2、使用人シシリーと『化け物』
お嬢様は本当にお美しい。青みがかった真っ直ぐで艶やかな黒い髪も、太陽が完全に沈み切った後、暗い夜が訪れる直前の薄紫色した空のように静かに燃える瞳も。
口さがないやつらは、青っ白い顔で目ばかりが爛々と光った様子が幽霊みたいで薄気味悪いだなんて言うけれど、実際誰も分かっちゃいないんだ。そう、知っているのはあたしだけ。
お風呂上りのお嬢様の白い頬に、ほんのりと薔薇色が透けたその様子と言ったら! ああ、潤んだ瞳のなんて綺麗な事か! 見るたびに、あたしはいつも息が止まりそうになる。
誰だってその姿を一目見たらその場に跪いて、忠誠を誓いたくなるに違いない。けれど、いつだったかそれを口にしてしまったあたしを見るお嬢様のお顔には、嫌悪感がありありと浮かんでいた。
「気色が悪いわ、シシリー」
◆
シシリーの実家は、貧乏人の子沢山を地でいくような家庭だった。
飲んだくれの父親はろくに仕事もせず酒ばかりをせびり、働きづめの母親は仕事の疲れとろくでなしの亭主のせいで、日がなぴりぴりと神経を張り詰めていた。上の兄や姉たちはとうに働きに出、幼い弟妹の面倒をまだ十にも満たないシシリーが見るようになった。
幼い子供たちは常に腹を減らして機嫌が悪く、シシリーの言う事など殆ど聞かない。空腹なのはシシリーだって同じだ。朝も昼も薄いパン切れ一枚か茹でた芋。夕食にはそれに加えてほんのちょっぴりのおかずか薄いスープが付くだけで、育ち盛りのシシリーに到底足りる訳がない。
せめて父親の飲んでいる酒がなければもっとましになるだろうに。けれども酒を取り上げると父親は酷く暴れ、母親だけではなくシシリー達姉弟にも暴力が振るわれるので、ただ恨めしそうな目で上機嫌で杯を空ける父親をこっそりと睨む事しかできなかった。
そんなシシリーが、丘の上の大富豪のお屋敷に住み込みで働かせてもらえるようになった事は、まさに僥倖としか言いようがない。
「お前は運が良いねえ」
屋敷に上がる日、いつもはカリカリと苛立っている母親が、別れの間際まで上機嫌で笑っていた。
十を超えたシシリーの働き口をそろそろ探そうと、母親は商業区で小さな店を開いている自身の兄を頼った。肉親の情に厚い温厚な人柄の彼の紹介により、シシリーの兄姉も安定した職を得ていたので、母は今回もそれなりの職を見つけられるだろうと彼を頼ったのだった。
丘の上のお屋敷では下女を探している――。シシリーの伯父が仕事仲間からその話を聞いたのは丁度その頃で、駄目で元々とその募集を受けてみる事にした。外見だけでも何とか見られるようにと、近くの川で念入りに水浴びをしてこびりついた垢を落とし、お古で全く採寸の合っていないながらも、いつも来ているぼろきれよりは数段ましな服を着て、シシリーと伯父は屋敷の裏口の戸を叩いた。
しかし残念な事に、新しい下女はもう決まってしまっていた。
対応した使用人頭は、本心かどうかは分からないものの、上辺だけは申し訳なさそうに謝罪した後、ふと言葉を止めてカチカチに固まり不採用の言葉すら理解できていないようなシシリーの姿を上から下まで眺め回した。
明らかに身体に合っていない、小さい衣服を身につけた少女。はみ出てしまったすらりと伸びた長い手足を何とか服におさめようと必死で、緊張のあまり瞳にはうっすらと涙が溜まっている。
「いくつだい」
不意に投げかけられた言葉に、びくりと硬直し青褪めたシシリーの唇はぱくぱくと無意味な動きをするだけで、見かねた伯父が代わりに答えた。
「もうすぐ十三になりますです」
ふむ、と使用人頭は少し考えた後、
「少し待っていなさい」
屋敷の奥へと行ってしまった。
駄目なんだろうなあ、気を持たせるくらいならさっさと断ればいいのに、溜め息混じりに伯父は呟き、がっくりと肩を落とした姪の頭をまた次があるさと、優しくぽんぽんと叩いた。
しばらくして使用人頭は戻ってきた。二人とも正式に断られるのだろうと思っていたので、何故か屋敷の奥に招き入れられ、大富豪本人とその養女に引き合わされた時にはまさかと目を疑った。
お屋敷では下女も探していたが、富豪フェルナンドが孤児院から引き取った少女、ロレッタ付きの小間使いも探していた。前任者は気難しい所のあるロレッタとそりが合わず、喧嘩別れに近い形で職を辞したと言う。
シシリーは本当に幸運だった。
伯父が小さいながらも実直に店を経営する商人だったのが、貧しくはあるがシシリーの身の上を証明してくれた。それに加えて富豪の養女と同じ年頃だという事。シシリーたちが屋敷を訪ねた丁度その時、多忙を極める富豪が在宅中であった事。その富豪が身分などに拘らない、良く言えばおおらかな、一風変わった気質の持ち主であった事。応募に来た時のシシリーの緊張で固まった様子が、使用人頭の目にはかえって素朴で誠実な娘だと好印象を抱かせた事。
