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神々のディストピア  作者: カブヤン
神の国篇 第一章 赤錆の女神
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第8話 魔獣

 木が溢れる。緑が周囲を包み込む。


 そこは、村から少し離れた場所にある森だ。木漏れ日はところどころで、周囲は薄暗く湿度は高い。頬を伝う空気が濡れている。


 森はたくさんのモノを人に与えてくれる。木々は燃料になるし、キノコ類はスープを彩る大切な食材だ。腐葉土は畑の肥料になり、獣や虫は栄養源になる。


 森の入口から少し進むと、小さな沼がある。蛭が多く、魚はあまりすまない汚れた沼だ。緑の藻が浮かぶ水は、飲料には適さないだろう。


 その沼の淵に、二人の女が立っていた。


「えーっと……」


 ぱちりと、大きな乾いた音がなった。女神アルカディナが指を弾いた音だ。


 それは、一瞬のことだった。音が鳴ったと思ったら、彼女の目の前にあった汚れた沼は一瞬で澄んだ湖へと姿を変えた。


 光も無く、時間差も無く、あっけなく、まるで最初から沼は湖だったと言わんばかりに、その場所は姿を変えた。


「うん、さすが私。ユーフォリア」


「は……はい」


 木の根に触れるユーフォリア。木は光を放ち、ミシミシと音を立てて形を変えていく。気が付けば、木の根は綺麗な背もたれのついた椅子になっていた。


 椅子に腰を下ろすアルカディナ。そしてもう一度、指を彼女はパチリと鳴らす。


 湖が光る。


「さぁ特等席です。さぁどんな戦いが見られるのかしらねぇー楽しみ楽しみ。ふふっ」


「……うう」


 笑顔で湖面を見下ろすアルカディナとは対照的に、ユーフォリアの顔は真っ青に血の気が引いていて。


「なぁにユーフォリア、彼を信じられないの? 強いんでしょ彼」


「そう……ですけど。でも、でも、獣、そんな大きくて、どう猛な獣は……火砲があるとはいえ……」


「獣一匹を殺せずして何が私の護衛ですか」


「あ、アルクぅ……」


 二人は湖面を見る。片や楽しそうに、片や辛そうに。


 湖面を笑顔で覗き込む女神アルカディナは何を思うのだろうか。


 一人の男の死地を覗き見るその胸中には何があるのだろうか。


 女神の微笑みは、その心を隠す仮面なのかもしれない。


 澄んだ赤い瞳で水面を見る。楽しそうに、嬉しそうに。その水面には、その湖面の表面には、その瞳には



 ――――森を進むアルクァードの姿が映し出されていた。



 ――――



 ――――



 ――――ずるり



 水の音がする。滴る水の、音がする。


「ウウウアアアア……」


 ずるずる、ずるずる。


 それは、咀嚼音だった。何かが誰かを喰う咀嚼音だった。


 それの周りに転がっているのは大量の肉片。桃色の腸が見える。赤い筋繊維が見える。黄色い脂肪の塊が見える。


 ――人の頭が見える。


 それが持っている肉の塊、覗くあばら骨が辛うじてそれが胴体であるということを教えてくれる。牙を立て、人の腹にかぶりつき、顎と歯で噛み砕いて、ぐちゃぐちゃと、ばりばりと音を立てて


