第39話 今に至る道
一人一人に好きなモノがあって、一人一人に好きな人がいて、一人一人に好きな場所があって。
生まれて十年、あるいは二十年、あるいはそれ以上。人は様々な物を見ている。一人一人違うモノを見ている。
一人一人に物語があって、一人一人に人生があって。
人は様々な道を歩いて同じ場所にたどり着く。今という時間は共有なれど、今は決して同じではない。
『今』を決められた人がいた。産まれる前から決められていた人がいた。全てが産まれる前から用意されていた人がいた。
その人は、人の国の王女だった。
王女として産まれた彼女には、王女としての生が用意されていた。即ち、家。巨大な城。即ち、下僕。沢山の侍女。即ち、親。王と王妃。
教育は全て最上位のモノ。礼儀作法からテーブルマナー。国を治めるための沢山の知識と、沢山の経験。
彼女の人生は常に彩られていた。煌びやかに彩られていた。沢山の騎士たちが頭を下げ、彼女を敬う。沢山の侍女たちが彼女の世話をし、それに悦びを感じている。
食卓には常に豪華な料理が並び、沢山の貴族たちが彼女をほめたたえる。何人もの顔のいい男たちが彼女に甘い言葉をかける。
用意されたのは綺麗な世界。用意されていたのは彩られた世界。夢のような、幻想的な、人生。
きっと、彼女でない者から見れば、それは最高の人生に見えるだろう。
彼女は心のどこかで常に思っていた。
この人生の、物語の主人公は、自分でなくてもいい。
その用意された人生の中に、彼女個人の名は必要ではない。王女であれば、それでいい。
自分は自分として生きさせてはもらっていない。
自分は自分で歩いていない。
自分の『今』は自分のモノじゃない。
だから、彼女は『今』に執着した。
最初にその火照りを覚えたのは、いつだったか。
ある日のこと、彼女は城の地下に迷い込んだ。城の地下は迷宮。たくさんの牢獄が並ぶ迷宮。
罪人、特に王家に刃向かった許されざる罪人はそこへ運ばれ、死よりも苦しい責め苦を負わされる。
普段は鍵がかけられている地下への入口が、偶然、もしくは必然、その日は開いていた。
真っ暗だった。近くにあった松明を手に取り、彼女はその冷たい迷宮を進んだ。
何故その道を進んだのか、彼女は何かがそこにあるのは間違いなく理解していたし、そこにあるものが決して美しいものではないことも理解していた。
だが、彼女は進んだ。そして見た。ある部屋の、光景を。
その部屋は鉄格子で囲まれていて、外から容易に見ることができる構造だった。彼女はその部屋に松明を向けた。
人がいた。一人の人だ。辛うじてわかるその身体の輪郭から、それは男であることが分かった。
男は眼が無かった。眼があるべき場所は真っ暗な穴が開いていた。
男には腕が無かった。両腕。肩から下。切り落とされたのか、もともとなかったのか。血は出ていなかった。
男の口は糸で縫い付けられていた。びっしりと、何針も何針も、これでは口は開かない。当然喋ることもできない。
その男の首は、壁に鎖でつながれていた。その光景があまりにも壮絶だったから、彼女は小さく悲鳴をあげてしまった。
男の首が少しだけ動いた。耳がまだ聞こえるのだろうか。男は首を縦に振り、必死に何かを訴えていた。
どんな、一体どんな、どんな人生を送った結果が、この『今』なのだろうか。
彼女は興味を持った。その男の人生に興味を持った。だから、彼女はその男に話しかけた。
「あなたは、何をしたの?」
答えれるはずがなかった。口が糸で縫い付けられているから。彼女はこの時知らなかったが、男は舌もきりおとされていたのだ。言葉を発することは男にはできなかった。
男は頻りに首を縦に振った。何かを要求しているような、そんな首の動きだった。
それをしばらく見ていた彼女は視線を落とすと、彼の傍に短剣が落ちているのに気付いた。
男が持ち込んだものだろうか。それとも男をこうした人が置いていったものだろうか。
短剣に向かって必死に頭を振る男。短剣を拾いたいのだろうか。両腕が無い。眼が無い。口も無い。それでどうやって短剣を拾うのだろうか。短剣を使うのだろうか。
違う。
それに気づいた時。彼女は全身に何かが走るのを感じた。今まで無意味に、ただ無気力に生きていた自分。自分でなくてもいい人生を歩まされた自分。その自分の中に、今までにない感情が浮かび上がってくるのがわかった。
心臓が激しく鼓動を打った。身体の中心に熱を感じた。
男は
男は自分を殺してくれと訴えているのだ。
人は生きている。生きているから今がある。そして、『今』は死ぬことで終わる。
彼は自分の『今』を終わらせたいから、殺してくれと訴えているのだ。
カチャリと音を立てて、彼女は短剣を地面から持ち上げた。
暗闇の中、松明を手にする彼女。その顔は赤らんで、その身体は火照って。
必死に首を振っていた男は短剣が地面から離れた気配を感じると、その頭を後ろに反らせた。首を、首を斬れと言うのだ。
少しの間彼女は止まっていたが、結局彼女は短剣を男の喉に向かって振り下ろした。刺さった瞬間は固い感触。少し押せばそれは急に柔らかくなって。
彼女は刺した後、その短剣を引き抜いた。血が勢いよく噴き出した。
彼女の着ていた真っ白なドレスはその血によって一瞬で赤く染め上げられた。綺麗な宝石も、綺麗な髪飾りも、何もかも、真っ赤に真っ赤に染め上げられた。
赤の中で、彼女は身を震わせる。感じたことのない感情。生きていたという感情。生きているという感情。
胸を押さえて、身体を抑えて、短剣を投げ捨てて、彼女はその場を後にした。彼女はその日から、人が殺し合う決闘場に通うようになった。
人が必死に生きようとしている。そこにいる人は生きるために人を殺そうとしている。
人が生きた結果がそこにある。人が生きていた『今』がそこにある。
もう王城の暮らしなどどうでもいい。王女様と呼ばれ続けるのもどうでもいい。そんな人生はいらない。そんな人生は欲しくない。そんな『今』は自分のモノじゃない。
この『今』を、終わらせてほしい。
「あ、ああ……」
それは、あまりにも、あまりにも刺激的だった。
遠くから見ていた。自分のために、人を叩き壊すその人の姿を。
「怖い……すごく怖い……」
大槍を振り回し、人の形をしたものを叩き壊していくその姿。
「でも……でも……」
城。自分が暮らしていた城。自分の今を作った城。それを丁寧に招き入れれば、騎士たちはたちまちに肉塊になっていく。
「……気持ちいい!」
叫び、迫る、神の使い。笑いながら天使を斬り裂き、獣人を屠り、オークを真っ二つにするその姿。
「ああなんで気持ちいいの!」
自らの赤錆の鎧を砕きながら、銀色とも金色ともいえるその大槍を掲げ、行く敵を容赦なく斬り裂くその姿。
「この人が! きっと私の『今』を終わらせてくれる! はははは!」
城の中にいる敵を斬り殺して、人の王の城を斬り壊して。
彼の『今』をそこに導く。
決められた道を歩くことができなかった彼女が自分の意志で彼をそこに導く。
神に創られた人生を与えられた彼女が神の敵を導く。
なんと、皮肉なことだろうか。
「さぁ始めようぜ。祭りの締めってやつをよ」




