第9話 三日月と火
――農村にはまともな娯楽が無い。
農民たちは村から出ることが許されず、生涯を田畑と森で暮らす。その制限された環境の中では、生活の一部である狩りですら娯楽の一つになってしまうのも無理はないだろう。
農村に代表的な娯楽は酒と食事、そして仲間たちとの会話ぐらいである。
だから、農村で暮らす人々は、事あるごとに宴を催す。
農作物が豊作だった時。村で男女が結婚した時。新しい命が生まれた時。
――大物が狩れた時。
彼らには身分の差などはない。確かに村長はいるし、農作業の監督者もいる。だが、彼らに差などはない。
彼らは共に一つの炎を囲んで、自らの手で作った酒と自らの村で取れた作物と狩りや釣りで得た肉や魚を皆で喰らう。
今日は宴だ。村の男たちが皆笑顔で酒を口に流し込んでいる。
今日は宴だ。巨大な獣を倒してくれたから、今日は飲もう。
今日は宴だ。火を囲んで、今日と言う日を謳おう。うまい肉も魚も、全ては今日の日のために。
夢のような一夜を。楽しい楽しい一夜を。偉大なる神の名の下に。
さぁ踊ろう。さぁ歌おう。さぁ飲もう。さぁ食べよう。
――――その夜は、実に、実に眩しい夜だった。
火の柱があった。
村の中心に幾つもの木が組み上げられ、それは燃えることで火の柱となっていた。
綺麗な白い指が火に照らされて赤く黄色く、ゆらゆらと輝いている。
靡く銀の髪。輝く赤い瞳。
火の前で、女神アルカディナが美しく踊っていた。
村人が皆言葉を忘れてその姿に魅了されている――――
「報酬が踊りって……割に合わねぇよ……」
白く濁った酒を口に運び、喉を鳴らすアルクァード。彼は上半身を包帯でぐるぐる巻きにされていた。
傍に座るユーフォリア。手には彼と同じ酒。16で成人して数年しか経っていない二人にとって、酒は決して美味いものではなかったがそれでも彼らは酒を口にしていた。
顔を赤らめるユーフォリア。それは、酒のせいなのか。
「皆さん知らないのよね……前で踊ってくれてる人が、本当は女神様だってこと」
「言ってねぇからな……あーあ……ひでぇめにあったぜ……」
火の前で踊るアルカディナの表情は、笑っていて。その踊りは何とも何とも美しくて。村中の男たちが、女たちが、いつの間にか瞬きを忘れていた。
その光景を見てしかめっつらで酒を呷るアルクァード。彼の吐く息に、アルコールが混じる。
「アルクぅ……まだ怒ってるの?」
「だってお前。俺中身出てたんだぞ中身。内臓。あと一歩で死んでたんだぞ俺」
「押し込んで私が治したげたでしょ。傷口も綺麗に治ってるし」
「治ったからそれでいいわけねぇだろうが。くっそ……あの女神、あの顔、いつか歪ませてやる……」
「まぁひっどい不敬ね」
笑うユーフォリアに、眉間に皺を寄せるアルクァード。彼は上体を包帯で包んでいるが、実際にはその包帯の下には傷は一つもなかった。
獣と相打ちになり、腹部から腸を露出させて気を失っていたアルクァードを村まで運んだのは村の男たちだった。男たちは見たのだ。真っ赤な血の海に沈むアルクァードの姿を。
それが無傷でここにいる。その非現実さ。さすがにあり得ない。だから彼は、包帯で自分が完全に治ったことを隠しているのだ。
ユーフォリアの素性も、アルカディナの素性も、誰にも気づかれてはいけない。人の世界は、あくまでも人のための世界なのだ。神や奇跡が、近くに来ていると言うことを知られてはいけない。
「――拙い舞いですが、宴の飾り、いかがでしたか皆様」
火の前で舞っていたアルカディナが、足を止め、頭を下げながらそう言った。村人たちは全力で拍手を彼女に送った。
パチパチと、拍手の音が村中に響き渡る。満足そうに、アルカディナは頭をあげて顔をほころばした。
一瞬みせたその表情。女神としてではなく、聖者としてでもない。純粋な彼女の、彼女としての笑顔。
ほんの少し、アルクァードの胸は高鳴った。
アルカディナがアルクァードたちの下へと歩いてくる。途中、木の机から酒の入った入れ物を手に取って。
アルカディナが酒を飲んだ。
「あ、おいしい。城で飲んだのより全然おいしい」
目を丸くさせて、そんな言葉をアルカディナが言った。そして、酒の液面をみながら彼女はアルクァードの隣に座った。
眼で説明しろと、アルカディナはアルクァードたちに要求していた。
「……馬の乳から作ってる酒らしいですよ。乳の臭さを酒の成分が殺してるから、飲みやすくてうまいっていってましたね」
「へぇー、向こうでも作らせようかしら。人の国は飲食に関しては本当に工夫するわよねぇ。向こうだと焼くか煮るかでほとんど終わりなのに」
向こう。つまりは神の国。神の国には、馬乳酒はないのかと、ユーフォリアは思った。
酒をグイッと喉に流し込んで、大きく息を吐くアルカディナ。躊躇うことなく彼女は隣に置いてあった酒瓶を手に取って酒を入れ物に注ぐ。