もっとも、使用人頭は軽い気持ちでこのような娘が来ているのですが、と主人に薦めただけなのだが、留守にする事が多い屋敷内の全てを任せるほど信用している彼の進言に興味を持った富豪フェルナンドは、シシリー本人に会う前からロレッタ付きの使用人として彼女を召し上げようと心に決めていた。
「どうだい、ロレッタ。この子とは上手くやっていけそうかな」
初めて見る大富豪――これからは旦那様と呼ばなければならないらしい――の見た目は、シシリーが拍子抜けする程ごく普通だった。シシリーの兄達のように若くもなければ、父親より年を取っているわけでもない。顔立ちは美しいとは到底言い難いが、かと言って特別に醜いわけでもない。例えば、ぼろ服を纏った彼がシシリーの育った貧民街にいたとしても、全く違和感がなく溶け込んでしまいそうな位凡庸だった。笑みを浮かべた柔和な顔は、まさにお人好しという言葉が似合う。
富豪に問われたは養女ロレッタは、シシリーをじっと見詰めた後小さく首を傾げた。その拍子にさらりとした真っ直ぐで艶やかな黒髪が、頬から唇へと順にかかる。それを鬱陶しそうに振り払ってから隣の富豪を見上げ、問いかけた。
「ねえ、小父様。どうしてこの子の髪はこんなに縮れているの?」
心底不思議そうに言われたその言葉に、シシリーの体はカッと熱くなる。みっともないこの縮れ毛は、幼い頃から彼女に酷い劣等感を湧き立たせるもので、いっその事全部刈り上げてしまうのとどちらがましだろうかと本気で悩む事もままあった。
恥ずかしさと惨めさに思わず涙を滲ませるシシリーを見て、ロレッタは可笑しそうに笑う。
「あら? 顔と髪の毛、どちらが赤いのかしらね。ふふっ、変な顔」
零れ落ちそうな程に大きな目を僅かに細め、青褪めた頬にほんの少し紅を乗せた顔には、蕩けるような甘い微笑み。小さな赤い唇から発せられるのは、その容姿に相応しい鈴を振るような声だ。
繊細な容貌、採寸の合った可憐で手のかかった衣服。毛先まで光る艶やかな黒い髪、か細い手に抱きかかえられるのは美しい少女を模した人形。頭のてっぺんからつま先まで念入りに手入れされ、全てを与えられた少女は、その日の糧をようやっとしのいできたシシリーが寝物語で聞いて、自らの乏しい想像力で描いていたおとぎ話のお姫さまを易々と超えていた。
皮肉な事に、痛烈な厭味を言われたにも関わらず、この富豪の養女の笑顔を見た瞬間、シシリーはその熱狂的な信望者となってしまったのだった。
◆
『雇い主』は旦那様だけれど、あたしが真実心の底から仕える『ご主人様』はロレッタお嬢様ただひとり。お嬢様の身の回りの世話はあたしにしかできない仕事だ。ロレッタお嬢様は、他人に触れられるのを嫌がるから。
お嬢様がその身を触れられる事を許しているのは旦那様の他には、あたしだけだった。
真っ直ぐな黒髪を梳る時、お召し替えの手伝いをする時、あたしがお体に触ってもお嬢様は怒らない。だから、あたしは特別なんだ、と有頂天になっていたのかもしれない。
ある時、湯浴みを終えて浴室から出てきたお嬢様が気だるげで儚く、あんまりにもお美しかったので、あたしは思いつく限りの美辞麗句で讃えた後、思わず自分の願望を口に出してしまっていた。
『お嬢様のおみ足に口付けするのを許していただけますか?』
それは、あたしがお嬢様の読みかけの本をこっそりと盗み読んだ頁にあった描写。
お嬢様は勉強がお嫌いで、家庭教師の先生がいらっしゃると『生贄』とうそぶいてあたしも一緒に授業を受けさせようとする。先生はとても熱心な方で、学のあるお嬢様よりも字もろくに読めないあたしにつきっきりになり、お嬢様は楽ができるんだって、機嫌よさそうに言っていた。
『あの人、嫌い。だってすぐに怒るのよ。でもシシリーが来てくれてよかった。怒られる回数がうんと減ったし、先生があなたを教えている間、私は自由だもの』
あたしにとってもとてもありがたいことだ。お嬢様からはお褒めの言葉を頂けるし、おかげで少しずつだけれど本も読めるようになった。
盗み読んだのは、お姫さまを慕う騎士が跪いてその足に口づけして忠誠を誓う場面だ。あたしはどうあがいたってお姫さまになんかなれやしないから、せめて騎士様の真似事をしてあの頁の再現をしてみたかったのだけれど。
長椅子に寝そべって目を閉じていたお嬢様はぱちりと目を開けた後、あたしの顔をまじまじと見て眉を顰めた。ともすれば悩ましげにも見えるお顔に、あたしは期待に胸を高まらせたのだけれど、その表情はやがてはっきりとした顰め面へと変わっていった。
『気色が悪いわ、シシリー』
吐き捨てるようにそう言われて、気が付けばあたしは泣いてしまっていた。
なんて、酷い。ああ酷い、ひどい、ひどいひどいひどい!
