第18話 白い雪原で
――最初に彼女は言った。
「今度の方は若いのね。意外だわ」
その言葉は、何気ない言葉であった。
何気ない、意味のない、他愛ない、言葉であった。
でも、綺麗だった。
目の前にいる青年に向かって微笑む彼女。白い手袋を外して、白い手を伸ばして、握手を求める彼女。
綺麗だった。
「――あ」
考えるって、どうするんだったっけ?
声を出すって、どうするんだっけ?
腕を動かすって、どうするんだっけ?
あまりにも綺麗だったから、青年は考えるということを忘れてしまった。
あまりにも綺麗だったから、青年は声を出すことを忘れてしまった。
あまりにも綺麗だったから、青年は身体を動かすことを忘れてしまった。
固まる。動けない。動かせれない。
こんなに綺麗な人は見たことがない。
動けない青年を見た彼女は、少しだけ何かを考えてから、ゆっくりと立ち上がった。
一歩二歩、彼女は青年に向かって歩を進める。そして、彼女は彼の目の前に立つ。
彼女は、ゆっくりと両手を伸ばして、固まって握りしめられた彼の手を取った。
青年の手に、彼の手に、彼女の手のぬくもりが移っていく。
青年の心が、震えた。
「私はミラリア。王都にて聖女をさせていただいてます。あなたの名は、何て言うのですか騎士様?」
青年の頭を何かが叩いたかのような衝撃が走った。青年は思った。名乗りだ。そうだ、名を名乗らなければいけないのだ。自分はこの人の護衛騎士になったのだから、この人に名乗らなければならないのだ。
すでに醜態だ。向こうに気を遣わせてしまった。自分は幾多の騎士たちを押しのけて、この人の護衛騎士になったのだ。自分の後ろには、沢山の仲間がいる。
この人の前で、これ以上醜態をさらしてはいけない。
「俺は、あ、いや、ち、ちがう!」
「違う? 何が違うの?」
言葉遣い。また失敗した。青年は慌てながらも、強く後悔した。
息を吸い、そして吐く。彼女が待っている。
「私は、テンプル騎士団所属、ミラリア様付の、護衛騎士の」
彼女は何も言わず、自分の言葉を聴いてくれている。声が上ずっても、彼女は笑ったりはしない。
真っ直ぐ自分を見る瞳。透き通るような、深い緑色の瞳。
「……ダナン・ガズバルド。本日よりあなた様の盾となります。よろしくお願いいたします」
「はい、よろしくお願いいたします」
綺麗だった。ただただ綺麗だった。
青年ダナンは思った。心の底から思った。
――自分生涯をこの人に捧げよう。
それは過去だ。今は夢の中にしかない、過去だ。50年以上も昔の、過去だ。
だが、未だに夢に見ている。夢に見ると言うことは忘れていないということだ。
忘れることができないということだ。
夢の中なら、言えるだろうか。夢の中なら、叶うだろうか。
ゆめのなかなら、いっしょになれるだろうか――――
――――
――――
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「ん……?」
――そして現実に戻された。
ガラガラと音が鳴っている。鉄の車輪が地面を蹴る音だ。
頭が揺れる。身体が揺れる。床が揺れる。部屋が揺れる。
馬車が揺れる。
「うむぅ……そうだの、夢だのぉ……」
眼にこびりついた目やにを擦り落として、老騎士ダナンは眼を開けた。
彼は、彼らは巨大な馬車の中にいた。
『巨大』――その言葉は何かを比べる時に使われるものである。痩せた女性の腕に比べた鍛え抜かれた男の腕。細剣と大剣。槍と大槍。
今ダナンが乗っている馬車は、一般的な、4人程度が入ればいっぱいになるようなそんな馬車とは比べ物にならない程巨大だった。更にその馬車は、二階建てだった。
