第62歩:カナギ
今さらだった。
遅すぎだった。
あの悲愴に泣いていた榎凪。
この快活に笑っている榎凪。
僕に裏切られた榎凪。
でも僕を救った榎凪。
本当に――今さらで、遅すぎだった。
「何の、つもりだ」
もちろん、言ったのは僕じゃない。僕にはそんなことを頭に浮かべる思考力さえ、残っていなかった。それは紀伊 大地の所為か、《失敗作》の所為か、体力の問題か、精神の問題か、僕には判別できなかったけれど。
「何のつもりだ、秋宮!!」
先程の冷酷さを裏返したかのように、それこそ僕が《失敗作》へと堕落した僕のように裏返り、声を荒げる紀伊 大地。
醜悪だった。
ありきたりな表現だけれども、人間の本質の部分は、何て醜いのだろう。目も当てられない程に、何て醜いのだろう。
これが僕のようだったのだろうか?
これが僕のようだったのだろう。
「何のつもりか、だと?ハッ!!」
弱さなんて欠片もなく、
脆さなんて破片もなく、
高尚で、高潔で、
高貴で、高韻で、
完全無欠で唯一無二、
最強で最高の、
「これは私の『永遠の恋人』だ。勝手にさわっといて、何言ってんだよ、クソが」
榎凪はそこにいた。
「何だよ、それって」
今度は僕。
榎凪が此処に居る理由を問いただしたいのは紀伊 大地だけではないのだ。
僕は紀伊 大地と違って、状況を理解して、即座に言葉を口に出来るほど、人間として完成していない。それこそ、まさに《失敗作》のように。
だから、僕はようやく、榎凪と言葉を交わすことが出来た。いや、言葉を交わせた訳ではない。正確に、もっと的確に事を言い表すならば、感情の吐露。きっと、僕は、榎凪に初めて榎凪に対して、感情を爆発させているんだろう。
「何で、何で今さら、そんなこと言うんですか!!全部黙ってて、嘘吐いてて、知られたら勝手に泣いて、今度は勝手に助けて、本当に、本当に今さらなんですよっ!!」
「ホント、そうだよなぁ」
いつものように、僕がこんなところに来る前と同じ調子で、寸分違わないまま喋る榎凪。
ただ、僕の方を向くことはなく、紀伊 大地を目線の先においたままだった。
まるで何かを警戒するかのように。
まるで何かを見張るかのように。
まるで何かを憎むかのように。
まるで何かを恨むかのように。
そして――まるで、まるで何かに怯えるかのように。
ただ、その美しく、輝くような眼で紀伊 大地を射し穿つ。
「ホント、今さらだよなぁ」
繰り返すように、ポツリと言葉をもらす。突けば崩れるくらいに、弱い言葉を、もらす。
「確かに、私はお前に全部黙ってたし、それは裏切り、なんだろうな」
人工の明かりのない森。
月の光も届かぬ夜。
儚げに、酷く儚げに喋る榎凪。
「お前が何処から何処まで知ってるか分からないし、多分、私からしてみればだけど、誤解もあると思う」
それはいつもの絶対的に物事を言う榎凪ではなく、まるで何かを提案するかのような柔和さを、今の榎凪は持ち合わせていた。
「でもな、そんなことはどうでも良いんだ、私にとって」
紀伊 大地のことも、《失敗作》のことも、まるで元から何もなかったかのように、全てをうち払ったかのごとく、顔を僕に向け、榎凪は僕と目線を絡ませる。
透き通り、吸い込まれそうな黒い瞳は変わっていなかった。
「たとえお前が私をいくら裏切ったって、私にいくら嘘を吐いたって、私をいくら憎んだって、私をいくら恨んだって、私はな」
ゆっくりとマバタキをするかのように、榎凪は薄く目を閉じて、開く。決意で結ばれた瞳が、そこにある。
対して、僕は目を閉じることなく、ただ待つ。降りかけられるであろう、言葉を。
「私はな……私は何がどうあろうと、お前が好きだ」
動けなかった。
動かなかった。
言われるコトは分かった。
言われるコトを分からないフリをした。
榎凪なら、虚偽だろうと本音だろうと言うことは分かっていたのに、目をそらして考えることを放棄した。そのお陰か、その所為か、僕の口から返す言葉は出てこない。
感情を爆発させたところで、榎凪の一言で静められるなんて、ざまぁないな。
榎凪は、そこで言葉を切ることなく、僕に歩いて近づいてくる。
「だからこそ、な」
ゆっくり、ゆっくり一歩ずつ地面を踏みしめながら、僕の前までくると、しゃがみこむ榎凪。へたりこんだままの僕と、視線の高さが同じになった。
相手の吐いた息が吸える距離。
相手の響く心音が伝わる距離。
相手の吐いた嘘が分かる距離。
相手の微笑む顔が見える距離。
そんな距離に服が汚れることも厭わず、跪いている榎凪は、ほんの少し体を動かして、僕の手をとる。
人肌の温もりと同時に感じる、重厚感と冷たさ。
僕の指をその冷たき塊に絡めるように、ゆっくりゆっくり一本ずつ、白魚のようで優美な指を動かす榎凪。官能的な指使いは止まることなく、硬い塊と絡まされていくのを、僕はなすがままで感じていた。
絡める作業は終わったのか、一旦手を離すと、今度は僕の手を、下から包むように持ち上げる。
僕の目の前に持ち上げられた自分の腕。
そこに握られていたのは、僕が握っていたのは――
紛れもない、回転弾倉式拳銃だった。
宵闇に浮かぶそのフォルムはあまりに不気味で、あまりに怖々しくて、あまりに――空虚。
もう一度、榎凪はゆっくりマバタキをして、僕を正面から見据える。
僕を見ているその顔は、ほんの一瞬だけ、微笑んでいた……気がする。
「だからこそ、な、――だからこそ、私がお前を好きだからこそ、お前を裏切った私を、お前は『裁く』権利がある」
そういって、何のためらいもなく、無骨で凶悪な銃口を……自らの口でくわえこんだ。
榎凪の顔には恐怖や悲哀はなく、決意の顕れさえも見せず、ただ、そこにあったのは、全てを受け入れるような慈悲深い、穏やかな、揺るぎない表情。
笑顔で僕と楽しむ榎凪。
怒顔で僕をからかう榎凪。
哀顔で僕と悲しむ榎凪。
優顔で僕を守る榎凪。
毎年、毎月、毎日、毎時、毎分、毎秒、一瞬にして表情を変える。そんな榎凪が僕に見せたことのない、とったことのない行動があった。
僕に全てを委ね、何も反発することなく、全てを受け入れるような行動は、一度としてとったことがない。
「う、うぅ」
本当に今さらだった。
本当に遅すぎだった。
もっと早くに榎凪が行動にうつしていてくれていれば、もっと早くに榎凪の慈悲深さを知っていれば、あるいは話は、いや、僕と言うなの《失敗作》は拗れずに済んだのかもしれない。
榎凪はきっと今、剣野景色の代わりとしてではなく、僕を僕として見てくれている。
初めはどうだか分からないけれど、これから先どうなるか分からないけど、きっと今だけは。
「うぅ、ううぅうぅぅ」
榎凪が触れている手の甲がやけに温かくて、榎凪の存在が僕にあまりにも近くて、涙が溢れてくる。
もしかしたら僕は、本当の意味で泣いているのかもしれない。本当の意味で泣いているんだと思う。
僕は手からリヴォルバーを取り落とした。