『嫌だシシリー、泣いているの』
蹲って泣きじゃくるあたしの顔を覗き込んで、お嬢様は白くて細い少しひんやりとしたその指で、あたしの涙を掬い取ってくれた。
あたしは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔でお嬢様を見上げた。驚くほど近くにあったその美しいお顔からはもう顰め面は消えていて、もしかしたらこのまま優しく慰めてもらえるかもしれない、という期待に胸が膨らんだ。
――けど。
『みっともない顔』
そう言って小さく鼻で笑うと、お嬢様は指に付いたあたしの涙を汚らわしそうに手巾で拭って、
『これ、汚れたからもう要らない。捨てておいて』
薄紫色の手巾を、無造作に床に放り投げた。端に刺繍されているのはお嬢様手ずから針を刺した、ご自身のお名前の頭文字。思わずあたしはそれを、あたしの涙が染み込んで、ロレッタお嬢様が手に触れた、その瞳と同じ色の手巾を、お嬢様が見ていない隙にこっそりと前掛けのポケットに仕舞い込んでしまった。
多分、見つかったとしても咎められないだろう。お嬢様はきっとあたしが泣いてしまったから、お詫びの気持ちでこれを贈って下さろうとして、ただ単に渡すのは気恥ずかしいからってこんなまわりくどい真似をしたんだ。
そう言い訳をして、自分の行為を正当化した。これは、とてもとても大事なあたしの宝物。
あたしは幸せだ。誰よりも一番近い距離で、お嬢様のお世話が出来るのだから。
◆
「ねえ、真っ赤な真っ赤な縮れ毛さん? 何か面白い話はないかしら」
ロレッタの心無い言葉はいつもシシリーを深く傷つけるのだが、それと同時に仄暗い優越感をくすぐるのもまた事実だった。
屋敷で働き始めて一年余り。シシリーと、ひとつ年下のロレッタとの関係は存外上手くいっていた。
富豪の養女は気まぐれで皮肉屋でどこか厭世的な、一癖も二癖もある少女だった。彼女の何気ない言葉は容易く他人の心を抉る。使用人仲間、特に若い者からのロレッタに対する評判はあまり芳しいものではなかったが、シシリーだけは違う。ロレッタを崇拝するシシリーは、彼女からのどんな暴言も甘んじて受け止め、心の底から主人に仕えた。そのせいかどうか、他の使用人に対するときに比べてシシリーには随分心を開いているように思える。シシリーにとって、それは何よりも嬉しい事だった。
「あの、お嬢様。動かないで下さいませ」
シシリーは今、ロレッタの爪を磨いている。やっと右手が終わって、まだ左手も両足も残っているのに、ロレッタは早速その行為に飽きた様子で落ち着きが無い。
「退屈なのよ。片手が塞がっていては本もろくに読めないわ」
ロレッタは身を乗り出し、首を傾げてシシリーの顔を覗き込んだ。
「この前家に帰ったのでしょう、あの薄汚い貧民街に。久しぶりの我が家はどうだった? 相変わらず救いようのない、惨めな有様だったのかしら」
「お、お嬢様、そんなに動かれては困ります」
シシリーは近づくロレッタの美しい顔に胸の鼓動が高鳴るだけで、暴言など耳に入らない。
「あたしの家の話なんて、お嬢様のお耳に入れる価値なんかないですよ」
実際いつもの事ではあるが、里帰りで家族が求めるのは、抱擁でもお互いの健康を祝う事でもなく、シシリーの給金だった。その金は父親の酒代で殆ど消えるのだが、それでもかつてに比べれば豪勢と言える食卓に彼女は安堵していた。弟妹たちもシシリーが実家で暮らしていた頃より随分と血色も良く、満たされているように見える。
シシリーが帰って来た事で母親はこれ幸いとばかりに育児を放棄し、シシリーは奔放な弟妹達を追いかけるのが精一杯で、屋敷で働くよりも疲労困憊するのが常だったけれども。
「そう言えば」
シシリーは、母から聞いた話を思い出す。それは母のみならず、幼い子供達すら知っている話だった。
「随分と綺麗な人間が、最近下層街で幅を利かせているらしいって母ちゃんが、あ、ええっと母親から聞きました」
その後長い間、シシリーはその時の己の発言を深く後悔することになる。できる事ならばその瞬間に戻り、愚かな自分の唇を縫い付けてしまいたいと思う程に。
「混ざりっ毛のない金髪で怖ろしいくらいに綺麗な。ああ、年はあたし達とそう変わらないみたいですけど」
