1、娼婦コーラと『天使』
コーラの朝は遅い。太陽が高く昇り真上に差し掛かる頃、やっと寝床からもぞもぞと這い上がる。昨夜の深酒が残り、起きてから半刻以上そのままぼうっとしている事もままあった。
――『天使』がやってくるまでは。
「お早う」
傍らに寄り添う小さなぬくもりに向かって声をかける。『天使』は重たげに瞼を開いた後、何度かパチパチと瞬きをし、口もとにいつもの微笑を浮かべてコーラを見上げた。その愛らしい様子に顔が緩み、思わず目元に唇を落としてしまう。
コーラは元は裕福な家の一人娘だった。令嬢から娼婦に転落した経緯はあまりに有り触れている。家に出入りしていた下男と恋に落ち、情熱のままに後先考えず駆け落ちした。とある大商との望まぬ婚姻話が入った矢先の事だった。
追っ手から逃れるために貧民街に紛れ込んだ。コーラが実家から持ち出した貴金属類を換金し、小さなあばら家を買い取って暮らし始めたはいいものの、所詮は箱入り娘。町へ出て働くことはおろか、家事さえもろくに出来ず、その負担の殆どは男が請け負うしかない。恋が燃え上がっているうち、そして金があるうちはまだ良い。やがてその熱も徐々に冷め、懐も寂しくなると、男は不満を面に表に出しコーラに冷たく当たるようになった。
何の後ろ盾もない若い二人に、堅実で実入りのいい仕事などあるはずもなく、その日の糧にすら困る毎日。二人の諍いも絶えなくなっていった。
やがてコーラはたった一つ自分にできる仕事を見つけた。若く美しい己の体を行きずりの男に差し出しその対価を得る、すなわち娼婦へと身を落としたのだった。
コーラの稼ぎも加わり食うに困る事はなくなったが、二人の仲は修復できなかった。ひと時の燃え上がるような情熱は冷めたとは言え、それまで築き上げた全てを捨ててまで好いた女が他の男に体を売るという事実に耐えられなかったのか、それともただ疲弊するだけの毎日に耐えられなかったのか、男はある日ふらりと家を出たまま、二度と戻ってこなかった。
コーラはそれから貧民街を出たことはない。
いつか恋人が戻ってくると信じているわけではなく、ただ諦めたのだ。感情の思うままに行動した所で碌な事にはならない。コーラにはもう、帰る家と言ったらこのあばら家しかなく、他に頼る人もいない。だから、生きていくために今の自分にできる仕事をするだけだ。幸いコーラは器量好しだったので、客に困ることはなかった。数人の常連客も出来、それを日々まわすことでそれなりの暮らしを過ごせるようになった。
「俺と一緒にならないか」
ある日そんな事を言ったのは常連客の一人で、彼とはいつもコーラが給仕を勤める、酒場兼連れ込み宿の《黒蟻亭》で落ち合って、酒を飲んでから体を交わすのが常だった。
コーラはいつもの情事の後のたわ言だろうと適当に受け流そうとしたのだが、男が思いのほか真剣な顔をしていたのを見て、信じられないといった面持ちで男を凝視した後、耐え切れずに噴き出した。
「いやだ。月に二、三度私を買うのがやっとの貧乏農夫の癖に、冗談言わないでよ」
「笑うなよ」
男は不機嫌そうにぼそりと言うと、身を起こす。
「こっちは心配してるんだ。客がいるうちはまだいいけど、これからずっとこの商売を続けていけると本気で思ってるのか。もう二十三だろう、子どもの一人や二人いても可笑しくない年だし、それに近頃は妙な奴に熱を上げてるって言うじゃないか。俺と会ってる時だってどっか上の空だし、心配なんだよ」
「はぁ? 何、何なの。誰がそんな事言ってるのよ。大体あんたとあの子は関係ないでしょうが!」
