第44歩:幻影鏡界6
僕達、もとい、榎凪一人が崩落させた本棚を家人総動員で改修、復元をローテーション体制をとり、実務に勤んでいる。勿論の如く仕事サイクルの中には犯人張本人の榎凪を筆頭に榎凪のお付きである僕、茜、葵を含み、体調不良の鏡は組み込まれていない。
そんな自業自得的な忙しさの中、僕は紀伊 大地に紀伊 大河個人として呼ばれた。自分で『あんなこと』を言っておいてなんだが、現在の僕に個体と識別出来る名前らしい記号が大河と呼称されたまま。あんまり好きじゃないんだけど、特に苗字が。名前は榎凪がつけたからいいけど。
というわけで、現在僕が立っているのは、全く関係のない訳ではないか、第三者の鏡の部屋の前。障子の引き戸の向こう側に紀伊 大地がいる。存在している。
考えても仕方ないと僕は障子に手をかけて、横に開いた。木と木が擦れる音と引き換えに、向こう側の世界と対面した。
中に居たのは想定通り、紀伊 大地。いや、寧ろいなかったら困るか。加えてもう一人、当然といえば当然なんだけど、部屋の主たる鏡も部屋にいた。着ているのは現代的な普段着ではなく、寝巻きなどでももちろん無く、純白の浴衣。染み一つない白妙の、光を反射して眩しい皎白の、見るに耐えない鮮白の、吐き気がするほど真っ白な薄手の生地で作られた一繋ぎに作られた服。蒼黒の髪と蒼白の衣のコントラストが美しくも醜く、僕の目に映る。
言葉を掛けられるどころか、見向きもされなかったので僕は一言、失礼します、と断って入室する。畳敷きの床を一歩一歩、音を押し殺し、気配を消滅させ、恐怖心を押さえつけて、鏡と紀伊 大地の元へ歩いてゆく。
近づいて、布団の上に掛け布団もなしに寝かされている鏡。普段より断然、『神』らしい姿。皮肉だ。あまりにもシニカル。体調が悪くなった現状になって、ようやく『神』らしくなるなんてアイロニーを通り越して、コミカルだ。しかしよく見てみると、鏡の頬はやせ細り、肌は枯れ、目の光は消えて、胡乱に、空虚に、伽藍洞に、そこに存在していた。
「…………酷い、ものだろ?」
と、紀伊 大地は鏡に視線を向けたまま、痩せてしまっている鏡の髪を撫でながら、虚空にでも話しかけるように呟いた。いや、実際誰に向かっても喋っていなかったんだろう。たまたま僕がそこにいただけで、たまたま時間が合致しただけ。偶然の産物。時雨さんの前で言ったら、また机上の空論だとか言われそうだけど。
何をするでもなく、ただ僕は立ち続け、紀伊 大地は悲しげな目で鏡を見ている。……酷いかもしれないけど、感傷もし無いし、感慨も無い。
「あぁ、悪いな。そろそろ話をしようか」
十分程度の時間が過ぎて、ようやく自我を持った言葉を僕に向けてきた。どちらかと言えば、紀伊 大地、貴方の方がよっぽど酷い気がする。初めての事じゃないくせに、何故貴方はそんなにも――悲しむんだ?僕には分からない、分かれない。
その時だった、鏡が僕の方を体を半分だけ起こしてみていた。否定、いつの間にかそうしていて、今更ながら気づいたのか。鏡はじっと、無感動に僕を見つめている。僕の向こう側でも、僕より近くでもなく、僕という一点を見ている鏡。まったくもって無駄なのに、まったくもって無義なのに。
ポツポツポツポツポツポツポツポツと聞こえないほど小さな声で、連呼する。恐怖しかない。
周りが静かな所為か、だんだん耳が慣れてきて聞き取れ始める。
「……貴方は……誰……?……貴方は……誰……?……貴方は……」
正直に言えば、おぞましい以外のなんでもない。
だって、一月も一緒にいたんだぞ?昨日まで一緒に食事をし、掃除をし、笑いあってはないけど顔を突き合わせていたのに。あまりにも唐突に、事前の準備もなく、僕は――忘れられた。忘れられた。忘れられた。忘れられた?なんの前触れもなく、否、伏線はあった、否否、伏線にすらなりえていない証拠と事実があった。なんで……気付かなかった。
鏡はなおも僕に貴方は誰貴方は誰貴方は誰貴方は誰貴方は誰あなたはだれアナタハダレと問い続ける。僕に一体何を問うているのか、僕は一体何を答えてやればいいのか、理解不能だ。もっとロジカルに、理路整然と、順をおって説明してくれよ、なぁ鏡。
見下すような位置から向けていた視線を反らし、紀伊 大地に向けてみる。鏡という腫れ物から目を背ければ、そこには鏡以上の腫れ物、いや、それはもう切り傷、切断面、末期的な癌だ。見るだけでこっちも痛めつけられたような感覚。惨めで惨めで惨め過ぎる。僕はこの二人に何をすればいい?誰でも良いから、教えてくれ。もう考えるのも……嫌なんだ。
そして、僕は誰も教えてくれないから、考えることを放棄した。
紀伊 大地に全部聞こう。推測も証明も揚げ足取りも全て辞めて、ただ口を開いてくれるのを待とう。赤の他人を待つのは慣れていないけど、待とう。口を割らせる文句を考えるさえ、僕にはない。
鏡の傍らに紀伊 大地に倣って腰を下ろす。流石に痩せ細ったりはせず、人類の中でもあり得ないほど整った顔はそのまま、比率の狂ったように胴が短く手足が長い身体もそのまま、癖のない白銀の紙もそのまま。心だけが、精神だけが摩耗し、肉体の中に入っている存在。
さて、僕はどうしようか?
