渇く水に焼きつく泡
人型から解放されたオルトス、その手のひらから零れ落ちる黒い水滴を見ていたドゥープスは、地に落ちた瞬間に強烈な思念波を受けて、軽い立ちくらみを覚えた。
「うぅっ」と呻いてよろけるが、足を踏ん張って堪える、つもりが何故か力が入らず、受け身も取れずに、地に体を打ち付ける。
その横に居た魔犬アイクは、全身に纏った魔力のおかげで、思念波のショックを和らげる事が出来たが、直後からなんとも言えない違和感に襲われた。
倒れた主人に驚き、駆け寄って顔を舐めるが、その顔は舌が張り付く程乾燥している。
極度の乾燥……魔力の防御越しにも感じられる、違和感の正体。
主人の喉からは、
「こあぁっ」
と何かを言いたくて、苦しむ呼吸音だけが聞こえてくる。
原因を探るアイクの、魔力によって強化された鼻が、微粒子と化した黒滴の狂女を感知する。その濃度を追って上空を見上げると、真っ赤な魔法陣に彩られた空間に、一瞬、女の笑い顔が浮かび上がって、消えた。
異様な事態に、触角剣の感度を限界まで上げながら、手持ちの魔封塔を配置し終えたズーパンチは、オルトスの元へと報告に戻る。最初の思念波は何とか堪えたものの、体の感覚がおかしい、特に眼圧が上がる感覚に、瞬きをすると、ガサガサとまるで葉っぱを擦る様な音がした。
「これは一体……」
対面したオルトスに訳を聞こうとして、
「大丈夫か!? お前の目、干からびてるぞ!」
驚いたオルトスに肩を掴まれると、我知らず膝から力が抜けて、倒れ込んでしまう。
「おい! しっかりしろ!」
オルトスの言葉を切り裂く様に、
「そこだっ!」
それまで微動だにしなかったファングが、聖銀の短剣を振るい、上空に銀光を飛ばした。瞬時に空間の濃度が激しく混じり、女性の悲鳴が響き渡ると、
『わたしは自由だ! 邪魔はさせない!』
周囲が震える程の思念波が爆発した。思わず構えを取ったオルトスが、顔を上げると、異常な乾燥は収まり、一瞬感じた気配もなりを潜めている。
どういう事かファングに聞こうと振り向いたオルトスの目の前には、倒れていたはずのドゥープスとズーパンチが呆然と立ち尽くしていた。その側ではアイクが狂ったように吠え立てる。
「離れろ!」
ファングの声に反応して飛び退くと、ドゥープスが予備動作無しに鞭を振るってきた。それを金衣を纏った腕で防御すると、グンッと下に引っ張られる。
「ドゥープスしっかりしろ!」
怒鳴っても、何の反応も示さない。何者かに操られているのか? 普通の人間とは思えない、異常な程の力の発現に、金衣の力を引き出して、何とか耐えた。
その横では、ズーパンチがアイクに向かって細身の剣を振るっている。
魔犬の運動能力を凌駕する剣舞に、皮を裂かれたアイクが鳴く。それでも何とか致命傷を避けると、横手からファングの一閃が援護に入った。
それを悠々と受け止めたズーパンチは、どっしりと腰を据えて、鍔迫り合いのまま押し返す。
流麗な捌きですり抜けたファングは、銀光を纏わせて長大化させた銀剣を相手の足元に滑り込ませた。
それを触角剣の感度で察したズーパンチは、必要な分だけ身を引き、振り抜いたファングに、突進ざまに隙の小さな突きを放つ。
そのスピードについていけなかったファングの肩口を皮膚一枚、触角剣が貫いた時、固有能力〝毛毒〟が発動した。
剣身が触れたのが皮膚だけだったため、体液も少なく、毛毒によって変換された猛毒は極微量だった。にも関わらず、ファングの肩は変色し、その部分が壊死していく。
全身に走る悪寒。咄嗟に魔力を循環させて、光魔法による回復を図るが、その隙にもズーパンチが刺突剣の連撃を放ってくる。
それはとても洗練された剣術とは言えなかったが、年月をかけて実戦で鍛え抜かれた剣と、生まれ持っての体のバネにより、魔力全開のファングとはいえ、防戦一方に追い込まれた。
元より防御を考えない、攻め手一方の剣は、徐々にスピードを増し、人間の限界まで超えていく。避けようの無い胴体への突きを、銀光のシールドでギリギリ躱した時、伸び上がったズーパンチの鈑金補強された肩からの体当たりを、まともに受けて倒されてしまった。
