第14話 しあわせなゆめ
水面に、赤い浮きが浮かんでいる。
ゆらゆらと浮きは揺れて、時折沈んで。
明るい太陽の下、大きな湖、水面に浮きが浮かんでいる。
浮きには糸が繋がっていて、糸は竿に繋がっていて、竿は、男の手に繋がっていて。
大きな身体をした彼は、一人湖で釣りをしていた。
「全然だなぁ今日は……」
彼の傍に置いてあった木の入れ物。底に水をためたその木の容器は釣った魚を入れる入れ物だ。
その入れ物の中に、魚は一匹もいなかった。
男は、空を見上げた。太陽はすでに真上をすぎて傾いていて。午前はとうの昔に過ぎ去っていて。
朝早くから始めた釣りは、ついにこの時間になるまで実を結ぶことはなかった。彼は何度も溜息をついて、顔は目に見えて曇っていて。
「金がねぇってのは……辛いもんだなぁ……っと」
立ち上がる彼。釣は終わりだと、竿を勢いよく引き上げる。
「おっ?」
ふいに手に伝わる感触。糸の先に、何かがあるのを感じたのだ。
竿をあげ、糸を手繰る。
「はは、ついてねぇなお前。エラに引っかかったのか?」
その糸の先に小さな魚が一匹繋がっていた――――
アルクァードが騎士団宿舎より出て四年。彼は今、王都から離れた湖の畔にいた。
全てを捨てた。何もかも置いてきた。栄光の騎士団員だった自分。誉れ高き銀槍。心を通わしていた幼馴染の少女。
その全てを、彼は捨てた。
何故、彼は全てを捨てたのだろうか。
過去を捨ててまで、彼は何をしたかったのだろうか。
それは本当に、やるべきことだったのだろうか。
一匹の魚が入った籠を肩に背負い、アルクァードは道を行く。槍を振っていたその大きな手には、今は細い一本の釣竿を握っている。
輝かしい未来を捨てて、眩しい過去を捨てて、彼が得たモノは何なのか。
それは――
「あ、おかえりなさい!」
「ああ……ただいまマリナ」
木でできた小屋の前に、小さな少女がいた。
小さな少女は座り込んだ巨大な天馬の顔を撫でていたが、アルクァードが姿を見せると満面の笑みを彼に向けた。
銀色の髪と、赤い瞳の少女マリナ。小さな手を必死に振り駆け寄ってくる彼女は、アルクァードがこの数年の間に得たモノの一つだ。
少女マリナは満面の笑みで彼に言った。
「父様! いっぱい釣れた?」
「あ、いやそれなんだがマリナ……一匹は釣れたんだけどな……」
「わぁすごい! 見せて!」
「ああ……」
嬉しそうに喜ぶマリナの前に、ゆっくりとアルクァードは魚の入った入れ物を下ろした。
口を縛る紐をほどく。
笑顔が一瞬で消えるマリナ。
「ちっちゃいね」
「そうだな」
中で泳ぐ魚の大きさは、アルクァードの片手よりも小さく、少女の両手よりかは大きく。
マリナは顔をあげた。赤く輝く瞳がアルクァードの眼に飛び込んだ。
「……今夜これだけ?」
「大丈夫だ。前に干し肉を作っていただろう? あれがある。それに、小麦も買ってあるから、母様がパンを作ってくれるさ。あとは……まぁ……適当にな……何でも塩つけりゃ食えるもんだ。塩だけは大量にあるからな。塩だけは……」
「前に海の水いっぱいとってきたもんね父様たち」
「塩無くなるときついからなぁ」
魚の入った入れ物を持ち上げ、小屋の方へと足を進めるアルクァード。少女マリナは、小さな身体を懸命に動かしてそれを追いかける。
マリナの銀色の髪が風に揺られてなびく。遠くで湖が岸に押し寄せる音が鳴る。
並んで二人、小屋に向かって歩いていく。巨大な天馬が帰ってきたアルクァードの顔を見て小さく唸った。
家族だった。彼が全てを捨てて得たのは、彼の家族だった。
小さな手が彼の手に触れる。精一杯手を伸ばして、背の高い彼の手を少女マリナは握る。
その手の柔らかさが、何とも心地よくて。なんとも幸せで。
――小屋の前の椅子に、一人の女性が座っていた。
「よぉ、ただいま」
アルクァードが呼びかけると、その女性は手元の本を閉じて顔をあげた。
その女性の顔は、美しく、その瞳は赤くぼんやりと輝いていて、そしてその長い髪は銀色で。
その顔は、その女性は、
――小さく息を吐いて立ち上がるそのひとは
「わりぃ、一匹しか無理だったわアルカディナ」
軍神の子、七神の一神、女神アルカディナ、そのひとだった。
村娘たちが着るような質素な服に身を包んだ彼女は、アルクァードの傍へと歩いてきた。
少女マリナが、手を伸ばす。その白い手を、優しく取るアルカディナ。
「母様! 今日はアガトの顔に触ったよ!」
「そう。もう少しで乗れるようになるわね」
「うん!」
夢のような、ひと時を。綺麗な綺麗な湖畔の傍で、家族三人、全てのしがらみから解放されて。全てを捨てて。
「マリナ。父様が帰ってきたし、夕食の準備をしないとね。裏からいくつか野菜とってきてくれる?」
「わかった!」
家の裏へと元気よく駆けていくマリナ。アルクァードとアルカディナは、二人並んでその背を見送る。
