セーニャが長年に渡って込め続けた呪魂が力を解放されて〝オンオン〟と鳴いた。
その重り石を投げつけると、自ら飛ぶ様に男にぶつかった石は、巻きつけられた四本の縄がまるで生き物の様に絡み付いた。
急速に重くなる石にバランスを崩して転倒した男は、呪香の煙に包まれて完全に動けなくなる。
決死の女は腰の呪香針を逆手に引き抜き胸の前で構えると、全体重を乗せて男にのし掛かった。
胸に針を受けた男は女を退けようと滅茶苦茶に腕を振るが、皮膚を傷付けるだけで退かすことは叶わない。
胸に刺さった針を抜こうと女の手を握り、食い込んだ爪から血が出るまで押し上げたが、女は執念で堪える。
そうこうする内に針に仕込まれた呪香が男の体内に染み出すと、そこを中心に緑の身体が壊死して黒く変色していった。
呪術師セーニャが長年に渡って込め続けた呪いが急速に男の体を蝕み、ものの数分で全身を壊死させると、腕や足がボロリと崩れる。
気丈な女は泣いていた。
真っ黒に砕ける男の体を抱きしめながら、大声を出して泣いていた。
その手には先祖伝来の根性の赤褌のみが形見のように残る。
そして男の所在を知らせ続けた、呪術のこもった鉢巻きの反応が徐々に薄まって行き、完全に消えた。
男の存在はーーたとえ肉体のみとはいえーー永遠に無くなったのだ。
尚も重くなり続ける重り石に舟が傾き、耐え切れずに転覆すると積荷もろとも全てが海に落ちる。
女は海に転落しながら、全てを見届けようと月明かりの照らす海中に漂った。その目の前で、男であった塊は崩れながら靄の様に海に溶けて行く。
頭の位置にキラリと光る物を見つけて空いている手を伸ばすと、絹の様な塊がある。女はそれを掴むと海水を蹴って海面に浮上した。
『こいつがーーこいつが夫の亡骸を操っていたのか』
本能で察した女は手に持った邪精の種を見つめると、おもむろに囓り付いた。
絹の様な外皮は容易に歯を通さず、噛み切れない。
それでも夫の仇とガリガリ歯が欠ける程噛み締めた時、中の種がガリッと砕けた。
絹の外皮がブルン! と震え、真っ黒な靄が滲み出てくる。それをもろに吸い込んだ女はそのまま気絶した。
精霊の種が発した閃光は浮島の中枢部をごっそり破壊して、周囲に立ち込めていた霧すらも祓い清めてしまった。
浮島の内壁はかなりの範囲が吹き飛んでいるが、不思議と巫女を中心に皆のいる床だけはそのまま残っている。
ポッカリと顔を出した明け始めた空の下で、異様を誇る聖獣マグニヒカが眩しく光り輝いて周囲を照らしている。
イザは新たなる敵の出現か、と鉄パイプを構えるが、スイが『あれは木精の核だったものよ、今では巫女と同様に神の使いなんぞになってしまったけどね』と言って落ち着かせた。
皆にそのことを知らせると、ファングが頭を垂れて跪いている他は、全員が突然現れた事を訝しんでマグニヒカを警戒して見る。だが、その頭部を巫女が撫でているのを見てようやく害のない存在である事を理解した。
落ち着くと貧乏性の癖の出たワンジルが荷物を掻き集め出す。その頭上を足を潰されたガーゴイルが飛び過ぎて行った。
他の連中もうるさく飛び回るガーゴイルに視線を向けると、核の食道などに詰め込まれていた二体のガーゴイルも這い出して来て、一緒になって海上に飛んでいった。
その先にはジャスティス号が停泊し、既に錨を巻き上げ始めている。
甲板を見ると、船員が旗を振ってこちらに合図していた。
ジャスティス号から出た上陸艇が浮島に近づく中に、先頭に立つホーン船長の姿が見える。よく見るとそれは彼の操る海魔像だった。
ミストは聖獣マグニヒカの額に自らの額を付けると、頭を一撫でして離れる。その先にはファングが短剣を収めて跪き、巫女の施しを待っていた。
ミストはファングの鎧に垂れた聖銀の鎖を一本づつ手に取ると、短剣の鍔にその先端を引っ掛けていく。
最後に鍔を手のひらで包み祈りを捧げると、継ぎ目のない完全な封印となってファングを縛り付けた。
そして事も無さ気に「行きましょう」と来た時と同じ様に告げると、迎えに来た船長の元に歩き出す。
ファングが迷いなくついて行く後を、皆が巨大なマグニヒカを振り返りつつ付いて行く。
「皆様ご無事で何より、込み入った事情がおありでしょうが、船に戻って宜しいですね?」
ホーン船長はいつも通りの紫の瞳で丁寧に尋ねてくる。ガーゴイルの目を通じて事情を大体知っていた彼は、目の前に佇む聖獣マグニヒカの事には敢えて触れなかった。
ミストは首是すると、ファングに手を取られて海魔像に乗り込んだ。
皆も腑に落ちないままに後に続くと、船長の魔力で安定した推進力を得た海魔像は、あっという間に皆をジャスティス号に連れて行く。
更に船から降ろされたゴンドラに乗って無事全員が乗船した時、
「「キュエエエェェェッ!」」
浮島に残った聖獣マグニヒカが吠えると、真っ赤な感覚翼を全開に広げて飛び立った。風圧で波が起き、巨大な帆船であるジャスティス号を揺らす。
そのマグニヒカは空中でピタリと停止すると、根塊状の尻尾を浮島に突き立てた。
尻尾がドクリドクリと脈打つ度に浮島は見る見る干からびて行く、まるで浮島の栄養を吸引している様に。
最後には枯葉の様な残骸になったかと思うと、尻尾を抜いたマグニヒカはジャスティス号の上を旋回して、空高く飛び去っていった。
呆気に取られた一同がポカーンと口を開けて空を見送っていると、
「総員配置に付け! 出航用意!」
ホーン船長の美声が響き渡る。少なくなった船員は我に帰ると、忙しく走り回り出航準備を整える。
風を満帆に受けたジャスティス号は滑るように動き出すと、小さな枯葉の塊となった浮島を後にした。
『これは彼なりの置き土産って訳ね』
イザの手の中には、マグニヒカが飛び去る時に落とした種が握られている。
邪なる根塊の基となった種。
禍々しい魔力を聖獣に浄化された、今や精霊の種と言える存在になった物を草楯の服に忍ばせたスイは、
『中々気が利くじゃない』
その魔力を楽しみながら呟いた。
一人の魚人族の女が救助されたのは、その日の正午の事である。
発見したのは、復活した黄魔石を青龍像に取り付ける作業を手伝っていたワンジルだった。
鉢巻と紐褌だけを身に付けたほぼ裸の女は邪霊の呪いに罹っていたので、浮島に関係していると考えられたが、事情を聞いても頑なに何も喋らず、ドゥーが解呪しても唯々恐縮するのみだった。
その女は最寄の港に一時停泊すると、深々とお辞儀をして去っていったーー気絶しても離さなかった酷く汚れた褌を大事そうに抱えて。
第三部「サバニ漁師と裸海女」これにて完結でございます。
長い話に付き合って頂きまして、誠に有難うございました。
少しの閑話を挟みまして、第四部を始めたいと思います。
クライマックスに向けて頑張って書きたいと思いますので、今後も宜しくお願い致します。




