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絡み合う糸 (1)

 

 

 

 ようやく緩み始めた風が、野の花と楽しそうに語らっている。天高く舞うひばりの歓喜の歌を聞きながら、ラグナは、実に八か月ぶりに従兄弟の家の前に立った。


 ラグナがこんなにも長い期間ヴァスティから離れていたのは、初めてのことだった。ラグナが通う王立学校には、王都に住まう有力者の子弟以外に、地方貴族や郷士の子弟も多く在籍している。普段寮生活を送る彼らが庄の繁忙期に国元に帰り易いよう、季節折々に十日ほどの休日が用意されており、ラグナは、今までそれらの休暇を全て「里帰り」につぎ込んでいたのだった。

 八か月の間に、ウルス達に何か変わったことはなかっただろうか。余程の出来事なれば、なにかしらの知らせが王都に届けられるであろうが、それにあたわぬと判断されてしまった事柄は、遠方のラグナには到底窺い知ることはできない。えもいわれぬ不安を振り払うように、大きく深呼吸をしてから、ラグナは呼び鈴に手を伸ばした。


 懐かしい鈴の()に続いて、ぱたぱたと軽い足音が廊下を近づいてくるのが聞こえる。アン叔母の、あの勢いのある抱擁に備えて両足に力を込めたラグナだったが、扉があいた瞬間、まばたきをすることすら忘れて、その場に立ちつくした。

 扉の向こうに立っていたのは、フェリアだった。肩まで伸びた胡桃色の髪を、ふんわりと風に揺らしながら、「お久しぶりです、殿下」と頭を下げる。


「あ、ああ。久しぶりだな」


 辛うじて一言を返したものの、ラグナは動揺を隠すこともできず、ただ茫然とフェリアを見つめた。彼女の髪が伸びていることにも驚いたが、それより何より、何故、今、彼女がウルスの家にいるのか、という疑問が、ラグナから言葉を奪い取る。


「殿下が来られましたよー」


 フェリアが背後に向かって声を投げれば、すぐに奥からアンの声が応答した。


「すまないねえ、今、ちょっと手が離せないんだよ。ラグナ、入っておいで」


 錆びついてしまったような足を必死で動かして、ラグナはアンの言葉に従った。サヴィネとフェリアが、八カ月前と何ら変わらぬ調子で挨拶を交わしているのを、背中で聞きながら。


「サヴィネさんも、お久しぶりです」

「ご無沙汰しております。フェリアさん、髪の毛、伸ばされたんですね。とてもよくお似合いですよ」

「ありがとうございます。いつまでも子供みたいな恰好をしてるのも変かな、って、思って……」


 ラグナは、落ち着かない気持ちを胸に抱えたまま、とりあえず外套を壁の帽子掛けに引っかけた。そうして、ゆっくりと室内を見まわす。

 戸棚、箪笥、壁掛け、カーテン、食卓、そして椅子の数。全てが、まるで時が止まっていたかのように八カ月前のあの夕べと同じだった。なのに――


「お帰り! ラグナ!」


 エプロン姿のアンが、台所から出てくるなり、ラグナを抱きしめた。途端に、肉料理の美味しそうな匂いがラグナを包み込む。

 ラグナの腹がぐうと鳴くのを聞き、アンが楽しそうに声をあげて笑った。

 つられてラグナも、思わず小さく笑い声を漏らす。


「ただいま」

「随分久しぶりだねえ。選鉱場の事故以来だから、八か月ぶりかな」


 アンはラグナを解放すると、「元気そうでなによりだ」と目を細めた。


「あの時は、本当に、色々とありがとうね。おかげさまで、全員、無事怪我も治ってね。今日、あんた達がうちに来るって聞いて、あの時世話になった皆が、でっかい鵞鳥を差し入れてくれてねえ。今日のご飯はびっくりするぐらいに豪勢だよ」