周りに誰もいないのに、そう言えばあの時もそうだった。母はシシリーと二人、誰もいない台所でさも秘密めかすように声を潜めたのだった。
シシリーはそれを再現するかのように小声になり、ロレッタも合わせてますます身を寄せる。
「なんでも、話す事が出来ないのだとか」
――唖、なのだよ。
何故か得意げな母の顔が、シシリーの脳裏に浮かぶ。自分にとってはどうでもいい話だった。
シシリーの最優先は主であるロレッタの身の回りの事であって、それ以外は取るに足らぬ些細な事だ。唖の美少年――少年? 少女だったかもしれない。けれど、どうでもいい話だったので、よく憶えてはいなかった――が故郷で話題になろうとなかろうと、主の興味を引けばそれでよし、引かなければ引かないで別の話を見つけるまでだ。
「ふうん、そうなの」
話が終わって身を引いたロレッタは、つまらなそうに磨き終わった己の爪を眺めては息を吹きかけている。だからシシリーは、この話はロレッタの気を引く事はできなかったと若干気落ちしながらもそれ以上何も思うことなく、いつものように崇拝する主の事だけを思って暮らしてきた。
ロレッタが、『化け物』をつれてくるまでは。
「ちょっと、出かけてくるわ」
ある日の事。ロレッタはそう言うと、富豪から買い与えられた気に入りにしている高価な毛皮の外套を身に纏った。
「あの、どちらへ」
シシリーの問いにもろくに答えずに、ロレッタはシシリーが供をすると言いながら追いすがろうとするのを鬱陶しそうに手で制した。
「運転手と一緒なの、何も心配する事はないわ。だから、あなたはついて来ないで頂戴」
彼女にとっては主から受ける初めてにも近い拒絶であった。
シシリーは頬を膨らませ、半ば恨めしそうにロレッタの後姿を見送る。彼女の小さな胸は今にもはち切れそうだった。誰よりも大切な主人の気を気付かぬうちに損ねてしまったのではないか、無意識のうちに彼女の嫌う仕草をしてしまったのではないか。どうしよう、このまま見捨てられてしまったら。シシリーは手に汗握り、主人の帰りを待つしかなかった。
数刻後、ロレッタはシシリーにさえ滅多に見せない晴れやかな笑顔で帰宅した。傍らには見た事もない、金髪の美貌の少年とも少女とも分別しがたい存在がいた。
「私のものよ」
シシリーの顔を見るなり、ロレッタはそう宣言するとソレの手を引いて自室へと引き上げようとする。
呆然としていたシシリーは一歩遅れて我に返ると、慌ててロレッタの後を追った。
「湯船にお湯を張って頂戴」
後を追って漸う自室へと辿り着いたシシリーの顔をろくに見る事も無く、ロレッタはそう命じた。
「お待ち下さい、お嬢様」
シシリーは、既にロレッタ自身の手で衣服をはぎ取られた少年、或は少女の体に目を走らせて、息を呑む。
「いや! ば、化け物……」
生まれながらの男女の体の違いについて、弟妹の入浴の世話をしていたシシリーは当然知っていた。思春期を迎えた自身の、膨らんで尖りつつある胸。母親の成熟しきった今にも零れ落ちそうな熟れた乳房。実家の付近の河原で何の躊躇いもなしに水浴びする地元の若い男衆の逞しい体つき。見たくもない、父親のみっともなく弛んだ腹、その下に付随する性器。シシリーが知っているそのどれも、ロレッタが拾ってきたソレには付いていなかった。
凹凸のないしなやかな体を持った人間に良く似て否なる美しい生き物が、シシリーの目には酷くおぞましい物に映る。
「駄目ですお嬢様、ソレに触ってはなりません、穢れてしまう。早く、手をお放しに」
身を震わせながらシシリーは言うのだが、ロレッタは心底不思議そうに首を傾げるのみだった。
「ねえシシリー、私の言う事が聞こえなかったの? お湯を張ってと言ったのだけれど」
「ですけど、でもお嬢様、だって、ソ、ソレは」
どうしてこの体を見て平然としていられるのだろう。ロレッタが連れ帰ってきたモノはどう好意的に見ても尋常ではない。男でも女でもない、浮世離れした美貌の持ち主。人間を誑かそうとする悪魔か化け物としか考えられない。
力なくも精一杯シシリーは反論するが、ロレッタは聞こうともしない。シシリーに向けられるロレッタの凍えるような視線と、彼女に触れられることを良しとしているモノ。ソレがシシリーを無邪気な瞳で見上げると同時に、今だ名も無い、男でも女でもないおぞましいモノに対する嫌悪感がシシリーの身の内にこみ上げてくる。