決まってる、待つんだよ。
―●―
「外に出ようか」
一時間ばかり待ち続け、紀伊 大地は淀みない口調で僕に提案した。
ようやく、か。
僕は肯定の言葉も否定の言葉も口にせず、立ち上がる。言葉はなくともこれは肯定。
紀伊 大地もそう思うはずだ。この状況下で否定にとるほど認識力は錯誤していないだろう。他人の心なんて知ったこっちゃないけど。
案の定、紀伊 大地は僕に続いて立ち上がり、先行して部屋を出た。どうやら一時間という長い時間は無駄に座っている為のものではなく、整理をつけるための時間だったのか。鏡に対する折り合いはつかないだろうけど、僕に説明するぐらいなら問題のない思考時間という空白。
僕は後続して廊下に出る。裸足の僕にとって板張りの床は冷たい。家の中で靴を脱ぐのが日本の習慣であるのは知っていたし、一月も経てば慣れてくる。それでもこういう、ふとしたときに靴履きの生活が恋しくなる。
そんなことは一切切り捨て、無意識と言って良い事務的な動作で紀伊 大地に続く。方向で言えば玄関。考えるまでもなくそれなりの期間ここに住んでいれば、迷路の如く入り組んだ通路故に行き先が感覚として分かる。正直、嫌でも一ヶ月という時間を認識させられて落ち着かない。榎凪と僕にとって異例の長期滞在に戸惑う。
榎凪がそれで良いなら良いか。
一分もしない内に玄関に辿りつく。
そこで靴を履き替えようとして、また惑う。
いや、今までのに比べればほんのささやか、取るに足らない事だけど、精神的に嫌悪。僕は裸足だ。繰り返す、僕は裸足だ。いまから外に出る僕にとって如何せん、これは危惧すべき懸案事項。素足で靴を履くのは抵抗がある。靴下を履いていないならサンダルという手もあるが、この寒い時期にそれは避けたい。第一、僕はサンダルというものを持っていなかった。
迷いに迷い、迷いきった挙げ句の果て、仕方なく素足でスニーカーに足を入れる。日本に来て榎凪と買いに行った安物の靴の為、肌触りは悪い。あの時、榎凪の言ったように高くて生地のしっかりした靴にしておけばよかった。あの時点でこんなことを想定できるはずは、微塵もないから後悔しても仕方ないか。
そんなこんなしている内に、紀伊 大地は庭の乾いた地面を通り抜け、門前で立ち止まって僕を待っていた。僕の方に視線を向けているが、避難の色はない。僕の方を向いているだけで僕を見てはいない形だけの目線が気持ち悪い。それでも僕は待たせては悪いと思い、小走りに近づく。
僕が追い付くよりも前に紀伊 大地は早足に歩き出した。だか所詮は歩き、すぐに追い付くことができた。でも僕は紀伊 大地の一歩後ろを、着かず離れずの距離を保ちつつ、まるで尾行でもしているかのように、ゆっくりと歩いていく。
足音は一つ。
重なっている訳ではない。
僕のパタパタとなる不似合いな可愛らしい音のみで、紀伊 大地の足音はない。足音を立てずに、己が存在を消したいように、消音して歩く。消しているのはきっと意図した行為ではなく、生まれついての綺麗な歩き方のおかげ。いや、歩き方のせい。これも才能か。一体この人はいくつの《才能》を持ち合わせているのだろう。僕の及ばない《才能》を。
どれだけ物理的に時間がたったかは計ってないから分からないが、体感時間にして一時間程度で目的地の入口らしき所に着いた。
山。
僕と。
榎凪が。
愛を。
将来を。
夢を。
語り合った、
宣告した、
名言し合った、
――山。
山が同じなだけであって、僕らが立っているのは山の中腹まで続いていそうな長い長い石段。鳥居さえあれば古めかしくも有り難みのある神社として信じれそうな、威圧感をもっている。あまりにも排他的なイメージが強く植え付けられて、入りたいとは思わない。理性とか倫理とか道徳とか精神とか肉体とかそんな次元の話ではなく、事実としては入りたくないのだ。
僕に問うこと無く、意に介さないままに石段を登り始めた。一歩踏み込むと始めて紀伊 大地宅に入ったときのように吐き気が込み上げてき、嫌悪感が渦を巻く。だが、所詮は精神論、スピリチュアルな思考だ。メンタル面の制御が出来なくて、榎凪の恋人なんて勤まるものか。
自分で考えておきながら赤面。
これも気を逸らす為にしたこと、と自分に嘘をついておいた。
枯れ木や落ち葉が階段上にはたくさん落ちており、ペキペキパリパリ秋色の音を奏でる。流石の紀伊 大地でさえ。
