第25話 裏切りと魔女
湖畔から数日歩いたところに、その城はあった。
石でできた壁と、真っ赤な旗。王が住む城よりは小さいが、それでも立派な城がそこに建っていた。
城の周囲には町が広がり、人々が往来している。
男が道の真ん中で大きな声をあげている。男の目の前には宝石や髪飾り、女性を彩る様々な物が並んでいる。
女性モノのアクセサリーを扱う店なのだろう。男が呼び止めるのは道行く女性たち。ほとんどの女たちは見向きもしないが、時たまに足を止める女がいた。
彼女もまた、その店の前で足を止めた。
「お嬢さんどうだい? このネックレスは王都の職人が作り上げた特注品だよ」
店主が手に取った金色のネックレス。真っ青な丸い宝石が埋まり、日の光を受けて燦燦と輝いている。
黒髪の女は、そのネックレスを見て口元が緩んだ。確かに綺麗で、首元を飾るならば最高の物だろう。
自分には似合わないと思いながらも、ついついそのネックレスの値札を見てしまう。あの人ならきっと、誰よりも似合うだろうなと思いながら、値札の数字を確認する。
曇る表情。ああ、美しいものを手に入れるのはこんなにも難しいのかと、落胆しながら彼女は首を横に二度振った。
その店を後にする黒髪の女。ひやかしかよと、背中で店主が小さく呟いたのが聞こえた。
彼女は、悔しさを感じたが、そんなことは些細なことだった。早く帰らなければならない。騎士の職で得た給金で買った薬を待っている人がいる。早く帰らなければならない。早く帰らなければ――――
「カリーナ・エリン。今戻りました。開門を」
城の門は、固く冷たく、全てを拒絶するかのようだった。いつもならあるはずのエリン家の旗が無い。掲げられているのは黒一色の旗。
それは、喪に服す時の旗だった。誰か城の関係者が死んだのだ。変なタイミングに帰ってきたなと、彼女は思った。
カリーナ・エリンはここら一帯を治めるエリン家の一人娘だった。彼女は厳格な父と、優しい母の間に生まれた。彼女にはいくつか歳が離れた弟がいる。
父はカリーナが小さい時に病で亡くなり、母はそれを気に心を病んで早死にした。現在の領主は彼女の弟だが、弟は病に侵された上に幼かったため、実際のところ今治めているのは彼女の叔父だった。
「……聞こえてない? 開門を。開門を!」
この世界において、貴族など、領地など本当は意味がない。全て、全て虚像。神が作り上げた仮初の階級。
統治するということは、即ち管理に繋がる。人の流れ、人の生活、人の仕事。人は、役割があればそのように振る舞うものだ。
数百年、あるいは数十年。その程度の歴史しかなくとも、人はそうであると言われればそのように思い込むものだ。
だがそれでも、貴族であるからには、逃れることはできないものがある。
それは
「あ」
――――権力闘争。
城門が開いた。音を立ててゆっくりと、しかしながら早く。
出てきたのは槍を持つ数人の兵士だった。エリン家の私兵。鎧にはエリンの紋章が刻まれていた。
出迎えにしては仰々しく禍々しい。兵士たちの顔は、なんとなく怒っているようだった。
兵士たちはカリーナを囲む。
「……? カリーナです。カリーナ・エリン」
訳が分からず、カリーナは自らの名を連呼する。黒い髪に黒い瞳。カリーナの顔が、不安で染まっていく。
兵士たちの腰には黒い布が括りつけられている。やはり誰か死んだのだ。この城とって重要な誰かが。
「……何をしているのです。私は、エリン家の、カリーナ・エリンです。誰の命令ですか? 武装して私を囲む。それだけでも不敬だということが」
「黙れ!」
「なっ」
兵士たちは槍の穂先をカリーナに向けた。先端が日の光を受けて強く輝く。
