第13話 清浄な世界
法力は神の力である。
その力は世界に干渉できる力である。
その力は奇跡を起こすことができる力である。
法力を用いて行う奇跡。それは、言い換えれば世界を操作する術であると言える。
故に法術。神が、行う奇跡は全て法術。
例えば天、雷を走らせ、雨を降らす。例えば地、大地を揺らし、山を噴火させる。例えば町、声を人に届け、その全てを管理する。例えば部屋、蝋燭に火をつけ、明るさをもたらす。例えば身体、傷口をふさぎ、怪我を治す。
法術の前にはあり得ないということはあり得ない。
それは、全てを変える術であり、力である。
つまりは、法力は神の力であり人の世界にあってはいけないモノである。
しかしながら――世界にはそれを持つ人が極稀に生まれることがある。
奇跡の体現者。現人神。神の力を持つ人。
人はそれを、聖人と呼んだ。
神にしかできないことができる。
神にのみ許されていることができる。
指を弾けば独りでに蝋燭の灯が着き、傷口に手を添えれば、その傷はたちまち癒えてしまう。
雨の中、手を翳せば太陽が現れ、極寒の地を歩けば花が咲く。
それは、神にのみ起こすことができる奇跡である。
――その存在は、許されない。
故に、聖人として、聖女としてこの世界に産まれてしまった者は、その全てを神に捧げなければならない。
彼らには自由は無い。
法力があることが判明した瞬間から、聖女はテンプル騎士団の管理の下に置かれる。そして、聖人は、聖女は象徴として奉られる。死ぬまで、奉られる。
最も神に近いものとして、祈りを捧げられる存在になる。
その血はそこで絶やさねばならないから、彼らに自由は無い。
恋、愛、夢。その全て、生涯許されることはない。
生涯、幸せになれない。
――死ぬまで
――しあわせになれない
太陽が真上に昇り、影がだんだんと短くなっているその時に、汚水撥ねる排水溝の近くに聖女ユーフォリアは立っていた。傍にいるのは片翼の巨大な天馬。
天馬の首を撫でて、彼女はその巨馬の眼を見ている。巨馬の眼は綺麗で、静かで。ただじっと、主が排水溝から出てくるのを見つめていて。
「ねぇアガト。連れて行ってって、私言ったらアルクは、私を連れて行ってくれるかな……?」
水が流れる音がする。どこから流れて来たのか、人の身体の一部が排水溝から流れ落ちていく。
聖女ユーフォリアは哀しそうな顔をして、天馬の首を撫でている。天馬は彼女の言葉に反応しない。ただ静かに、ただじっと、主が来るのを待っているだけ。
「アルカディナ様の時は、連れて行ったよね……じゃあ、私も我儘言ってもいいかな……? ねぇアガト……どうかな……?」
天馬は答えない。ただじっと、水路を見ている。
「うん……わかってる。そんなの言えないよね。アルクの、邪魔しちゃ、駄目だよね。アルクは、仇を取らないといけないんだから。あなたの、主人の仇を取らないといけないんだから」
天馬は答えない。ただ、瞼を静かに閉じる。
「ねぇ、アガト。アルクって、昔は凄い楽しそうに笑う人だったんだよ。あんな風に、苦しそうに笑う人じゃ、なかったんだよ。何て言うかな、あの人と一緒に笑ってるとね。全部がどうでも良くなってね、楽しくなってね……楽しかったなぁ……あの旅……楽しかったなぁ……」
天馬は答えない。ただ、頭を静かに、下に降ろす。
聖女として生を受けたユーフォリア。人としての幸せを許されない彼女。その彼女に、片翼の天馬は何も答えられない。
聖女は恋をしてはいけない。愛してはいけない。夢を持ってはいけない。
ユーフォリアには夢があった。愛もあった。恋もあった。
してはいけないと神が定めたとしても、彼女は聖女と言う置き物ではなく、生きた人。だから、そんな決まり事、守れるわけがないのだ。
ユーフォリアは思いを馳せる。この天馬に、跨る男の顔を思い出して、その優しい笑顔を思い出して、その凶悪な笑顔を思い出して、彼女は眼を瞑る。
「アルカディナ様ごめんなさい。私、やっぱりあの人を……」
独白。誰に言うでもないその言葉。
静かに目をつぶり、彼女は一人、想いを告げた。片翼の天馬は答えない。ただ哀しそうに、主を待つばかり。
――そして、少しの時の後。
「はぁはぁはぁ……ああ、出口、出口だぁ……ミラちゃん、アルクァードさん、出口ですよ出口」
排水口。巨大な配管の中から少年の声が聞こえた。バシャバシャと水の上を歩く音もしていた。
ユーフォリアは眼をあけ、排水口を見た。音がだんだんと近づいてくる。
「やったぁ! 外だぁー!」
最初に飛び出てきたのは少年リオンだった。全身を排水で汚し、彼の黒髪は額にべったりと着いていた。
遅れて出てくるは少女ミラ。真っ黒に汚れた服からは、水滴がしたたり落ちている。
そして、最後に現れる一際大きな男。
「おかえりアルク」
「ああ、待たせたなユーフォリア。意外と水路が長くて、参ったぜ。おおアガト、待たせたな」
「グオオオ……」
天馬の首を平手で叩くアルクァード。天馬アガトは主の言葉に答える。待ちくたびれたと言わんばかりに。
彼らは聖堂地下の監獄から脱出した。アルクの背には大槍が輝き、赤錆の鎧は日の光を受けてより一層赤く輝いていた。
「ユーフォリア、水路の鍵、貸してくれ」
「うん。これ」
