第5話 始まりの朝
その日は、晴天だった。
青く澄んだ美しい空と、浮かぶ白い雲。暖かな日差しが人の国を照らす。
実のところ、降臨祭の間は人が活動する時間帯には雨が降らないのだが。天すらも神の手の中である。
「ブルルル……」
澄んだ空の下、王城の中庭で巨大な天馬が嘶いた。巨大な天馬と言えども、その声は馬と変わりはないのだなと、その傍にいた聖女ユーフォリアは思った。
人が動き出す。皆が動き出す。太陽は東の淵に。朝がきた。
朝日が城に差し込む。城の一室に差し込む。差し込んだ日は真っ直ぐに、真っ直ぐに、真っ直ぐに。
その日の下で、天馬の傍で二人の男女が向かい合っていた。
「私が勝てば、私は人の国を見て回る」
銀色の髪が風になびく。彼女の右手には長い木の棒。先には白い布。
「あなたが勝てば、私はこの城の中で残りの時間を過ごす」
目をつぶる大型の男。両手で握りしめる木の棒。先には赤い旗。
「私の国。軍神の領域には絶対的な決まりごとがある。それは勝者に従うこと。あなたは私にこの城にいて欲しいと願った。私は外へ行きたいと願った。なら、決闘です」
日が二人を照らす。心配そうにそれを見るユーフォリア。雄々しく主の勝利を信じる天馬。
にやりと女神は笑った。その細腕を器用に捻り、木の棒を左右上下に振りまわした。
棒が風を切る。甲高い風切り音が鳴り響く。
「本来であればこのような偽物ではなく、本物の刃を交わすのが決まり。互いに命を賭けて戦う、それが軍神の掟。ですが、私は人如きに命を賭けたりしません。まぁ、慈悲です。喜びなさい、人の騎士アルクァード」
何が慈悲なものか。アルクァードは心の中で悪態をついた。
だが表情には一切表さない。アルクァードは静かに目をつぶったまま、木の棒の重さを確かめていた。
「ふふ……ふふふ……」
赤い瞳をキラキラさせて、笑いを押し殺しているアルカディナ。その姿をみれば、誰しも気づくだろう。この女神は、戦いが好きなのだと。
何故、こうなったのか。何故、この場にいるのか。
木の棒を強く握りながら、アルクァードは思い返していた。
――時は数刻戻り、深夜。
アルクァードは薄暗い王城の中にある、テンプル騎士団の団長室にいた。
「アルカディナ様が、外へ行きたいと言っている」
「なんてこった……」
そこに、二人の男がいた。騎士団長ダナンと、神の護衛アルクァード。大柄な二人が揃って眉間に皺を寄せて、固まっていた。
「アルクァード。神が人の国を見て回るなど前代未聞じゃ……降臨祭の間は王城にて暮らし、王都にある聖堂を巡ることで神の威厳を人に知らせると古より決まっておるんじゃぞ……」
「そんなこと考える方じゃねぇよ……今まで一度もねぇのか?」
「ない……もう一度言うが、前代未聞じゃ……」
ダナンはその切りそろえられた髭を擦りながら、傍らにおいてある大剣に手を伸ばした。あまりにも心が乱れているのだろう。剣を握り心を落ち着けようとするのは剣に生きてきた者の性である。
「もし神が外に行けば、どうなる?」
「ふぅ……よいか今この国は、各地の町が完全に解放され飲食が自由じゃ。貧しき者もこの一月だけは町で肉を酒を浴びることができる。だがそれでも、各地の村に残っておる者はおる。何故かわかるか?」
「単純にいきたくねぇんだろ町に。農民は、そこで産まれた子供は置いておいて、基本重罪人だ。人を殺した、物を盗んだ、騎士団に危害を加えた、罪の種類はいろいろだがな」
「そうだ。そんな重罪人たちの中でも、更に重罪人、つまりは町にいけない者が今、外にはたくさんいる。つまりはな。降臨祭の間の外は、人の最底辺の地なのだ」
「気持ちのいい光景は少ないってことか……」
「言うなれば、間引きを待つだけの身よ。そんなもの、神の眼に見せるのはどうかと思うがなワシは」
「間引き、か……」
人の世界は、美しくない。神の眼にするものではない。
赤く染まる大地を思い出して、転がる人の破片を思い出して、アルクァードは目をつぶる。何かが彼の胸にこみ上げてくる。
「っとすまん。軽々しく使う言葉ではなかったの」
「いいさ。それよりもだ。どうすりゃいいか教えてくれ。朝になったら出ると言ってるんだ」
「うむ……ユーフォリア様は何といっとる?」
