第20話 生きるための理由は
生きている者はいつかは死ぬ。百年経たずして人は死ぬ。
生きている者は、総じて死にたくはないものだ。
死の間際であれば誰しもがそれを実感する。事実、頭の先から喰われた者は痛みと恐怖を死の間際に感じていた。
生きている者は、死にたくはないと思うものだ。心の底から諦めている者など一人もいないはずだ。
叫ぶ竜。舞う天使。駆ける騎士。その牙は、その槍は、その剣は、決して人を守るためのものではない。
それを理解して尚、その場から逃げようとしない者を、守る必要などあるのだろうか。
「カリーナ、頼みがあります。どうか、町民をこの場から離してください。間引き以外の殺戮は、決して神も求めていないはずです」
「でしょうね」
人を守ろうとするユーフォリア。そのユーフォリアに剣を向けるカリーナ。
テンプルの騎士。神の使徒。赤鞘の守護者。カリーナ・エリンはその長い黒髪をなびかせ、剣を向ける。その瞳に、欠片の情も無く。
人たちは、皆、不安そうな顔をしていた。皆、苦しそうな顔をしていた。
彼らは知らないのだ。生き方を知らないのだ。神の命のままに日々仕事をし、日々平凡ながら家族と幸せな時間を過ごし、そして眠る。
町民としての資格。町民としての生。物心ついた時から植えこまれたその生き方は、彼らの全てである。
彼らは知らない。神に言われた聖堂の前に集まれという命令を、破ることを知らない。命令に逆らうことを知らない。何故なら、彼らは考えれないから。
「神様、聖女様はああ言っています。私たちは逃げてもいいのですか?」
彼らは神の言うことしか聞けないから。
――この世界に、一度でも疑問を持った者にとっては、もう理解などできない。
「なんで聞かなきゃ、駄目なの?」
故郷を壊された少女はそこに立つ一人の男に疑問を投げかける。男には、少女は見えていない。少女の言葉は届いていない。
「ユーフォリア様。どうか、ここで死んでくれませんか。この騒動は、貴女達のために起こっています。貴女が死ねば、きっと天使様も竜種を下げてくれます。私も、騎士のままでいられます」
「カリーナ……っ!」
「死になさい。私たちのために死ぬのです。聖女ユーフォリア。貴女が聖女としてできる最後のことは、死ぬことなのです」
赤鞘が日の光を受けて輝く。聖女護衛騎士がカリーナ・エリン。守るべき人に剣を向ける彼女は、いつの間にか笑っていた。微笑んでいた。黒く黒く、微笑んでいた。
「貴女はいいですよね。法術を使って人を癒して、町を回って手を合わせて、たったそれだけで貴女はちやほやちやほや。上位騎士たちはみーんな貴女の虜。いいですよね悩みなんてなくて」
「……それは」
「私なんて、貴族の娘に産まれたのにこの様ですよ? 父が心臓の病で死んで。母は父の後を追って死んで。10歳で家督を継いだ弟は、父と同じ病のせいで屋敷から出られず。叔父は弟の代わりに領地の全てを自分の物にして、私は騎士として中央へやられて、生まれ故郷から離されて」
「カリーナ……確かに同情はします。ですが」
「同情? ふふふ……やっぱり貴女はその程度。貴女に私たちの心なんてわからない。やっぱり私は、貴女が大嫌い。殺したいほど大嫌い」
「カリーナ。わかります。言いたいことは分かります。ですが、今は町の人をここから離すことが大事です。死ななくていい人は、死ななくていいんです。神の言葉が無くても、それは生きている人ならば当然に受ける権利なのです。生きることは許されるのです。だから、私も生きたいのです」
「ふふ……ふふふふ」
微笑みは氷のように。黒い瞳はユーフォリアの心を貫くように。
「自分勝手。どこまでも自分勝手。本当に自分勝手。矮小な人がどんなに頑張っても、結局人は人。人は罪人です。罪人として生まれたのだから、罰を受けるのが人です。貴女達は異常です」
剣と赤鞘。黒い瞳。怯える衆人に、黙るユーフォリア。
「首を差し出しなさい。せめて痛みを知らぬよう、確実に一振りで斬り落としてあげます。聖女様。貴女の命、捧げてください」
「カリーナ、あなたの弟。エリン家の当主のはずです。前々から疑問でした。エリン家は神に定められた10大貴族の一つです。相当の財産が有るはずです。何故、あなた一人が弟の病の面倒を見ているのですか? エリン家は何故助けないのですか?」
「……なに?」
「あなたは何故弟を助けたいのですか? あなたは何故、家が見捨てた弟を助けようとするのですか?」
「何が言いたいの?」
「あなたは、知っている。人は本当は生きるべきだということを知っている。だって――あなたは弟に死んで欲しくないと思ってるんですもの」
黒い服と、青い髪。ユーフォリアの言葉は前に飛んで。
テンプルの騎士カリーナ・エリンは神の使徒。神のために振うために剣を持たされている。
夢も無く、希望も無く、選んだ仕事ではあるが選ばされた仕事でもあって。
「カリーナ。あなたには、救いたい人がいる。私にとってはこの町の人がそうであって、私自身がそうなのです。あなたが私に全てを捨てろと言うのならば、私はそれはできないと言います。何度でも、何度でも。あなたと同じように、何度でも」
「けむに巻いて……ふわふわと戯言を並べて……自分勝手。なんて自分勝手……知らないくせに、この町の人、誰一人知らないくせに」