 それは楽しみだ、と、微笑んでから、ラグナは当たり障りのない問いをまず口にした。


「叔父さんとウルスは?」

「二人ともまだ仕事だよ。一応、今日は早めに帰ってくるって言ってたけど」


 続けてラグナは、心持ち緊張しながら、一番知りたかったことを口にする。


「フェリアは、今日はどうしてここに?」


 アンと入れ替わりに台所へ入っていたフェリアが、オーブン用の手袋を両手に嵌めたまま食堂へ戻って来た。


「今日はたまたま仕事がお休みだったから、『でっかい鵞鳥』のお届け係を拝命したの」

「ついでに色々手伝ってもらっちゃってね。ありがとうね、フェリアちゃん」

「殿下は母の命の恩人ですもん、いくらでもお手伝いしますよ」


 フェリアがにっこりと笑った瞬間、部屋が明るさを増したような気がした。ラグナは何も言うことができずに、ただじっとフェリアを見つめる。

 ラグナとフェリアの視線が重なり合い、そして、行き違った。フェリアがそっと目を伏せたのだ。


「あの時は、本当にありがとうございました」

「お前の力になれたこと、嬉しく思う」


 思った以上に声に熱が入ってしまったことを自覚して、ラグナは密かに動揺した。だが、それ以上にフェリアのほうが、うろたえた様子で顔を上げた。

 フェリアの瞳が、一瞬、揺れる。

 次の瞬間、「ただいま」と静かな声がして、二人は同時に玄関のあるほうを振り返った。


「おかえり、ウルス」


 フェリアが、髪をふわりと揺らしてウルスに微笑みかけた。と、自分の手にオーブン用の手袋がまだあることに気がついて、「いっけない」とアンに返しに台所へ向かう。

 ウルスは、外套を着たまま、ラグナの目の前――先ほどまでフェリアが立っていたところにやってきた。


「相変わらず、早めだね。来るの」

「暇な学生で悪かったな、技師先生」


 先生、という響きに、ウルスが面食らった表情になる。

 ここぞとばかりに、ラグナはにやりと笑ってみせた。


「ヘリスト先生に聞いたぞ。帯式運搬装置の改良版、お前の案が通ったそうじゃないか」


 ラグナが、感嘆を込めて「流石だな」と言葉を継げば、ウルスが照れくさそうに顔を背けた。


「先輩のお手伝いで、なんだけどね」


 それからウルスは、あらためてラグナと目を合わせると、「久しぶり」と笑った。


 


 


「まあ、聞いてくださいよ、サヴィネさん」


 六人掛けの食卓の端、ウルスの父ヨルマが、蒸留酒片手に真っ赤な顔で右隣のサヴィネに語りかけている。妻であるアンに対しての、愚痴で始まって惚気に終わる、サヴィネでなくとも相槌に困る内容だ。

 サヴィネの右側にはフェリアが座り、向かいの席のアンと楽しそうに語らいながら料理をつついていた。一緒に夕食を食べていったら、とのアンの誘いを、一度は断ったフェリアだったが、「フェリアちゃんにも、この『でっかい鵞鳥』を食べる権利がある」とアンが押し切った結果、彼女も一緒に食卓を囲むことになったのだ。

 酔っ払い相手に四苦八苦するサヴィネを正面に見ながら、ラグナが美味しい食事と賑やかな空気を存分に味わっていると、右手に座るウルスが、ぼそりと口を開いた。


「一週間ほどいるんだって?」


 ラグナの今回の滞在は、ブローム公爵が家族揃って旅行に出かけたことによって、ようやく実現したのだ。


「ああ。でも、今回は先生の講義は無しだ」


 ブローム公を不必要に刺激することはあるまい、との、ヘリストの判断には、ウルスも異議がないようだった。「仕方ないね」と、心持ち寂しそうに頷く。


「すまないな。夏には諸々が落ち着いておればいいのだが」

「どうだろうね」


 ウルスの目には、既に諦めの色が浮かび上がっていた。貴族達が水面下で繰り広げている権力争いについて、充分に理解しているのだろう。そればかりか、カラントを取り巻く国々の情勢についても、彼は正確に把握しているのかもしれない。そうラグナは思った。

 何しろウルスは、ヴァスティにおいてはヘリストの一番弟子ともいうべき存在だ。生真面目で優秀なことに加えて、この口堅さである。本来なら表に出せない情報でも、王太子の傍に控える際に必要だとなれば、師は躊躇わずにウルスに耳打ちするに違いない。


 だが、それは、地方の鉱山で技師として生きようという男にとっては、背負うに重すぎる荷ではないだろうか。


 ラグナは、唇を引き結んで、隣に座るウルスを見やった。

 ウルスは、じっと黙ったまま、鵞鳥の肉をフォークでつついている。

 それにしても、と、ラグナは、正面右手でサヴィネに絡み続けているヨルマをあらためて見つめた。それから、自分の左側でフェリアと歓談しているアンを見た。口数だけで考えれば、ウルスがこの二人の子供だとはとても信じられない。

 ラグナの視線に気づいたアンが、早速そのお喋りの矛先をラグナに向けてきた。


「そういや、姉ちゃんは元気かい? 最近忙しいみたいで、手紙もめっきり減っちゃったからねえ。こっちから出すのも、ちょっと気が引けるというか……。まあ、姉ちゃんぐらいに有名人になると、他から消息が伝わってはくるけど。どう、機嫌よくやってる?」