『天使』の事を持ち出されたコーラは思わず声を荒らげる。男の言葉が的を射ていただけに、余計に腹立たしく感じた。
「年取って落ちぶれていくのが可哀想だから、その前に引き取ってくれるってわけ。へえ、随分お優しいのね。でもあんたみたいな貧乏人の甲斐性なし、こっちから願い下げだわ」
言っている傍からどんどん自分の言葉に激昂するコーラの剣幕に、男は身を小さくしとりあえずは彼女の怒りを鎮めようと決めた。惚れてしまった手前、結局は下手に出ざるを得ないのだった。
「そ、そんなに怒らなくてもいいだろ。悪かった、言いすぎたよ」
しょんぼりと情けなくうな垂れる男の姿を見て、コーラの怒りの熱は急速に冷めていく。
常々気にしていた年齢の話やこの先の将来に加え『天使』のことにまで言及され、つい興奮してしまった。少し年嵩さとは言え彼は実直で誠実な男だし、純粋な好意をコーラに対して持っていてくれるのはよく分かっていた。それに甘えてかなりきつい言葉を投げても怒りもせず、のほほんと受け取ってくれる姿には有り難さすら感じている。この心地よい関係は崩したくなかった。
「まあ、言いすぎなのは私も同じだし、私にだって悪い部分は少しはあったかもしれないわね。もういいわ忘れましょ、お互い」
殊勝な事を言っているつもりではあるが、そっぽを向きながらの膨れ面のコーラは、拗ねた少女のようで可愛らしく見えて、男は柔らかな肢体を思わず抱き寄せた。
「え、ちょっと……。ああ、もうしょうがないわね」
最初に『天使』を見つけたのは、せむし男のディノだ。
彼は日課でもある残飯あさりをしに、《黒蟻亭》の裏路地にあるごみ置き場へと向かい、そこのごみ箱と壁の隙間に埋もれるようにして眠っている子どもに目を奪われた。
泥と埃に汚れていても、なお輝かんばかりの顔立ちに、ディノは日課も忘れてしばらく見入る事になる。思わず触りたくなるようなふっくらとした白い頬と、半ば開かれた、艶めかしく濡れる赤い唇。
醜いせむし男が、自身の節くれだった垢まみれの指を、恐る恐る滑らかな頬に伸ばし触れる寸前、気配に気付いたのか子どもは目を覚ました。ぱちりと開かれた瞳は、初夏の晴れ上がった空を映すような澄み切った青。それが飢えと疲れと欲情で淀んだディノの顔を覗き込み、やがて花が咲き綻ぶように口もとに柔らかな微笑を浮かべる。
ディノはもう居ても立ってもいられず、子どもを小脇に抱えると己のねぐらへ引き返そうと足を速めたのだが、ちょうど運悪く《黒蟻亭》の女将に見咎められてしまった。人一倍業突張りの女将は、自分の所有地である裏路地を我が物顔で歩くごみ漁りのディノのことを元々快く思っていなかったので、ここぞとばかりに小言を言おうとディノに詰め寄り、彼が抱えている荷物を見てその美貌に目を剥いた。
ここで一悶着が起こる。
どこぞから攫ってきたと責める女将と、裏路地で見つけた、見つけたからには自分のものだと主張するせむし男のディノ。
「そこの路地ならうちの土地だ。だったらそこにいたその子はアタシの物だね」
勝ち誇った顔で言う女将にディノは顔色を失くす。随分儲けているのだろうか、全身むらなく肥え太った貫禄ある外見と大きく響く声。せむしでどもりのディノでは到底かなわない。
「お、俺の物だ!」
それでも精一杯の声を振り絞るディノに対し、「あらまあ偉そうに、随分ご立派だこと」と一瞬だけ鼻に皺を寄せまるで害虫を見るように一瞥した後、女将は素早く彼の腕から子どもを掻っ攫うと己の縄張りである《黒蟻亭》へと引き返す。
せむし男は慌てて追いすがるが、怖ろしい程冷たい女将の視線に足を止めてしまった。