怒りに染まる兵士たちの顔。カリーナは確信した。彼らは怒っている。理由はわからないが、自分を殺したいほど怒っている。
カリーナの腰に剣は無い。あるのは弟のために買ってきた心臓病の薬と、数枚の金貨が入った袋だけ。如何に騎士として鍛錬を積んだ彼女であっても、無手で兵士数人を相手取るなど自殺行為。
カリーナの頬を冷たい汗が流れた。
「やめんか皆! そうと決まったわけではない!」
その時だった。大きな怒号が、城壁の向こうから飛んできた。
兵士たちはびくりと身を跳ねさせた後、槍を納め城門に向かって膝をついた。
開かれた城門の中から、煌びやかな貴族服に身を包んだ初老の男が歩いてくる。
「ダルガン、叔父上……」
その男はカリーナの叔父だった。彼もまた、腰に黒い布をつけていた。
「叔父上、これは一体」
「カリーナ、ヴィクトルが死んだよ」
「……は?」
「昨晩だ。お前が前に置いていった薬を飲んで、そのまま眠るように死んだよ」
「……なんで?」
「カリーナよ」
「な、ん、で?」
ヴィクトル・エリン。エリン家の現当主であり、カリーナ・エリンの弟。
カリーナは、ただ眼を丸くして立ち尽くしていた。
「なんで? 心臓病は、だって、心臓病は、まだ、まだ大丈夫だって。激しい運動をしなければ、あの薬があれば、大丈夫、だって、医者が」
「カリーナよ。違うならば違うと言え」
「そんな、こと。だって、もうすぐ、だって、許してもらって騎士のままでいれたから、あと少しで神の国に」
「お前が殺したのか?」
「――――え?」
その言葉は、カリーナの頭を真っ白にした。
思考が飛んだ。意識が飛んだ。今いるこの場所が、どこかわからなくなった。
「ヴィクトルの死因は毒だ。医者がそう言った。心臓の弁は確かに破れていたが、病からではない。毒だ」
「ど、く?」
「毒は、ヴィクトルが飲んでいた薬からも見つかった。もう一度聞こう。お前が殺したのか?」
粟立つ肌。飛ぶ意識。
兵士たちは怒りの表情で彼女を見ていた。ダルガンもまた、同じように怒りを込めた顔をしていた。
カリーナの弟であるヴィクトルは、まだ10代も前半である。彼の笑顔が、カリーナの脳裏に浮かぶ。
大切な弟。両親が死んだ時に誓った、この子だけは死なせないという想い。
「やはりそうなのか?」
――ダルガンの言葉に、何故か怒りを覚えた。
「そんなことするわけが……ないでしょうが!」
叫んだ。
「叔父様! ヴィクトルに会わせて! どこ!? どこよ!?」
「カリーナ」
「ふざけるなぁぁぁぁあ!」
兵士たちは一斉に立ち上がり、槍を彼女に向けた。カリーナの声は、ダルガンの身の危険を感じさせるほど鬼気迫っていたのだ。
「ふざけるな! ふざけるな! 私があの子を殺そうとすると本気で思ってるの!? 死んだ、死んだって!? ふざけるなダルガン!」
「落ち着きたまえ……」
「お父様が死んだ時! お母様が死んだ時! あなたは何もしてくれなかった! 何も! あとから出て来て優しい言葉だけで! ヴィクトルに薬すら用意してくれなかった! 私が騎士になる必要なんて、なかったのに! ユーフォリア様を裏切る必要なんてなかったのにぃ!」
「落ち着け」
「神の船に乗るお金だってこの城の宝物庫から出せばすぐだったのに! 死んだ!? あんたが殺したんでしょう!? そんなにこの家が欲しかったの!?」
「ちっ……おい、こいつはもう駄目だ。妄言しか言えなくなってしまった。どうやら自らの罪に負けて壊れてしまったようだ。地下牢に入れろ。処刑は葬儀が終わってからだ」
「はい!」
「ふざけるな! 会わせろ! ヴィクトルに会わせろ! ふざけるなぁぁぁぁ!」
