第10話 生きた意味を世界に
誰かが死ぬその瞬間を、その瞬間までたくさん見てきた。
死ぬときの顔は、どんな人も険しく、苦しそうで、悲しそうで。
だから、きっと心のどこかで自分たちは思っていた。
生とは辛いものだ。
もしも、この世界に死後の世界があるのならば、そこはきっと、ここよりはマシなところに違いない。
もしも、この世界に地の獄というものが、地獄というものがあるのならば、それはきっと今生きているこの地上のことに違いない。
苦しみの世界。諦めの世界。戦いの世界。
人の世界も、神の世界も、それは変わらない。
だから
だからこそ
自分たちは命に、尊さを感じられないのだ。
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白い布を羽織る。口にも頭にも、白い布を。
手にも、真っ白の手袋を。
「ユーフォリア。やめておけ。他の奴らに任せればいい」
包帯を身体に巻いたアルクァードがユーフォリアの背に言葉をかける。
「他に誰がいるって!?」
強い言葉だった。白い布で全身を覆ったユーフォリアは、アルクァードの言葉に強い言葉で返した。
彼女の姿は、産婆がするそれで。サイズが合っていないのか、胸元はきつく、腹部はゆるく、手袋はぶかぶかで。
手袋の中に、ユーフォリアの手汗がたまる。
「ちっ……レックさん。他に人はいないのか本当に」
「は、はい……この村で、医学をかじったものは村長だけ……村長は、酒が入って意識ももうろうと……」
「馬鹿野郎が! けが人もまだいるんだぞ! 何やってんだ村長は!」
「私に言われてもっ! 出産も、まだ数日は猶予があったはずですし!」
「クソが! こうなったら腹ぶっ叩いて全部吐き出させてや」
「うるさい男ども!」
それは、家中に響き渡るほどの大きな声だった。
清楚に、瀟洒に、普段の、聖女であるユーフォリアからは想像もできないほどの大きな声だった。
一瞬で口を閉じるアルクァードとレック。息を整えながら、ユーフォリアは静かに集中していく。
「人体の構造は、知っている。修道院で習った医術。治癒の法術を納めるためにもらった、聖女ミラリア様の医学書。大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
「……大丈夫なのかよ本当に」
扉の向こう。寝室。大きめのベットの上で、大きなお腹を押さえて唸るレックの妻マール。
その下腹部からはすでに液体が流れ出ていて。ベッドのシーツはすでに軽く乾き始めていて。
破水してからすでに数時間。夫が宴に出ていて助けを呼べなかったマールは、すでに意識がもうろうとしていた。
「急がないと……私は、人を救うために全てを捨てて……はぁ……ああ……ふぅ……」
混乱を強引に押し込んで、乱れる思考を力ずくで正常に戻して。
ユーフォリアは深呼吸をした。一度、二度。
――出産。
それは、新たな命がこの世界に産まれること。人は、母親よりこの世界に出でる。
彼らは今、その瞬間に立ち会おうとしているのだ。
獣であれば自分一人の力で子を産むことは自然であろう。だが、人の場合は少し違う。人は、身体の構造上、他の動物よりも出産に対する負担が大きいのである。
たった一人を産むために数時間有し、生まれ出るタイミングによっては母子共に死ぬ場合すらある。
その為、出産には医術が必要不可欠なのだ。
ユーフォリアは震えていた。失敗すれば、確実に人の命を失う。頼れる人は誰もいない。その事実に、彼女は恐怖していたのだ。
何もしていないのに、額から汗が流れた。
「はぁーはぁぁぁぁ……あの、アルカディナ様」
「なぁに?」
ユーフォリアはアルカディナの名を呼んだ。彼らから離れて、壁に寄りかかっていた女神アルカディナは彼女の呼びかけに答える。
「手伝って、くれませんか? 私、一人じゃ……女性は貴女様だけですし……」