十人、詰めれば二十人。いや、それ以上も余裕で乗せることができるだろう。そんな馬車を引く馬は5頭。
それは、『巨大』な馬車だった。
「……む」
ダナンは、馬車の後方で布に顔を突っ込んでいる少年を見つけた。馬車の後ろはカーテン状の布で覆われており、それ一枚を捲れば外がみえる。少年は、外を見ていた。
ダナンは立ち上がり少年の下へ向かい、彼に話しかけた。
「熱心じゃな。何が見える?」
「わっ!?」
ダナンが話しかけると同時に、少年の身体がびくりと跳ねた。少し固まった後に、少年は布の外に出していた顔を内にひっこめた。
少年リオン。農奴として死ぬ間際に救われ、神の国までやってきた人の子供。
「お、おおすまぬ。驚かせるつもりはなかったんじゃが。大丈夫か?」
「は……はい」
驚かせてしまったことに少しだけ悪い気持ちになりながら、ダナンは彼の傍に座った。リオンもまた、馬車の中に座り込んだ。
大きな老人と、小さな少年が並んで座っている。
「リオンは景色をみるのが好きなのかの?」
「え、ええまぁ……子供っぽいって村の人には言われましたけど……」
「いやいや。ワシも移り変わる景色を見るのは好きじゃ。それにぬしはまだ子供。嫌でも時が経てば大人になる。今から大人ぶることはない」
手を伸ばし、ダナンは布を捲った。冷たい風が後方より吹き込んでくる。
都より出て北へ向かって二十日。外は寒く、木は針の様に尖り、草は短く、柔らかさはなくなっていて。
太陽から逃げるように、彼らの馬車は進んでいる。
馬車が石に乗り上げて、強く跳ねた。
「っと」
リオンの身体が床から浮いた。倒れ込むようにして、彼は体勢を整えた。
ダナンの巨体は微動だにしない。少年が跳んだのを見て、彼は小さく微笑んだ。
「農作業で鍛えられているみたいだが、やはり肉がないな。もっと食わんといかんな。ははは」
「あ、いやその……はは……」
気恥ずかしさもあるのだろうか、リオンは苦笑いをしていた。手を軽くはたき、彼はまたダナンの隣に座る。
道が曲がっているのか、景色が右に流れる。それをみて、リオンは眼を輝かせた。つられてダナンも外を見た。
「……雪だ。雪がある」
「おお……こんな低い場所にも雪が降るのかこの辺りは……」
白かった。
動いた景色の先は、白かった。
一面雪で覆われていたわけではなく、ほんのりと表面を白く染めていただけだが、確かにそこは白かった。
人の国は、比較的温暖な気候だ。山の上でなければ、雪というモノを見る機会は少ない。
雪。ただの氷の塊。ただの水。それだけなのに、何故か心を強く引く。
「遠くに、遠くに来たものだ。狭き地に押し込められていた我らが、神のみぞ知る地を行く。理解できてはいかんのだろうが、ワシらの先祖が世界を欲したのも理解できてしまうの……」
ダナンはその光景を見て、そう言葉を口にした。人の国においてその言葉を発すればたちまち問題となり、査問にかけられてしまうだろうが、彼はそれでもその言葉を口にした。
もはやここは人の国ではない。人の国のしがらみも、人の国の決まりも、人としての立場も、全てが関係ない。
ここは、神の国。
「リオン。今日は国境を通るらしいし、ちと早めに飯を食わんか。飯と言ってもパンと干し肉ぐらいしかないがの」
「あ、はい、皆起こしてきた方がいいですかね?」
「男どもはワシが起こそう。さぁ次はどんな光景が広がっておるのかの。楽しみだの。はははは」
「はい」
全ては過去。全ては終わったこと。
夢、希望、恋、愛。
現実、絶望、嫌悪、憎しみ。
未来へ続く、今。
――独り、老婆が雪の上に立って巨大な馬車を見ていた。
「ダナン、何処まで行っても、過去はあるのよ。今までを忘れてはいけないわ」