魚の入った入れ物籠を、地面に置くアルクァード。息を吐いて、額の汗を布で拭う。
「一匹だけって……マリナは育ち盛りなんだからもうちょっと頑張れないの?」
「いやぁそれは……一日やったんだけどなぁ……わりぃな。後で干し肉おろしてくるわ」
「もう、しっかりなさいな」
降臨祭が終わって四年。彼らは、子を成した。
愛し合った結果子が生まれたわけだが、実のところ、互いに愛し合っていたかどうかは、彼ら自身もはっきりとはしていなかった。
彼らは愛し合っているのだろうか――――
「あのデカいアガトの顔に手が届くようになったか。日に日に背が伸びるなマリナは。三つとはとても思えねぇぞ」
「思いっきり神種だからねあの子。胸に埋まってるオリハルコン結晶もあと数年すればぽろっと取れて神器になるでしょうし。5歳ぐらいでたぶん背丈は私と同じぐらいになると思う。女性らしく、となるとそこから数年性徴しきるのにかかるけどね」
「神種って犬や猫みてぇだな成長過程……いでっ」
「犬猫と一緒にしない。不敬よ」
「脛蹴るなよ母様。暴力は教育にわりぃんだろ?」
「うるさい不敬者」
「ははは」
彼らは、今を得るために全てを捨てたことに一つの後悔も無い。
アルカディナは、神の国に帰ればまた終わらない戦争の場に戻ることになる。またたくさんの血を吸い、たくさんの命を叩きのめす世界に戻ることになる。
生きると言う意味が、限りなく薄くなるその世界。
百年も、千年も、そんな世界にいた彼女が得た、生きているという実感。生きたいと前に足を踏み出したアルクァードと、彼と共に成した実子マリナの存在は、彼女に生きる意味を与えてくれて――
アルクァードは、誰よりも恵まれた騎士としての生と、全てが終わりかけた農奴としての生を両方見てきた。そこで彼が見たモノは、煌びやかな偶像の世界だった。
生きると言う意味を、誰かに与えられて生かされている世界。生きる意味すらも偽物の世界。
自由に奔放に、束縛を壊すアルカディナの存在と、産まれた世界で一生懸命に生きようとするマリナの存在が、彼に本当の生きる意味を与えてくれて――
彼らは生きていた。今この世界に、確かに生きていた。
笑うアルクァード、笑うアルカディナ。最初はただ、もう少しだけ続けたいと言う想いからだったろうが、今では互いに、無くてはならない存在になっていて。
愛は、相手を思いやることから、産まれるモノ。
「んー……正直言うとね。ユーフォリアも連れて来たかったな」
「あいつは無理だ。あいつは、自分で聖女になることを選んだんだ。人が苦しむ姿を見過ごせないから、救いたいから、自分の力を人に使ったんだ。あいつの夢は、人を救うこと。邪魔はできないさ」
「それでも彼女は女だったから、きっとあなたが頼めば来てくれたと思うなぁ」
「女も男もあるかよ。頼んでホイホイと変わるようなそんな軽い決意ではないだろうが」
「ほんと、朴念仁ってこういうこというのね」
「なんだよ」
綺麗なその赤い瞳を彼に向けて、無邪気に笑うアルカディナ。何故笑うのか理解できなくて、頭を掻くアルクァード。
「ま……独り占めってのもありかな父様。ふふふ」
彼らは、間違いなく愛し合っている。
相手が必要になったその瞬間から、彼らは互いに愛しい存在になっている。
神は、一回しか子を産めない。生涯に一度だけしか、子を産めない。
アルカディナが子を産むということは、その子の父を誰よりも認めた証。
神は、子を産めばゆっくりと神の格を失っていく。
「神格、消えるのはいつかなぁ……神の力もう執着は一切ないけどね……ふふ……」
綺麗な綺麗な青空を見上げて、小さな声でそう言ったアルカディナの顔は晴れ晴れとしていて。
もうすぐ、降臨祭。彼女が人の国にやってきてあと少しで四年。
たった四年ではあるが、その密度は彼女が生きた千年以上もの時に匹敵して。
平凡ながら、幸せがあった。
平凡ながら、意味があった。
平凡ながら、喜びがあった。
「母様! 父様! 野菜いっぱいとってきました!」
「腹減ったのかマリナ。ははは。いいぜ干し肉も大量に下ろしてやる」
「食べ過ぎて太らないようにねマリナ」
幸福の時は、ここにあった。
三人が小屋に入った。扉が閉まった――――
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椅子に置かれた本が風圧にあおられて、ページが捲れた。
細かい字が並ぶ本のページが捲れる、パラパラと、パラパラと。
風は止む。本は一枚の絵が描かれたページを指し示す。
そのページに描かれた絵は、天馬に跨る、神の絵。
右手に剣を。左手に焔を。
白銀の鎧を。白銀の髪を。
その絵の題名が、下に書かれている。
『七神の長』
――――――――――――軍神の子に幸福など、許されない。