「私の手も使いたい。そのなりふり構わないの嫌いじゃないわ。いいわ。何すればいい?」
「あ……ありがとうございます!」
「お、俺も手伝います! マールが苦しんでるんだ! 夫である俺も!」
「レック様はお酒飲み過ぎです! 邪魔しないで!」
「あ、す、すみません……」
余裕がないのだろうか。ユーフォリアの言葉はかなり強かった。レックはしゅんと落ち込んでしまった。
――人は何のために産まれるのか。人は何のために生きるのか。
「行きます。アルカディナ様」
「よくってよ」
ユーフォリアとアルカディナは準備を整えて、奥の部屋へと入っていった。
バタンと扉が閉まった。
静寂が、部屋を包む。治療したとはいえまだ手が十二分に動かないアルクァードと、酒で顔を赤らめたレックを置いて、女たちは女たちの戦場へ。
不安そうに扉を見るレック。
「まぁ……慌てても仕方ねぇよレックさん。座ってようぜ」
「は、はい……そうですね」
ここは、昨日アルクァードたちが食事を振る舞われた部屋だ。食卓に向かい合い、アルクァードとレック。男二人は椅子に座った。
宴は終わったのだろうか。外からの音は聞こえない。
「ああ、うう……」
「落ち着けよレックさん。不安なのはわかるが、もっと明るい顔しろって。そうだ、子供の名前は決めてるのか?」
「え? いや……候補は二人で考えていたんですが……決めるところまでは……」
「そうか。じゃあ、そうだな。子供がでかくなったらどうなって欲しいとかあるか?」
「農村の人間ですからね私も妻も。どうなって欲しいって言われても、農夫にしかなれませんよ……ああ、大丈夫かなぁ……」
「夢がねぇなぁ……」
アルクァードは窓から外を見た。月が雲で隠れている。外は、真っ暗闇だ。
――夢とは何なのか。
「あの、アルクァード様」
「ああ?」
「随分とその、最初の時とは印象が……それが、本来のあなたですか?」
「あ? ああ……いや……ああ……しまった獣とやり合った時の感覚が抜けなくて……ああまぁ、気にするな……まぁ、その、なんだ、振る舞いってのがあるんだ」
「はは、巡礼者もやはり、僕らと同じ人なのですね」
「うんまぁ……な」
――同じでない人などいるのか。
「……なぁレックさん。あんた、何したんだ?」
「何、とは?」
「あんた二代目じゃねぇだろ。送られてから。その身体のどっかに刻まれてるんだろう? 農奴の、印」
「ああ……やっぱり知ってますよね。ええ、僕の印は、右の肩です。妻は、左胸の上」
「妻もか」
「ええ」
――同じでないと、誰かに区別されただけなのではないか。
「僕は、僕らはね。昔は、貴族様の屋敷で働いていました。妻はメイド。僕は料理人」
「王都か?」
「いいえ、もっと東です。主人の家の名は……なんでしたっけ。もう十年以上も昔になります」
「貴族の家で使われると言えばかなり恵まれた地位だろう? 何があったんだ?」
「妻はね……マールはね……その家の主人のね……愛人だったんですよ。もう、わかりますよね。はは……はははは」
「寝取ったのかお前」
「いや違います……僕らは元々、その家に仕える前から愛し合ってたんです。それは、皆知っていたのに、あの方々も知っていたのに……なのに……マールは嫌がっていたのに……でも……金がっ……」
「……ああ、もういいよ。もういい」
「マールは、耐えきれなくなったマールは、主を殺してしまったんです。僕は、彼女を連れて逃げました。何年も、何年も逃げました。ははは……馬鹿でしょう。逃げ切れるわけなんて、ないのに……」
「まぁ、な……」
「でもついてましたよ。普通ならば死刑ですが、誰かが僕たちに同情してくれたんでしょうか、何故か農奴送りで済みました。たぶん貴族の家が、事が表立つことを良しとしなかったのかもしれませんね」
「そっか」
アルクァードは思った。そんな裁きができる人間など、騎士団には一人しかいないと。
