第5話 四剣の女神 前編
掲げられたその大槍は、全てを壊そうとした女神の御旗か。
声が聞こえる。
彼の頭の中に声が聞こえる。
「この世界が、私たちを許さないのならば」
それは、呪いの声か。
「壊れてしまえばいい。何もかも、壊れてしまえばいい」
それとも、祝福の声か。
声が、過去を過去にさせない。
今を未来にさせない。
そう、彼は、大槍を握るアルクァードは、その声に、その意志に、その夢に
――『彼女』に
未だに、捕らわれ続けているのだ。
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「オオオオオオオオ!」
どう猛な、獣のような咆哮が周囲に響き渡っている。
それは数百のオークたちの雄叫び。その雄叫びは、鉄の柵を揺らし、土を空に浮かばせ、大地を唸らせる。
観客席には椅子がある。石造りの簡易な椅子だ。オークたちは誰一人、その椅子をつかっていない。
誰も座っていないのだ。皆立ち上がり、喉がはち切れんばかりに叫んでいるのだ。
彼らの声が向くはオークたちの闘技場。闘技場で戦うは大槍の男と、四本の剣を腰に下げた女神。
彼らの未来の長を決めるのは、この戦いの勝者だ――――
「おおおおおりゃああああああ!」
大きな大きな声と、爆風。振り下ろされる大槍は、全てを叩き潰す力が籠められていて。
その槍が、小柄な女神の頭に向かって落ちていって――――
「当たるかおっさん!」
それを片手で受け流すのは、さすがは七神の一か。
槍と剣がぶつかった瞬間に、闘技場に独特な甲高い金属音が鳴り響いた。耳を裂くような、独特な音だ。鉄と鉄がぶつかる音ではない。鉄と石がぶつかる音ではない。
神々の金属であるオリハルコンとオリハルコンがぶつかる音だ。
「つっ……ひっさびさっ……やっぱり慣れないわこの音……っ」
そうつぶやいたのは観客席にいた元七神の長メナス。兜越しに耳を抑え、彼女は顔をしかめる。
メナスの周りにいる一団は、彼女が神の国に連れてきた人たち。元聖女ユーフォリア。老騎士ダナン。剣闘士ラギルダ。人の王女リィナリア。少女ミラに、少年リオン。
そして、オークの王女セ・シェドア。
巨大なオークたちに囲まれている彼女たちは、その小ささからか、妙に目立っていた。
「まずいぞアルクァード!」
ダナンが思わず声を出した。観客たちの雄叫びが一層大きくなった。
地面に槍を叩き付け、その反動で硬直するアルクァード。その隙をつく、女神フレイア。
フレイアは浮かび上がり、片手の剣を振った。その細い腕を鞭のようにしならせ、アルクァードの首を狙う。
寸前で腰を折り、剣を交わすアルクァード。
「ぬあっ!」
槍が、目の前にいるフレイアに向かって力任せに払われる。穂先はフレイアの遥か後方。彼女に襲い掛かるはオリハルコンの長い柄。
少し跳びあがり、それを躱す彼女。空中で柄の一部を蹴り少しだけ距離を取る。
彼らの、距離が開いた。
「おおおおおおおおおお!」
踏み込むアルクァード。
「まるで魔獣だな。来いよ。遊んでやるぜ? はは……ははははは!」
余裕を見せ、剣を片手に両足を揃える女神フレイア。
アルクァードが二歩踏み込む。距離が、一気に縮まる。
「うううううおおおおおおああああああ!」
「ふふ、ははははは!」
それは、まるで暴風の様だった。
アルクァードの大槍が右へ左へ、眼にも止まらないほどの、眼に止めることができないほどの速度で、振り回される。
その一撃を、その一発一発を、丁寧に、正確に、器用に、剣一本で受け流すは女神フレイア。
笑いながら、乗り物を乗りこなすかのように、槍を右へ左へ受け流す女神。
「ぬうううあああああああああ!」
「当たらない! 当たらないなぁ! あははははは!」
女神フレイア。銀色の髪と、赤い瞳を持つ女神。
その細身の身体と細い腕。生後数年で七神に数えられるようになった彼女は、その粗暴な態度とは裏腹に華麗な剣技の持ち主だ。