「そんな、そんな『化け物』を入れる湯なんて、あたし……!」
唇を噛み締めるが、ロレッタの視線は変わらず冷たいままだった。
「私はもう、二度も言ったのよ。早く、湯船に、湯を、張って頂戴」
二度も、と強調し厭味たらしく言った後、富豪の娘はふっと鼻で笑う。
「生まれて初めて行ったのだけれど、貧民街は随分ものすごく臭いのね。鼻がひん曲がりそうで、その場で吐いてしまうかと思ったわ。住んでいる人達だってそう。髪の毛も髭だって伸び放題で、顔も服も全部薄汚れていて。ああ、嫌。近寄ったらもっともっと臭うのよね、いやだ本当に耐えられない。シシリー? あなたの生まれ育った街の話よ。あなたがこの家に来る前に何回も何回も水浴びしたように、この子にもその臭いが残らないようにしないといけないわ。ねえ、あなたもそう思うでしょう、思うわよね?」
普段ならば、シシリーの多少の物言いに鷹揚なところのあるロレッタだったが、今これ以上の反抗は許されないだろう。それは冷ややかな声と、侮蔑の混じった眼差しで察せられる。
シシリーは屈辱に震えながらも主の指示通り、湯船にたっぷりと湯を張るしかないのだった。
◆
お嬢様は、あの汚らわしい『化け物』に易々と手を触れてしまう。あたしの目の前で、これ見よがしに。
たぶん、あたしの嫉妬心を煽ろうとしているんだ、お嬢様はそういうお方。
そうやって、お嬢様に対するあたしの忠誠心を測ろうとしているんだ、そうに違いない。
◆
シシリーは、必死で自分に言い聞かせようとするのだが、それは徒労にしか過ぎない。そもそもロレッタは、彼女を見てもいない。『化け物』が来て以来、ロレッタの視線はいつも『化け物』に向けられていた。
着せ替え人形よろしく服を脱がせ湯浴みを手伝い、時には自分と揃いの服や対になるような服を着せ、あまつさえその手ずから食事を与える。『化け物』は当然のように、ロレッタから与えられる前に待ちきれないとばかりに口を開き、食器のみならず時にはロレッタの指まで舐める始末だった。
我慢の限界が来たシシリーが、使用人としてあるまじき苦言を呈した事もあるが、勿論それはロレッタに届く訳もなく無礼を咎められるどころか、冷たくあしらわれるだけだった。
「私が、私のものをどう扱おうと、あなたに何か言われる憶えはないのだけれど」
そう言われるとシシリーに反論する術はない。できる事といえばかいがいしく『化け物』の身の回りを世話するロレッタと、それを享受しべたべたと甘える『化け物』の姿を、非難がましくじっとりと見詰める事だけだった。
◆
「ねえちょっと、いい加減になさいよ!」
同部屋である使用人仲間のアニタが非難の声を上げても、それに構わずシシリーは己の髪の毛にコテをあて続けた。
「あんたのその縮れっ毛が、そんなもんで直るわけないでしょうが」
アニタは豊かに波打つ自慢の髪の毛を強調するようにかき上げる。
「不細工はどう足掻いたって、不細工なのよ」
そんな事、言われずとも分かっている。けれど、シシリーは少しでも自分の縮れた髪の毛が伸びればと、多少こげた臭いがしようともその行為を止める事ができなかった。
「何なのよ急に色気づいちゃって、出入りの業者に誘われでもした?」
この場に若い男もおらずその必要も無いのに癖なのか、色っぽく唇を尖らせしなを作るアニタの言う事など耳に入らない。
その日の昼間。
以前ならば屋敷の主人である富豪が居ない間、シシリーの主人と二人で過ごせる筈の至福の時間が『化け物』が来て以来、重く憂鬱な苦行へと変化していた。
ロレッタはまとわり付いてくる『化け物』を鬱陶しがる事もなく、されるがままだ。
シシリーには勿論、富豪にさえ向けたこともないであろう、柔らかな微笑みをその可憐な口もとに浮かべ、二人はそのままもつれるように長椅子に倒れ込み、顔を見合わせては無邪気に笑い合う。太陽の光のような金髪と、夜空を映し出す黒い髪。晴れた空の青の瞳と、夕暮れの紫。何も知らない者が見れば、思わず見とれてしまうであろう美しい二人の姿は、だがシシリーにとっては吐き気を催す程の光景だった。
『化け物』がロレッタの甘い体臭を確かめようと、その細い首筋に鼻先を擦りつける。ロレッタは喉の奥でくくっと笑い、腕を伸ばして光に透ける髪の毛を梳いた。