「機嫌は……どうかな。好きな本を読む時間が無い、ってぼやいていたが」


 ラグナの返答を聞き、アンが何度も小刻みに頷いた。


「ああ、それ、前に手紙に書いてたわ。忙しくて本は読めないけど、仕事の合間に陛下が今までに読んだ本の話をしてくださるから楽しい、って。いつまでも仲良くていいわよねえ」


 そう言って、ちらりと非難めいた眼差しを、向こう角の酔っ払いに投げる。


「まあ、機嫌よくやってるんだったらいいんだけど。ほら、なんか今度、南から怖ーい人が来るらしいじゃない。姉ちゃんもだけど、陛下大丈夫かな、って、皆心配してるんだよ」


 去年の夏の終わりのことだ。南の帝国が、陸づたいに内海を越えて、カラントの南隣の小国ブラムトゥスに侵出してきた。海賊退治の要請を受けて、との言い分どおり、帝国軍は海岸沿いを荒らしまわっていた海の民を速やかに追い払い……、そして、何故かそれ以降も当然の顔でブラムトゥスに居座り続けた。


 この十数年の間に、帝国はじわじわとその勢力範囲を広げてきていたが、カラントを始めとする内海北岸の国々にとっては、文字通り対岸の火事でしかなかった。それゆえ、突然喉元に突き付けられた(やいば)に、北岸の国々は大いに慌て、今更のように対応策を探り始めた。

 温室育ちのこわっぱなんざ、さっさと南岸に追い払ってしまえ、と息巻く国が多い中、カラント議会が選んだのは現状維持だった。帝国がこれ以上兵を進めてこないならば、ブラムトゥスのことは不問にする、との声明を、議長であるセルヴァント伯の音頭で、声高らかに発表した。そうして、それを受けて、この秋に帝国とカラントとで平和会談が行われることが決定したのだ。