「その薄汚い形でうちの敷居をまたがないでおくれ」
鼻息荒く宿に戻ってきた女将と、一仕事終えて一旦自宅に帰ろうとするコーラは丁度顔を見合わせた。
「どうしたの、女将さん。すごい剣幕で」
「どうしたもこうしたも、アレが」
忌々しげに顎で示したのは、宿に足を踏み入れたはいいものの、女将の鋭い視線にそれ以上は入れずに入り口付近で未練がましそうに女将の手の内にあるものから目を離さない、せむし男のディノだった。
コーラは、チラチラと惨めたらしくこちらを窺うディノの見苦しい姿と、女将の腕に抱かれた子どもを順番に見て、もともと大きな目を更に見開いた。
「女将さん、この子」
「ああ、あの馬鹿がどっかから攫ってきたんじゃないかと思ったんだけどね」
宿屋の女将が厳しい視線を向けると、ディノは身を縮こませながらも気丈に言い放った。
「俺が見つけたんだ!」
女将は一歩も引かない。
「何だって? 人様の土地を好き勝手に漁りやがって、さっさとアタシの家から出ておいき。薄汚いごみ漁りが」
ディノは分厚い下唇を悔しそうに噛み締めて恨めしそうな眼で睨むが、その場を去ることはない。それを横目に、鼻をフンと鳴らして太い腕に子どもを抱えたまま足を踏み鳴らし宿の奥へと向かう。
「ちょっと女将さん、どこ行くの」
「決まってるだろう、風呂だよ。こんなごみ塗れじゃ可哀想だ」
ずんずん足を進めていく女将を、コーラは半ば呆然と見送った。
あの金に煩い女将が珍しいこともあるものだ、とコーラは驚く他ない。女将は自分の懐から出る金は家族の為ですら惜しいという守銭奴で、コーラはそこそこの売れっ子だから目を掛けてもらっているものの、それでも文字通り体を張って稼いでいる割にその取り分は少ない。
あんなに汚れていたらどの位湯を使うんだろう、とコーラは無駄な事を考えながら、宿屋の入り口に立ったまま入るに入れずもじもじ足を動かしながらその場ににとどまり続けるディノに顔を向けた。
「あんたさ」
そう声を掛けるとじっとりとした視線を向けられ、肌が粟立つ。思わずしかめそうになる顔をなんとか取り繕って続けた。
「とりあえず諦めたら。女将さんのあの調子じゃあ、あんたがどう頑張ったって無駄よ。早く帰って……」
「俺が見つけたんだから俺のものだ!」
唾を飛ばしながらのその表情は、どこか狂気じみて見える。荒い息を吐きながら、肩をいからせ宙に据えられた目の焦点は何処にも合っていない。明らかに尋常でない姿に寒気を覚え、これ以上関わらずにさっさと帰ろうと首を振って帰路に着こうとするのだが、
「ちょいと、誰か! コーラ! 誰でもいいから早く来ておくれよ」
取り乱したような女将の声に、面倒な事は続くものだと半ば諦めながら浴場へと向かった。どさくさに紛れて着いてくるディノを眼の端に捉え、大きな溜め息をつく。
「女将さんったら一体どうしたって言うの。そんな大きな声を出して」
その場に着いたコーラは、浴場の床で腰を抜かしてしまっている女将と、裸体の子どもを順繰りに見て絶句した。
「え、これって……。この子、な、なんで。何が、一体何なの」
平らな胸と、平坦な股間。胸、だけならばまだ納得できた。中性的な美貌ゆえ男女の判別は付きかねていたが、第二次性徴を迎えているであろう年齢の子どもの裸体。その胸にふくらみの兆しが全くないのであれば、その性は男なのだと納得がいく。
けれども。
美貌の子どもの股間には、男にあるべき突起物も、女に備わっている割れ目も持ち合わせていなかった。
「どういうこと」
思わず漏れ出た問いに、女将は力なく答える。