もし、『化け物』が男ならばそれは恋人同士の睦み合いに見えただろう。もし、『化け物』が女であるならば、親友同士のじゃれ合いと映ったかもしれない。
どちらでもないから不自然なのだ、とシシリーは己を納得させるために勝手に結論付ける。
閉ざされた部屋の中、シシリーだけが置き去りにされた、二人だけの世界を壊したかったからだけではない、決して。
「お嬢様は、あたしの髪の事をさんざからかいますけど、その、『ソレ』の髪だって、随分縮れてるじゃあありませんか」
それは、シシリーにしてみれば精一杯の厭味だった。
「馬鹿ねえ、シシリー」
けれども、残酷な彼女の主は細い指で『化け物』の髪の毛をくるくると弄びながら、シシリーの間違いを的確に指摘するのだった。
「これは捲き毛と言うのよ」
ロレッタの白い指が『化け物』の髪を離れ、耳たぶをなぞり鎖骨を擽ると、『化け物』が声にならない笑い声を立てる。
捲き毛! 何と甘美な響きだろう。シシリーは完全に打ちのめされた。
日常的にロレッタから言われる、嘲るような『縮れ毛さん』が、『可愛い捲き毛さん』に変わったならばその瞬間、死が訪れたとしても悔いは無い。けれど、そんな日は永久に訪れないという絶望。
募る想いはそのまま『化け物』への憎悪へと変換される。
◆
「ねえ、いい加減にしてくれない? 私、明日は早いし眠たいの。あんたに近くでそんなにガチャガチャうるさくされると眠れないんだけど」
アニタが眉間に皺を寄せて抗議するが、聞くわけがない。もともとシシリーはアニタを好きではなかった。
アニタは見目良い娘で、自らが美しい事を自覚し、またそれを自慢にもしていた。波打つ鳶色の髪の毛、細くくびれた腰に相対する豊かな胸と尻。シシリーよりもたった二つか三つ年上でしかないのに、既に成熟した色気を放っている。その気もないのに周囲の男に媚を売り、色目を使われただの誘われただの、逐一皆に報告して回る時、私はそんなつもりはないのよと表面上は困ったような顔をするのを忘れない。
彼女の評判は男女によって全く逆で、同性の使用人仲間からはすこぶる嫌われていた。
女の使用人の間ではアニタは女狐と呼ばれ、常に陰口の対象だった。シシリーにとってみればアニタがどこの誰に誘われ口説かれようが全く興味はないのだけれども、馬鹿にしたような物言いだけはどうしても好きになれない。
『あらやだ、礼儀作法もなっていないのね。お里が知れるってこの事を言うんだわ』
『不細工な貧乏人の上に、常識も知らないの。まあ、貧民街じゃあ誰も教えてくれなかったのかもしれないけど』
『下品な話し方。何を言ってるのか私には殆ど分からないわ』
シシリーだけを悪く言うのならまだいい。何よりも許せないのは、
『所詮、孤児院上がりの下賤な『お嬢様』の世話役には、あんたみたいな最下層の貧乏人がお似合いよね。揃いも揃ってみすぼらしいったら』
シシリーを引き合いに、ロレッタを貶める事だ。アニタは、シシリーの大事な主人であるロレッタのことを、「貧相なガキ」と言って憚らない。
最初のうちはシシリーも食って掛かってつかみ合いの喧嘩をした事もあったが、最近ではそれも少なくなった。
『アニタ? 誰それ。知らないわ。知らない人に何を言われようがどうだっていいじゃない、関係ないのだし。それよりもシシリー、お茶を入れてくれない? 焼き立てのお菓子も一緒に持ってきてくれると嬉しいわ』
あまりの不敬に耐えられず、アニタの暴言を訴え出た時にロレッタ本人が全く取り合わなかったのが一番の大きな理由ではある。
確かにアニタは美しい。それはシシリーも認めてはいる。
だがいずれでっぷりと肥えるであろうその豊満な肢体は、シシリーが憧れるロレッタのようなほっそりとして可憐な体つきには程遠いし、艶やかな黒髪も持っていない。瞳の色だって、ロレッタは珍しい紫なのに対し、アニタは凡庸な焦げ茶色だ。顔立ちだって全然違う。特にアニタの鷲鼻気味のあの鼻は若い今でこそつんと尖っているが、年を取るごとにどんどん下がり御伽噺の魔女のように醜く先が垂れ落ちてしまうだろう。
その上ロレッタに存在すら認められていない彼女は、シシリーにとっても取るに足りる存在であろうか。
