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第39歩:幻影鏡界1


 崩壊とは生物に与えられた特権である。


   ―●―

 

 ドサッ

 そんな音が僕の崩壊の開始音だった。

 

 僕の眼前で起こった出来事は理解し難い光景だった。

 世界の不可解な光景、外れた日常、無に帰す安寧、コワレルヘイワ。僕の脳は理解を拒絶する。伝達はされてくるのだ、余すとこなく、無慈悲に。

 浅く傷ついた木の柱。

 少しくすんだ白い壁。

 血飛沫のような液体。

 へこんだ銀色の容器。

 広がり流れる漆黒線。

 何も写していない虚ろな少女の目が、無情に僕の前を下降していく。

 手に持っていた銀色の鍋からは70度近い、ちょうど良い具合の味噌汁が入っていた。目と同じように意思がなくなったその身体の末端からは、当然のように味噌汁は手からはなれ、近くにいた僕に降りかかる。

 ……熱かった。当たり前だ。だが、そんなことが気にしていられないほどに触覚が、感覚が、神経が、脳が麻痺している。呆然としているわけじゃない。怖いわけでもない。とるべき行動も理解している。それでも動けなかった。動こうとすれば動こうとするほど動けなかった。まるで意識が反転している。世界は一方に向かって着実に時を刻んでいるというのに、僕の意識だけが逆方向に走っている。

 結局のところ、そんなのは言い訳でしかないわけで、この状況に僕は酔っていただけなのかもしれない。泥酔にも近いぐらいに、感情の制御が利かなくなっている。目の前の少女を助けるのも、苦しめるのも自分の一存。圧倒的な優越感が僕の全身を支配している。

 理性、そう理性だ。それが外れてしまったんだ。だから、早くかき集めないと。取れてしまったピースを当てはめて、助けないと。そうしないと全ての取り返しがつかなくなってしまう。特に自分が、自我が崩壊してしまう。

 脳内を手当たり次第に探す。真っ暗闇を這いつくばって、醜悪に。手に当たるものは全部当てはめては、捨てる。

 ……見つけた。これに違いない。

 叩きつけるようにピースをはめた。正解。理性が正常に起動。状況を再確認が自動的に行われ、理解する。理解したくない事実を理解する。


「……っあ」


 やっと出たのは泣き声のような微音。半径一m以上には届かないような掠れた音。そんなんじゃ、榎凪だって来るはずない。

 可笑しい。理解したら理解したで、何も出来ないなんて可笑し過ぎる。あまりの可笑しさに奥歯がかみあわない。ガチガチカチガチ、と耳の奥の方で不協和音を奏でている。とんでもなく鬱陶しいが、止めるすべを僕は知らない。

 そうだ、目をふさごう。そうすれば、落ち着いて考えに浸れるはずだ。

 そう思ってまぶたを動かそうとするが、うまく閉じてくれない。両目をつぶろうとして右半分の世界だけ欠け、もう片方も閉じようとすれば左右か反転するのみ。本当に僕は一体どうしてしてしまったのだろうか?

 仕方ない。ここは手で世界をふさごう。幸い手配とも簡単に動いてくれた。

 視界に映る手はかつて無いほどに震えている。そんなことはお構い無しに、血がにじむほど強く押し付ける。

 それでも世界は一向に消えない。指の間、揺れる枠組みの中、僕はようやく少女を直視した。


「アッ、あぅ、アァ、ひっ、ガッ、■■■■■■■■■■■!!!」


 音にならない絶好を叫ぶほか、僕には何も出来なかった。

 絶叫を聞きつけて、壁をぶち抜いて榎凪がやってくる。それまで僕は少女――鏡の前で座り込んで絶叫していた。



 長期間、投稿を停止していまして誠に申し訳ありませんでした。

 これからは、なるべく早いペースでやっていきますので、見捨てず見ていただけるとありがたいです。

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