第17話 魔女と大槍
人の足は、歩くためにある。
逆に言えば、歩くためには足が必要なのだ。
道はあった。最初からそこにあった。幸いなことに、今までは誰もその上を歩かなかったが、道はあった。
地鳴りが鳴る。人が見上げる。白い蹄が地面に刻まれる。
それは巨大な天馬だった。よく見ればそれには片方の翼が無かった。それでもその馬は、誇らしく力強く、地面を雄々しく歩いていた。
天馬の上に座るは巨大な男。平均的な成人男性の二回りは大きい。顔には傷が走り、鎧は赤錆びている。太い腕。太い足。赤錆びた鎧の隙間から覗く肉体は、鍛えあげられていて。その姿、強さを感じさせるには十分。
聖堂前の大広場。火刑に処された魔女の火を払ったのは巨大な槍。その穂先はまるで大盾のように大きく、その絵は人の腕のように太い。その重厚感、一人の人間では持ち上げれないということが、見ただけでわかる。
一歩。天馬はまた歩いた。広場の周りにいた衆人たちは慌てて天馬の前から退く。踏みつぶされれば間違いなく死ぬであろう巨大な天馬の脚が、衆人たちのすぐ傍に降りる。
その姿。神々しくも禍々しいその姿。テンプル騎士団の騎士たちは全員剣を抜いた。天使たちは全員槍を構えた。
あの男は危険すぎる。
その場にいた全ての人がそう思った。槍を投げ、無手となった男ではあるが、それでも誰一人楽観視はしなかった。
叫んだのは誰か。大声をあげたのは誰か。
「捕らえようと思うな殺せ!」
綺麗な剣が並ぶ。騎士たちの銀色の剣だ。実戦で使ったことは無いのだろう。並ぶ騎士たちの剣は、曇りすらなかった。
馬上で男は口角をあげて笑う。殺そうとしているのか殺されようとしているのか、迫りくる騎士たち一人一人に心の中で問いかけて、彼は左手に銃を取り出した。
火砲。金属の筒に火薬と弾を充填し放つは銃。銃口を向けて、男は片目を瞑る。
狙いは先頭。意気揚々と剣を振りかぶる勇敢な騎士。火砲の上部についた照準器にヘルムの中心を合わせる。
剣に自信があるのだろう。自分に自信があるのだろう。先頭の騎士は、真っ直ぐに白い天馬に跨る男に迫る。
笑う。彼は笑う。そして呟く。小さな声で呟く。迫る騎士に向かって、呟く。
「覚悟はできてるよな」
引き金を引けば、火砲の右側についた金具が火薬の乗った皿に落ちる。先は火打石。カチンと落ちれば小さな火種が生まれ、それは黒色火薬に火をつける。火は筒の内部に伝わり、内部の火薬を炸裂させる。
弾きだされるは弾。丸くて柔らかい鉛の塊は鉄の筒を通り外へと飛びだす。
向かうは先頭の騎士のヘルム。鉄製のそれを、軽々と貫くは巨大な鉛球。薄い鉄如きではそれは防げない。
ヘルムの中にあるのは頭。眉間の中心に鉛弾は食い込み、そして、持って行く。その中の物を持って行く。
先頭を進んでいた騎士は真後ろに吹っ飛び倒れた。ヘルムの中心には大きな穴が開いていた。
見た目はそこまで悲惨ではなかった。貫通はしなかったから、ヘルムの形だけは残っていた。しかし、それだけ。ヘルムの中に、もう人の顔はなかった。
臆病な騎士は、それを見て足を止めた。勇敢な騎士は、それでも足を止めなかった。
一体どちらが、正しい選択なのだろうか。
「悪くない。いい蛮勇だ。全く意味はねぇのが、悲しいな。なぁアガト」
「グオオオ……」
深いうなり声。巨大な天馬は鼻から息を吐いた。
「行くぞ」
そして、天馬は駆けだした。白い足、白い身体。まるで地鳴りのような音を立てて、それは走った。
騎士たちは驚いた。遠目に見ていたよりもそれはずっとずっと大きく、強かったから。
天馬は駆けた。真っ直ぐに駆けた。剣を握る騎士に対して、一切の眼もくれず。
容赦などなかった。躊躇などなかった。鎧を着こんでいた騎士たちの頭の上に、巨大な天馬の足が現れた。
「か、母さん……」