戦場にて育った彼女。戦場にいる者達が彼女を見て口にする言葉は常に同じ。
あれこそ『天才』だ。
軍神の軍勢で、彼女に剣で敵う者は無し。
戦場において、彼女に敵う者は無し。
紛れもなく、最強。剣だけに限れば紛れもなく七神最強。
天才フレイア。軍神の子より産まれた神。軍神の孫。
彼女の前に、敵は無し――――
「アルクァードもほどほど人間離れしとるが、相手はとんでもないぞ。勝てんのではないか?」
繰り出す槍を悉く払われるアルクァードを眼にして、思わず弱気な言葉が口から洩れるダナン。
「確かに、あの娘、かなりやるわ」
「め、メナス様……」
メナスの言葉に、不安そうな顔を見せるオークの王女セ・シェドア。アルクァードが負ければ、王の座は彼女の兄の物となり、オークたちがさらに戦場に連れていかれてしまう。
その未来が頭によぎり、セ・シェドアはその緑色の顔を青く染めた。
闘技場の中心を見るメナスとその周りにいる者達。相変わらず、槍の連撃をフレイアが裁き続けている。
「あ、当たらない……七神には勝てない、のか……」
頭を抱えるセ・シェドア。その時、顔を一層青くする彼女の隣にいた剣闘士ラギルダが、ふと声を口から漏らした。
「……強い」
その声に、セ・シェドア以外の皆が驚いて、一斉にラギルダの顔を見た。
「ら、ラギルダ、だっけ。あなた、喋れたの……?」
「……む」
メナスの言葉と皆の視線を受けて、不思議そうな顔をするラギルダ。
剣闘士ラギルダ。彼は船の上から今の瞬間まで、一度も言葉を口にすることはなかったのだ。船の上では誰ともしゃべらず一人で過ごしていたし、船を降りてもただ無言でついてきていたのだ。
その彼が、感嘆の声を漏らした。驚かない者などいるだろうか。
「そ、そんなに相手は強いのか! ま、まけるか? あの大男は負けるか? 負けるのか!?」
そんな事情をしらないセ・シェドアだけが、彼の言葉に素直に反応していて。あまりにも追い詰められているせいか、いつの間にか彼女の言葉から敬語が消えていた。
「む……違う、強いのは」
「つ、強いのは!? お前か!? お前の方が強いのか!?」
「……強いのは、あの男だ」
「え!?」
「あそこまで、人は極められるのか……」
ラギルダの言葉に、アルクァードを見るセ・シェドア。
変わらず、がむしゃらに彼は槍を振っている。変わらず、その槍は受け流されている。
変わらず、先ほどと何も変わらず。
何も――――変わらず――――
その時だった。
「クソがっ……!」
槍の振りを、フレイアは躱した。
受け流さずに、躱した。
「なんと」
「ふふっ流石」
その意味に、その違いに、気づいたのはダナンとメナス。
大槍が宙を舞う。その速さ、一つの衰えも無く。
大きく身体を反らし槍を躱すフレイア。
「経験が違う」
「え?」
メナスが、言葉を続ける。
「彼は数年間。休むことなく天使や獣人と殺し合ってきた男」
「……神が、天使や獣人と殺し合う?」
「フレイアとか言う女神も、確かに戦場にいた。でも、彼女はたぶん、自分以上の者と命のやり取りをした経験が酷く浅い……いや、もっと、そう、たぶん彼女、誰も殺したことがない」
「……え」
「まだ経験していないだけなのか、殺したくないと思っているのか。あれほどの実力があるから、たぶん殺さなくても何とでもなってきた。ねぇセ・シェドア様。あなた、殺し合いをしたことはある?」
「……いや、ない」
「本物の死地で、鍛え上げられた狂気。本物と対峙した時、それに抗えるのは同じ狂気だけ。つまり」
「つ……つまり……?」
「つまりはぁー……」
メナスが前を見る。セ・シェドアもつられて前を見る。
大槍を振り下ろす、狂気の顔。気のせいか、フレイアの身体が少しだけ、少しだけ、先ほどよりも後ろに下がっているようで――――
「一撃一撃が本物の殺意。体力がどれだけあったとしても、そんなもの受け続けたら心が疲弊するのよ」




