第15歩:MORNING-2
広く、高く、遠く、長く、果てなく広がる砂漠ような木造の巨大な部屋。
部屋を八分割するように奥に並び、部屋の半分をしめる高さ五メートルはあろうかという七つの本棚。感じた圧迫感の原因はこれのようだ。梯子などは見あたらないが一体最上部の書籍はどうやってとるのだろうか?
本棚の中にある本は隙間なく並び溢れだしてさえいる。そのすべての本に刻まれている文。単語。文字。この部屋は知識の塊、この家の脳に当たるはずだ。それ故か空気を伝う音は皆無。格式高いはずなのにゆるりと止まっている大河のような時が流れる長閑さ。
本棚から入り口近くまでは木製の長テーブルが並んび、机には汚れもくすみもない。あるのは木目と少しばかりの溢れ出た本だけ。掃除が随分行き届いている。
入り口を入ったすぐ横にはカウンター。これだけの貯蔵量があるのだ。この町の住人に貸すぐらいの余裕はある。そこら辺の図書館なんか戦う必要はないが敵ではない。
そんな部屋で不思議と僕はただ立っているだけだった。それだけで何か冬も近いこの日に暖かささえ感じる。
この部屋を僕は気に入った。離れようがない程、束縛されているかのように心打たれた。
その中心に陣取るのは白銀。琥珀。
「やぁ」
淡く薄い笑み。
読んでいたハードカバーの本にしおりもせず、ポンと柔らかい音を立てて閉じた。机に積みあがった本の上に本を重ね、風景の一部に返す。
それだけの動作でさえ美麗。無駄がないとかそういう綺麗さではなく感覚のみに与える美しさ。
「おはようと言うべきかな?それとも初めましてかな?」
空気を伝う透き通る声。すべてのものを魅了してやまない音がひたすら僕の聴覚を刺激し続ける。
「お、おはよう……ございます」
僕はできるだけ平静を装ったがその努力は無に等しかった。何故か凄く空しいし。
最近は人に会う度に緊張してしまって取り繕ってばかりだ。この現状は如何なものだろうか?性急に打破せねば。
「そんなに堅くなるな。私は一介の高校生だ。政府の官僚な訳じゃない」
むしろ政府の官僚であった方が相応な気がしてそれなりに安心できそうではあるが。
「鏡はもう戻ってくれていい。少しばかり――そうだ。秋宮が起きたらつれてきてくれ。無理に起こす必要はない」
「かしこまりました」
そういって部屋を後にした鏡。終始一貫落ち着きがある物腰でそれは眼前の紀伊さんにも引けを取らない。これほどの人物に敬称をつけなかったのはなんたる無礼だろう。
鏡が出て数秒。紀伊さんが神妙な面持ちで切り出した。
「よく眠れたか。いや前置きは飛ばそう。単刀直入に聞くが――」
「はい」
ガチガチになりつつも相づちを入れる。目を薄く閉じた紀伊さんは芸術品の域だ。
紀伊さんの顔に似合う引き締まった思案顔で訪ねる。無動作それでいて無情に。
「その白い髪は生まれつきか?」
「はい」
聞いた後に静かに琥珀の目を開く。
その質問にどのような意味があるのだが知らないがあまりに真摯な眼差しなので嘘偽りなく返答した。
その返答を聞くや否や紀伊さんは深いため息をもらし、苦虫をすりつぶしたような顔になる。
それも一瞬。すぐに元の顔に戻った。
「ありがとう。疑問はいくつか残るが解決した」
「あの……それだけですか?」
呆気なさすぎる言葉。思わず前のめりになり、眉をひそめる。
「あぁ、それだけだ。すまなかったな、足をわざわざ運んでもらったのに」
「いえ」
この人にこんな風にお礼を言われると空恐ろしく感じてしまう。
それに拍子抜けにもほどがある。僕は『実は死んだ弟に似ているんだ。私の弟になってくれ』と言われても良いほどに覚悟していたのに。
体制を元に戻しながら顔も元に戻した。
「もう一つ質問がある。いいかな?」
「はい?」
小首をかしげ聞き返す。再び気をつける。
「名前を教えてくれないか?意志の疎通が大変になる」
ふつうの質問に再び気を抜く。伸びていた背筋も緊張感が抜け楽な体勢になる。
だがこれは困った。非常に困った。
名前が変わる僕にとって一番困る質問だ。名前を聞かれる機会なんて今までほとんどないし第一に聞かれたところでその日のつき合いがほとんどだ。