中程まで上がってきたところで、紀伊 大地が僕を気遣うように、大丈夫かい、と随分と達観した言い方で話しかけてきた。嘗めてもらっては困る。僕はそこら辺のアスリート何かより先天的に体力があるんだ。作られた側であって自慢することではないのだけれど。が、気遣い自体は嬉しい事だ。辛辣に返すのは悪いと思い、大丈夫です、とやんわり告げる。返答はなく会話終了。
そのまま登り続けて頂上に紀伊 大地は到着。僕も三段ほど遅れてだがなんなく上りきった。
どうやらここが目的地らしい。
緑の森を切り開き、平坦にされた空き地。
空き地というのは誤解が生じるから訂正しよう。
その土地の大半は木を三本ほど束ねたような太さを持ちながら、高さは周りの木と大差ない木によって潰されていた。その木の幹は朽ち果て、何かが刺さっていたような穴が貫通している。先細りの長細い穴。まるで大きな西洋の剣でも刺したかのような穴。傷口から考えると穴が相手から相当経過しているようだし、幹が朽ちているにも関わらず、青々とした大きな葉が生い茂っていた。歪で怪奇な樹木。
紀伊 大地が木から背くようにして石段の最上段に腰掛けたので、いつまでも木に気をとられているわけには(冗談ではない)いかず、僕も隣に座ることにした。ただし、一人分ほど間を開けてだが。
僕が座るのを確認してから、覚悟もなにも雰囲気さえも漂わせず、話を始めた。
「君は今の鏡をみて、どう思う?何を感じる?」
どうもこうもない。ただ単に体調が悪いだけだ。そんな軽口を叩けば、僕は間違えなくこの階段を転がり落ちることになるだろう。あくまで物の喩え。
真剣に考えるとして、実際僕は何を思っているんだ?
憧憬?
――能力に対して?
嫌悪?
――人柄に対して?
渇仰?
――才識に対して?
仇視?
――風格に対して?
一体、僕は何を思考する?
本当、僕は何を思惟する?
正直、考えたことも無い。
結局、考えることは無い。
答えなんて、その辺にゴミの様に、塵の様に、芥のように落ちているんだから。
拾って、しかるべき場所へ……投げ捨てる。
「そんなの――」
僕は明言する。
「――決まってるじゃないですか」
僕はただ事務的に、回答を出す。
「僕は鏡なんて、なんとも思ってません」
殴られると思った。実際、腕を振り上げられ、胸座を掴まれた。それを僕は酷く冷めた目で、冷めて冷めて冷め切った目で紀伊 大地を見上げていた。所詮、人は人。紀伊 大地も、人でしかない。怒る時には怒る。当然のことで、当然のことが当然過ぎて、つまらない。
だから、振り上げた拳を下ろし、胸座の服を離したときは正直、面白くて仕方なかった。
あまりにも喜劇的。
あまりにも奇劇的。
あまりにも悲劇的。
あまりにも非劇的。
何事も無かったかのように、紀伊 大地は前置きなんて関係も無く、話を始めた。
「鏡はもう、輪廻寸前だ。君はそう思わなかったかい?」
確かに存在は希薄に思えたけど、そこまで切迫したものとは思えなかった。現実味を感じていない所為か、動揺も無い。
「もう――二、三日といった所だ。昨日はあんなに元気だったんだぞ?もう指数関数的に……止まることは無い」
疑問はある。それは根幹といっても良い、この鏡の話題に対す話のルーツ。
「ちょっと待て。和湖さんに聞いたけど、『人』も『神』も寿命は同じなんだろ?なのに何でだよ?」
思わず言葉が荒くなる。意図しているつもりも、意図していないつもりも無い。話の流れとしてなんとなく、殊更考える事も無く、言葉に表す。
そんな事は気にも留めず、説明に説明を重ねる。
「言っただろう?鏡の能力は《反転》だぞ?君は生まれてから成長しているだろう?」
それだけ聞けば十分だった。要は《反転》の能力が故に、最果ての力が故に、彼女は、鏡は、
「鏡は最強の状態で生まれでて、最弱となって死んでいく。君のことを忘れていたように、知っていたことも忘れ、あったものは無くなり、掬えば掬うだけ零れていく。順番も何も無い、いや、無いんじゃなくて《あべこべ》なんだ」
そういうことだ。
鏡が死ぬ。輪廻する。それが――事実として叩きつけられた。
「ここは歴代、というのも変な話だが、前例の神全てがここで輪廻している。鏡も数日の内でここで……」
それ以上、紀伊 大地は何も語らなかった。今にも泣き出しそうな顔で振り返って木を眺めていた。僕は……どうすれば良いのだろう?そんな答え、何処にも落ちていなかった。




