第26話 幸福な世界
血が落ちる。
机に引っかかった肉の破片から血が落ちる。
ぽつりぽつり、雨粒よりも大きく、雨音よりも小さく、血が床に落ちている。
天使も、獣人も、オークも、リザードと呼ばれる鱗のある種族も
濃さの差はあれど、色の混じりはあれど、血は全て赤い。
血、溢れ浸るは血。血の部屋。赤い晩餐会。
「砕けた赤いオリハルコンをミスリルの鎧に強引に張り付けて作った赤錆の鎧。大盾のように見えてその実巨大な穂先の槍。知ってる。知ってるわ。私、あなたを知ってるわ」
そう言って、大柄な男を見て老女は微笑んだ。彼女の白い肌は、彼女の白髪は返り血で赤く染まっていた。
血で濡れた老女の姿に、清らかさなど微塵もなく。
「ごきげんいかがアルクァード。神の国、楽しんでますか?」
血で染まった手を、ゆっくりと突き出して微笑む老女。その手の先で、大きな足が机の上を払う。
大きな音を立てて落ちる豪華な料理と白い皿、透明なグラスと赤い酒、払った足を覆うは赤錆びたフリーブ。
大槍を傍らに、睨み返すは赤錆びの騎士アルクァード。血と肉が転がる晩餐会の会場で、不敵に笑う彼の眼を、老女は真っ直ぐに見つめる。
アルクァードの背後に立つ二つの影。
「素晴らしいわ。私は私たち以外全て殺したつもりだった。区別なく、差別なく。自分だけでなくお仲間まで救うとは、あなたも、もう人ではないのね」
微笑む老女に、鼻で笑うアルクァード。アルクァードの背にいる大剣を背負った男がローブ越しに顔を曇らせた。
手を下げる老女。そのまま彼女は笑みを浮かべながら、はめていた指輪を外した。
「この指輪を生み出した神は、女神でした。彼女はこの神器を使って、老若、男女、種族、関わりなく全ての者たちを平等に癒したそうです。ふふ、素敵でしょう? 本当に、素敵でしょう?」
「癒しねぇ……」
左手に持った銀色のフォークを、真っ赤な地面に投げ捨てるアルクァード。絨毯の上に音もなく、銀色のフォークが沈んだ。
「身体の中からぶっ飛ばすのが癒しだとは、教本にも書いてなかったなおい」
「ふふ、確かに」
笑っていた。
アルクァードと老女。二人そろって笑っていた。
真っ赤に染まった会場の中で、談笑する二人はなんとも異様で。
たくさんの血と肉で溢れた晩餐会の中は、鉄と料理が混じった何とも言えない艶めかしい臭いが溢れている。その場で、何故笑えるのか。
一歩、アルクァードの背にいた大柄の男が足を前に出した。
被っていたフードを外す男。フードの下から現れたのは、深く皺の刻まれた、老人の顔。
老騎士ダナン。何とも言えない表情をして、老女を見る。
「……まあ」
老女が見せた嬉しそうな顔は、何の感情からか。
「お久しぶりですミラリア様。実に、実にお久しぶりです」
「ダナン。会えるとは思ってたけど、今会えるとは思ってなかったわ。意外だわ」
そう言いながら手を伸ばす老女ミラリアの手は、真っ赤に染まっていて。ダナンは思わずその手を見て顔を背けた。
ほんの一瞬、ミラリアの笑顔が消えた。
「知り合いかじじい?」
「……聖女ミラリア。王都付の聖人じゃ。長らく最高の聖人として皆の尊敬を集めておったが、さすがに歳には勝てず、十年ほど前にその座を譲りそれからは神学校で教師をしていた……」
「ダナン、覚えていたのね。嬉しいわ」
「なのに、何故……あなたがここに……それに、こんな、こんなことをする人ではなかったはずだ……優しく、強く、自然と子を愛し……何故だ……何があったのですがミラリア様……!」
「何が、あったか……ね。全てを諦めたあなたが、それを聞くのね」
老女は、聖女ミラリアの笑顔が急に無くなった。ダナンの顔が凍った。
「……時を巻いて数年。何年前かは、私にももうわかりません。私は、王城の地下に送られたわ。地下の、迷宮に」
「なん……と……あの、暗き地に……」
「ええ、あの暗き地に」
聖女ミラリアは指輪を机に置いた。綺麗なオリハルコンの結晶が、丸い結晶が周りの血の色を写して赤く輝いている。
「聖人は人なのに法力、神の力を宿した者たちのことを指す。神々は私たちを常に監視して、管理していた。私たちの全ては、王都に登録された瞬間から神の国に知らされ、その生涯を全て記録される。それは、知ってるでしょうダナン」
「……私も聖人たちのリストを編集し、神の国に送ったことがあります」
「聖人はその力を一代限りとするために子を為すことを許されない。そして、その最期、死する場所、産まれる時は違えども、最期は全て、同じ場所。つまり、城の下。迷宮の奥に、私たちの墓がある」
「何故、生きているあなたが、地下に……」
「ふふ、ふふふ……ダナン、まだわからないの?」
俯くダナン。目を閉じるミラリア。
揺れる。匂いが揺れる。血と肉の臭いが揺れる。
「私は、病に侵されたのよ。内臓の、病。ふふ、ふふふ……たくさんの人の怪我や病を治してきた私が、最期は病で死ぬだなんてほんと、皮肉でしょダナン」