「ええ、そうですね。でも、無意味に人は死ななくていい。それは誰でもない、ある神様が私に言ったことです。私たちに言ったことです」
「神は人にそんなことは言わない」
「言いました。人の世界はとても狭くて、とてもちっぽけで、でも人は美しいと、小さな力でありながら諦めず立ち向かえる人は美しいと、あの方は言いました。だから、私はこの人たちを救います」
「逃げることを知らないのに?」
「ならば私がここで敵を食い止めましょう」
「は?」
そう言うと、ユーフォリアは両手をあげた。怯える人たちを背負って、彼女は立ちふさがった。
武器も無く、力も無い。それでも彼女は両手をあげた。人々を背に、カリーナを前に。
「カリーナ。ここからは一歩も通しません。竜も、天使も、騎士も、誰も通しません」
「……できるわけがない」
「それはどうでしょう? やってみなくてはわからないと思いませんか?」
「戯言を。もしかして、その姿に感動して私が剣を止めるとでも思ってるの?」
「止めてくれますかカリーナ?」
「そんなわけないでしょ」
「がっかりです」
空が鳴る。意志が固まる。
カリーナはその銀色の剣を両手に持ち、振りかぶった。最も力の入る構え。防御も何も考えない、大上段の構え。
目の前には両手を広げるユーフォリア。その眼に、一切の曇りは無く。
互いの眼を見る。互いの心を見る。数年ではあるが、ユーフォリアとカリーナは確かに共に生活を送った。共に生きていた。情が沸かないわけがない。
ユーフォリアからカリーナ。カリーナかrアユーフォリア。そこには好意があった。悪意もあった。それでも、確かに二人は共にいた。
カリーナの手が震えた。この剣を振り下ろさなければ自分はきっとその責任を問われる。自分はきっと騎士を追われる。そうなればきっと、自分の今までが全て泡となる。
だから、振り下ろさなければならない。だから、殺さなければならない。だから、やらなければならない。
自分のために殺さなければならない。
カリーナは、すでに神のためには生きていなかった。彼女は自分のために、自分が守りたい者のために生きていた。
この世界において、人は神のために生きなければならい。彼女は神のためには生きていない。
だから――その剣は強い。その剣に強い意志が込められる。
カリーナ・エリンは剣を振り下ろせる。ユーフォリアは彼女の姿を見て、それを理解した。それがわかった。
このままここにいれば確実に死ぬ。それを理解した。理解して、それでも彼女から目線を離さなかった。
時は進む。時は色を得る。時は人を染める。
「私、お金ためて、アルゴの船に乗るの。あの子連れて乗るの。神の国に行けば、あの子も治せるんだよユーフォリア。あと数年しか生きられないってお医者様は言ったけど、神の国ならば治せるの。一万枚の金貨を集めれば、私は船に乗れるの」
「カリーナ……それがあなたの、目的?」
「私はあなたを殺して、必ず船に乗ってみせる……乗ってみせる……ユーフォリア、あなたは、私にとって、憧れでした」
夢のための犠牲をここに。
カリーナは剣を握り直した。その眼に涙。これから流れる血に対しての涙。
その犠牲、受け入れられない者が二人。
小さな手だった。小さな身体だった。小さな意思だった。
その小さな身体をユーフォリアの前に出して、二人の子供が両手を広げて彼女を守った。
少年は恐怖の前に泣きそうな顔をして、立っていた。
少女はただ哀れみの眼を向けて、立っていた。
何も言わなかった。二人は何も言わなかった。驚いた顔を見せるユーフォリア。驚いた顔を見せるカリーナ。
カリーナの剣は止まった。小さな二つの命の前に、彼女は剣を振り下ろすことができなかった。
必死に、泣きながら、断腸の思いで家族のために親愛なる人を殺す覚悟をしたカリーナにとって、その上さらに子供を殺す覚悟などできなかった。
カリーナは剣を下ろした。赤鞘を、投げ捨てた。
「おう、終わったか?」
横から声がした。ユーフォリアたちは横を向いた。
血の海だった。竜の死体が山のように積み重なり、天使たちは一つ残らず肉の塊になっていた。
騎士たちの胴体が転がっている。まさにそこは血の海。赤と青、竜と天使の血の海の上に立っていたのは二人だけだった。
「はぁー久々に運動したぁ」
長銃を杖に、大きく息を吐くメナス。
「無茶すんなよてめぇら」
大槍の柄を縮め、背に仕舞うアルクァード。
「アルク」
「終わったんなら行くぞ」
「……うん」
いつの間にか、彼らの傍に巨大な天馬がいた。アルクァードはユーフォリアの腰を持ち、軽々と天馬の背に乗せる。
少年リオンと少女ミラも同様に、最後に自分が乗ろうと、天馬の鐙に足をかける。
「おいそこの女。名前、何て言うんだ?」
「……カリーナ・エリン」
「そうか。お前、悪くなかったぜ」
「……え?」
そして彼らは去っていった。大量の血と、沢山の人を残して。
カリーナは立っていた。いつまでも立っていた。赤鞘を拾うことはなく、剣を納めることも無い。ただ無言で、その場に立っていた。
人々は一人、また一人と家に帰っていった。夜になったから、今日は寝なければいけないから、帰ったのだ。
人の世界。壊れた世界。人は何のために生きて、死ぬのか。
遥か遠く。どこまでも道は伸びていた。