今やアニタは、シシリーの自分がロレッタに選ばれたという優越感をくすぐる存在でしかなかった。アニタが喚けば喚くほど、それは強まる。
「ねえ、うるさいって言ってるのが聞こえないの?」
甲高い声は神経に障る。答えるつもりはないがいい加減しつこいな、とシシリーは思った。
大体、いつも夜遅くまでうるさくしているのはアニタの方で、シシリーが寝入ろうというまさにその瞬間を狙い定めたかのように大きな物音を立てる。わざとらしく咳をしたり、重たい本を落としたり。何度文句を言った事か。
「何とか言いなさいよ、貧乏人」
――ロレッタお嬢様みたいな真っ直な髪になるのは無理として、同等というのは癪だけれど、せめて『化け物』のように捲き毛と呼ばれるくらいにこの頑固な縮れ毛が伸びてくれれば。
シシリーの空しい努力が続く。
「ちょっと、聞いてるの? いい加減にしなさいよ。この私を無視するなんて何様のつもり」
無視を続けるシシリーに対し、アニタの眦がつり上がり、徐々に大きくなる声には剣呑な響きが宿る。
結局、シシリーの髪の毛は惨憺たる有様だった。所々が中途半端に伸び、大半は縮れたまま。それどころか、焦げてさらにちりちりになっている箇所さえある。
シシリーは大きく溜め息をついた。
「ねえアニタ、あんたの声のほうがよっぽど煩いって事になんで気付かないの? いい加減、耳障りだわ」
苛立ちを思わずアニタにぶつけると、思ってもいなかった反撃にか彼女は大きく息を呑んで顔を真っ赤にし、すぐには言い返すことも出来ないようだ。
――今の言い方は少しお嬢様みたいだったかもしれない。
シシリーは気を良くし、さっさとコテを片付けて自分の寝台に潜り込む。
「な、何よ。この……この、このブス、貧乏人! いい気になるんじゃないわよ」
アニタの幼稚な悪態は相変わらず煩かったが、気にすることなく眠りにつけるくらいには憂鬱な気分は晴れていた。
「なあに、その頭。今日はまた随分と酷い事ね」
翌日。ロレッタは朝食を運んできたシシリーの頭をちらりと見やりそう言った後、その存在を忘れたかのように『化け物』に給餌するのに夢中だった。
とろりと半熟に炒められた卵をスプーンにたっぷり掬い、『化け物』の口に差し出す。『化け物』は大きな口を開けるが全部は入りきらない。
唇の端についた卵の黄身をロレッタが親指で拭うと、すかさず『化け物が』彼女の腕を掴み、親指についた卵黄を舐めようとするのだが、ロレッタはそれをやんわりと押し留め、膝の上に置いてあったナプキンで指を拭った。
――お行儀が悪いわよ。
愛おし気に細められた瞳と、弧を描く赤い唇が声に出さずにそう語る。本気で咎めるわけではない。まるで幼子に愛情を持って諭すような。
昨夜、就寝に付く前のシシリーの高揚した気持ちは既に消え去っていた。最近、ロレッタのシシリーに対する態度は特に冷たいように感じる。以前感じた親密な空気は夢だったのだろうかと、そっけないロレッタを見るたびにシシリーは思う。
――夢である筈がない。あんなにも、あたしとお嬢様は近づいていたのに。全部、そうだ、全部あの『化け物』のせいだ。あいつさえいなければ。
シシリーの緑灰色の瞳は涙を湛え、それを零すまいと瞬きを堪えるのに必死だったが、シシリーが鼻を啜る音も聞こえていないのか、それとも聞こえない振りをしているのか。ロレッタが彼女を見る気配は一向にない。
泥棒、と『化け物』に呪詛を投げた。
ぽたり。
溢れ出した涙が絨毯に零れ落ちる。
哀れなシシリーの実現しそうにない妄想の中では、敬愛すべき主人であるロレッタの隣にいるのはどんな時でもシシリーだった。彼女の隣で共に肩を寄せ合って笑う事が許されたであろう未来は、突如現れた『化け物』によって無残にも奪われた。
――泥棒、泥棒泥棒泥棒と、心の中でだけ叫ぶ。
ぽたり、ぽたり。
絨毯に広がる染みは、そのままシシリーの心の中も黒く犯した。
許せない。
出来る限りの凶悪な視線で『化け物』を睨みつけ、誰よりも忠心を誓った主人に切ない目線を向けるが、その薄紫色の瞳がシシリーに向けられる事はない。
再び涙が床に落ち、うぅ、と堪えきらない泣き声が漏れ出た。鼻水だけは垂らすまいと、一際大きな音を立てて鼻を啜ると、『化け物』が不思議そうにシシリーを見やる。その顔を見たシシリーは息を呑み、激しく身を震わせた。