「いくら話しかけても全然話そうとしないんだよ、唖なのかねえ。それに加えてこの体だから捨てられちまったのかもしれないね」
不憫だねえ、と言う言葉に、当の本人は不思議そうに首を傾げるだけだったのだが。
「天使だ!」
突然の叫び声に、子どもは怯えたようにびくりと体を震わせた。
「アンタ、まだいたのかい」
女将が地を這うような低い声で言う。大声の主であるディノを睨みつけ、近くにあった金属製の洗面器を手に取り振りかざす。
「さっさと出てお行き、この蛆虫が!」
それが投げつけられる前に身を翻したせむし男の逃げ足の速さには目を見張るものがあった。
その後の、子どもの処遇については色々と揉めた。
騒ぎを聞き、駆けつけた近所の食肉店の主人が何故か子どもの所有権を主張し――もともと《黒蟻亭》とは土地をめぐって日々争っていた――、それに対して当然女将も一歩も引く事無く、話し合いは平行線を辿った。夜更け前には既に子どもは瞼を落としてしまい、すうすうと健やかな寝息をたてて眠っている。その愛らしい姿に、コーラとその仕事仲間も目を奪われずにはいられず、かわるがわる薔薇色の頬を突いたり、柔らかな金髪を撫でたりしてはくすくすと笑いあった。
結局、女将と食肉店の主人、そして何故かコーラが持ち回りで子どもの面倒を見ることで話の決着はついた。
「何で私なの」
戸惑うコーラだったが、
「アンタは元はいいとこの出だけあって品もあるし、学もある。この子を見てやるのには一番良いんじゃないかと思うんだ。そもそも、アタシがこの子を連れ帰ったときにアンタが居合わせたのは、何かの巡り会わせじゃないのかい。そう思うだろう」
と女将に懇々と諭され、美貌の子どもに既に心惹かれてしまっていたコーラは、その話を受け入れることにしたのだった。
子どもの事を、『天使』と最初に言ったのはごみ漁りのせむし男、ディノだ。貧民街の中でも最下層に位置する彼の言葉に影響力は全く無いといっていい。それでもディノの発した呼び名は美貌の子どもに相応しいものだった。
――天使は両性具有、或いは無性である。
ディノが発した何気ない言葉により遠い昔、コーラが裕福な令嬢時代に培った知識がふと蘇えり、思わず周りにこぼしてしまった事もまた後押しし、いつしか子どもの事を誰もが『天使』と呼ぶようになっていた。
「そうだね、あの子は本当に天使なのかもしれないねえ」
《黒蟻亭》の女将は、感心したようにうんうんと何度も頷くのだった。
『天使』が現れて既に数週間が経とうとしている。
驚いたことに業突張りで有名だったはずの《黒蟻亭》の女将は、『天使』に関することなら金を惜しまなくなり、因業な事でその名を轟かせていた食肉店の店主は、近頃性格が丸くなったともっぱらの評判だ
持ち回りは順調どころか、互いが協力し合うまでになっていた。
それは主に『天使』の存在を秘することにおいてだったが、本人の放浪癖ゆえにあまり上手くはいってなかった。昼も夜も関係なく、時折『天使』はふらりと姿を消す。大抵は近場で所在無さげにぼんやりとしているのだが、その姿を見るたびにコーラは胸を締め付けられそうになる。
まるで何かを探しているみたいに視線を泳がせて、そしてそれはいつも見つからないのだ。
「あの子はああやって、ここまで辿り着いたのかもしれない」
そうひとりごちてから、『天使』に手を差し伸べた。
「おいで、帰ろう」
不思議そうにコーラを見上げる無邪気な顔に、不思議な愛おしさがこみ上げる。ほらおいでと、ややぶっきらぼうに手を引くと、『天使』は素直に従った。
ある日の夕暮れ時、『天使』がいなくなったと、食肉店の店主が血相を変えて《黒蟻亭》に飛び込んできた。