即ち、騎士団長ダナンがこの二人の判決を曲げたのだ。
「マールが、子を産んでくれる……僕の子を産んでくれる。ああ、なんだか、なんだろう……なんだろうこの感覚。胸が、すごく胸が熱い……ああ……生きてて、よかったなぁ……」
「生きててよかった……?」
その言葉が、人の口から発せられるのを、アルクァードはこの時初めて聞いた。
まだ産まれてないのに、うれし涙を流すレック。その姿が、何故か、何故か無性に羨ましく思えて。
アルクァードはレックの姿から眼を反らした。
時が進む。
空が廻る。
未来が来る。
――赤子の、鳴き声だ。
「ああ!?」
もう、座ってなんていられない。
レックは脚を絡まらせながら、危なげな足取りで立ち上がると、必死に奥の部屋の扉へと飛びついた。
バタンと大きな音を立てて扉が開かれる。赤子の声が大きくなる。
アルクァードもゆっくりと立ち上がり、レックを追いかける。
――すでに日が昇っている。
「はぁはぁ……ああ……つかれ……つかれた……」
椅子に顔を伏せるユーフォリア。白い布は赤く染まって。
アルクァードはユーフォリアの背に手を置いて、そのまま視線をあげた。
そこには――――必死で鳴く赤子を抱く母親と父親。そして――――
家族に祈りを捧げる女神アルカディナがいた。
「聖女が取り出して女神が祝福をって……この子供どんだけ恵まれてるんだよ……」
小さな子を抱く夫婦と、祈りを捧げるアルカディナ。日に照らされて輝くその姿は、なんともなんとも、神々しくて。
アルクァードの眼に浮かんだ涙は、いったいなんの涙だったのだろうか。それは、本人にもきっとわからない――――
――――
――――その後。
レックとマールの夫婦は子に名をつけた。子は男の子だったから、獣を倒してこの村を救った男にちなんで、名をアルクとした。
アルクァードは恥ずかしさを覚えたが、夫婦がそれがいいと強く言ったので、認めざるを得なかった。
獣を倒したことで催された宴は、村に子供が生まれたことで延長され、それから三日三晩、宴は続いた。
笑顔があった。幸せがあった。喜びがあった。
人のことを下げずんでいたはずのアルカディナは、子供の誕生を見てから変わった。眼が、表情が優しくなったのだ。アルクァードやユーフォリアが冗談を言っても笑ってくれるようになった。
宴が終わり、この村を出ようとした際、アルカディナは言った。農作業がやってみたいと。アルクァードたちは少し困ったが、体験だということでレックの畑を借りて三人で土を耕し、種を植えた。
野菜の種だ。実がなるのは、ずっと後のことだ。
そしてアルクァードたちはその村を後にした。人の世界は見るべき場所はまだある。次は霊峰に登ろう。寒いところは嫌と抵抗するユーフォリアを連れて、彼らは出発した。
旅はまだこれから。アルカディナがこの世界にやってきてからまだ10日と少し。まだまだこれから、降臨祭の一か月までまだ日にちはある。
アルクァードは、ユーフォリアは、少しだけだが、アルカディナが世界を見てみたいと言った意味を、理解しようとしていた。
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狩りが許されているということは、農作物の産出量が村の消費に追いついていないということである。
武器を持って狩りをしてもいいということは、狩りをしなければ生きていけないということである。
即ち
『狩りが許された村は他の村よりも農作業効率が悪い』
それが前提にありながら、さらに今回、魔獣によって農奴たちの大半が失われた。
誰かが言った。
あるいは、誰かがこれから言う。
神は
神は『数字』しか見ない。
神は『結果』しか見ない。
慈悲などない。
じひはない
かみさまのいうとおり
かみさまのいうとおり
かみさまのいうとおり
アルクァードたちが立ち去って10日後、その村は間引きによって消滅した。