 そう


 それは


「アアアア……!」


 人を食っていたのだ。


「グフッ……グフッ……」


 実にうまそうである。実に満足げである。それは、言葉を介さぬ獣ではあるが、それでもそれは、美味そうに満足そうに、嬉しそうに、人を喰っていた。


 それの口元は真っ赤に染まっていて。それの身体も真っ赤に染まっていて。


 肉と骨と、内臓と、肉と、脳みそと、肉と血と、命と残骸と


 この光景に、嫌悪感を抱かない者はいない。


 ――草が踏みしめられる音がした。


 獣が振り返った。


 ぞわりと、獣の全身の毛が逆立った。獣は喰っていた肉を投げ捨て、立ち上がる。


 その体躯は巨大で、あまりにも巨大で、遠目から見れば巨木に見間違える程のものであろう。


 その獣は、もはやただの獣ではなく、言うなれば魔獣。魔に落ちた獣。


 魔獣は両の手を広げた。両の爪を広げた。そしてそれは、笑った。


 人とは明らかに異なった顔の構造なのに、それは確かに笑った。


 爪を鳴らしてそれは笑い、そしてこう言った。


『また餌が向こうからやってきたな』


 獣は言葉を発しない。言葉を使わない。


 だからその『言葉』は、言葉ではなかった。


 赤い地面を踏み鳴らし、獣は雄叫びをあげる。獲物がやってきた。今日はごちそうだ。


 魔獣が、走り出した。さぁ早く目の前の大きな肉を斬り裂こう。爪と牙で斬り裂いて殺そう。固そうな身体だが、中はどんな者でも同じ肉。


 さぁ喰おう。どんな生き物でも自分の前には敵ではない。どんな生物も、どんな獣も、自分は容易く殺して生きた。


 さぁ、殺そう。さぁ、斬り裂こう。さぁ、食おう。


 さぁ


 さぁ――


 ――――狩りの時間だ。


「ガッ!?」


 獣の足に、突然激痛が走った。駆けていた勢いのまま、獣は地面に倒れ込む。


 何が起こったのか困惑する巨大な獣。その黒くて大きな瞳を自らの足に降ろす。


 自分の足。魔獣の足にあったものは、銀色の


「ベリア狩りに使う罠だ。バネも新品だぜ」


 もがく獣。獣の足には、銀色の巨大な歯が食い込んでいた。


 爪でひっかいてもとれはしない。それは、人の国においてホールドトラップと呼ばれる鋼鉄の顎である。


 強力なバネを広げストッパーで抑え込み、留め金が繋がった板を踏むことで歯が足に食らいつく仕組みの罠である。その罠は、鉄のクサビで地面に打ち込まれている。


 外し方を知らなければ外すことはできない。


「こっちは俺一人だ。まともにやるかよ」


 すらりと伸びるアルクァードの太い太い右腕。右腕の先には、銀色の筒状のナニカ。


 火花を発するそれを、彼は獣に躊躇なく向けた。

 

 ――引鉄を引く。


「グアアアア!」


 甲高い破裂音と共に、獣の右目ははじけ飛んだ。獣の右目に飛び込んだのは、小さな鉛の弾だ。


 火砲。火薬で弾を飛ばす武器。騎士たる者が使うには、あまりにも無骨な武器。 


 農村育ちのアルクァードにとって、そんな騎士の情緒など持っているわけもなく。


 アルクァードは、銀色の槍を掲げた。


「気づかれないよう罠を仕掛けるのは骨だったぜ。じゃあな化け物。結局図体よりも脳みそでかい方が最終的には強いんだよ」


 眼を抑えうずくまる獣。あとは心臓を貫けば、それで終わり。


 人には牙も無ければ爪も無い。だが人には頭脳がある。


 如何に強力な獣と言えども、丹念に積み上げられた作戦の前には、容易く殺されるものである。


 アルクァードは一歩、二歩と歩を進めた。獣は蹲り、自らの眼を抑え呻いていた。


「ゴアアアアアアアアアア!!!」


 魔獣が吠えた。地面が盛り上がった。


 金属の杭が、地面からはじけ飛んだ。


「何!?」


「グオオオオオオ!」


 魔獣は立ち上がった。銀の罠を足に食い込ませたまま。血を足から流しながら。


 獣の巨体がアルクァードを覆い隠す。獣は両手を広げる。


 獣の潰れた右目から血が流れる。


『やってくれたな』


 獣は言葉にならない言葉をアルクァードにぶつけた。アルクァードは槍を構えたまま、獣を見上げていた。


「なんてでかさだ……ちっ、口づけ程度で済むと思うなよ女神様よ……」


 ――風。


 風が吹いた。それは木々を揺らし、時を止めた。


 互いの肩が揺れる。互いに呼吸を整える。


 呼吸を一つ。吐息を一つ。


 呼吸が二つ。吐息が二つ。


 呼吸が三つ。吸気が一つ。


「――ガァァァァァアアアア!」


「――オオオオオオオオオオ!」


 二人は、二頭は、同時に雄叫びをあげて足を踏み込んだ。


 最初の一撃は風を叩き斬りながが斜め上より襲い来る爪だった。アルクァードは寸前で躱した。


 爪の先が彼の銀色の鎧を削りとった。直撃すれば、頭など容易く砕くだろう。


 獣の右側に立ち、アルクァードは槍を短く持って獣の肩を突いた。槍の穂先は獣の肩に少しだけ食い込んだが、その分厚い筋肉と固い毛に阻まれそれ以上は突き刺すことはできなかった。