紀伊さんとはおそらくこれから長いつき合いになるから適当にはぐらかすことはできない。それにまず通用はしないだろう。
「えっと……」
仕方なく僕は理由を言わずに真実を言う。
「僕に名前はないんです。正確に言うと変わるんです」
無言で一瞬睨む琥珀の眼。魔術にでもかかったかのように全身の筋肉を固まらせる鋭いその視線はすぐに閉じ、先刻と変わらぬ淡い笑顔に戻る。
「そうか……すまないことを聞いてしまったな」
残念そうに紀伊さんは言う。どこか演技じみている気がしたが僕を騙すつもりなら分からないほど巧妙にやるはずだ。この人にはそれが出来る。
「いえ……」
紀伊さんに気遣ってもらい悪い気がしてならない。
無駄に漂う気まずい雰囲気。これは非常に辛い。
沈黙が流れる。
榎凪といるとあり得ない沈黙。
これが誰かと面と向かっている状態で初めての静寂かもしれない。
「そういえば」
紀伊さんは突然口を開いた。自分が気まずく思ってか僕を気遣ってくれたのかは知らないが、どちらにせよありがたいことに代わりはない。
「あの少女は存外パワフルだな」
「はぁ……」
有り難いのは有り難いのだが突然なまでの話題転換だった為、曖昧に相槌を打った。
話をにこやかに続ける紀伊さんは他愛もない世間話をする旧友のようだ。
本当に初めてあった気をさせない。
思い出して少し苦笑しながらも楽しげに語ってくれた。
「最初にあったときはずいぶんと物静かだと思ったが――眠かったせいかな?
君を寝室に運ぶ辺りからずいぶんと活発に動いてくれてずいぶんと助かったよ。秋宮が作ったとは思えない」
紀伊さんはどことなく懐かしげに言葉をひたすら連ねる。
「そこまでは『普通』の良い子だったんだけどね。
寝室に入った途端、秋宮がお得意のわがままぶりを発揮してね。
相変わらずだよ、まったく……」
昔を思い出すように語る紀伊さん。
今も昔も榎凪は榎凪のようだ。
自然と僕の顔からも笑みがこぼれた。
「君が寝ているベッドの横で言い合いが続いてな。
秋宮は駄々をこねるはもう一人の子は立ったまま寝るは枕は飛ぶは鞄は飛ぶはでいろいろ大変だったよ」
うわー、何か榎凪の周りだけは凄い想像できた。
「でも一番驚いたのはアレだね。
いや久しぶりに面白い物語を見た気分だった」
顎をさすりながら薄く笑う紀伊さん。目もどこと無くにやけていた。
初めてあったときの僕からかけ離れた――いや、人間から逸脱したようなイメージは減り、良い意味でこの人も人間と思えてきた。
「あまりにも秋宮がわがままでね。私が止めようかと思ったが……
まぁ、秋宮のわがままの内容は君に添い寝するというものだったんだ。
あの少女が君は疲れているというのを理由に断固阻止しようとした結果」
くすりと紀伊さんはほんの僅かに表情を変えて語り続ける。
「何故かそこに置いてあった金属バットを握りしめ、秋宮の後頭部にフルスイングした」
ポカンと口を開けて呆とする僕。さぞ間抜けであっただろう。
「アレは近年まれに見るほどのナイススイングだった。
何せ一本足打法だ。いや、あの角度からするとかなりのアッパースイングだったよ。どちらにせよホームラン級のジャストミートだったな、うん。
それで秋宮は完全に鎮静化して事なきを得た」
ホームラン級のヒッティングをする方も方だが、それを直撃して無事な榎凪も榎凪だ。とんでもなく恐ろしい。
「ところで紀伊さん」
本当に聞かなくても解る細かい疑問なのだが一応回答確認のために尋ねておこう。
「『紀伊さん』なんて他人行儀なことはしなくて良い。あぁ、そういえば自己紹介がまだだったね。名前を聞いたのに自分の名前を言わないなんてとんだ失態だ。改めて、初めまして。紀伊 大地だ。呼ぶのは大地で良い。よろしく」
あくまで自然に手を差し出す紀伊さん。もとい、大地さん。
僕はそれに応じてゆっくりと大地さんに手を重ねて、握り、握手した。
「こちらも改めて宜しくお願いします」
お互いの手を離し、時に流されるまま、さっきの質問を続きを言った。
「榎凪をバットでフルスイングしたのは茜――紅い髪の子ですよね?」