その酒瓶は、アルクァードがユーフォリアと飲むために置いていた酒瓶である。
「はぁ……自分で取ってきてはどうですかアルカディナ様」
「え? 何?」
「いや……」
少しでも、文句を言いたかったのだろうか。アルクァードは悪態をついたあと、少しだけ後悔して目線をアルカディナから外す。
そして、人々が思い思いに火の前で踊り出していて――――
「アルク」
「は……い!?」
急に、その口調は固くなり、その表情は固くなり
アルカディナは、アルクァードの顔の前に自らの顔を近づけた。
美しい瞳。真っ赤な瞳。その赤は、ただ赤いだけではない。暗い夜で、互いの顔を近づけたことでよりはっきりとわかる。その瞳は、赤く光っている。
吸い込まれそうな赤い瞳。魅入られたかのように、アルクァードは動けなくなった。
「正直に言いましょう。私は、あなたを見直しました。あそこまで戦える戦士。神の国にもそうはいません」
「え、あ……ありがとう、ございます」
「あの獣。魔獣。神の国で私はあれと似た種を見たことがあります。きっと、過去に神の国より持ち込まれたのでしょう。成長しきっていればきっと人の国は終わっていたでしょう」
「あ……あれ以上でかくなる……!?」
「あれはオーガ種と呼ばれる魔人の一種です。本当、誰が持ち込んだんでしょうね。ふふふ」
「……っ」
アルクァードは唾を大きく喉を鳴らして飲み込んだ。ごくりと、音が一面に広がる。
神の国の獣。神の国にはあんなのがいるのか。
「本来であれば金の盃を持たせるところですが、まぁ、木でも大丈夫でしょう。騎士アルクァード。木の盃を前に」
「盃……こ、コップしかな……」
「それでいいの。ほら。前に」
「は、はい」
「ユーフォリア、あなたも。あれだけの治癒法術。使える者などほとんどいません」
「は、はぁ……?」
二人は酒の入っていた木のコップをアルカディナの前に出した。アルカディナは酒瓶を額の高さまで持ち上げ、眼を瞑る。
「アルクァード。ユーフォリア。あなた達を、私の使徒にいたします。あなたたちに祝福を。あなたたちに幸福を」
「なっ……!」
「えっ……!」
驚き固まる二人のコップに、アルカディナは黄金を注ぎいれた。酒瓶の中身はただの馬乳酒だったはずなのに、いつの間にかそれは輝く黄金の酒に変わっていて。
コップが黄金の液体で満たされる。
「私メナスみたいに万能じゃないから。私の祝福は肉体と法力の強化ぐらいしか恩恵ないんだけどね。でも、それなりに高位だから心配しなくても大丈夫よ。さっ飲み干して」
「あ、ありがとうございます。光栄です! アルク!」
「あ、ああ……ありがとう、ございますアルカディナ様……」
喜び、はしゃぎ、慌てて、黄金の酒を一気に飲み干すユーフォリア。当然のように、むせて。
「ごほっ!」
彼女の口から溢れた酒は、ただの馬乳酒で。それをみて微笑むアルカディナ。
アルカディナはアルクァードを見る。
「試練だったということですかアルカディナ様」
「まぁね。気に入らない?」
「ああそうですね。下手したら死んでいた。ユーフォリアがいなければ確実に死んでいた。気に入るわけがありません」
そう言って、アルクァードは黄金の酒を一気に飲んだ。
そして、一言。
「俺以外にはしないように。いいかアルカディナ様」
「ふふ……いいわ。神に命令する使徒。ふふ、前代未聞で最高に楽しいっ……その度胸と強さ。気に入ったわ。ふふふ」
使徒とは、神の力を分け与えられた者である。
神の力、即ち、人ではありえない法力。人ではありえない腕力。人ではありえない頭脳。
使える神によって得られる力は様々である。女神アルカディナは軍神の子であり、戦いの神である。故に彼女から得られる力は戦うための身体能力である。
騎士団最強の名を得ていたアルクァードは、この瞬間に人類最強の戦士となった。
若き聖女として治癒の法術で名を馳せていたユーフォリアは、この瞬間に人類最高の法術使いとなった。
神の力。本来であれば人に与えられることなどありえないことである。だが、アルカディナは与えたのだ。二人を使徒としたのだ。
微笑むアルカディナ。喜ぶユーフォリア。笑いを押し殺して顔を歪めるアルクァード。
「皆さん! ここにいたんですか!」
儀式の余韻を、打ち壊す男の声。アルクァードたちは彼を見る。
額に汗を流して息を切らす彼。
「レック……さんだっけか? どうしました?」
「俺の子が、俺の子が生まれそうなんです! い、医者が酔いつぶれてて! それで、医術、あなた達医術を学んだって言ってましたよね……!」
「なんだと……!?」
「たすけてください!」
空に月。村の中央に火。
生きる意味は。死ぬ意味は。
宴の夜。人の国にあるとある農村で。小さな命が今産まれようとしていた。