「あの子が急にいなくなるのは今に始まった話じゃないだろ、腹が減ったら帰ってくるさ」
と女将は最初あまり取り合わなかったのだが、早朝店主が順番だからと『天使』を引き取りに来、店に帰って豚の臓物を取り分けている間に居なくなった、それっきり姿を見ていないと聞くと、顔色を失くした。
「朝飯も、昼も食べていないってことかい」
当時、客の相手をしていたコーラの知らぬ事であったがその時は手の空いている従業員、娼婦総出で『天使』を探し回ったらしい。それでも見つからず、日はとうにとっぷりと暮れ、女将と店主はますます顔色を青褪めさせた。
「何かあったんじゃないか」
「何かって何よ」
「だって、あの子は、あんなに綺麗だから、もしかして……」
「嫌、嫌よ。『天使』、いるのなら返事をして!」
様々な思惑と怒号の飛び交う中、夜も更けた頃『天使』と共に姿を現したのは、がっくりと肩を落としたディノだった。もの凄い剣幕で問い詰められたディノがぼそぼそと語った内容と言えば――。
ふらふらと彷徨う『天使』を見つけ、本能のままにねぐらへと連れ去った。本懐を遂げようと服を引き剥がし自身も下半身を露わにしたのだが、『天使』があんまりにも無垢な瞳で自分を見詰めるので、己が酷く矮小な存在に感じとてつもない羞恥を覚えたのだと言う。
当然、女将は烈火のごとく怒り「ぶっ殺してやる!」と刃物まで持ち出す始末だった。周りの者が必死で押し留め、その間にディノは脱兎の如く逃げ帰り事無きを得たのだが。
その後、食肉店の店主は監督不行き届きで、『天使』の所有権を奪われてしまった。その分のツケは、当然《黒蟻亭》の女将とコーラに回されるのだが、二人にとってそれをむしろ喜ばしい事だった。
高価な石鹸を手に取りたっぷりと泡立て、しなやかな裸体になすり付ける。コーラの指が、わき腹をなぞると、『天使』はくすぐったそうに身を捩った。
「もう、動くんじゃないの」
笑いを含んだ声でたしなめる。
ぎゅっと目を瞑り我慢する『天使』の体の隅々まで洗い上げた。狭い浴室に、コーラの声を殺した笑いが響き渡った。
「ほら耳、押さえて」
口は利けなくても、言葉の意味は分かるらしい。しっかりと両耳を保護したのを確認し、頭のてっぺんから湯を掛けた。泡が消えるまで数回くり返すと、『天使』は犬や猫がするようにぷるぷると全身を振るい、水を掃った。
「ちょっと! やだ、やめてよ」
飛沫が盛大に降りかかり、コーラは笑い声を立てる。
《黒蟻亭》の女将と食肉店の店主が変わったように、コーラもまた、『天使』と出会って変わった。
『天使』が居る時は日頃の怠惰な生活を改めた。太陽が高く昇る前に目を覚まし、朝食を『天使』と共にとり、仕事までの空いた時間は全て『天使』だけのために使う。
湯浴みさせ、金の巻き毛を丁寧に梳き、服を整え、時には陽だまりでまどろむ『天使』の体を引き寄せ、自ら枕にすらなる。『天使』自身が擦り寄ってくる事はない。だが、女のか細い腕で引き寄せても抵抗することなく、身を任せてくる。
柔らかくしなやかな体、心地よい体温。この存在だけは自分を拒む事は決してない。
何事にも変え難い穏やかな日々だった。
『天使』の放浪癖が日に日に酷くなり、行動範囲が貧民街から工場区へと伸びていっても、コーラと女将は、この幸せな日常を保つ事に必死で現実から目を背けていたのだ。
「何、あれ」
まだ日も高いある日、昼間から客と酒を酌み交わしていたコーラは、《黒蟻亭》のろくに磨かれていない曇った窓から見える光景に目を奪われた。