単純な知的欲求だ。他意はなく、帰ってくる言葉はもちろんイエスのはずだ。
「いいや、蒼い髪の着物の子だ」
ただ事実のみを大地さんは言う。
このことは追求しないでおこう。それが世のため、人のため、みんなのため、そして何より自分のために。
それから他愛もない世間話がひたすら続いた。
机に腰掛け目を合わせて語る白髪の二人。
今の現状やこの町のことにはあえてふれず僕が旅をしてきた間のことや今と昔の榎凪の性格について。
そんな話が無性に面白かった。
現状にあえてふれなかったのは無意識のうちにこの楽しい状態を終わらせたくなかったのかもしれない。
―●―
ずっと他愛もない世間話が続いた。
そろそろ時間もよい頃合いだ。長年の勘からすると、
「ワアァァァァァァァン!!!」
「やっぱり来たぁぁぁぁ!!!」
榎凪は僕めがけて一直線に滞空し激突、押し倒した。
「ワアァァァァン!!!アァァァ!!!えっぐ、えっぐ」
ひたすら泣きじゃくる榎凪。手の甲を目に押し当てて鼻を啜る。
「どうしたんですか、一体!」
それでも榎凪は泣きじゃくることをやめることはない。せめてマウントポジションはやめてほしい。
「うわぁぁ!!鼻水垂らしながら頬摺りするなぁ!!!」
「だって、おまえが、昨日倒れて、朝起きたら、いなくってぇぇ……」
しゃくりあげながら必死に言葉を紡ぐ。大の大人がみっともない。
「話は聞くから離れて、ね?」
その一言で榎凪は泣き止み、僕から離れた。そして自分の足でしっかり立つ。あわせて僕も立ち上がる。
本当にこの上なく世話の焼ける人だ、まったく。
「つくづく思うが良い意味でも悪い意味でも相変わらずだな、秋宮」
あきれ顔の大地さん。対する榎凪はというと。
「これは渡さないからなぁ!!!」
そういって榎凪は僕を抱き寄せた。それはもう力一杯、首が折れんばかりに思い切り。
会話もまったく成立していない。今の榎凪に何を言っても無駄だろうが。
「こいつはなぁ、私のものを何でも取る悪い奴――」
余りに嘘くさかったので声を出してしまった。
「何言ってるんですか。大地さんは良い人じゃないですか……」
ぽつりと言ったつもりだったのだが榎凪の耳にはしっかりと届いてしまっていたようだ。
再び瞳からは涙が溢れだし止まらなくなる。
「ウワァァァァァァァン!!!紀伊が私のものをまた取ったぁぁぁ!!!」
「鬱陶しい」
ぱこんと景気の良い音がした。
大地さんが榎凪の頭を本で叩いたようだ。さすがに二日連続で殴られた榎凪に合唱。チーン。
「そんなことよりこいつの名前を教えろ。わざわざ魔術抵抗までつけて分からなくするなんてな」
「いやだ」
きっぱりとはねのけた榎凪。さっきとはうって変わって眼には真剣と言うより覚悟を据えたようなきつい眼をしている。火花を散らすようなにらみ合いと言う奴だろう。
正直こんなに局面が変わるとついていきにくい。しかも未だに抱きしめられたままだ。
「どうせお前のことだ。なにを言ってもただはぐらかすだけだろう」
折れたのは大地さんだった。
どちらかと言えば最初からそのつもりのようにとれたが真意は不明。
「しかし、とりあえずでもいいから名前を付けろ。それでないと戸籍が作れない」
戸籍が作れないって……まさか。
「わかったよぅ」
すねたように言い捨てた。同時に僕も解放される。
「んじゃ、大河。どうせお前の親類じゃないとだめなんだろ?だったら名前も似せるよ」
あーあ、完全にいじけちゃってるよ。
「ということだ『大河』。ここでしばらく住むために戸籍を作る。俺の弟としての戸籍になるから『紀伊大河』と名乗ると良い」
偉くさっぱり言う大地さん。そして手帳を取り出して何かを書き込んだ。おそらく今のことだろう。
僕も存外さっぱりしていた。始めて手に入れる戸籍に対しても名前が付いたことも大地さんの弟になることも。
「戸籍の話はこれで終わりだ。明日までに手配しておこう。そろそろ本題に入りたいからな」
そういえばすっかり忘れていた。今一番大事なのはそのこと。
そして僕は戸籍のことなんてすっかり忘れて大地さんの話に注聴する。まったく疑問にも思わずに。戸籍の作り方も知らずに。