パチリと、音が鳴った。ミラリアが指を弾いた音だ。
彼女の手に、彼女の身体に、纏わりついていた真っ赤な返り血が一瞬で剥がれ落ちて。
綺麗な白い手が前に伸ばされた。
「私の最期はあの冷たい地下。日の光もなく、誰とも話すことはできず……決まった時間に用意される食事が、食事だけが、私に時を教えてくれた」
「馬鹿な。ミラリア様ほどの方が、そんな最期など……」
「……辛かった。この歳になって、本当に、辛いと……あの日々は、辛かったわ……ねぇダナン。そんな状況に置かれた者が、そこから出してあげると言われたらどんな反応をすると思う? 病気も治るって言われたら、どんな顔をすると思う?」
そう言う彼女の顔は、満面の笑みで。老齢の女性とは思えぬほど、美しくて。
ダナンは再び俯いた。
「できれば、あなたに言って欲しかったけど……私は、その人に救われたから、全てが救われる世界を創る手伝いをするわ。例え人でなくなっても、例え他の命を幾つ奪ったとしても、私は私のために、次の命を守るわ」
手を伸ばす彼女にあわせて、彼女の背にいた者達が立ち上がる。赤い瞳、神種の者たちだ。
剣に槍、机の下から武具を取り出す彼ら。正装した服に似つかわしくない禍々しい武器の数々が彼らの手に持たれた。
息を詰まらせるダナン。笑みを浮かべて背の大槍に手を掛けるアルクァード。フードを外して欠けた斧を取り出すラギルダ。
周囲の温度が上がっていく。
「ぐっ……何故、何故戦う必要があるのだ……わからん……理解できませぬミラリア様……確かに、そう確かに、ワシらは魔神の者たちに言われて、彼らを裏切った神徒を探すよう言われてここに来た。あなたの背にいる者達がその神徒なのだろう。しかし、戦うようには言われていない。戦うことはない……」
「じじい、引っ込んでろ」
アルクァードが背の大槍を抜く。大槍の柄が伸びる。
伸びた勢いのまま、机を叩き割る彼の大槍は、周囲の血をわずかに吸い込んで。
「待てアルクァード! まだ、まだ話をさせてくれ! ミラリア様! ワシは、人の国を正したい! 子供たちのための未来を作りたい! 人の国を管理する仕組み! 管理する者たち! 正すためにワシは神の国を見て回っている!」
「素敵ねダナン」
「ワシらと共に来てくれませんか!? 世界が混乱している今がチャンスなのです! 神々にワシらを知ってもらえれば、ワシらの願いを聞いてくれる場も」
「黙れじじい」
近場の椅子を蹴り飛ばしながら、アルクァードが大槍を握り進んでいく。ダナンの横に並び、彼は言う。
「このばあさんはな、もう道具なんだよ。いや違う。ここにいる奴ら全員、もう道具なんだよ」
「道具……!?」
「なぁばあさん。あんた、周りのやつら殺した時、笑ってたよな。なぁ、何で笑ってたんだ? 嬉しそうに、何で笑ってたんだ?」
ハッとした顔で前を向くダナン。口角を上げるミラリア。
「ふふ……ふふふ、あなた、ちゃんと見てるのね。意外だわ……」
「エルフのガキどもが外へ行きてぇっていった時、お前らは死ぬのも構わず外へやった。親切心からか? 親心からか? 違うよな。邪魔だったからだよな。なぁ、いなくなってもいいと思ったからだよなぁ?」
「そんなこと、言ってたわねリリノアが。ふ、ふふ……そう、そう……」
「なぁばあさん」
槍がゆっくりと掲げられる。赤い血が、槍を昇って上がっていく。
「あんたらの思う次の世界。どうやって作るんだ?」
ミラリアの背後の神々が武器を構える。ダナンが大剣に手を掛ける。
「邪魔なモノは全て消すわ。神も人も、その他の種族も、一緒に笑えない者は全て消して、幸せな者だけが存在できる世界にするわ。哀しみも、苦しみも、存在しない世界を私たちは創るわ」
壊れきった今に、疲れた者が想う、正しき世界。
「とんでもねぇばあさんだなおい。同じ名前のくせに、こんなに違うかねぇ」
彼らはそれを目指す。彼女たちはそれを想う。幸せしかない世界が欲しいとそれらは願う。
「馬鹿な! 人は、全ての者は幸福だけで生きるわけではない! 悲しみも苦しみもあってこその幸せだ! 与えられた幸せだけの世界など、笑うことしかできない世界など地獄だ! もはやそれは屠畜を待つ家畜ではないか!」
「それでもダナン。私たちの愛を許さなかった世界よりかは、いいと思わない?」
「馬鹿な……馬鹿な! ミラリア様あなたは何を言っているのだ!? 何を、言っているのだ!」
そして、駆けた。武器を握る神々が前へ、赤錆びた鎧を着たアルクァードが前へ、斧を持ったラギルダが前へ。
大剣を持ったダナンが前へ。
世界は、壊れている。
気の遠くなるほどの過去に、誰かが言ったその言葉。当時にそれを理解した者はいなかったが、今は全ての者が理解している。
世界は繰り返し、繰り返し、壊れてはでき、壊れてはでき、壊れてはでき
「死が救いなのだとしたら生きることは、何なのかしら。ふふ……ふふふふ……意外、でしょ?」