最期にその騎士は母を呼んだ。呼んでどうなるものか、ただ暖かさの中に還りたかっただけなのか。還ってどうなるものか。
天馬は容赦なくその騎士を踏みつぶした。人の形は一瞬で崩れ、現れたのは赤い水たまり。鉄の鎧はひしゃげ、潰れ、身体に埋まり、赤で染まった。
それを見て、勇敢な騎士の半分は脚を止めた。考えるのをやめた騎士だけが、足を止めなかった。
「アルク!」
「応!」
彼の名を呼ぶ声と同時に、大きな槍が飛んできた。それは彼が投げた大槍。飛ばしたのは磔から解放された魔女ユーフォリア。
重いそれを軽々と飛ばすのもまた、奇跡。聖女であった彼女の法術の前に、重さは意味をなさない。
大槍を受け取るアルクァード。右腕でそれを力の限り握り、天馬の速度を乗せて力いっぱい真横に振り下ろした。
巨大な槍は超重量。速度も乗ればその威力は絶大。
剣を掲げ駆けてきた騎士三人が、その槍の前に両断された。一人は胸、一人は腹、一人は頭。金属を断つ音と共に、騎士たちは肉塊となって周囲に跳んだ。
それを見ていた衆人たちはついに声をあげた。それは叫び声。それは感嘆の声。それは哀しみの声。それは喜びの声。
翼が、舞った。一際煌びやかな衣装を着こんだ天使の一人が、空に舞い上がった。
天高く舞い、金色で銀色な槍を構え飛び掛かる神の使い。その速度は、風のように速かった。
そして、天使は言った。
「ここまでだ!」
その瞳は赤く輝き、その翼は純白で、その髪は黄金色。天使の男は、澄んだ声で雄叫びをあげながらアルクァードの真上から槍を突き出した。
真上は死角。見上げるだけで人は動きを制限される。さらには馬上。不利な条件が重なっていた。つまりは必中。確実に人を殺せる一撃。
百戦錬磨のアルクァードでなければ、その一撃は防ぐことはできなかったであろう。アルクァードは大槍翻し、盾のように頭の上に構えた。天使の一撃は、その大槍の中心に突き刺さった。
甲高い金属音が鳴り響く。アルクァードは槍を押し返しながら振り払った。天使はバランスを崩してよろけながら空へと舞う。
それを視界に入れるために天馬アガトは足を止めて、前足をあげて天使の方を向き直した。
「へぇやるじゃねぇか。天使の中にもお前みたいなやつがいるのか」
アルクァードは自分の大槍の腹を見て、天使の一撃を受け止めた場所を確認する。当然のように大槍に、一つの傷も無い。
「つまらん下界の任務と思っていたが、中々に面白い男がいたものだ。私は軍神ブラガの軍勢が一門、大天使マスティ。人よ。名は何という?」
「アルクァード。姓はない」
「アルクァード……人であることが惜しいほどの勇よ。その大槍、どこで手に入れた?」
「秘密」
「そうか。それもよかろう」
大天使マスティ。その姿は他の天使とは違い、ただひたすらに誇りに満ちていた。
白い翼を広げ、マスティは空に止まる。天馬アガトは脚を止め、その上に座るアルクァードは手綱から手を離し槍を両手で構えた。
二人は、空と地面、互いに穂先を額に向けあった。
周りの騎士たちは手出しできない。天使たちも息を飲んでいる。衆人たちは眼が離せない。
「なぁ、大天使様よ」
「なにか?」
「疑問に思ってたんだ。天使ってさ。翼斬り落とされても治るのかい?」
「羽が落ちたくらいならば生えるが、骨を断たれれば治らん。それがどうかしたか?」
「あっそう。手足と同じか」
「……行くぞアルクァード」
羽が落ちる。大天使マスティが槍を高々と掲げ、翼を大きく広げる。
強く、マスティは羽ばたいた。轟音と共に空に舞い上がるマスティ。
位置はアルクァードの真上。先ほどと同じ。羽が落ちる。マスティは真上に跳びあがり、そして翼を広げ力を上から下に。方向を変えて今度は降りようと羽ばたいて――
羽が落ちる。
「今度は防げ……うぐっ!」
羽が、堕ちる。