そのまま覆いかぶさる様に、体重を乗せた刺突剣を突き下ろす。その剣先がファングの短剣と絡まり合った時、飛び込んで来たオルトスがタックルをぶちかますと、勢いそのままにズーパンチを地面に押し潰す。
地面にすり潰されながらも、剣を振るって攻撃の手を休めないズーパンチに、彼自身の体を盾にして後ろを取ると、馬乗りになって背中に両手を当てる。
一瞬の閃光がオルトスの両手を包む。その光がズーパンチの体内に吸収されると、ビクン! と痙攣して脱力した。
光魔法が体内に通った事を確認したオルトスは、危険な触角剣を蹴り飛ばすと、魔力を放出し続けながら、ズーパンチの全身症状をつぶさに触診する。だが、全身の体液と同化した狂女は、本人と分かち難く、水精の膜を被った闇には、光魔法も完全には通らなかった。
その麻痺状態を維持するために、刻々と魔力が消費されていく。
「どいて下さい」
見上げると、肩口を自己治癒し終わったファングが、聖銀の短剣に信じられない程の魔力を纏わせて、動かぬズーパンチを見下ろしている。
「何か救出策はあるのか?」
問いかけるオルトスに、
「いえ、ここまで取り憑いてしまっては、分離は無理でしょう。宿主ごと消滅させるしかありません」
感知に優れた聖なる波動で、ズーパンチの状態を見ていたファングは、冷静な決断を口にすると、魔力飽和を起こして白熱化する短剣を構えた。それを聞いたオルトスは、
「まってくれ、まだ俺には手立てがある。その間、あっちの鞭使いを牽制していてくれ」
飛び込んできたオルトスと入れ替わりに、取り憑かれた主人の相手をしているアイクを示すと、何度も鞭打たれながら、決して攻撃に転じない魔犬は、全身から血を滲ませながら、回避に専念して耐えていた。
オルトスはそのまま無言でズーパンチを抱え上げると、光魔力の循環を切らさない様に、細心の注意を払って移動する。
その先には、ズーパンチ自らが六角形に配置した金光塔。その中心に彼を下ろすと、胡座になって精神を統一させた。
スルスルと伸びる金光線が、塔を結んで六芒星の魔法陣を作り上げる。その中心の六角に閉じ込められたズーパンチの体は、俊敏に飛び上がった。だが、逃れようとする体を、金光線が締め付ける。
狂った様に叫ぶズーパンチの目鼻口からは、真っ黒な液体が溢れ出し、狂おしくかきむしる爪によって皮膚は破れた。
攻めるオルトスにも余裕は無かった。純粋な悪魔と違って、光魔法に強い水精のフィルターを通さなければならず、何時もの様な力が発揮出来ない。ともすればヌルンと抜け出しそうになる相手を、魔力のみで押さえつける状態は、そう長く続けられるものでは無かった。
魔力どうしの綱引きに、オルトスの頭熱が上がり、ズーパンチの全身の血管が浮かび上がる。その時、黒い体液を吐き出していた目鼻口から、瞬時にして大量の泡が溢れ出た。
真っ黒な泡は、ズルリと落ちると、オルトスに向けてにじり寄る。その背後では、力を無くしたズーパンチが、ドサリと倒れ込んだ。
すかさず金光線を真っ黒な泡に向けるが、表面を焼かれた泡は、蒸発しながらも、捕まえる事が出来ずに、オルトスに飛び付いた。
「うおおぉっ!」
魔封じを諦めて金衣に魔力を注ぐオルトスに、降り注ぐ黒い泡は……一面を焼き尽くす銀光の照射に焼かれて消滅した。
振り向くと、短剣を振り抜いたファングが、油断なくズーパンチを見据えている。
『ドゥープスは?』
その後ろを探るオルトスは、地面に倒れてアイクに舐められているドゥープスを見つける。
「大丈夫です、こちらが本体だったのでしょう。魔犬に任せて来ましたが、悪魔の力は消えています」
聖なる波動で感知したファングの話に安堵する。念のため金光塔で残留する悪魔の飛沫を縛ると、
「あ〜あ、久しぶりの戦闘なのに、呆気なく終わっちまったな〜」
オルトスが、ツボ押し器で首をマッサージしながら、およそ聖職者らしからぬ愚痴を零して上空を見上げる。
その目には、魔法陣に赤く染められた空間から、真っ逆さまに落ちてくる、巨大な木塊の姿が映った。