――嘲笑ってる。
客観的に見るならば、シシリーに『化け物』と呼ばれている存在は、常に口もとに微笑を浮かべている。ロレッタが初めて屋敷に連れて来た時からそうだった。
けれど今のシシリーに、ロレッタの関心を失ってしまって見捨てられたように感じるシシリーには、その微笑が自身を嘲笑しているとしか思えなかった。彼女の中で、一気に『化け物』への怒りが燃え上がり、暴発しそうになるのを何とか抑えようとする。
眩暈がしそうな位の、この激情を果たしてロレッタは知っているのだろうか。顔を真っ赤にして、まるで悪鬼のような表情で泣くのを堪えているシシリーを、敢えて彼女の主は無視しているのだろうか。
「ロレッタ様、旦那様がお帰りです」
今にも破裂しそうな爆弾を抱えるシシリーにとって幸か不幸か、控え目に部屋の扉が叩かれ、使用人頭がロレッタに富豪からの呼び出しを告げた。
「まだ半分も食べていないのに」
ロレッタは不平を漏らしながらも席を立つ。
「いい? この子が満足するまで食事をさせて。終わったら綺麗に片付けて頂戴。くれぐれも汚す事のないように。分かっているわよね、シシリー」
きょとんと見上げる『化け物』の汚れた唇をナプキンで拭い、ふっくらとした頬を愛しげに撫でた後、シシリーの顔も見ずに事務的に言うと、ロレッタは部屋を出て行った。
ロレッタが去った後、それまでの親密で甘やかな空気は霧散した。残されたシシリーと『化け物』の間には冷ややかな空気だけが漂う。
『化け物』はロレッタに置き去りにされた事が理解出来ないのか、閉ざされた扉の向こうを不思議そうな顔で見詰めたまま動こうとしない。
シシリーと『化け物』が二人だけになる状況は初めてだ。過去に何度か、大抵は家を留守がちにしている富豪が帰って来てロレッタを呼び出す事はあったが、『化け物』が来て以来それは初めてのことだった。
シシリーは行き場の無い怒りを抱えたまま困惑した。『化け物』に対してどう接したらいいのか。ロレッタがするように直に触れて、食事を与え食べ残しの始末をする? この、汚らわしい『化け物』の口に入るものを? 考えるだけで怖気が走る。そんな事、到底出来やしない。
「あ、ああ、止めて、止めてよ。……おい、止めろって言ってるだろ!」
貧民街育ちのシシリーよりもさらに食事作法を知らない『化け物』は止める者がいなければ、平気で料理を素手で掴み口に入れ、食べかすの付いた口もとや指先を服の袖口や裾で無造作に拭う。
シシリーが止めるのも空しく、ぱりっと糊のきいた白い衣服がいとも簡単に汚れていく。
それを何度か繰り返し、洗いざらしの清潔な服を『化け物』が汚し、おまけにまだ半分以上の料理が残っている皿をひっくり返し絨毯を台無しにした事で、シシリーの我慢は限界に達した。
「いい加減にしろよ、くそ忌々しい化け物が」
奥歯を噛み締めながら、低い声で吐き捨てる。
「お前のせいであたしは余計な仕事を増やされて、お嬢様との時間を減らされてるんだ。わかってんのかよ、さっさと食え! 愚図愚図するんじゃねえぞこのうすのろ」
『化け物』は、奔放な食事の手を止め不思議そうな顔でシシリーを見る。
「何見てんだよ胸糞悪い。あたしを見るんじゃねえよ、穢れるだろうが。こっちを見てる暇があるならさっさと食えって言ってんだよ!」
ロレッタには到底聞かせられないような汚い口調で罵り、眉間に皺を寄せ陰惨な目つきで睨みつけると、『化け物』はやがてのろのろと手を動かし食事を再開した。
先ほどと違って、顔や衣服を汚す事は殆ど無い。
やはりわざとやっていたのだと、シシリーはぎりりと唇を噛んだ。主の関知しないところで行われる『化け物』の無作法の責任は、全てシシリーが負う羽目になる。
この汚らわしい生き物は、それを知っていて敢えて彼女の嫌がる事をしているに違いない。シシリーはそう確信した。
――死ねばいいのに。こんなごみ屑、生きていても何の価値もない。お嬢様のお手を煩わせる事しか出来ないくせに。汚らわしい化け物、悪魔、泥棒泥棒泥棒……。
どろどろとした粘り気のある黒い感情が、シシリーの中で渦巻いていく。
「これ以上汚したら承知しねえぞ、くず野郎」
一度緩んだ箍は、簡単に外れてしまいそうだった。