「怖い人、って、マクダレン帝国皇帝の弟君ね」


 と、ウルスが冷静に訂正を入れる。


「兄君と違って温厚な方だと聞いている。ブラムトゥス遠征にも批判的だったとか。だから、皆が気に病むようなことなどない」


 敢えて力強い口調を意識してラグナは言った。

 それを聞いたヨルマが、「ほら、陛下なら大丈夫だ、って、俺ぁ言っただろ?」と得意そうに胸を張る。

「しっかし、あったかい国の連中が、何を好き好んで、わざわざこんな寒いところにやってくるのかね。俺にはさっぱり分からんねえ」


 少し大げさに首をかしげたのち、ヨルマは一息にカップを空にした。


「それはともかく、サヴィネさんよ、一口ぐらい飲まんかね」

「あ、いえ、お料理だけで、もう、お腹がいっぱいで……」

「俺ばっかり飲んでばっかりで、なんだか申し訳なくてな……」


 そう言いつつ、ヨルマは躊躇いのない手つきで蒸留酒の瓶を掴み、自分のカップの上で傾けた。

 ぽつり、と、琥珀色の雫が一滴だけ、カップの中へと落下していく。

 片目をつむり瓶の中を覗き込むヨルマを見て、フェリアが腰を浮かせた。アンのほうへ身を乗り出して、小声で囁く。


「何か飲み物、取ってきましょうか」

「いいのいいの。欲しけりゃ自分で取りに行く、ってのが我が家のやり方だからね。フェリアちゃんは落ち着いてお食べ」

「でも、それだと、おじさん、また蒸留酒をお替わりするんじゃないかな。うちも、父に任せておくと、ずーっとお酒ばっかり飲んでるから」

「そうねえ、そろそろやめさせたほうがいいかねえ」


 ひそひそと行われた秘密会議ののち、フェリアは台所へ行くと、水差しを持って戻ってきた。


「サヴィネさん、麦湯はいかがですか? あ、おじさんにも入れますね」


 フェリアは、にこやかにサヴィネに声をかけつつ、まずヨルマのカップに問答無用に麦湯を注いだ。

 サヴィネが、助かった、と言わんばかりの表情でフェリアを見上げる。ヨルマも、思いもかけない給仕を受けて、すっかり上機嫌だ。


「フェリアちゃんがうちにお嫁に来てくれたらいいのになあ」


 ヨルマの暢気な声が、食卓の空気を大きく揺らした。

 サヴィネに麦湯を注いでいたフェリアの手が、止まる。

 ラグナは、知らず息を詰めて、皆の出方を窺った。


「父さん、飲み過ぎてるんじゃない」


 刺々しいウルスの声が、辺りに響き渡った。

 フェリアが、麦湯をつぎおえたカップを、サヴィネに渡す。無言で。


「けどさあ、最近、お前達よく一緒にいるじゃないか。二人とも、もうイイ歳なんだし……」


 今度は息子に絡み始めるヨルマだったが、当のウルスはけんもほろろ、父親のほうを一瞥すらしない。


「僕が選鉱場に行くのは、運搬装置の仕事があるからだ。フェリアは、お母さんが心配だからだろ」


 あまりにも冷たいウルスの物言いを聞くに聞きかねたか、アンがわざとらしく溜め息をついた。


「まったく、この子は、本っ当に愛想ってもんがないんだから」

「事実を述べたまでだよ」


 ウルスの声はあくまでも平坦で、ラグナはひとまずほっと胸を撫で下ろした。だが、その一方で、言葉にできない違和感が、じわりと足元から這い上がってくる。何か、靴の上を甲虫が這っているかのような、不吉な気配が。

 ラグナは、ウルスの横顔をそっと盗み見た。

 ウルスは、ただ黙って、麦酒の入ったカップを(あお)った。


 


 


 賑やかな食事が終わり、ラグナはウルスの家を辞した。

 月の光が静かに辺りに降り積もる。馬を取りに行ったサヴィネをウルスとともに玄関先で待ちながら、ラグナは東の空を見上げた。


「素晴らしい満月だな」


 知らず感嘆の声がラグナの口をついて出る。同時に、去年の夏のあの暗い道行きが思い出されて、ラグナはつい苦笑を浮かべた。これぐらい明るければ、楽だったんだがな、と、胸の内でこっそり呟く。


「でも、所詮、月は月だ。太陽が登れば、姿を消すしかない」


 そう言ったウルスの声は、とても冷たかった。

 ラグナは黙って話の続きを待った。

 ウルスは、じっと満月を見つめたまま、一音一音を噛みしめるようにして、囁く。


「なのに、月は、太陽が存在しなければ、光ることもできないんだ……」


 ラグナも再び月を見上げた。夜空に金の光をぼんやりと振り撒く、天の円盾を。


「そうはいっても、夜の世界にとってはかけがえのない存在だ。闇に潜む悪しきものどもから、我々を守ってくれるのだからな」


 ウルスが自分のほうを向いたのが、ラグナには分かった。ラグナは、真っ向からその視線を受け止める。


「それに、とても美しいじゃないか」


 ウルスが、何か言いかけて、口をつぐむ。

 その時、二人のすぐ横で玄関扉があき、籠を下げたフェリアが姿を現した。

 奥から、酔いつぶれたヨルマを介抱するアンの声が微かに聞こえてくる。

 フェリアは、にっこり笑うと、大きな籠をラグナに差し出した。


「はい、これ、ヘリスト先生にお土産」

「『でっかい鵞鳥』か」

「そう。皆からの『でっかい』感謝の気持ちよ」


 あの時は、先生にも本当にお世話になったから。そう微笑むフェリアに、冷ややかな声が投げかけられた。


「フェリア」足元に視線を落として、ウルスは言葉を継いだ。「今日は随分とご機嫌だったね」


 フェリアが、そっと眉をひそめる。


「何が言いたいの? ウルス」

「別に、何も」


 しばしの沈黙ののち、フェリアが大きな溜め息をついた。


「ねえ、何を怒ってるの?」

「怒ってなんかいない」

「嘘。絶対怒ってる」

「『絶対』って、どうして君に僕の気持ちが分かるのさ」


 二人の会話を聞いていて、ラグナはもう少しで舌打ちをしそうになった。思わせぶりに話題を振っておきながら、その意図を一向に明確にさせないウルスの態度に、ただ苛立たしさだけが募ってゆく。

 ラグナがいよいよ堪忍袋の緒を切ってしまいそうになった時、道の向こうから馬の足音が近づいてきた。

 淡い月影に、馬を曳いてきたサヴィネの姿が浮かび上がる。

 と、突然、サヴィネが上ずった声をあげた。


「ラグナ様!」


 サヴィネの指さす方角を、ラグナ達は一斉に振り向いた。

 ウクシ山の中腹に、赤く揺らめく炎が見える。


「火事、か?」


 まだ半鐘は鳴っていない。半信半疑なラグナの声を、フェリアの悲鳴がかき消した。


「あそこ……託児院だわ」


 そう呟くなり、フェリアは後も見ずに駆け出していった。

 

 

 


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