 抜けない。


 アルクァードは槍を抜くのを諦め槍から手を離した。腰に差した短剣を抜いて獣の首を狙う。


 獣は大きく横に飛んだ。右目が見えないことが警戒心を煽ったのだろうか、アルクァードの姿を捕らえるべく、獣は身をよじりながら彼から距離を取った。


 肩に食い込んだ銀色の槍が抜けて地面に落ちる。


 すぐさま身を返し、アルクァードに迫る獣。口を大きく開き、彼を食い殺さんと口を突き出す。


 後ろに倒れ込むようにして獣の突進を躱したアルクァード。その上を獣の身体が通り過ぎていった。


「ガアアアアアア!」


「なんて動きだクソ野郎が!」


 悪態をつきながら地面を叩き起き上がるアルクァードに、魔獣の爪が襲い掛かる。


 爪の根元は手。前足。とっさにアルクァードは短剣を爪の間に滑り込ませ、獣の手に短剣を突き刺した。


 獣の手から血が流れる。アルクァードの左の手甲が斬り裂かれ地面に落ちた。


 アルクァードの左腕から血が流れる。


「いっ……てぇなクソが!」


 もう一本、腰から短剣を抜き獣の背に突き刺すアルクァード。獣が小さく、うめき声をあげた。


「首もらった!」


 三本目の短剣。持ってきた短剣はこれで最後。アルクァードは短剣を獣のうなじに突き刺した。


 人であれば、その位置は急所。傷つけられて平気なわけがない。


 だが、効果はない。効果はないのだ。


 またもや跳びあがり距離を取る獣。その隙にとアルクァードは落ちた銀色の槍を拾い上げる。


 小さく舌打ちをして、槍を見て、吐き捨てるように大きな声でアルクァードは叫んだ。


「アルカディナぁぁぁ! ようやくわかったぞ! 俺お前が嫌いだぁぁ!」


 首に手に、突き刺さった短剣を払うようにして抜く獣。ぎろりと残った眼で獣はアルクァードを見た。


「何だって俺がこんな目にあわなきゃならねぇんだクソがぁぁぁぁ!」


 獣は見た。


 槍を逆手に持ち、大木のような腕に力を籠めるアルクァードの姿を。


 槍には、古来より近接にて突き刺す以外の攻撃手段がある。


 長い柄と、穂先を利用した攻撃。


 それは


「残った目ん玉もよこせコラァァァァ!」


 投擲である。


 正確だった。あまりにも正確で、高威力だった。


 それもそのはず、アルクァードの槍は、普通の槍とは違う。穂先も柄も、全て鋼鉄製。


 即ち、単純に重いのだ。


 重量はそれを扱えぬ者にとっては邪魔なものではあるが、それを扱える者にとっては武器である。


 アルクァードの投げた槍は、真っ直ぐに、凄まじい勢いで獣に向かって飛んでいった。狙いはそう、彼の言うとおり残ったもう一つの眼。左目である。


 その獣の頭蓋は人の頭蓋の形に近いものがあった。即ち、眼の奥には眼底の骨があったのだ。


 ――アルクァードの投げた槍の穂先は、その眼底の骨に食い込んだ。


「アアアアアア!!!」


 獣が叫ぶ。叫びながら、目に突き刺さった槍を抜こうと必死にあがく。


「オオオオオオオオオオオ!!!」


 駆けるアルクァード。獣との距離が、一気に縮まる。


「リャアアアアアアアアア!!!」


 雄叫びと共に、彼は獣の頭に突き刺さった槍に飛びついた。


 押す。


「死ねクソ野郎! 死ねぇぇぇぇ!」


 槍を力の限り押し込む。


 穂先が眼底の骨を砕きながら、奥へと押し込まれていく。


「ガアアアアアアアア!」


 獣が足掻く。アルクァードの胸を、足を、爪で斬り裂いていく。


 アルクァードの胸当てが地面に落ちる。アルクァードの胸から骨が覗く。


「ああああああああああ!」


 もう、どちらの雄叫びか判断はできない。


 血と肉と、骨と内臓と。


 腸が飛びだす。脳漿が溢れる。


 涎が飛び散る。唾が地面に落ちる。


 ――数刻後、そこには頭をえぐり取られた獣の死体と、全身を切り刻まれ腹から腸を出して倒れる男の身体だけが残っていた。

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