貧民街に似つかわしくない、傷ひとつ見当たらぬ磨きぬかれた黒い高級車が音も無く現れ停車した。運転席の扉が開かれ、口もとに髭を蓄えた上品な中年男が降り、恭しく後部座席の扉を開く。同時に、ぴかぴかと輝くエナメルの靴を履いたほっそりとした脚が覗き、見るからに高級そうな外套を羽織った少女が姿を現した。
――丘の上の富豪の養女だ。
ざわつく店内で、誰かの呟きが耳に入り、とてつもなく悪い予感がコーラの身に過ぎる。中年男の手を取り、降り立った少女が迷うことなく進む先には――。
「……駄目」
コーラはうめき声を上げながら席を立つ。
「おい、コーラ?」
長い黒髪を垂らした少女は歩を進め、やがて広場に呆然と佇む『天使』の目の前に立つ。頭の天辺から爪先をじっくりと眺め回し、最後に透き通った青い瞳を随分と長い間見詰めた後満足そうに笑って、くるりと踵を返した。
「連れて帰るわ」
傍に控える中年男に向かって言い放たれた言葉は、妙にしんと静まり返る広場に響き渡った。
「駄目よ、天使!」
叫んだのはコーラだけではなかった。
《黒蟻亭》の女将も、食肉店の店主も、あの日以来、遠目で『天使』の事を見る事しかなかったせむし男のディノも、皆同じ気持ちだった。
――嫌だ、おやめ、行っては駄目だ、お願い、行かないであたしの、私の、俺の天使……!
けれどその言葉のどれも『天使』に届く事はない。
最初から、『天使』の目には少女しか映っていなかった。少女に見詰められるより先に、黒塗りの高級車が来るよりも前に、その方角をただ凝っと見ていた。
「だめ」
弱弱しいコーラの声は決して届かない。追いすがろうとする女将にも、怒号を上げる店主にも、ただただ呆然と立ち尽くすディノの姿も目に入らない、否、最初から見ていなかった『天使』は、今まで誰も見た事もないような満面の笑みを浮かべ、車に戻る少女の後を追いかけた。
「理想の子ども、みたいなものだったのかもしれない」
いつもどおりの情事の後、コーラは今だ孕んだことのない己の平らな腹を撫でる。
「五月蝿くって乱暴な男でも、こまっしゃくれたいけ好かない女でもない。とびきり綺麗で、喋れないけど聞き分けはいい、大人しくて素直で可愛くって。何よりも一緒に居て心が安らいだの。あの子のためなら何でも出来るって、そう思ってた」
あの子がどうだったかは知らないけど、と自嘲気味に漏らす。
『天使』は従順だったが、自らの意思で行動したのを見た事がなかった。いつも他人の意思に従うだけ。
「でも違ったの」
あの時の『天使』の笑顔。富豪の養女だという娘に付いて行く足取りに迷いは無かった。
《黒蟻亭》の女将はがっくりと気落ちして、あれから随分と痩せてしまった。発する言葉にも覇気がなく、けれどもそれはここいらに住む皆が似たようなものだった。
この街に、天使がいなくなってしまった。それはまるで太陽が消え去ったみたいで――。
「子どもが欲しいんなら作ればいいだけの話だろ」
のんびりと言い放った男は、しんみりとした空気をぶち壊しにした事にも気付かない。
コーラは「はあ」、とこれ見よがしに溜め息をついた。
「馬鹿ねえ、そんな事になったら私の商売上がったりでしょうが」
冗談じゃないわと首を振る。
「だから、俺が養ってやるって言ってるだろ」
「ああ、はいはい」
いつぞやの求婚以来、事あるごとに口説こうとする男に対する拒絶の言葉も、日に日に弱まってきている。
「コーラ」
耳元で甘く囁く声に、「何よ」とぶっきらぼうに答え、一瞬この男の子どもを産むのも悪くないかなと思い、やっぱり貧乏暮らしは嫌だとコーラはその考えを慌てて打ち消した。