「痛み……? 翼に……?」
大天使マスティ。天使の中でも実力者なのだろう。一際煌びやかな衣装を着て、美しい槍を握る彼の姿は、他の天使と比べても美しかった。
マスティは自分の背を見た。自分の右の翼を見た。痛みが翼に走ったからだ。
そして、見えた。自分の翼の2/3が、無い光景を。
「何だと!? いつの間に!?」
アルクァードは溜息をついて、構えていた槍を下ろした。彼は天馬の向きを魔女ユーフォリアが待つ磔台の方向へと変えた。
「う、うおおお! しまったバランスがっ……ぐ、おおおおおお!」
落ちるマスティ。如何に大天使と言えども片翼では飛び続けられないのだろう。右へ左へとひらひらと舞いながら、彼は落ちていく。
聖堂から離れた遠く、居住区画の方へと彼は消えていった。小さな土煙が上がっている。屋根か地面か、どこかに落ちた証。
天使たちは唖然とした。騎士たちは唖然とした。悠々と、アルクァードは彼らの間を進み、磔台の下へとたどり着いた。
彼は磔台の前に立つ黒いドレスを着た元聖女のユーフォリアを見ると、微笑み、声を掛けた。
「よぉユーフォリア。待たせたな。迎えに来たぞ」
その言葉が嬉しかったのか、それとも可笑しかったのか、ユーフォリアは笑った。嬉しそうに楽しそうに笑った。
アルクァードはユーフォリアに向かって手を伸ばす。彼女もそれを受けて、手を伸ばす。
手と手が触れる――
「待て!」
それを邪魔したのは一人の女騎士だった。アルクァードとユーフォリア、二人の手の間に剣を差しこみ、赤鞘の女騎士は二人を止める。
「カリーナ。邪魔しないで」
「魔女、ユーフォリア。そして異端者アルクァード。このまま、行かせはしない。行かせたら私は、私は騎士を辞めなくてはいけなくなる。そうなれば、誰があの子の手術代を……!」
「カリーナ……」
「行かせない……行かせない……! 殺してでも……!」
「あっそう、じゃあ死んでも文句ねぇな」
アルクァードは右手に持っていた大槍を持ち上げる。振り下ろすために。
「アルク待って! カリーナはアルクの後を継いでずっと私を守ってくれた! だから殺さないで!」
その槍を手で抑えるユーフォリア。アルクァードは、小さく溜息をついて、槍を持ち上げるのをやめた。
「カリーナ、あなたのことは知っています。病気の弟。心臓の病。それの治療に莫大なお金が必要なことを知っています。騎士を辞めれば、それは果たせなくなるでしょう事も知っています」
「だったら、死んでくださいユーフォリア様。私のために、私たちのために……!」
「それはできません。私は、死にたくないんです」
「ぐっ……自分勝手、自分勝手……貴女はもっと、人のために生きていたはず……そんな、自分勝手なことを言う人じゃなかったはず……!」
「カリーナ。それは違います。本当は私は」
「待てユーフォリア。後にしろ」
「えっ?」
「何か来るぜ」
音がした。遠くで何かが羽ばたく音がした。
バサバサと鳴る音。時折聞こえてくる甲高い音は鳴き声か。鳥のような羽音。獣のような鳴き声。
「ユーフォリア、ミラとリオンは?」
「向こうに逃がしてるけど」
「呼べ。近くにいた方がまだ守りきれる」
「う、うん。何、何が来るのこれ?」
「トカゲだ。でかい翼の生えたトカゲ。天使ども、形振り構わなくなってきたな」
「竜!? うそ何で!?」
「俺が来ること、予想してたなたぶん。なぁ女騎士。そうだろ?」
「そうよ……あなた達のせいよ……」
「ちっ……てめぇらが俺の荷物どっかやっちまったせいで火砲の弾ねぇんだぞ。めんどくせぇなぁったく……」
アルクァードは空を見上げた。朝日が昇り、空は真っ青だった。
遠くに見える黒い影。一つや二つではない。その数はパッと数えただけでも数十はあった。
竜の鳴き声が、周囲に響き渡った。




