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閑話2歩:矛盾回路―邂逅―

 初めに見たときは、光だと思った。

 (あで)やかに輝く黒髪と、(つや)やかに張った肌。裕福さの象徴であるかのような豪華な服。絹に金糸で装飾されたその服に身を包んだ彼女は、白っぽい黄色の肌をした人間だった。アジア系――中国人か、日本人のようだ。


「……あ――、う――」


 助けを求めようと、食事を求めようと、水分を求めようと、開いた口から漏れたのは、枯れて掠れた声で、意味のある音は出なかった。

 そんな私はまるで――ゴミだった。

 着ているものはボロ切れで、食べるものも、飲むものも持たず、金銭など存在も忘れ、生きる意味も意義もなく、人であったかどうかさえも不確かで、路上に座り、見向きもされない私は――間違いなくゴミだった。それ以上でも、それ以下でもなく――単なるゴミだった。

 悲しむ感情さえも、私にはもうなかった。

 涙を流す水分さえも私にはない。

 そんな私の前に現れた彼女はまさに、光だった。

 名も知らない私に名も知らない彼女は、気軽に、軽薄に話しかけてきた。


「生きたいか?」


 私が今一番したいことを軽々と、あくまで軽々と、提案してくる。蜂蜜のように甘い甘い甘言。

 脳内の回路をジリジリ焼きつける電気が流れるくらいの争い難い誘惑が私を絡めとっていく。


「私はお前を助けることができる。今、この場ですぐ、お前が望めば助けることができる。でも、助けるには一つ条件をつけなきゃならない」


 何だろうか?この人に奴隷として扱われるのだろうか?それくらいなら構わない。むしろこちらから願い出たいぐらいの待遇の良さだ。または……商品として売られるのだろうか?それでもまだ、現状よりはよい。仕える人間が分からない分、不安を孕んでいたが、そんなことは全くもって小さいことだった。

 私の貧困な、考え学ぶことを忘れた頭脳にはそれくらいにしか思いつくことが出来なかった。

 とりあえず私は惰性的に……生きていたかった。生に貪欲で、無限の明日を求めている。目的もなく、意味もなく、ただ、私は唯一と言っていいほどに減少してしまった独立して稼働する思考で思う――生きていたいと。

 だから私なんかが思いつきもしない大変な条件でも、即答でうなずく自信があった。

 あぁ、もしかしたら私は、こんな風に考えなかったから、今みたいにゴミのようになったのかも知れない。

 そんなことを今さら思い至って、何の意味は無いのだけれど。

 でも、こんな風な私にも、分かるほどに、理解できるほどに、求められた条件は単純なものだった。


「お前を生かすとなると、お前は今まで生きてきた記憶を無くすことになる――それでもいいか?」


 なんだ、そんなことか。それくらいなら大したことはない。今まであった記憶なんて、私にはそれほど重要ではなかった。思いでも何も、私はすでに忘れていて、失っているのと大差無いのだから。

 そして私はうなずこうとして、ようやく気づく。

 自分で思考して気づく。

 今さらながら……気づく。

 全てを忘れることと、いままでの生の痕跡を消すのと、いったいどれほどに差があるというのだろうか、と。同じではないか、と。

 そして、

 死ぬことと、忘れ忘れられることにいったい何の違いがあるのだろうか、と。

 だからだろうか?私はここで、今さらながら躊躇した。

 選択すれば生きていけるのに、生きたいと思っている私が躊躇った。

 彼女はただ、私を見下ろして、返答を待っていた。

 返答を待つ彼女を見て思う。忘れた後にどうなるのかと、苦し紛れに。でも、何も思うことはなかった。

 やっぱり私はそこで忘れることについて考える。今までになく、深く、深く、深く。

 忘れるとは死ぬことで、私は生きていたい。

 忘れられることは殺されることで、私は生きていたい。

 死ねばもう一度生きられる。

 生きたければ一度死ななければならない。

 そう考えると、私の中には、違和感がしこりとなって心の奥の方につっかえる。無くしたはずの心に……つっかえる。

 ならば、前提条件が違うのだろうか?

 ……分からなかった。

 ――分かるはずも、なかった。

 でも、そろそろ一つぐらいのことには気付いてもいいだろう。気付かないフリをして気付いていることを知っても良いだろう。

 逃げていたことに、向き合って良いだろう。

 私の考えそのものは大事なところで間違い、本質なんて元々無いものを、見失っている。

 そう、結局、私が言いたいのは、私が思っていたのはきっと、私は生きていたいのではなく、ただ単純に――


 ――死にたくなかった……


 ……だけなんだろう。

 流せない涙を流すほどに。

 知らない恐怖を覚えるほどに。

 生きるなんて私にはどうでもよくて、ただ、死という痛みを受けたくなかっただけだった。

 そうして私はまた、気づく。

 今、こうして世界の片隅の街の、裏びれた路地でゴミのように投げ捨てられ、思い出も、人らしい感情さえも欠落しているというのに、生きていると言えるのだろうか?

 ただ、呼吸をしているだけで、

 ただ、目を開いているだけで、

 ただ、脳が情報を交換しているだけで、

 生ききていると――言えるのだろうか?

 もしかしたら、私は既に死んでいるのではないか?

 さらに、さらにさらにさらに、先程覚えた恐怖をさらに、凌駕する恐怖が私を満たしていく。

 死にたくない。死んでいない。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 こんな私でも、彼女は助けてくれるだろうか?

 私は死んでいないと証明してくれるだろうか?

 ならば、私は請おう。

 記憶を捨ててもいい。私が持っている記憶は死の証明になりかねない。

 私は彼女の顔をもう一度仰ぎ見る。

 白い歯を見せてニッコリと光のように笑っていた。

 それを見て私はようやくながら確信した。彼女なら全てを任しても大丈夫だと。

 私は見上げた顔を下ろして、彼女の問いに対して頷いた。助けを求めて頷いた。

 すると、彼女は笑ったまま、私の答えに応ずる。


「よっし、わかった。私が余すとこなく全力で、足の先から紙の毛先まで、一つ残らず助けてやるよ」


 さらに彼女は不適に笑う。


「んでもって、お前に生きている実感を、脳みそがビリビリ痺れるくらいに味わあせてやるから覚悟しとけ」


 あぁ、私は思う。

 私はこのとき一度死んだんだ、と。そうして私は生まれ変わるのだ、と。

 そして――


 生きていたい、


 と。

 このとき既に私は生きている実感をビリビリと、足の先からビリビリと、紙の毛先までビリビリと、脳内にビリビリと、毛細血管一本一本まで余すとこなくビリビリと、電気の流れるスピードでビリビリと、身体中で生きていると、生まれてはじめて感じるのだった。


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