「止めることはできないから、好きにさせればいいと言っている」
「なんというかユーフォリア様らしい答えだの……決断が早いと言うか、飲まれるのに慣れてると言うか……」
人は、どうにも考えが煮詰まった時、手を口元に持って行くことが多いと言う。
ダナンは机の中から葉巻を一本取り出し、器用に手で先端を千切り落とした後、机の上にあった蝋燭の火を葉巻に移した。
白い煙がダナンの口元から漏れる。
「お前は、どうすればいいと思うアルクァード」
「俺か?」
「ああそうじゃ。お前じゃ」
「俺は……どうすればと言われてもな……それを相談しにきてるんだしな……」
「もう考えててもわからん。お前に任せる。好きなようにしてくれ」
「おいおい、無責任なこと言うなよじいさん」
「止めれんのなら流れのままに、ユーフォリア様の言うこと、一理ある。アルクァード、お前でどうするか決めてみせよ。責任はワシが取る」
「おいおい……」
結局、ダナンはそれっきり何もアルクァードに言うことはなかった。深夜の疲れがあったのだろう。椅子の上でゆっくりと瞼を落とし、そのままダナンは固まってしまった。
降臨祭の間は騎士団の者以外は仕事をしなくてもいいと決まっている。逆に言えば、最低限の仕事は騎士団が総出で行わなければならないのだ。
葉巻を深々と吸うダナン。一つ溜息をついて、アルクァードはその場を後にした。
――時は戻る。
「三回。あなたが棒を振るまで、私は攻撃しません。構えなさいアルクァード」
結局、アルクァードは外の世界を見せるべきではないと思った。だからアルカディナに言った。外へ行くことはやめて欲しいと。
人の国は醜い。人の世界は汚い。そんな場所へ、神が立ち入るべきではないと彼は思った。
木の棒を槍にみたてて、構えるアルカディナ。その構えは美しく立つ女神像のそのものだった。
眼を開けるアルクァード。いつもの槍を構えるように、彼は腰を落とし棒を構える。
「へぇ……雰囲気あるわあなた……人のくせに……」
負けたことはない。実戦で負けたことはない。
数々の闘技場での戦いを思い出す。長年重ねてきた鍛錬の辛さを思い出す。
アルクァードは、真っ直ぐにアルカディナの眼を見る。そして、深々と深呼吸をする。
「来なさい」
一撃目
アルクァードは踏み出した。
その剛腕から繰り出される一振りは、長い槍をもってしてもまるで短剣が如く速度で。
大きな音だった。木と木がぶつかる、大きな大きな音が鳴り響いた。
右から払い落とされたアルクァードの一撃を、木の棒の腹で受け止めるアルカディナ。その顔はうっすらと笑っていて。
――ない
二撃目
小さく息を吸って、半歩下がるアルクァード。そして、アルカディナが構え直すよりも速く首に向かって木の棒を突き出す彼。
首を捻り、その一撃を躱すアルカディナ。
――自分にはない
三撃目
歯を食いしばり、大きく下がるアルクァード。アルカディナのうっすらとした笑みは満面の笑みになって。
全力。すべての力を込めて。その剛腕が、その大きな身体が、その意志が、繰り出せる全ての力を込めて。
アルクァードは握る木の棒を振り下ろした。
凄まじい速さだった。凄まじい勢いだった。この一撃、如何に木の棒とは言え脳天に当たれば簡単に頭を砕くであろう一撃。
その一撃を
――自分にはないものを
立てた指一本で止めるアルカディナ。
「こんな弱者にでも、やっぱり勝つのは、嬉しいものね」
膝から崩れるアルクァード。その眼は白眼を剥き、意識はとうにその身から消えていて。
アルクァードは土埃をあげて倒れた。何故倒れたのか、傍に立っていたユーフォリアには見えなかった。
「ふふふ……ふふふふ……!」
笑うアルカディナ。その顔は頬む女神としての顔ではなく、子供のような少女のような。
――自分にはないものをこの方は持っているのかもしれない。
結局、アルクァードは騎士としての振る舞いを優先させた。無意識だったのかもしれない。深く考えた結果かもしれない。それでも彼は、神に人を見せるべきではないと思ったのだ。
微睡に落ちるかのような気持ちのよさ、頭の上で少女のように笑うアルカディナ。アルクァードは、その時初めて、完全なる敗北を味わったのだ。




