第32話 虚像の世界
血だ。
人の身体に流れる赤い血だ。
手にかかるそれは、温かく、熱く。溢れる血に、流れる血に、命を感じる。
人形ではない。それは生きた人だ。人なのだ。血を流し呻くそれは、人なのだ。
手を伸ばす。傷口に手が触れる。その人はびくりと身体を跳ねさせる。
痛み。伝わってくる。苦しみ。伝わってくる。命。伝わってくる。
光る手。傷口にその光は伝わっていく。最初に無くしたのは痛み。
血が逆流する。外へ流れてはいけない。血は中へと流れるものだ。
肉が柔らかくなる。肉同士がひっつく。ジワリと熱くそこは輝いて。気づけば傷口はすっかり綺麗になっていた。
眼を開く人。生きてる人。男の人。腰を上げ、彼は自分の身体を触った。深々と斬り裂かれ、大量の血を流していた彼の身体。今は傷すらも無い。
眼を丸くして彼は顔をあげる。青い髪の女がそこにいた。優しく微笑む彼女の手は、血で真っ赤。自分の血だと、彼は思った。
ありがとうと小さく呟く彼。構わないと返す彼女。
腰まで伸びる長い青髪を三つ編みにした彼女。銀色の鎧を身に纏い、立ち上がる彼女。鎧の隙間から覗く肌は白く、その顔は美しい。
見惚れるのも当たり前か。彼はぼーっと彼女の顔を見ていた。彼女は微笑み、彼に言った。
「ごめんなさい。生きてたのはあなただけです。動けますか? 逃げてください。城門まで」
彼は周りを見た。赤色。大量の赤色。壊れた人形の部品がそこには沢山あった。
最初彼はそれが何なのかわからなかった。でもすぐに気づいた。それは、人形ではない。人の形なのだ。人なのだ。人、人、人。
たくさんの人が、部品となって周りに落ちていた。
赤色は血。桃色は肉。黄色いのは脂。白いのは体液?
男は恐怖した。助かったことで恐怖した。そして彼は走り出した。青い髪の女が言うとおり、城門へ向かって走り出した。
そうなればもう振り返らない。血の海を見ようとはしない。その向こうにある黒い残骸を見ようとはしない。
青髪を手で払い、ユーフォリアは立ち上がった。
「生きてる人は助けられる。けど、死んだら終わり。奇跡ってこんなに融通効かないものなのかな」
血の海の中で彼女は立つ。足に伝わる粘り気のある液体の感触。
指をパチリと鳴らして、彼女は周囲の血を消した。結局血は、人の身体から出てしまえば汚れなのだ。
「ふふふ、魔女として殺されかけたのに、まだ聖女として振る舞うのねあなた」
銀髪を風に揺らして、メナスが長銃を片手にそう言った。
彼女の顔は笑っていて。その顔が何とも、場違いで。
やっぱり人じゃないんだなと、ユーフォリアは思った。
「……メナス様。敵の排除。ありがとうございました」
「いいから。いいから。まぁちょっとした暇つぶしだから」
「そうですか」
ユーフォリアは実のところメナスに好意的ではなかった。彼女は何を考えているのかわからないし、お金にも汚い。自分を助けるためとはいえ、アルクァードが持つ金貨を全て奪ったのにも不満だった。
不機嫌そうに自分の鎧の埃を払うユーフォリア。メナスはただ、笑って遠くを見ていた。
「ユーフォリアさん。あなたって、結構あからさまよね」
「……何がですか?」
「そんなに私が嫌い? いや、苦手なのかな? 私結構、人当たりいいと思うんだけどなぁ。どこが嫌いなのかな私の」
「あ、いや、それは……」
図星。言いよどむユーフォリア。言いつくろうこともできず。
「もしかして、アルク取られると思ってるの?」
「ち、ちがいますっ!」
「ふふふ、わかってる。そんなに子供じゃないわよねあなた」
子供のように笑うメナス。ユーフォリアはそんな彼女を見て、小さくためいきをついた。
ユーフォリアは思った。よく笑えるなと。周りは人の血の臭いが充満している。目の鼻の先で黒い兵士たちが戦っている。戦っている相手は、赤錆の騎士アルクァード。
彼が一人で戦っている。近くで遠くで、一人で戦っている。
「一つ、問題よユーフォリア様」
メナスは、ユーフォリアに問いかけた。
「人の世界は神に管理されています。この小さな島の中で、何処にもいかないように、絶滅しないように、ただこの島にいるように、神は人を管理しています」
「何をこんな時に」
「苦しい苦しいこの世界。小さな小さなこの世界。さて、そんな神と人ですが、これらの違いとは何でしょうか?」
「……神とは絶対的存在。絶対なる守護者。絶対なる支配者。全ての生命の長にして」
「経典のことじゃないの。実際の、神様。会ったことあるでしょう?」
「まぁその……会ったことはありますよ。実際今も目の前にいますし」
「で? 何だと思う? 違い」
「……法力?」
「あなたにもあるでしょう。法力」
「じゃあ……寿命?」
「まぁ、神は歳を取らないわねぇ。他には?」
「生まれた時に持ってる神器?」
「うん。神は人と違って、生まれた瞬間に武器を持っている。戦うためのではなく、その神の分身としての武器。神器は、その神そのものでもあるのよ。だから壊されると、神は力を失う」
「メナス様のように?」
「そう。他には?」
「他?」
「そう、他」
「他って言われても……」
「思いつかない?」
「ええまぁ……いやそもそも何の話ですか?」
「さぁね」
長銃をくるりと回してメナスは空を見る。つられてユーフォリアも空を見る。
空には太陽。白い光。白い月もある。
青い空。白い雲。白い星。
空を見上げながら、銀髪を風に揺らしてメナスは言った。
「世界は広い。あなた達が思っているよりもずっとずっと広い。大陸は四つあるし。島は千を超える。この空はそんな広い世界に跨って存在している」
「そうなんですか。想像もできません」
「前を見なさい。遠くを見なさい。黒い山を見なさい」
「え?」
「人と神にいろいろな違いはあれど、結局はどちらも生命としては同じ。天使や獣人と違い神と人に見た目の違いは少ない。神の種類は様々だけど、魔神も軍神も全能神も、形だけなら同じ形」
「……何ですかまた」
「黒い鎧だけで生きる兵など、魔神の軍勢にはいない」
神は自らの手を下しはしない。
神は人を試しはしない。
「全てはただの足掻き。何も始まらない。何も起こらない。何も終わらない。始まりはどこ? あなた達の始まりはどこ?」
「私たちの始まり?」
「アルクァード。彼がアルカディナの槍を取ったところで結局は何も起こってない。天使を殺しても、獣人を殺しても、黒い鎧をいくら壊しても。ふ、ふふ、くだらない。小さくて矮小な人間。どんなにどんなに変わることを願っても、どこまでもいつまでも無意味で無駄なその人生」
「そんなことは……!」
「ユーフォリア」
「は、はい!」
「ついてきなさい」
「……はい」
空は白く。太陽は熱く。
広い広い空に狭い人の世界が一つ。
少しずつ、少しずつ、何かが動き出そうとしている。それを誰も気づいていなかった。