「ああ。おいリオン、鍵掛けとけ。念のためな」
「はい!」
アルクに言われて、リオンは水路の門を閉めて鍵を掛けた。水路は町の外に続いている。外から町の中へも入れてしまうために、しっかりと普段は鍵がかかっているのだ。
「あーあ、酷い目にあったぜ。ユーフォリア、そっちはどうだったんだ? あの騎士共全部死んだか?」
「ううん、アルクが斬ったテンプルの騎士、執政官とヘルム割られた人以外は一応生きてた。手加減したんだね」
「いや、ただ剣がなまくらだったせいだな。まぁ別に死んでても生きてても関係ねぇけどな」
「……ごめん、倉庫にあった適当な剣。適当に装飾しただけだから」
「いいよ。十分だ。今ここにこうやっているしな」
「うん」
「ふぅー……」
アルクは大きく息を吐くと、背や腕を伸ばし始めた。パキパキと関節が鳴る音が周囲に響き渡る。
首を左右鳴らし、また息を吐いて、周囲を見回して、もう一度息を吐いて。
「よっし、なんとか、なったな……やれやれ、たまんねぇぜテンプル騎士団……なんでああなったかね」
「最近ね。テンプル騎士団かなりおかしくなってるの。前騎士団長の頃はそうでもなかったのに」
「じじいのやつ。誰に継がせたんだ。副団長だったあのおっさんか? 名前忘れちまったけどよあいつあんなことするやつだったのか?」
「今の騎士団長、ゼファー卿じゃないよ。王城の守護騎士から引き抜いた人らしくて、たぶんアルク知らない人だと思う」
「あのじじいが王城の騎士を? なんもしねーって愚痴りまくってたのに?」
「うん。どういう話し合いがあったのかは知らないけど」
「そうか……気が進まねぇがじじいに会ってみるかなぁ。神の手がかりもねぇし……今、どこいるんだ?」
「霊峰の麓の村。ほら、アルカディナ様が農作業したいって言ったところだよ」
「ああ? あのじじいよりにもよってなんつーところに隠居を……山越えしたら何日かかるんだよ。アガト飛べねぇんだぞ。あー……船のが速いのか? しょうがねぇなぁ。わかったユーフォリア。助かったよ」
「うん」
「よし、それじゃ……アガト!」
アルクは天馬の名を呼んだ。天馬アガトはアルクの声に従い彼に身体を寄せる。
そしてアルクは鐙に片足を乗せると、一気に身体を持ち上げ巨大な天馬に乗った。片翼の天馬の手綱を彼は握る。
「ユーフォリア。悪い一つ頼みがある」
「うん、何?」
「ミラとリオン。お前の方で面倒見てくれないか?」
「アルク?」
「アルクァードさん!?」
驚きの声をあげるミラとリオン。当然連れて行ってもらえると思っていたのだろうか。
アルクは馬上で面倒くさそうに頭を掻いた。
「はぁ……いいかお前ら。なんか成り行きで拾っちまったが、俺について来たって碌なことがねぇぞ。今までは何とかなったがな、正直、他人まで守り切れねぇよ」
「アルク……」
「ミラ、リオンもだ。ユーフォリアと一緒にいた方がいい。こいつ、聖女だしな。聖堂のこいつの部屋見たか? 俺たち下民には一生入れないような部屋だっただろ? 喰うもんも不自由しねぇし、その気になれば巡礼者として世界を見ることもできる」
「アルクァードさん、でも、僕らはあなたに命を……恩を返したいと……」
「いらねぇよ。子供が借りだ何だいうんじゃねぇ。お前らは、そっちにいろ。こっちには来なくていい。いい、死に方しねぇぞ」
見上げるミラとリオン。アルクの言葉は正論で。子供の二人は、そのまま何も言えずに黙ってしまった。
何故か、ユーフォリアが少し悲しそうな顔をした。
「ユーフォリア。頼む」
「わかった。二人は、私の下で育てます」
「ああ、ありがとよ。それじゃ……な。三人とも、今回は助かったぜ。またな」
「うん、アルク、またね」
ユーフォリアの別れの挨拶を受けて、アルクは笑った。虚しそうに、寂しそうに笑った。
そして彼は背を向ける。彼を乗せた天馬は歩き出す。水路を跨ぎ、広大な草原へと向かって歩き出す。
少し歩き出したところで、天馬は駆けだした。その速さは風のよう。大きな身体を持つアルクを背にしてるとは思えない速度で、それは駆けだした。
草が揺れる。蹄の音が遠ざかる。遠く遠く、巨大な天馬は、あっという間に地平の彼方へと消えていった。
残された三人。ユーフォリアと、少女と少年。少女ミラは、無表情でアルクの背を見ていた。遠く、地平線の彼方に消えても、まだ見ていた。
何を思うのだろうか。これでよかったのだろうか。
ユーフォリアは、二人に聞こえるように言った。
「アルクは、一人。二年前からずっと一人。だから、邪魔しちゃ駄目」
遠くを見るミラ。俯くリオン。誰も、誰もアルクァードの傍にはいることはできない。
彼は清浄なこの世界における唯一の穢れ。だから、一緒にいることはできない。
彼はどこへ行くのだろうか。どこへ向かうのだろうか。きっとそれは、今は誰にもわからない。
彼自身もわからない。
振り返るミラ。無表情だった少女の顔は、その瞬間に少しだけ、驚いた顔になった。
その顔に、つられて振り返るユーフォリア。リオンもまた顔をあげた。
そして、見た。
「なっ……!?」
並ぶ大量の騎士たちを。
「聖女ユーフォリア。あなたを魔女裁判に掛けます」
先頭に立つ女騎士カリーナの言葉は何よりも冷たいものだった。