槍の柄をカリーナに振り下ろす兵士たち。槍の柄は硬い木でできている。それが容赦なく彼女の身体に降り注いだ。
カリーナは、両膝をついた。
「ふざけるな……ダルガン……お前、お前が……やったんだ……!」
長い槍の柄を掻い潜り、ダルガンは顔をカリーナの傍に持って行った。その顔は兵士たちからは見えなかったが、確かに、確かに笑っていた。
カリーナの耳元に口を当て小さな小さな声でダルガンは呟いた。
「ありがとうカリーナ。なかなか死ななかったが、ようやっと死んでくれたよヴィクトルは。これでこの地は私の物。しかしいいタイミングで帰って来てくれた。本当に、ついているなぁ私は」
「ぐうううう!」
「君がせっせと運んだ薬。売った金では遅効性の毒薬を買うのには少し足りなかった。毒は高いものだなぁ……宝物庫を少し開けてしまったよ……ふひひひ……」
「ダルガン……! 私たちはあなたを……それでもあなたを……家族だと……思っていたのにぃ……!」
「ふふふふ……」
あまりにも、あまりにも醜いかった。ダルガンの顔は、あまりにも醜かった。
怒った。怒りで脳が沸騰しそうなぐらいにカリーナは怒った。殺したいと思った。その醜い顔を、ぐちゃぐちゃに砕いてしまいたいと思った。
肩口を槍の柄で抑えられて腕が上がらない。辛うじて動かせるのは肘から先のみ。
カリーナは指をパチリと弾いた。何故そんなことをしたのか彼女にはわからなかった。ただ、そうしなければならないと、頭の中で何かが言ったから、そうした。
彼女が生きてきた意味も、誓いも、全ては無意味になってしまったが、それでもその行為に意味はあった。
――――炎。
「ダルガン様!?」
「ああ……? 何だ? 熱く……」
「ダルガン様! 足ぃ!」
「あし?」
それは、純粋な『炎』だった。原初の『炎』だった。
全ての動物が恐怖する、『炎』だった。
「燃えろ……燃えてしまえダァルガァン……!」
炎は、ダルガンの足の中から発生した。
奇妙な絵だった。足の中が明るく輝いたと思ったら、一瞬のうちに肉と皮を破って炎が外へ出てきたのだ。
まるで生きている蛇のように、炎は肉を破り足を喰らう。燃えて燃えて、焦げて崩れて。
「な、なんだこれは!?」
ダルガンは瞬く間に立つことができなくなった。足を登る炎は、膝を灰にし、太ももを灰にし、上へ上へと駆けのぼっていく。
「ぎ、ギャアアアアア! 痛い! 痛い痛い痛い!」
痛みは遅かった。炎はそれほど早く燃え広がっていたのだ。
ダルガンがのたうち回る。すでに足は灰になり崩れている。そのまま上へ上へ、上へ上へ。
「あああああああ!」
あっという間だった。ダルガンの身体はあっという間に白い灰になった。燃え尽きてしまえばもう何も言わないし何も反応することはない。ダルガンの野望は、白灰となったのだ。
抑えつけていた槍の柄を押し広げて立ち上がるカリーナ。黒い眼が、兵たちを見る。
「魔女……魔女だ。テンプルに、テンプルに連絡」
パチリとカリーナは指を鳴らした。数人の兵たちの身体の中に、炎が生まれた。
兵たちが炎に包まれて焼けていく。黒い髪のカリーナは、それをただ見ていた。
「魔女……ふ、ふふ、はははは………!」
それは、何の笑いだったのか。もう彼女には、わからなかった。
カリーナは、城に背を向けた。彼女にここにいる意味はなかった。もう帰ってくる必要もなかった。
エリンの城の城門の前に、白い灰の山ができる頃には、カリーナはもうどこにもいなかった。
そして全てが終わった後、世界中に神の声が響き渡った。
「本日は晴天です。皆様今日も元気に働きましょう。本日は、神より重大なお報せがあります。お静かに、お聞きください」




